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歴史問題(5)(731部隊の真実、対北朝鮮政策は、「満州事変の教訓」から学べ、ネット右翼の「思想的苗床」となった『戦争論』を再検証する) [国内政治]

歴史問題については、8月18日に取上げたが、今日は、(5)(731部隊の真実、対北朝鮮政策は、「満州事変の教訓」から学べ、ネット右翼の「思想的苗床」となった『戦争論』を再検証する) である。

先ずは、8月13日付けNHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」のポイントを紹介しよう。
・戦時中、旧満州で密かに細菌兵器を開発し実戦で使用した、731部隊。部隊が証拠を徹底的に隠滅、元隊員が固く口を閉ざしたため、その実像を知る手がかりは限られてきた。今回NHKは、終戦直後、旧ソ連で行われたハバロフスク裁判の音声記録を発掘。20時間を越える記録では、部隊中枢メンバーが、国防や国益のためとして細菌兵器を開発した実態、そして旧満州で日本に反発していた中国や旧ソ連の人々を「死刑囚」とし、細菌兵器開発の「実験材料」として扱っていた実態を、克明に語っていた。
・さらに、元隊員の資料や当時の学術界の膨大な記録からは、軍だけでなく学術界からも多くの研究者が部隊に参加していた実態が浮かび上がってきた。満州事変以降、学術界が軍と関係を深めていった過程、そして日本軍が旧満州で反発する人々を死刑にすることについて世論の支持が高まる中で「死刑囚」を研究に活用する動きが相次いでいた実態も明らかになってきた。731部隊はどのようにして生まれ、そして医学者たちは、どう関与していったのか。数百点にのぼる資料をもとに、731部隊設立の謎に迫る。
・731部隊は関東軍防疫給水部として、1936設立、ソ連軍への対抗として細菌兵器を開発。部隊長の石井四郎は、国際条約で使用が禁止されているが、防衛目的の研究は出来るとした。全国の大学から3000人の医学者(助手も含む数字?)ハルピン郊外20Kmに大規模な建物。実験用の囚人(マルタ)を収容する監獄も。
・ハバロフスク軍事裁判の記録・音声テープでは、軍医部長は、細菌兵器をもって攻撃をやるという研究、人体実験を行ったと証言。裁判記録は捏造との批判もあったが、音声テープで正しさが立証。日本に反発する中国人やロシア人を「匪賊」として捕え、逆スパイにならない者を実験材料に。生きたまま実験材料になった人は3000人、生きて監獄から出た人はいない。囚人は丸坊主にされ、杭に繋がれた。
・京大、東大などのエリート医学者が主導。戦友会名簿によれば、医学者の出身は京大11、東大6、慶応6・・・。技師と呼ばれ、将校扱い。チフス菌の研究者、田部井には軍から500万円が支払われていた。京大医学部長の戸田は、軍と結び付くことで多額の研究費をもらい、多くの研究者を送り込む。
・満州国建国で、医師派遣、ポスト争い。「今まで未開であったところの東洋の北部を開く指導者となることは、我々に与えられた一大試金石である」。 731部隊の予算は昭和15年度300億円。石井は京大医学部出身で、戸田の弟子。戸田は部隊を繰り返し視察・講演したが、東大の公式見解では「組織として積極的に係ったとは認識していない」。
・東大総長、長よ又郎も石井と接点があり、部隊を視察。東大であった微生物学会の集合写真には、石井も最前列。 京大の技師、吉村は教授から行けと命令、従わなければ破門と脅され、赴任。人体実験による凍傷の研究に従事、満州の医学会で発表も。田部井は、細菌爆弾を研究から実践使用へ。1回に10人以上の囚人に。杭に括りつけるのと歩かせるの2通り。
・部隊の研究を後押ししたのが、日本国内の世論。中国での日本軍の犠牲も増え、メディアは中国匪賊の暴虐ぶりをPR。世論は軍による処罰を支持。北大での研究発表では、生きたままの匪賊の染色体を研究したもの。染色体は死ぬと質が悪くなるので、生きたままに意味。「民族衛生資料」。「かわいそう」と言うと非国民扱いされるので、言えなかった(助手)。
・1940年代、細菌兵器の実戦使用に踏み切る。3回、都市に散布。民間人にも集落にの水源、井戸にバラ撒く。ペスト菌、コレラ菌、パラチフス菌。饅頭に細菌を入れ、食わせて解放。1945年8月9日、ソ連軍満州侵攻で、全囚人を殺害、焼却。施設は破壊。帰国しても箝口令。米軍は人体実験のデータ提供と引換えに、隊員を免責(現地で捕虜になった者は裁判で処罰)。
・京大医学部長だった戸田は金沢大学長として、医学会の重鎮に。田部井は京大教授、細菌学の権威に。吉村も、京大教授、「非人間的な実験はしていない」と主張。
・今年の日本学術会議では、大学の軍事研究のあり方が議論。「軍事研究=兵器研究ではない。軍事研究はもっと幅の広いものと認識」との意見も。会場では、731部隊が原爆と並んで取上げられた。「科学者が戦争を残酷化してきた歴史があると思います」との意見も。
