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中東情勢(その6)トルコのクーデター騒動2 [世界情勢]

中東情勢については、7月21日に取上げたが、今日は、(その6)トルコのクーデター騒動2 である。

先ずは、ドイツ在住のコラムニストの川口マーン惠美氏が8月5日付け現代ビジネスに寄稿した「トルコのクーデターは何の「前兆」なのか? いよいよ複雑怪奇化する世界情勢 ドイツとの不穏な挑発合戦」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・7月15日、トルコで青天の霹靂のようにクーデターが起こった。 そのニュースがドイツで大々的に流れ始めたのが夜の10時頃。ドイツにはトルコ系移民が300万人も暮らすため、トルコは常に身近な存在だ。美しい地中海の沿岸で休暇を過ごすドイツ人も多い。したがって、クーデターのニュースは、週末気分でくつろいでいたドイツ人に大きな衝撃を与えた。
・エルドアン政権に不満を持つ軍の分子が起こしたと言われるクーデターは、しかし、あっけないほどすぐに制圧された。 そして、この時点でのドイツ政府の意見は、クーデター側を非難するものだった。クーデターは、民主主義で選ばれたエルドアン政権の転覆を狙った悪辣なものとされた。つまり、ドイツ政府のエルドアン政権支持が確認されたのである。
・ところが、まもなくエルドアン大統領は、反政府勢力を次々に粛清し始めた。それに伴い、ドイツ政府は速やかにポジションを変えた。21日、トルコ議会は非常事態宣言を承認し、大統領権限をさらに強化した。同日、それに対してメルケル首相が「大きな懸念」を表明し、それはエルドアン政権への批判と解釈された。 ドイツメディアによれば、現在トルコは、民主主義国家から独裁国家に変貌している最中なのである。
▽エルドアン大統領の最大の敵
・エルドアン大統領が非常事態を宣言してまで熱心に粛清しているのは、イスラム教の指導者フェトフッラー・ギュレン師のシンパだ。 ギュレン師というのは、元はイスラムのイマームだったが、80年代より政治に加わり、一時はエルドアン氏の同志でもあった。その後、袂を分かち、アメリカに亡命したのが1999年。今ではエルドアン大統領の最大の敵だ。 世界中でギュレン師のシンパの数は、800万人とも1000万人とも言われている。ドイツにも、もちろん大勢いる。
・ギュレン師の活動や信条についての情報は、私が得られる範囲では矛盾しているものが多い。彼は世俗主義者で、政教分離が原則のはずのトルコでエルドアン大統領がイスラム宗教色を強めたことに強く反発しているという説があるかと思うと、一方で、実は彼はイスラム原理主義者で、いずれトルコを乗っ取って過激なイスラム教国にする意図を隠し持つという説まで、種々多様だ。
・ただ、事実だけを述べるとするなら、ギュレン師は教育に重きを置き、90年代、私立学校や学生寮などを、まずはカザフスタン、キルギスタン、ウズベ キスタン、トルクメニスタンといった旧ソ連邦に作り始めた。  今では大学をも含めた各種教育機関を、世界のあちこちに1000校も経営する。師のシンパには知識層が多いといわれるが、彼の経営する学校がエリート養成を目的とした私立校であることを鑑みれば、これは不思議なことではないだろう。
・ギュレン師の影響力は教育部門だけではない。彼は病院、通信社、銀行、保険会社、出版社をも所有する。彼所有のラジオ局やテレビ局は、今やトルコだけでなく、多くの国に拠点を持つ。また、トルコで一番読まれているZaman新聞も彼の会社だ。つまり、報道におけるギュレン師の影響力も甚大なのである。
・ただ疑問は、どこからこれらの資金が出ているのかということだ。本人はアメリカに住み、西側メディアとの折り合いも良い。しかし残念ながら、それ以上の詳細について論じる十分な情報を、私は持たない。未だに謎の多い人物なのである。
・いずれにしても、これらギュレン師の活動が、エルドアン大統領にとって目の上のたんこぶどころか、大いなる脅威になっていたことは確かだ。 ここ1年ほどしょっちゅう取りざたされている「エルドアン政権による強引な言論抑圧」は、ギュレン師の影響下にあるメディアをターゲットにしたものであることは間違いない。 エルドアン大統領は、現在、今回の軍クーデターを画策したのがギュレン師だと主張し、アメリカに身柄の引き渡しを要請している(アメリカがそれに応じることはないだろうが)。
・ギュレン師の影響力が強まれば強まるほど、トルコ情勢が不安定になることは確かだ。アメリカは、強く安定したトルコ政権を望まない。自分たちの制御の余地のある方がよい。だから、トルコを混乱させるため、裏で誰かが糸を引いていたのではないかという推測も、もちろん成り立たないわけではない。
・とはいえ、今回のクーデターをギュレン師が企て、その背後にアメリカの何者かがいたとするには、クーデターが稚拙すぎる。ひょっとすると、まるで反対で、誰かがトルコ軍に失敗するクーデターを起こさせ、体良くギュレン師潰しが行われたのではないかとさえ考えられるほどだ。
・クーデター以後2週間で、ギュレン師のシンパとされる1万8000人が拘束された。そのうち3500人は釈放されたが、約半数には逮捕状が出たという。逮捕者の多くは軍人だが、そのほか、学者、教師、裁判官、役人など多岐に及び、かなりの恐怖政治になっているようにも見える。 また、90人近い外交官が呼び戻されており、その他、4万9000のパスポートが無効にされたというから、外国に出られなくなった人もいるわけだ。
▽ドイツがトルコを責める2つの理由
・この動きを、ドイツ政府とEUは激しく非難しているものの、拳の上げ方にもう一つ躊躇が見えるのは、もちろんトルコの微妙な立ち位置のせいである。 その一つは難民問題だ。トルコ政府に保護されている中東難民は、250万人を超えるという。その中の何十万人もの人間が、今日も必死でEUへ密航する機会を窺っている。それをどうにかして、トルコ政府に阻止してもらおうと、去年の秋以来、メルケル首相は熱心にトルコ詣でを続けていた。 その努力が実って、ギリシャにいるシリア難民を引き取ってもらう話までがまとまりかけていたのに、今さらエルドアン大統領が“悪者”であったとなると、メルケル首相の戦略のポンコツぶりが浮き立ってしまう。