・いつの間にか人として守る一線を越えていったこの国の姿。 細菌を培養した責任者の軍医 柄沢は、「自分が犯した罪の非常に大なることを自覚しております。始終、懺悔をし後悔しております。私は将来生まれ変わってもし余生がありましたならば、自分の行いました悪事に対しまして、生まれ変わった人間として人類のために尽くしたいと思っております」と裁判で供述、刑に服した後、帰国直前に自殺。
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170813

次に、元伊藤忠商事社長・元中国大使の丹羽 宇一郎氏が9月18日付け東洋経済オンラインに寄稿した「対北朝鮮政策は、「満州事変の教訓」から学べ 86年前、なぜ日本は「暴走」したのか」を紹介しよう(▽は小見出し、+は段落)。
・弾道ミサイル発射・核実験を繰り返す北朝鮮。海洋進出を進める中国。日本の安全保障を不安視する声が大きくなっている。このような状況だからこそ知るべき戦争の教訓とは何か。戦争体験者や軍事専門家に話を聞いてまとめた『丹羽宇一郎戦争の大問題』を出版し、中国に精通している、元伊藤忠商事社長、元中国大使の丹羽宇一郎氏が解説する。
▽満州事変は「反中」の原点
・今日、9月18日は86年前(1931年)に「満州事変」が起きた日である。私が大使として中国に駐在したときの印象では、中国人にとっては満州事変よりも「支那事変」の発端となった盧溝橋事件(1937年7月7日)のほうがより強く意識されているようだった。しかし、彼らにとって抗日戦争(日中戦争)とは、満州事変から日本がポツダム宣言を受諾した1945年までの15年間の戦いである。
・満州事変は、日本と中国にとって15年にわたる長い戦争の幕開けだった。満州事変の翌年1月28日に起きた第1次上海事変、1933年3月の日本の国際連盟脱退は、満州事変をきっかけとして生じたことである。  満州国の建国によって、中国の対日ゲリラ攻撃(中国では抗日活動)はさらに頻発するようになる。中国政府との対立は深まり、当時の新聞には、「不法背信暴戻止まるところを知らぬ」と中国の行動を徹底的に非難する文言が躍った。
・昨年亡くなられた元陸軍参謀、三笠宮祟仁親王(1915~2016年)は、「支那事変に対する日本人としての内省」と題された論文の中で、日本人には「日清戦争頃よりの侮華思想」があるとし、日本人が内省すべき点であると指摘している。 当時の日本人は、中国人はわれわれよりも劣っている、劣っている彼らがわれわれに反抗するのは許せないという意識があった。事実、戦前の新聞は満州事変、日中戦争と事態が泥沼化するに従い、紙面に「膺懲(ようちょう)」の文字が躍った。「膺懲」とは実力行使で懲らしめるという意味である。「暴戻なる支那を膺懲すべし」「?政権を膺懲」という具合だ。
・今日風に言えば、「中国はけしからんから、懲らしめてやるべきだ」ということである。こうした論調は、今日でも一部のメディアに見られる傾向ではないだろうか。 拙著『戦争の大問題』の取材でお会いした、元海軍特攻隊員で立命館大学名誉教授の岩井忠熊氏は、「94歳になって、こういう日本の姿を見るとは嘆かわしい。現代の日本社会の様子は戦前の日本に似ている」と述べられ、自国賛美の歴史修正主義的風潮に警鐘を鳴らしている。戦争体験者で、いまの日本社会が戦前に似ていると言う人は多い。
▽ファクトよりフェイクを喜ぶ日本人
・当時の新聞は満州事変を快挙と報じた。独断で軍を満州に進めた朝鮮派遣軍司令官の林銑十郎(1876~1943年)の行動は、統帥権の干犯であったにもかかわらず新聞は「越境将軍」ともてはやした。そのため軍の中央も処分をためらい、林はその後、総理大臣にまで上り詰める。
・当時の新聞は、満州は「日本の生命線」であり、手放すことのできない重要な権益であると喧伝し、満州開拓移民を募り続けた。しかし、そのようにして資金と人を注ぎ込んだ満州の実態はどうであったのか。 「小日本主義」を唱えた石橋湛山(1884~1973年)は、「日本の生命線」の持つ経済的な矛盾を次のように指摘している。 「貿易上の数字で見る限り、米国は、朝鮮、台湾、関東州を合わせたよりも、我に対して、一層大なる経済的利益関係を有し、<中略>米国こそ、インドこそ、英国こそ、我が経済的自立に欠くべからざる国と言わねばならない」
・当時の朝鮮、台湾、関東州(満州)との貿易額は3地域を合わせて9億円弱である。湛山によれば同年のアメリカとの貿易額は14億3800万円、インドは5億8700万円、イギリスは3億3000万円だったという(金額はいずれも当時の金額)。 「我が国の総ての禍根は、しばしば述ぶるが如く、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。〈中略〉朝鮮や台湾、支那、満州、またはシベリヤ、樺太等の、少しばかりの土地や、財産に目を呉れて、その保護や取り込みに汲々としておる。従って積極的に、世界大に、策動するの余裕がない。卑近の例をもって例えれば王より飛車を可愛がるヘボ将棋だ」