・しかし、もっと困るのは、トルコがNATOの加盟国であり、しかも重要なポジションを占めているという点だ。 たとえばトルコのインジルリク空軍基地は、地中海からもシリア国境からも近く、現在、ISとの戦いの最前線だ。主にアメリカ軍とトルコ軍が使用しているが、ドイツ軍も240人の兵隊を駐屯させている。毎日ここからシリアやイラク北部へ爆撃機や偵察機が飛び立っているのである。
・ところがドイツとの関係がおかしくなりはじめた6月ごろから、トルコ政府は同基地へのドイツ議員や報道陣の視察を認めなくなっており、これがドイツ政府の頭痛の種だ。トルコはNATOの中で、米軍に次いで大きな兵力を持っている。関係が緊張してより困るのはNATOのほうなのだ。 それにもかかわらず、現在、ドイツメディアはすごい勢いでトルコを攻撃している。もちろんトルコも負けていないから、ドイツ・トルコ関係はかなり悪い。
・トルコが腹を立てているのは、EUが、トルコが難民を引き取ればトルコ人のEU入国ビザを廃止すると約束していたのにもかかわらず、現在、それを反故にしようとしていることだ。トルコは当然、態度を硬化させ、「だったら難民は引き取らない」と言い出したが、これをドイツの政治家が「トルコの脅迫」と決めつけたものだから、関係はさらに悪くなった。 しかし、一連のやりとりを見ていると、一体どちらがどちらをより多く挑発しているかがよくわらない。EUの挑発もかなりえげつない。
・7月31日には、ドイツ内のトルコ系移民が、ケルンでエルドアン大統領支援の集会を行った。約4万人が集まったと言われ、見渡す限りトルコ国旗の波。同時に左翼と右翼の対抗デモもあったため、2700名の警官が出動、放水車まで並ぶ物々しさだった。事前にはメディアがさんざん、暴力沙汰が起こると思わせる不穏な空気を伝えた。 デモ会場の広場に設置されたスクリーンを通じて、エルドアン大統領がトルコからスピーチをするという計画は、ドイツの司法が介入し、認められなかった。トルコ側はこれを、言論の自由の抑圧だとして抗議している。 結局このデモは、事前のいざこざにもかかわらず平和裡に終わったが、しかし、夜7時のニュースではアナウンサーがなおも「しかし、今夜、何があるかわからない」と不吉な予言をした。何かが起こるのを待っているような口調だったが、もちろん、何も起こらなかった。 ドイツにいるトルコ移民の多くは、ドイツで生まれ育っている。彼らはエルドアンを支援していても、今のところ、極めて冷静だ。
・ドイツ人が大騒ぎしているもう一つのテーマは、エルドアン大統領がトルコに死刑を復活させるかどうかの国民投票を行うかもしれないことだ。それについて、あたかもトルコが中世に逆戻りするかのような激しい攻撃がなされている。 しかし、だったらアメリカや中国はどうなるのか? アメリカは死刑のある国にもかかわらずドイツの重要な同盟国だし、中国はメルケル首相の言では「ドイツにとってアジアで一番大切な国」である。独中は二国間政府サミットの協定まで結んでいる。死刑のある国が野蛮国なら、世界には日本も含め野蛮国はまだまだ多い。
▽これは何かの前兆なのか
・さて、では、今後エルドアン大統領が失脚したりすることになれば、ヨーロッパ・中東情勢はどうなるのか?  トルコはNATO加盟国なので、NATO軍は“トルコの治安維持のため”にドッとトルコに流れ込むのか? もしそうなったら、ロシアが黙っているはずはない。そういえば南シナ海では、ロシア軍と中国軍が共同で軍事演習をしたばかりだ。
・一方、バルト海諸国やポーランドでもここ数ヵ月、NATOが急速に軍備を増強している。これらの軍拡は、不穏なトルコ情勢と関係があるのだろうか? そもそもトルコをここまで引っ掻き回したのは誰だろう? 1939年、平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」といったが、今、世界は当時にも増して複雑怪奇を極めている。共通点は、ドイツとロシア(ソ連)が大きく噛んでいることと、日本がまたもや蚊帳の外にいることだろう。
・新しく加わったプレーヤーは中国とトルコ。アメリカ、イギリス、フランスは、いったい何を胸にこの光景を俯瞰していることやら……。 こんなことを考えていると、夏の夜長、なかなか寝付けない。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49374

次に、在ドイツのジャーナリストの熊谷徹氏が8月17日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「トルコの弾圧の嵐はEU難民合意を崩壊させるか?」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・ドイツ首相のメルケルが、シリア難民ら約100万人を受け入れる決断を昨年9月に下してから、まもなく1年が経つ。現在ドイツに到着する難民の数は、昨夏に比べて大幅に少なくなっている。その理由は、セルビア、マケドニアなどのバルカン諸国が国境を封鎖したほか、EUに不法入国した難民の送還と受け入れにトルコが合意したためだ。 だが現在、難民危機を解決するカギを握るトルコとEUの関係は、急速に悪化している。トルコとEUが交わした難民合意は、風前の灯といっても過言ではない。
▽クーデター未遂と弾圧の嵐
・両者の対立を決定的にしたのは、今年7月15~16日にかけてトルコで発生したクーデター未遂事件である。クーデターの鎮圧に成功したエルドアン大統領は、「米国に亡命している宗教指導者フェトフッラー・ギュレンが、政権転覆を図った」として、ギュレンのイスラム運動に加わっていると見なした軍人や公務員の大量逮捕に乗り出した。