・朝鮮、台湾、満州などは投資が先行するばかりで、リターンの少ない赤字プロジェクトだったのである。それが「日本の生命線」の経済的実態だった。湛山はそれだけでなく、当時の日本が朝鮮、台湾、満州に投資するよりも、まだ日本国内の資本を豊かにすべき段階の国であることも指摘している。
・「資本は牡丹餅で、土地は重箱だ。入れる牡丹餅がなくて、重箱だけを集むるは愚であろう。牡丹餅さえ沢山出来れば、重箱は、隣家から、喜んで貸してくれよう」 つまり、満州経営は当時の日本の身の丈に合っていなかったということだ。しかし、湛山が指摘したこれらの事実に注目した日本人は少なかった。「満蒙は日本の生命線」(松岡洋右、1880~1946年)、「王道楽土」などのスローガンばかりが人口に膾炙(かいしゃ)した。戦前の日本人はファクトに目を向けず、フェイクニュースに踊らされていたのである。
▽満州で終戦を迎えた人々の悲劇
・「しかしてその資本を豊富にする道は、ただ平和主義により、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩とに注ぐにある」という、石橋湛山の言葉とはまったく逆の道を戦前の日本はたどってしまった。その結果、石油やスクラップなど重要資源の輸入を止められた日本はアメリカとも開戦、第2次世界大戦へ突入し敗戦に至ることになる。
・ソ連に対する緩衝地帯という狙いもあったといわれる満州国は、終戦直前にソ連が参戦するとたちまち崩壊し、開拓民をはじめとする民間人に多くの犠牲者を出した。生きて日本へ帰った人も、満州から引き揚げる途中で塗炭の苦しみを味わった。
・軍人も終戦後ソ連に武装解除された部隊は、ほとんどがシベリアに送られ、極寒の地での過酷な労働によって多くの人々が死亡した。元大蔵省事務次官で衆議院議員だった相沢英之氏はシベリアに抑留され、幸いにも日本に帰って来られたひとりである。 シベリアでは最初の1年が最も死亡率が高い。死因のほとんどは栄養失調だった。同じくシベリアに抑留された元関東軍の工兵だった與田純次さんによれば、シベリア抑留の1年目に3割が栄養失調で死んだという。零下40度のシベリアでは遺体も凍る。死後硬直ではなく、遺体が凍って寝たままの状態でピーンと伸びて固まってしまうのだ。
・結局、満州事変によって建国された満州国は、日本を大戦へ向かわせるきっかけとなり、国際社会に認められないまま日本の敗戦とともに消滅する。 結果を知ったうえで、当時の日本の選択を批判するのは簡単だし、いささか卑怯(ひきょう)な気もするが、日本が大戦に至った経緯と敗戦時に満州に残された人々の苦労を思うと、なぜ日本は石橋湛山が主張するように満州を放棄できなかったのかという思いを抑え切れない。
▽現在に通じる満州事変の3つの教訓
・当時の日本の指導者たちが満州を放棄できなかった理由は3つあると思う。 
・理由1:指導者が現場を知らなかった
+伊藤忠商事に入って間もなく私はニューヨークに駐在した。そのとき役員であった瀬島龍造氏(1911~2007年)から次のようなアドバイスをもらった。 「もし問題が起こったら、すぐに飛行機に乗って現地に行きなさい。おカネなんか気にしなくていい。それで会社から文句を言われるようなら、私に言いなさい」 問題は現場で起こり、解決策もまた現場にある。「すべては現場に宿る」のである。遠い日本から満州の実情を聞いていても、正しい判断はできない。
+こういうと、満州国の中枢には日本人が多くいたし、関東軍も現地にいたのだから、現地を見ていなかったということはないではないかという異論があろう。しかし、国の政策を決定するのは日本国内の指導者たちである。彼らの耳には、現地の担当者からの報告しか入らない。
+私は経験的にいって、不良資産や赤字などの悪い話は実際の3分の1程度しか現場からは上がってこないと見ている。トップ自らが現場へ足を運び、「最後は私が責任を持つから、すべて出しなさい」と働きかけて、初めて全容がつかめるのだ。
+トップが何の働きかけもしなければ、現場は7割の悪い話は隠そうとする。むろん、隠そうとする現場に非があるのは間違いないが、隠させるトップにも非はある。 部下に隠しごとをさせるトップは、人に対する理解が足りないのだ。現場の人の気持ちがわからないということも、現場を知らないということである。当時の日本政府の中枢にいた指導者たちが、どこまで満州の実情を知っていたのか、大いに疑問である。
・理由2:覚悟と勇気が足りなかった
+一度始めた大型プロジェクトはなかなかやめられない。中止すれば、やめたトップの責任のみならず、プロジェクトの実行を決めたときのトップにも責任が及ぶ。責任を取るには覚悟と勇気がいる。私も伊藤忠商事の社長時代に、3950億円もの不良資産を処理したときには、もし、この結果、会社が倒産することになったら、私は一生後ろ指を指され続けることになると思ったものだ。 また、プロジェクトを中止すれば担当者からは強い抵抗を受ける。満州国にあっては、担当者は武装した関東軍である。政府中枢の要人といえども、場合によっては命にかかわるかもしれない。
+当時の日本の指導者たちに、並々ならぬ覚悟と勇気が求められたことは火を見るよりも明らかである。しかし、310万人ともいわれる死者を出した戦争のことを考えると、このとき国の指導者により強い覚悟と勇気があればと思わざるをえない。
・理由3:自らつくった世論に押し流された
+先述したように満州事変は快挙であり、満州は日本の生命線であると新聞は報じ、国民はそれに歓喜した。軍も政府も、そうした世論を半ば追認し、半ば自らあおって対外政策を進めてきた。 満州国の実態については、ファクトを隠し、夢のある話や景気のよいスローガンばかりを流して世論をつくり、国民をリードしてきた手前、いまさら満州国は赤字で手放したほうが国際社会との関係も改善できるとは言えなくなっていたのだ。
+国内には満州経営の不合理を見抜く識者もいた。当時の政府中枢周辺にも、湛山のような忠告をしてくれる人はいたはずである。しかし、そうした識者の意見は世論の勢いにかき消され、政策に反映されることはなかった。 世論をつくり、世論によって政治を進める手法は今日でも見られる。われわれは世論調査の支持率に目を向けるばかりでなく、世論調査の背景や世論の行き着く先についても注意を払うべきである。世論とは、一方で危ういものであるということも満州事変の教訓といえる。
▽力対力で解決しようとすれば必ず戦争になる
・先述したとおり、戦争体験者が日本の現状を危惧する背景には、形は違えど北朝鮮に対する日本や中国の対応が戦前を彷彿とさせるからだろう。 北朝鮮のミサイルと核は由々しき問題であるが、『戦争の大問題』で述べているように、問題を力対力で解決しようとすれば必ず戦争になる。それが先の大戦を体験した先人たちが、身をもってわれわれに教えてくれたことだ。
・北朝鮮に対しては圧力と制裁をもって臨むべきという意見が多い。かつて「対話と圧力」と言っていた人物まで、対話を忘れたかのように圧力と制裁が必要と繰り返している。確かに弾道ミサイルと核実験を繰り返す北朝鮮相手には、対話は手ぬるいように思えることもある。北朝鮮は周辺国に対して挑発的な態度を取り続け、対話のムードはみじんもない。われわれは、北朝鮮は言葉で言ってわかるような相手ではないと見限りがちだ。
・しかし、そもそも利害の対立する両国で、初めから意見が一致しているはずがない。言ってわからない相手は、力で懲らしめるというのでは、満州事変から日中戦争へと進んでいったときの日本人の意識にほかならない。意見の違いを乗り越え、妥協点を見いだすのが対話の目的である。初めから言ってわからない相手と見下していては、対話は成り立たない。
・お互いが相手を物わかりの悪い、話にならない国民と見下して、対話のための努力を放棄したのは戦前の姿そのものである。世論もそれに同調した。戦前の新聞紙面に躍った「不法背信暴戻止まるところを知らぬ」の文言や「膺懲」という文字は今日の新聞にはないが、論調はどこか似通っている。
・私は、仮にも2500万人の国民を率いるリーダーが、対話もできないような野蛮人ということはありえないと思っている。対話する余地があるのに相手に“力”をかけ、窮鼠(きゅうそ)に追い込み対話を放棄することは、とても危険なことである。
・日本は戦前の轍を踏んではならない。力対力は決して選んではいけない。日本人は、なぜ戦争が起こるのか、なぜ戦争を終わらせることが難しいのか、満州事変から終戦までの歴史をもう一度振り返る必要がある。それが、86年前に満州事変が起きた今日9月18日に、私が言いたいことである。
http://toyokeizai.net/articles/-/188321

第三に、文筆家の古谷 経衡氏が10月3日付け現代ビジネスに寄稿した「ネット右翼の「思想的苗床」となった『戦争論』を再検証する ネット右翼十五年史(3)1998年夏」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽『戦争論』とデジタル時代の黎明
・ここに一冊の漫画本がある。 初版は1998年6月。漫画家・小林よしのりによる『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(小学館)略して『戦争論』である。 当時、私は高校一年生になりたてであった。私も、そして少し政治や社会や歴史に関心のある学友は、みなこの『戦争論』と同『ゴー宣』シリーズを貪るように回し読みしたものである。 私は当時、19世紀プロイセンの将校クラウゼヴィッツの書いた同名書があることも知らない無垢の少年であった。
・結果、『戦争論』は総発行部数90万部を突破して記録的なベストセラーとなった。漫画本とはいえ総頁数381という広辞苑なみの分厚さの本を読破した、というのが、当時の「亜インテリ少年」たちにとってある種の勲章となった。