・エルドアンが3ヶ月間に及ぶ戒厳令を7月20日に発布して以来、同国では弾圧の嵐が吹き荒れている。政府は逮捕者数を公式に発表してはいないが、ドイツでは「7月末時点までに約1万3000人が逮捕された」という情報が流れている(ドイツにはトルコ人が約150万人、ドイツ国籍を取ったトルコ系住民が約280万人住んでいるので、トルコについての情報が豊富にある)。 逮捕者の中には、約8300人の軍関係者、約2100人の裁判官・検察官、約1500人の警察官などが含まれている。さらに教育省の職員約1万5000人、民間の教育機関の教員約2万1000人が解雇された。またエルドアン政権は7月末に約90人のジャーナリストを逮捕した他、24の放送局からテレビ・ラジオ番組の放送権を剥奪した。また政府は、「ギュレンと繋がりがある」という口実で、約2300ヵ所の教育機関、病院などを閉鎖した。
・クーデターが鎮圧された後に逮捕された軍関係者の中には、顔が赤く腫れ上がっている者がいた。殴られた痕跡であることは、明白だ。一部の逮捕者は拷問を受けている可能性が高い。 多くのドイツ人は、トルコ政府の弾圧の激しさに唖然としている。ドイツのメディアからは「エルドアンは、クーデター未遂を口実として、自分に反対する勢力を社会の要職から一掃しようとしている。トルコは、法治主義からますます遠ざかりつつある」という指摘が出ている。メルケルも「クーデターの首謀者たちが裁きを受けるのはやむを得ない。しかしトルコ政府の対応は非常に厳しい」と述べ、エルドアン政権による過度な弾圧を間接的に戒めている。
▽「EU加盟を巡るトルコとの交渉を中止せよ」
・トルコはEUへの加盟をめざしている。死刑制度がある国はEUに入ることができないため、トルコは2004年に死刑を廃止した。だがエルドアンはクーデターを鎮圧した後「議会が死刑の復活を決めれば、私は承認する」と繰り返し発言している。EU加盟国からは、「もしもトルコが死刑を復活した場合、EU加盟交渉は中止するべきだ」という声が高まっている。
・オーストリア首相のクリスティアン・ケルンは8月4日、同国のテレビ局とのインタビューの中で「EUはトルコとの加盟交渉をやめるべきだ。同国のEU加盟は、夢物語だ」と公言している。 ドイツの左派政党「ディー・リンケ」の党首、ベアント・リークシンガーは「ジャーナリストを弾圧し、司法制度を翼賛体制の下に置き、野党議員を牢獄に送る国をEUに加盟させることはできない」と述べ、エルドアン政権を強く批判した。
・ドイツの公共放送局ARDが今年8月4日に発表した世論調査によると、回答者の80%がトルコのEU加盟に反対している。また回答者の90%が「クーデター未遂事件後のエルドアン大統領の態度は理解できない」と答えた。さらに回答者の88%が、「メルケル政権はエルドアンに対してもっと毅然とした態度を取るべきだ」と答えている。
・死刑制度・拷問ともに、EUが重視する人権尊重の原則と相容れない。だがクーデター首謀者への復讐心に駆り立てられたエルドアンは、EUが掲げる人権擁護論や法治主義など、一顧だにしていないように見える。それどころかエルドアンは、ギュレンをトルコに強制送還することを米国政府がためらっていることに怒りを募らせている。エルドアンは、「欧米諸国は、テロリストやクーデター首謀者を支援している」とまで言い切った。
▽難民危機でトルコに依存するドイツ
・メルケル政権にとって頭が痛いのは、ドイツそしてEUが難民危機を封じる上でトルコに大きく依存していることだ。トルコは今年3月、同国を通ってEUに不法入国した難民を強制送還させて、トルコ国内に受け入れることに合意した。そのかわりEUは、トルコにすでに滞在している難民を同じ数だけ受け入れる(加盟国の中で配分する)。 トルコはさらに、(1)難民対策費用として60億ユーロ(約6780億円)をEUがトルコに支払う、(2)トルコのEU加盟を巡る交渉を加速する、(3)トルコ人がEUに入国する際のビザ取得義務を廃止するよう求めた。
・EUにとってこの合意は、中東から西欧へ向かう難民が最も頻繁に利用する「バルカン・ルート」を遮断する上で、極めて重要な意味を持っていた。 トルコも、EUが同国に依存していることを知っている。トルコの外務大臣は8月3日、「EUが今年10月までにビザ取得義務を廃止しない場合には、我が国は難民引き取りに関するEUとの合意を無効にする可能性がある」と述べている。 これを受けてギリシャ政府は、「トルコが難民合意を放棄した場合に備えて、対策を取るべきだ」とEUに要求している。トルコが難民引き取りをやめた場合、多数のシリア難民がギリシャに再び押し寄せるからだ。
・EUは、クーデター未遂事件が起きる前から、「対テロリズム法を改正するなど、トルコが必要な条件を満たさない限り、トルコ人がEUへビザなしで渡航することは許さない」という態度を取っていた。 対テロリズム法は1991年から施行されている。少数民族クルド人のテロ組織や、イスラム国による無差別テロが昨年以来多発していることから、トルコ政府は対テロ法の適用範囲を大幅に拡大していた。たとえばこの法律は「テロリストを利する宣伝行為(プロパガンダ)」を刑事罰の対象としている。今年初め、約1000人の科学者や教師がクルド人居住地域での戦闘停止を求める抗議行動を行った。このキャンペーンに参加した多くの知識人たちが「テロリストのための宣伝行為」を行ったとして、起訴された。この法律は、テロ行為幇助の範囲を幅広く解釈しているので、市民が平和や人権尊重を要求するだけでも、テロリストを助けたとして摘発される危険がある。
・トルコ議会は、政府に批判的な議員に対する圧力も強めている。今年5月末、クルド人を初めとする138人の議員から不逮捕特権を剥奪した。 EUは、「対テロ法は、トルコ政府の方針に反対する国会議員やジャーナリスト、知識人を刑事訴追するために悪用されている」として、この法律を改正するようトルコに求めている。言論の自由や人権を尊重するEUの精神に反するものだからだ。
▽トルコ・EUの難民合意は崩壊か?