・まだインターネットが広範に普及する前のこの90年代末期、いや正確には、ネット接続は「iモード」を筆頭とした移動体通信によるものが若年層の中で定着していたこの時期にあって、各家庭にあるパソコンからのネット接続環境は劣悪であった。 アナログ回線の速度は理論値で56kbps。自宅が基地局から遠ざかれば遠ざかるほどこの速度は減衰した。まだしもマシだったのは、当時NTTが全世帯に普及させようとしていたデジタル回線であるISDN。これが64kbpsで、さらに午後11時から翌朝にかけて通話料が廉価で定額になる「テレホーダイ」が勃興する。
・IT(2000年に総理大臣となった森喜朗は「イット」と発音した)に長けたものは、さっそく親に頼み込んでこのISDN+「テレホーダイ」でネットサーフィンを楽しむ、というのが最先端を行く若者のネット接続環境であった。 それでも、クラスを見渡しても、そうした「恵まれた」ネット環境を有する高校生は40人中、2人いればよいほうである。そんな時代だった。
・この時代は、まだ当然「ネット右翼」などという言葉は存在せず、若年層で主流だった移動体通信からのネット接続は情報量の少ないテキスト主体のサイト(「魔法のiらんど」など)や、メールに限局されていた。映像記録の主流はVHSであった。そうしたアナログ時代の終末期に颯爽と登場したのが小林の『戦争論』である。
▽土台としての「架空戦記」もの
・クラウゼヴィッツの同名書を知らなかった無垢の私とて、やおら直情的に『戦争論』を読んで天啓を受け、保守思想に目覚めたわけではない。その前史として、1980年代後半から世紀を跨ぐまで、この国では「架空戦記」が密かなブームとなっていたことを指摘せねばなるまい。
・「架空戦記」とは、先の大戦に「歴史のif」要素を加味するSF小説や漫画のことで、その筋書きは「敗北するはずの日本海軍が連合軍に快勝する」というモノがほとんどである。代表としては檜山良昭の『大逆転! 幻の超重爆撃機富嶽』シリーズ。遅れて荒巻義雄の『紺碧の艦隊』『旭日の艦隊』(艦隊シリーズ)が一世を風靡し、後者はアニメ化までされて若年層にも頒布された。
・私は、90年代の中盤に、このような「負けたはず」の日本軍が痛快無比に米軍を屠る(米西海岸を占領したり、マッカーサーを爆殺したり、ヨーロッパの連合軍を日本軍が爆撃する)戦記SFが大好きな少年であった。 むろんこの時期、架空戦記ブームに対しては内外から批判の声があった。戦勝国であるアメリカの識者から、「過去の歴史を直視せず、第二次大戦の結果を無視するものだ」という苦言が呈せられた、という新聞報道もあったほどである。しかし概ね、この架空戦記はSFという一分野の中で消費され、現在のように「歴史修正主義」などという汚名を着せられることはそれほどなかった。
・特に荒巻義雄の『艦隊』シリーズは、ラバウル上空で死んだはずの山本五十六元帥が転生し「高野五十六」として「後世世界」で歴史をやり直す、という荒唐無稽な筋書きだったため、多くのファンを生んだ半面、取るに足らないSFとして看過された面もあった。しかもその内容は、「日本が枢軸から脱却してヒトラーと対決し、迫害されていたユダヤ人を解放する」というモノで、あくまで日本の国策の過ちを「連合国側史観を元に修正する」というストーリーであった。
・『宇宙戦艦ヤマト』で仇敵であるガミラス帝国がナチス風に描かれたり、『機動戦士ガンダム』でも敵方のジオン公国の政体がナチスを彷彿とさせる選民(コロニー)国家であったり、といった世界設定を見ても明瞭なように、戦後日本で流行した「架空戦記」の特徴は、あくまで「先の戦争で日本が掲げた大義=アジアの解放および大東亜共栄圏の建設」は「間違ったもの」そして「間違った事を前提としてやり直すべきもの」として、「二度と同じ轍は踏まぬ」反省の材料とされていることだ。
・こうした作品の中では、史実における日本の同盟国・ドイツは常に敵役として何らかのデフォルメが加えられて登場し、より合理的で民主的な日本軍が、戦後民主主義的な考え方の下、歴史をやり直すという一貫した世界観が存在していた。
▽今、読み返してみると…
・当時、「日本の戦争大義は正しかった」などとは、口が裂けても言い出せない時代状況であった。1993年の河野談話。続いて1995年村山談話発表。1994年の細川政権瓦解を受けて急遽発足した羽田孜内閣において、法務大臣を務めた永野茂門は、毎日新聞の記者に対し「南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言したことを契機に、法相を事実上罷免された。この発言は当時の日本社会で大問題に発展した。
・「日本の戦争大義は正しかった」とか、「過去の日本軍の行いにも良い面はあった」などという思想の開陳は、かろうじて「合理的で民主的な日本軍が活躍するSF=架空戦記」という表現空間においてのみ許されていた時代だったのである。
・そんな架空戦記の薫陶を受けていたいっぷう風変わりな少年たる私は、SFや架空といった迂遠な枕詞を置かず、正面から「日本の戦争大義は正しかった」と漫画の中で主張するくだんの『戦争論』に良い意味で衝撃を受けたクチであった。 当時高校1年生であった私は、小学館編集部(小林)あてに個人的にファンレターすら書いたほどであった(その後、十数年を経て私は直接小林にこの事実を告げたが、当然小林が手紙を読んで居るはずもなかった)。