・クーデター未遂事件をきっかけにエルドアン政権が国内での弾圧を強める今、EUが10月までにトルコ人のビザなし渡航を認めることは、まずあり得ない。つまり、EUとの難民合意をトルコが放棄する可能性が刻一刻と高まっている。 多数のシリア難民がバルカン半島の通過を試み、マケドニアやセルビア国境で警官隊と衝突する可能性が、今年秋以降、再び高まる。バルカン半島の通過が困難になったことから、イタリア経由でEUに入ろうとする難民が増えるかもしれない。この場合、地中海で溺死する難民の数が増えることが考えられる。国際移民機関(IOM)によると、今年1~5月に地中海などを渡ろうとして溺死した難民の数は、2499人にのぼった。
▽懸念が現実へ、難民に紛れ込んでテロリストがドイツに潜入
・一方、ドイツ南部のアンスバッハでは今年7月、イスラム国(IS)のテロリストによる初の自爆テロが発生した。犯人のシリア人はこの町で開かれていた音楽祭の会場へ入ろうとしたが、切符を持っていなかったために入場を拒否された。会場の外で誤って爆発物に点火したため、本人は死亡し市民15人が重軽傷を負った。 ヴュルツブルクでもISを信奉するアフガン人が列車内で斧を使って乗客を襲うテロ事件が起きた。ドイツを旅行中だった香港からの観光客ら4人が重傷を負った。
・2人のテロリストは、難民としてドイツに入国していた。アフガン人の犯人について、ドイツの入国管理当局は、身元調査を十分に行っていなかったばかりでなく、指紋すら採取していなかった。 ドイツは昨年、シリア難民など約100万人を受け入れた。一時は毎日2万人もの難民が入国したため、身元の特定作業が不十分だった。今年6月には、デュッセルドルフで同時テロを計画していたシリア人4人が逮捕された。彼らも難民を装ってドイツに潜入していた。「難民に紛れ込んでテロリストがドイツに潜入するかもしれない」という保守勢力の懸念が、現実のものになりつつある。
・メルケルへの市民からの風当たりも強くなりつつある。ARDの世論調査によると、「ドイツでのテロが心配だ」と答えた人の比率は、昨年1月には49%だったが、今年8月には76%と大幅に増えている。さらに「メルケルの難民政策に不満を抱いている」と答えた回答者の比率は、65%にのぼった。 来年の連邦議会選挙を前に、政府の難民対策に対する国民からの批判が強まる可能性がある。特にエルドアン政権が本当にEUとの難民合意を放棄した場合、現在は沈静化している難民危機が、今年10月以降に再燃する危険がある。メルケルにとって、試練の秋となりそうだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/219486/081000019/?P=1

第三に、作家の橘玲氏が8月26日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「クーデターの主犯とされる「ギュレン運動(トルコのイスラーム)」が生まれた歴史的背景とは?[橘玲の世界投資見聞録]」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・トルコでは、クーデター未遂事件の「主犯」とされたギュレン運動支持者の粛清が進んでいる。だがそもそも日本では、「ギュレン運動とは何か?」という基本的なことを誰も説明してくれないので、日々の報道に接しても「トルコでなにか大変なことが起きている」ということしかわからない。そこで前回は、トルコ近代史を専門にする新井政美氏の『イスラムと近代化』(講談社選書メチエ)に依拠しながら、ギュレン運動が「トルコのイスラーム」であることを見てきた。
▽トルコには3つイスラームがある
・「イスラームはひとつのウンマ(共同体)」というのが原理主義的な立場だが、トルコのひとたちからすると、実は3つのイスラームがある。アラブのイスラーム、イランのイスラーム、そしてトルコのイスラームだ。
・ムハンマドがアラビア語で神の言葉(クルアーン)を語ったように、アラブ起源のイスラームの宗教的伝統はトルコでも尊重されている。だがその一方で、昨今ではIS(イスラム国)のテロやイラク、シリアの国家崩壊をはじめとして、あらゆる暴力と混沌はアラブからやってくる。それを目の当たりのしたトルコのひとびとが、「自分たちはあいつらとはちがう」と考えるようになるのは自然だ。
・1979年に隣国イランの王政(パフラヴィー朝)が崩壊し、法学者ホメイニーが指導しシャリーア(イスラーム法)を国法とするイスラーム国家が誕生した。これが世界に衝撃を与えたイラン革命だが、その影響はトルコにおいてより大きかった。その後、イランが「神政国家」化し、核開発疑惑で欧米からきびしい経済制裁を課され、豊富なエネルギー資源を持ちながらも国民が窮屈で貧しい生活を送らざるを得ないのを見て、90年代のグローバル化で急速にゆたかになったトルコのひとたちは、保守的なムスリムも含め、「あんなふうになるのは真っ平だ」と思うようになった。
・こうして、“遅れた”アラブのイスラームでもなく、“カルト化した”イランのイスラームでもない、“開明的”で“世俗的”なトルコのイスラームという新しい宗教観が生まれてくる。それを実践するのがギュレン運動で、創始者であるフェトゥフッラ・ギュレンは、トルコ民族主義とイスラームを融合させただけでなく、“無尽蔵の知恵の源泉”であるクルアーンの「政治利用」はアッラーへの冒とくだとして、キリスト教の聖俗分離と同じ世俗主義を唱えた。