・しかし小林の『戦争論』刊行から20年弱が過ぎ、改めて同書を再読してみると、当時の私、即ち高校生の私に「良い意味での精神的ショック」を与えた同書の内容は、すでに当時の保守論壇で使い古されていた陳腐な歴史観の漫画化に過ぎない、という厳然たる事実を認めざるを得ない。 小林の『戦争論』の末尾には、「引用・参考文献一覧」の頁がある。本編のみを貪り読んで居た高校生の私は、当時この一覧には目もくれないでいた。だがこの部分にこそ、その後に世紀を跨ぎネット右翼が勃興する黎明期、まさしくネット右翼「予備軍」たる有形無形の(丸山真男曰く、「日本型ファシズム」を支えた中間階級第一類である)「亜インテリ」の思想的苗床となった、土壌のようなものが見えてくる。
・この『戦争論』の背景にある、いや『戦争論』の「元ネタ」と呼んで差し支えないであろう「保守本」こそが、地下茎のように菌糸が縦走する腐海の森のごとく、現在に至るネット右翼の常識を形成したことを考えると、慄然とするのである。
▽保守サロンの「定型文」を漫画化した
・『戦争論』の元ネタとなった「保守本」とはいったい何なのであろうか。 それは同書の「引用・参考文献一覧」の中で、ひときわ目を引く「保守言論界の大物」による著作である。上智大学教授で保守言論界の重鎮中の重鎮とされた、渡部昇一著『かくて昭和史は甦る――人種差別の世界を叩き潰した日本』(クレスト選書、初版は1995年5月。文庫版が『かくて昭和史は甦る 教科書が教えなかった真実』として、2015年にPHP研究所から出版)だ。
・改めて冷静な視点で両書を読み比べると、小林の『戦争論』は、ほとんどすべてこの渡部昇一の『かくて昭和史は甦る』を下敷きにしていると明瞭に判断できる。つまり『戦争論』の元ネタの大部分を同書が占めているのである。 いや、むしろ小林の名誉のために書くならば、1990年代当時の「保守界隈」に、もっと言えば戦後の右翼・保守全般に満ち満ちていた先の戦争に対する「歴史観」を、権威ある学者である渡部が1995年、『かくて昭和史は甦る』にまとめたに過ぎない、と言うこともできる。
・だから小林の『戦争論』には、当時、産経新聞や雑誌『正論』とその周辺だけに自閉していた「保守というサロン」の中の空気を、初めて漫画化した作品であるという評価を与えなければならない。しかし読者の側は、産経新聞はおろか(当時、私の住む北海道では産経新聞の購読はエリア外につきほぼ不可能であった)『正論』の存在も、その名称が朧げに頭の中にあるだけだった。
・産経新聞と雑誌『正論』の読者が支える戦後の保守層は、既にこの時から高齢化し、相互の連絡は集会か封書という古典的手段によってのみ維持されていた。それゆえ、インターネット社会の到来前、彼らの世界観は彼ら「保守」というサロンの中にのみ共有されていた「ジャーゴン」(組織内言語)であった。
・小林の『戦争論』が画期的だったのは、『かくて昭和史は甦る』にみられるような「保守」に蔓延する、あの戦争に対する「知られざる違和感」を初めてそのサロンの外に、しかも漫画という若年層に親しみやすい媒体で喧伝した点であった。つまり小林の『戦争論』は、自閉的な当時の「保守」というサロンのジャーゴンを、分かりやすく部外者に伝達する漫画版のパンフレットのようなものであったといえる。 しかし、当時の私のような無垢で未熟な若年層読者には、『戦争論』の中身がとうに使い古された「保守」のジャーゴンである、という認識は無い。ここに、後年のネット右翼興隆に繋がる悲劇の一端がある。
▽ゴー宣の「ネタ本」を検証しよう
・話を元に戻そう。小林の『戦争論』の大きな元ネタともいえる渡部の『かくて昭和史は甦る』において、あの戦争への歴史的評価は、大別すると概ね次の9項目のようになる。 この「渡部昇一史観」ともいうべき歴史観を、簡潔に点検していこう。一部順不同となるが、ご容赦願いたい。
・(リンク先には本の目次の画像) 渡部昇一史観の核となっているのは、まず第一に(1)「第一次大戦の講和条約(パリ講和会議)において、日本側から提出された人種差別撤廃条約が、アングロサクソン(白人)の西欧列強によって拒絶された」という人種対立である。 このテーゼは小林の『戦争論』でも繰り返し登場し、のちの「大東亜共栄圏」の正当化にもつながる大義名分として描かれている。「有色人種唯一の工業国」たる明治国家・日本の面目躍如という歴史の1ページとしてだ。小林の『戦争論』は、渡部のこの指摘から引用しているためか、どうしても「白人vs.有色人種(日本)」という図式を、第二次大戦前の時代の国際潮流から導き出しがちである。
・では、この指摘はどれほど妥当性のあるものなのだろうか。 まず、パリ講和会議後に人種差別撤廃提案が日本から国連(国際連盟)に提出されたのは事実だが、この提案に植民地大国のフランス、そしてリビアやイタリア領ソマリランドを領有していたイタリアが賛成票を投じていた事実は、両書では一切言及されていない。 そもそもこの提案がなされた当時、日本は同じ有色人種の住む台湾(日清戦争勝利の結果)、および朝鮮(日露戦争勝利の結果)を植民地支配していた。片手で人種差別撤廃をうたいながら、片手で同じアジア人種を植民地にしていたという明治国家の二枚舌の矛盾を、渡部は一切説明していない。