・ギュレンは自らの思想を広めるにあたって教育とメディアを重視し、トルコ各地に多数の高校、大学予備コース、7つの大学をつくり、テレビ局、ラジオ局、新聞社を次々と設立したが、その影響力の大きさはまず世俗派の軍部などに警戒され、ギュレン自身は1999年にアメリカへの亡命を余儀なくされた。その後、公正発展党を率いるエルドアンが権力を掌握すると、かつて盟友だった両者(エルドアンはギュレン運動の支援を受けて選挙に勝ち、首相在任中、米国のギュレンを訪問している)は急速に敵対関係に変わっていく。
・だがこれは、政治的なイデオロギー対立ではない。エルドアン自身がイスタンブールの導師・説教師養成学校高等部を卒業した敬虔なムスリムで、オスマン帝国(オスマントルコ)の栄光を担うトルコ民族主義者であり、かつデモクラシーの下で民衆の支持を権力の源泉とする(世俗主義の)ポピュリストでもあるからだ。ギュレンとエルドアンは支持層が完全に重なっており、用意された椅子はひとつしかないからこそ、徹底した粛清が引き起こされたのだろう。
▽「トルコのイスラーム」が生まれた背景
・「トルコのイスラーム」という意識は、じつはオスマン帝国の崩壊と近代トルコの成立にまでさかのぼる。  19世紀半ばに、「世界」の周縁で西欧起源の近代化の波をもろにかぶった異なる文化圏が3つあった。ロシア、トルコ(オスマン帝国)、そして日本だ。この三者はそれぞれ異なる仕方で「近代」に適応しようと苦闘したが、自分たちより“優れた”文明に出会ってアイデンティティが激しく動揺するという共通の体験をしてもいる。
・ロシアではこの「民族的アイデンティティの危機」が、トルストイやドストエフスキーなど19世紀末の文学として結実した。これが、日本人がロシア文学に魅かれる理由のひとつだろう。
・だがこの「民族的危機」は、オスマン帝国の中枢を占め、「イスラーム世界の守護者」を任じていたトルコ人においてもっとも深刻だったことは想像に難くない。トルコとヨーロッパは、日本はもちろんロシアに比べても地理的に近く、商業的・文化的交流の歴史も深く、「偉大なスルタン」の時代に威勢を誇ったオスマン帝国は、権力闘争と宗教戦争をえんえんと繰り返すヨーロッパをあらゆる領野で圧倒していたからだ。
・だがポルトガル、スペインから始まった大航海時代がインドとの交易やアメリカ大陸の銀鉱山から巨額の富をヨーロッパにもたらし、それがオランダ、イギリス、フランスなどに波及すると、ヨーロッパ諸国とオスマン帝国の力関係は急速に反転していく。その事実を認めることはプライドの高いトルコの知識人にとって屈辱以外のなにものでもなかったが、だからといって現実から目をそらすこともできなかった。こうして帝国末期からさまざまな改革運動が起こり、軍制改革や司法改革が(遅々としてではあれ)進められることになる。
・以下、新井政美氏の『イスラムと近代化』に拠りながら、トルコにおける近代化の歩みを見てみたい(論評部分は私見)。 オスマン帝国が動揺する1860年代後半に、「新オスマン人」を名乗る新しいタイプの啓蒙運動家が登場する。彼らの多くは政府高官の子弟として育ち、そうでない者もフランスで教育を受けていた。 彼らはヨーロッパの繁栄に驚嘆し、ロンドンを「世界の模範」と称賛し、ロマン主義小説に傾倒してオスマン・トルコ語で小説を書き、ロンドンで見た演劇に心を奪われて戯曲を発表した。言文一致運動など明治初期の知識人を彷彿とさせる彼ら「新オスマン人」の改革運動によって、オスマンは立憲政治の時代へと移っていく。
・だが新井氏は、これはたんなる欧化政策ではないという。明治維新とのちがいは、ヨーロッパに範をとったあらゆる改革でイスラームとの関係が問題にされたことだ。啓蒙主義者の「新オスマン人」もイスラームへの信頼はゆるぎなく、海外に亡命すると政府を「反イスラーム」として批判するようになる。彼らのアイデンティティの中核にはイスラームがあり、主流派(守旧派)から排除されたからこそ、自らが「イスラームの正統」であることを強調しなければならなかったのだ。
・「新オスマン人」は政府の専横を抑えるために立憲議会制の導入を要求するが、彼らは民主政を西欧起源のものとは見なさなかった。イスラームはその最初から合議制をとっていて、議会はイスラームが本来もっていた制度であるというのが「新オスマン人」の考えだった。彼らはイスラームと西洋近代との対立を、「本来のイスラーム」という概念を持ち込むことで乗り越えようとしたのだ。
▽「オスマン」から「トルコ」への意識の変化
・「新オスマン人」につづいて、19世紀末から「青年トルコ人」と呼ばれる一群の若者たちが現われる。この運動のリーダーはパリで実証社会学を学んだ人物で、「人は啓示や神の力によって祖国と結びついているのではなく、理性と倫理的な絆によってつながっている」と説く知識人だった。
・だがパリで社会学を学んだ彼らも、宗教を否定したわけではない。フランスの代表的な社会学者エミール・デュルケムは、宗教の役割を「原子のようにばらばらになった個人と社会とを活性化させ、社会の団結、凝集力を高めるもの」としたが、「青年トルコ人」も社会に秩序を与えるのが宗教だとして、その役割は「人々を教育し、改良し、一体化させること」だと主張した。「青年トルコ人」の組織は「統一と進歩」と称し、これはフランスの実証主義的社会学者オーギュスト・コントの「秩序と進歩」から取られたものとされるが、だからといって彼らはイスラームを否定していたわけではなかったのだ。
・オスマン帝国末期にこうした「啓蒙的知識人」が続々と現われ、独自のイスラーム解釈を提唱できたのは、カトリックにおける教会のような「普遍的真理」を司る組織がもともとイスラームには存在しないからだと新井氏は指摘する。保守的なウラマーから「不敬」と見なされようとも、「地獄に堕ちる」と脅される気遣いはなかった。だからこそ誰に遠慮することもなく、誰の非難を恐れることもなく、「帝国の進歩と秩序」への貢献という期待をイスラームにかけることができたのだ。
・青年トルコ人は1908年に憲法を復活させ(青年トルコ革命)、やがて政権を掌握することになる。彼らが改革の標的にしたのは伝統的なイスラーム法(シャリーア)で、クルアーンと、それに次ぐイスラーム法の「法源」であるハディース(ムハンマドの言行録)の表面的な(文字どおりの)解釈を廃し、社会的慣習を重視すべきだとした。社会の変化が神の意志の表われであるのなら、それに合わせてイスラーム法も変わっていかなくてはならないのだ。
・「青年トルコ人」の宗教改革は、イスラーム法廷を法務省の、ウラマー養成のためのマドラサ(伝統的教育機関)を国民教育省の管理下に入れて国家が統制し、「国家と宗教の一体化」を進めることだった。これは一見、政教分離の原則に反するようだが、イスラーム法が国家に優先する「神政」を立憲民主政に変えるためには、宗教を国家に従属させる必要があったのだ(後述するように、この構図は現代トルコにも引き継がれている)。また1917年には「オスマン国民」すべてに適用される家族法がつくられ、一夫多妻制が事実上禁止された。“旧態依然”のイメージが強いオスマン帝国でも、改革はここまで進んでいたのだ。
・ところで、1860年代の改革派は「新オスマン人」を自称し、1890年代には「青年トルコ人」が現われた。いずれも改革の主体は若い知識人だが、いちばんのちがいは彼らのアイデンティティが「オスマン」から「トルコ」へと変わったことだ。 オスマン帝国の起源はトルコ系の集団にあるが、帝国の発展を支えたのはギリシア、セルビア、アルメニア、アルバニア、アラブ、クルド……といった多様な「オスマン人」だった。古代ギリシアにまでさかのぼるビザンツやイスラームの伝統が入り混じり、高度にハイブリッド化されたオスマン社会のなかでは、「トルコ」や「トルコ語」はなんら特別なものではなく、むしろ粗野で野暮なアナトリアの農民や遊牧民の蔑称とされていた。
・だが19世紀に西洋文化に接する機会が増えると、彼らは自らの国が「トルコ帝国」、自分たちが「トルコ人」と呼ばれていることに大きな衝撃を受ける。それが20世紀初頭、とりわけ青年トルコ革命以降、トルコ・ナショナリズムの大きなうねりを生み出していく。近代トルコを生んだムスタファ・ケマル(アタテュルク)も、こうした「青年トルコ人」の一人だった。
・もちろんすべての知識人が民主政とイスラームの共存を唱えていたわけではない。帝国末期の改革で言論の自由が保障されると、より徹底した欧化主義者も現われた。彼らはイスラームの現状に対する、ほとんど憎悪とさえいえるほどの敵愾心を持ち、ウラマーや神秘主義教団の無知と怠惰を憎み、修行場の閉鎖、ウラマー養成学校の廃止、トルコ帽の廃止と西洋帽の採用、女性のヴェール廃止など、近代トルコの改革を先取りするような過激な主張をしていた。
・だがそんな欧化主義(西洋かぶれ)の彼らですら、イスラームそのものに対しては、「必ずしも直截な敵意を示していない」と新井氏はいう。現状はたしかに悲惨なものだが、イジュディハード(法学者たちが推論によって判断を導き出す努力)が再開され、しかるべき地位の者たちがしかるべく活動をすれば宗派間の争いも絶えてイスラームは輝きを取り戻し、その頂点には近代的な教育を受けたスルタン=カリフが君臨するとういうのが彼らの「夢」だったのだ。
▽トルコでは「国家が宗教を取り込み管理」した
・政権を掌握した「青年トルコ人」の改革が成果を上げる前に、オスマン帝国は第一次世界大戦に敗北し、帝国解体という未曾有の危機に見舞われる。そのとき「救国」を掲げて立ち上がったのが、「軍人には国民を指導する“高貴なる責務”がある」とするオスマンの青年将校たちだった。
・そのリーダーであるムスタファ・ケマルは、敗戦を受け、「カリフを戴いた正統なオスマン政権」としてアンカラで大国民会議を開催するが、連合軍に恭順の意を示すことで延命を図ろうとしたスルタン(=カリフ)はこれを「反乱軍」とし、「叛徒を殺すことが宗教的義務である」と宣言したうえに、軍事法廷の欠席裁判でケマルをはじめとする抵抗運動の指導者たちに死刑を宣告した。これでケマルは君主制に見切りをつけ、アナトリア内部に侵入してきたギリシア軍を撃退して独立戦争(祖国解放戦争)に勝利すると、国民議会においてスルタン制とカリフ制を分離して前者の廃止を決議し、600年以上に及んだオスマン帝国の歴史に終止符を打った。
・さらにトルコ共和国が成立した翌年(1924年)には、カリフは本来的には統治にかかわる権限(政治的権力)をもった存在であって共和政とは相容れないとして、国民議会の圧倒的多数によってカリフ制も廃止されることになる。こうしてトルコは、「600年にわたって――多くのトルコ人にとっては「神の意志によって」トルコ人がイスラム世界に参入した10世紀以来、1000年にわたって――イスラムを支え続けてきた民族としての自負と責任において、いわば一国主義的に近代化を図ってゆくことを決意した」のだ。