・さすがにこれでは分が悪いと思ったのか、渡部は(6)日本の朝鮮統治は良かった論を述べて、決して日本は同じアジアの民から搾取したのではない――という理屈を展開する。つまり、1910年の朝鮮併合から始まり、1945年の終戦による朝鮮半島の「解放」まで都合35年間、日本は慈悲の心でもって朝鮮を統治したのであり、それは民族差別でも植民地的搾取でもなかった、として(1)を補強しているのである。
▽「日本の植民地はいい植民地」理論
・しかし、渡部は明治日本国家の帝国主義的傾向と、植民地支配から日本が得た利益には一切言及していない。日清戦争によって清国から割譲せしめた台湾島と澎湖諸島は、明治国家にとってはじめての対外植民地(樟脳、サトウキビ、コメ類等)とされ、植民地統治開始から7年の投資でその経営は黒字になり、台湾銀行は本国日本へ植民地経営の余剰金を送金している。明治国家にとって台湾支配は「金のなる木」であった。
・朝鮮については、確かに持ち出しの方が大きかったものの、その後同地は大陸への進出(満州事変)への重要な軍事的橋頭堡として機能したのだから、単純に植民地からの収奪の多寡を以て善政・悪政を判断するのは論外である。
・さらに言えば、20世紀のこの時代、西欧列強の植民地はほとんどが持ち出し方の赤字経営である。アメリカの実質的な植民地であったフィリピンは、アメリカから民主主義と(制限的ではあるが)自治権を与えられ、スペイン統治時代(米西戦争の1898年まで)とは比較にならぬほどインフラ整備が進んだ。 当時のフィリピンでは、反米抗争が徹底した武力で取り締まられる一方、学校、教会、道路、鉄道、病院、電信電話網等が整備された。第二次大戦前には東南アジア随一の栄華を誇るマニラへ、その賃金の高さを当て込んで日本からの出稼ぎ労働者や娼婦(からゆきさん)が殺到したというほどである。
・それと引き換えに、アメリカはルソン島を極東におけるアメリカ進出の前衛とするべく、コレヒドールやバターン半島を要塞化し、ルソン島中部のクラークフィールドには一大空港を建設して、来るべき対日戦や中国進出の橋頭堡確保に勤しんだ。支配する側が経済的に損をしていれば植民地経営も許されるというならば、多くの西欧列強もまた、その免罪の対象になるであろう。
・渡部昇一史観によると、損得勘定で損をした植民地というのは植民地ではなく、朝鮮半島の支配も大義(内鮮一体=朝鮮半島を日本本土と一体化しようという朝鮮総督のスローガン)ある善政であり植民地支配ではない、というのだから罪深い。 その理屈なら、日本側が黒字なら植民地ということになり、台湾は植民地ということになるが、どうもネット右翼はこうした不都合な事実についてはだんまりを決め込んでいる。
・小林はくだんの『戦争論』において、「わしらも誇りにしようじゃないか 差別主義者の白人と戦った祖父を持つことを!」(P.150)と意気揚々と結んでいるが、何のことはない当時の日本も、同じアジア人種たる台湾から搾取し、朝鮮半島を土足で統治し、同じアジア人種たる中国大陸を侵略していた差別主義国家なのであった。
・現在でも、多くのネット右翼が「日本の朝鮮統治にあっては、日本側の持ち出しの方が多く赤字だったのだから、現在の韓国人はそれに感謝していない忘恩の匪賊」という固定観念を叫ぶ。彼らの世界観を遡れば、こうした「渡部史観」に直結しているのではないか。 渡部史観とは、まさにのちのネット右翼の思想的源流というべき歴史観であり、小林が『戦争論』によって、この渡部史観をはじめて漫画化したのである。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52990

第一の731部隊の真実は、 『ハバロフスク裁判の音声記録・・・元隊員の資料や当時の学術界の膨大な記録』、などを基にしただけに、ずっしりと重いが非常に価値のあるドキュメンタリーであった。 『全国の大学から3000人の医学者(助手も含む数字?)』が参加したが、 『米軍は人体実験のデータ提供と引換えに、隊員を免責(現地で捕虜になった者は裁判で処罰)』、というのは戦争の裏面ではあり得る話だ。 『京大医学部長だった戸田は金沢大学長として、医学会の重鎮に。田部井は京大教授、細菌学の権威に』、というのは、確かに人体実験をしたのだから、学問的にも権威になったのだろう。他方で、 『細菌を培養した責任者の軍医 柄沢は、・・刑に服した後、帰国直前に自殺』、という良心的な人間も例外的にいたというのが、僅かながら救いになる。