・その後ケマルと大国民会議は、クルアーンとハディースが外国語のままでは呪文と変わらず、呪文をありがたがっていては信仰は迷信に堕すとの理由で、トルコ語訳の作成を決めた。さらには、迷信化したイスラームがはびこる「原始的」社会から先進的な西洋文明に導くために、神秘主義教団の修行場も閉鎖された。こうした急進的な改革を見たトルコ駐在のアメリカ大使はケマルをルターやウィクリフ(イギリスの宗教改革の先駆者)になぞらえ、これが西洋において「改革者」「欧化主義者」ケマルのイメージをかたちづくっていく。
・それと同時に共和政トルコでは、ターバン、トルコ帽が禁止され、女性のヴェールは禁じられることこそなかったが好ましくないものとされ、女性は自らの美しさを周囲に示すことが勧められ、ミスコンテストが始められた。1930年には地方選挙によって婦人参政権を認められ、34年にはそれが国政選挙にまで適用されている。 また25年には西暦が採用され、26年には飲酒が合法化され、酒類の国家専売が始まった。28年にはアラビア文字が禁止され、ローマ字が採用された。また33年には日に5回の礼拝時刻を告げるアザーンのトルコ語化が断行されてもいる。
・こうした一連の改革を、新生トルコは「ライクリッキ」と呼んで国家の維持・発展の大原則と見なした。これはフランスの「ライシテ(政教分離)」から来ており、信仰は個人の内面の問題とされ、宗教は公的場面から極力排除されることが求められた。
・だがその一方で、カリフ制廃止と同時に、ケマルは総理府のなかに宗務局を置き、以後、イスラームにかかわるあらゆる事項をこの部局に管理させることにした。これはフランスの「ライシテ」とは大きく異っており、国家が宗教を取り込み、管理していくことがトルコの世俗化の大きな特徴となった。それは、「宗教を国家から「分離」して野放しにすれば、それは国民を迷信で惑わせ、文明から遠ざけると、固く信じられた」からなのだ。
▽「西洋文明そのものがトルコ民族の影響下につくりだされた」
・ケマルの共和政トルコは、イスラームを捨て去ったわけではないものの、スルタン=カリフ制を廃止し、クルアーンをトルコ語化するなど、それまでのイスラームの伝統を徹底的に破壊した。こうした大胆な世俗化を可能にしたのは、「新オスマン人」にさかのぼる改革の努力はもちろんだが、トルコ人のなかに「1000年イスラームを支えてきた民族」としての強い自負があったからでもあった。イスラームはアラブの独占ではなく、トルコ人が自分たちの言葉でクルアーンを読み、自分たちのイスラームを“創造”していくのは当たり前のことなのだ。
・あいつぐ改革によって生活からイスラームが退潮していくにつれて、こうした「トルコ人意識」は、ひとびとのアイデンティティの隙間を埋めるトルコ・ナショナリズムに変わっていく。
・歴史学においては、トルコ民族の故郷である中央アジアこそが人類文明揺籃の地で、トルコ人はそこから「旧大陸」のあらゆる地域に移住し、シュメールやヒッタイトを興すとともに、各地に文明を伝えたのだとされた――中国やインドの「後進的な」ひとびとはトルコ人との接触によって文明化し、トルコ人へのクレタ島への移住がギリシア文明を生み出したのだ。
・こうした歴史観では、オスマン帝国はトルコ民族本来の能力と自覚を抑圧し、堕落させた存在とみなされた。トルコ共和国は、そのオスマン的・イスラーム的くびきを脱して、民族本来の輝きを取り戻すという歴史的役割を担っているのだ。
・同様に人類学においては、ヨーロッパの短頭人種がアジアから移動してきたとするスイスの人類学者がもてはやされ、白色人種(コーカソイド)のトルコ起源が熱っぽく論じられた。言語学では、ラテン語が原トルコ語から派生したとされただけでなく、オーストリアのセルビア系言語学者が唱える「すべての言語がトルコ語から派生した」との「太陽言語説」が大々的に喧伝された。
・こうして新生トルコは、西洋文明に屈服したのではなく、「西洋文明そのものがトルコ民族の影響下につくりだされた」という物語を生み出すことで、西洋化とナショナリズムを「調和」させることに成功した。それは西洋への憧憬と反発をともに抱えながら、イスラームというアイデンティティを保ちつつ近代を受容する工夫でもあった。同じ「西洋の衝撃」を体験した明治日本と比べてみると、共通する部分もちがっているところもあって、トルコの近代史にさらに興味が増すだろう
http://diamond.jp/articles/-/100123

川口氏が指摘する『世界中でギュレン師のシンパの数は、800万人とも1000万人とも言われている』、のも『各種教育機関を、世界のあちこちに1000校も経営する』、というので納得だ。驚くべき組織力だ。ただ、死刑復活については、認めているアメリカや中国を持ち出して、ドイツやEUの姿勢を批判しているが、トルコがEU加盟を目指すのであれば、EUの人権尊重の原則と相容れない死刑制度を復活しようというのは、加盟をあきらめたことになる。
熊谷氏が指摘するように、対テロリズム法の対象拡大で、『約1000人の科学者や教師がクルド人居住地域での戦闘停止を求める抗議行動を行った。このキャンペーンに参加した多くの知識人たちが「テロリストのための宣伝行為」を行ったとして、起訴された』、『クルド人を初めとする138人の議員から不逮捕特権を剥奪』、というのは、やはりエルドアン大統領はやり過ぎだ。ドイツでの難民による2件のテロで、入国管理当局が『指紋すら採取していなかった』、というのは、いくら混乱の最中とはいえ、職務怠慢だ。
橘玲氏が指摘する、『“遅れた”アラブのイスラームでもなく、“カルト化した”イランのイスラームでもない、“開明的”で“世俗的”なトルコのイスラームという新しい宗教観が生まれてくる。それを実践するのがギュレン運動』、でトルコに根付いた理由が理解できた。『19世紀半ばに、「世界」の周縁で西欧起源の近代化の波をもろにかぶった異なる文化圏が3つあった。ロシア、トルコ(オスマン帝国)、そして日本だ。この三者はそれぞれ異なる仕方で「近代」に適応しようと苦闘したが、自分たちより“優れた”文明に出会ってアイデンティティが激しく動揺するという共通の体験をしてもいる』、との説明で、なにか身近に感じた。ただ、ケマル・アタチュルクらが、『「西洋文明そのものがトルコ民族の影響下につくりだされた」』としたのは、誇り維持のためとはいえ、ここまで苦しまぎれの「屁理屈」を考え出したことには失笑を禁じ得なかった。ただ、19世紀の「新オスマン人」の時代は、クルド人も含む多様な概念だったのに、20世紀になってトルコ・ナショナリズムが高まっていったところに、クルド民族問題の一端があるのかも知れず、残念だ。
いずれにしろ、トルコ情勢からはしばらく目が離せないようだ。
タグ:橘玲 難民問題 中東情勢 日経ビジネスオンライン ダイヤモンド・オンライン 現代ビジネス 川口マーン惠美 熊谷徹 世俗主義 (その6)トルコのクーデター騒動2 トルコのクーデターは何の「前兆」なのか? いよいよ複雑怪奇化する世界情勢 ドイツとの不穏な挑発合戦 ドイツにはトルコ系移民が300万人も暮らすため エルドアン大統領は、反政府勢力を次々に粛清し始めた トルコは、民主主義国家から独裁国家に変貌している最中 フェトフッラー・ギュレン師 界中でギュレン師のシンパの数は、800万人とも1000万人 各種教育機関を、世界のあちこちに1000校も経営 報道におけるギュレン師の影響力も甚大 エルドアン大統領にとって目の上のたんこぶどころか、大いなる脅威になっていたことは 誰かがトルコ軍に失敗するクーデターを起こさせ、体良くギュレン師潰しが行われたのではないかとさえ考えられるほどだ 1万8000人が拘束 逮捕者の多くは軍人だが、そのほか、学者、教師、裁判官、役人など多岐に及び、かなりの恐怖政治になっているようにも ドイツ政府とEUは激しく非難しているものの、拳の上げ方にもう一つ躊躇が見えるのは、もちろんトルコの微妙な立ち位置のせいである NATOの加盟国であり、しかも重要なポジションを占めているという EUが、トルコが難民を引き取ればトルコ人のEU入国ビザを廃止すると約束していたのにもかかわらず、現在、それを反故にしようとしていることだ トルコに死刑を復活させるかどうかの国民投票を行うかもしれないことだ トルコの弾圧の嵐はEU難民合意を崩壊させるか? トルコとEUが交わした難民合意は、風前の灯 3ヶ月間に及ぶ戒厳令 弾圧の嵐が吹き荒れている エルドアンは、クーデター未遂を口実として、自分に反対する勢力を社会の要職から一掃しようとしている。トルコは、法治主義からますます遠ざかりつつある EU加盟を巡るトルコとの交渉を中止せよ 死刑制度・拷問ともに、EUが重視する人権尊重の原則と相容れない 対テロリズム法を改正 今年初め、約1000人の科学者や教師がクルド人居住地域での戦闘停止を求める抗議行動を行った。このキャンペーンに参加した多くの知識人たちが「テロリストのための宣伝行為」を行ったとして、起訴された 今年5月末、クルド人を初めとする138人の議員から不逮捕特権を剥奪 難民に紛れ込んでテロリストがドイツに潜入 難民としてドイツに入国 ドイツの入国管理当局は、身元調査を十分に行っていなかったばかりでなく、指紋すら採取していなかった 保守勢力の懸念が、現実のものになりつつある クーデターの主犯とされる「ギュレン運動(トルコのイスラーム)」が生まれた歴史的背景とは?[橘玲の世界投資見聞録] 新井政美 イスラムと近代化 トルコには3つイスラームがある アラブのイスラーム イランのイスラーム トルコのイスラーム 、“遅れた”アラブのイスラームでもなく、“カルト化した”イランのイスラームでもない、“開明的”で“世俗的”なトルコのイスラームという新しい宗教観が生まれてくる。それを実践するのがギュレン運動 オスマン帝国の崩壊と近代トルコの成立 19世紀半ばに、「世界」の周縁で西欧起源の近代化の波をもろにかぶった異なる文化圏が3つあった。ロシア、トルコ(オスマン帝国)、そして日本だ。この三者はそれぞれ異なる仕方で「近代」に適応しようと苦闘したが、自分たちより“優れた”文明に出会ってアイデンティティが激しく動揺するという共通の体験をしてもいる 新オスマン人 ▽「オスマン」から「トルコ」への意識の変化 青年トルコ人 、「国家と宗教の一体化」 宗教を国家に従属させる必要があったのだ トルコでは「国家が宗教を取り込み管理」した 西洋文明そのものがトルコ民族の影響下につくりだされた
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