第二の記事で、 『元陸軍参謀、三笠宮祟仁親王は、「支那事変に対する日本人としての内省」と題された論文の中で、日本人には「日清戦争頃よりの侮華思想」があるとし、日本人が内省すべき点であると指摘』、 『元海軍特攻隊員で立命館大学名誉教授の岩井忠熊氏は、「94歳になって、こういう日本の姿を見るとは嘆かわしい。現代の日本社会の様子は戦前の日本に似ている」と述べられ、自国賛美の歴史修正主義的風潮に警鐘を鳴らしている』、 『自らつくった世論に押し流された・・・国内には満州経営の不合理を見抜く識者もいた。当時の政府中枢周辺にも、湛山のような忠告をしてくれる人はいたはずである。しかし、そうした識者の意見は世論の勢いにかき消され、政策に反映されることはなかった。 世論をつくり、世論によって政治を進める手法は今日でも見られる。われわれは世論調査の支持率に目を向けるばかりでなく、世論調査の背景や世論の行き着く先についても注意を払うべきである。世論とは、一方で危ういものであるということも満州事変の教訓といえる』、 『日本は戦前の轍を踏んではならない。力対力は決して選んではいけない。日本人は、なぜ戦争が起こるのか、なぜ戦争を終わらせることが難しいのか、満州事変から終戦までの歴史をもう一度振り返る必要がある』、などの指摘は大いに心に留めるべきであろう。
第三の記事では、ネット右翼に大きな影響を与えた 小林の『戦争論』、さらにその大きな元ネタともいえる渡部昇一の『かくて昭和史は甦る』を紹介した上で、渡部昇一史観を痛烈に批判している。ただ、筆者の古谷氏が、小林の『戦争論』から大きな影響を受けながら、どのようにそれと決別するに至ったのか、について触れないのは残念な気がする。今後、この続編も適宜取上げていけば、その答えが出てくるかも知れないので、それに期待したい。
タグ:東洋経済オンライン NHKスペシャル 歴史問題 王道楽土 日本学術会議 現代ビジネス 旭日の艦隊 丹羽 宇一郎 丹羽宇一郎戦争の大問題 (5)(731部隊の真実、対北朝鮮政策は、「満州事変の教訓」から学べ、ネット右翼の「思想的苗床」となった『戦争論』を再検証する) 731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~ 部隊が証拠を徹底的に隠滅、元隊員が固く口を閉ざした ハバロフスク裁判の音声記録を発掘 部隊中枢メンバーが、国防や国益のためとして細菌兵器を開発した実態 満州で日本に反発していた中国や旧ソ連の人々を「死刑囚」とし、細菌兵器開発の「実験材料」として扱っていた実態を、克明に語っていた 学術界からも多くの研究者が部隊に参加していた実態 関東軍防疫給水部 1936設立 細菌兵器を開発 全国の大学から3000人の医学者(助手も含む数字?) 日本に反発する中国人やロシア人を「匪賊」として捕え、逆スパイにならない者を実験材料に ・京大、東大などのエリート医学者が主導 京大医学部長の戸田は、軍と結び付くことで多額の研究費をもらい、多くの研究者を送り込む 中国での日本軍の犠牲も増え、メディアは中国匪賊の暴虐ぶりをPR 世論は軍による処罰を支持 1940年代、細菌兵器の実戦使用に踏み切る ソ連軍満州侵攻で、全囚人を殺害、焼却。施設は破壊 帰国しても箝口令 米軍は人体実験のデータ提供と引換えに、隊員を免責(現地で捕虜になった者は裁判で処罰)。 京大医学部長だった戸田は金沢大学長として、医学会の重鎮に 田部井は京大教授、細菌学の権威に 大学の軍事研究のあり方が議論 細菌を培養した責任者の軍医 柄沢 刑に服した後、帰国直前に自殺 対北朝鮮政策は、「満州事変の教訓」から学べ 86年前、なぜ日本は「暴走」したのか 満州事変は「反中」の原点 元陸軍参謀、三笠宮祟仁親王(1915~2016年)は、「支那事変に対する日本人としての内省」と題された論文の中で、日本人には「日清戦争頃よりの侮華思想」があるとし、日本人が内省すべき点であると指摘 当時の日本人は、中国人はわれわれよりも劣っている、劣っている彼らがわれわれに反抗するのは許せないという意識があった 紙面に「膺懲(ようちょう)」の文字が躍った 、「中国はけしからんから、懲らしめてやるべきだ」ということである こうした論調は、今日でも一部のメディアに見られる傾向ではないだろうか 戦争の大問題 元海軍特攻隊員で立命館大学名誉教授の岩井忠熊氏は、「94歳になって、こういう日本の姿を見るとは嘆かわしい。現代の日本社会の様子は戦前の日本に似ている」と述べられ、自国賛美の歴史修正主義的風潮に警鐘を鳴らしている ファクトよりフェイクを喜ぶ日本人 「小日本主義」を唱えた石橋湛山(1884~1973年)は、「日本の生命線」の持つ経済的な矛盾を次のように指摘 貿易上の数字で見る限り、米国は、朝鮮、台湾、関東州を合わせたよりも、我に対して、一層大なる経済的利益関係を有し、<中略>米国こそ、インドこそ、英国こそ、我が経済的自立に欠くべからざる国と言わねばならない 我が国の総ての禍根は、しばしば述ぶるが如く、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。〈中略〉朝鮮や台湾、支那、満州、またはシベリヤ、樺太等の、少しばかりの土地や、財産に目を呉れて、その保護や取り込みに汲々としておる。従って積極的に、世界大に、策動するの余裕がない。卑近の例をもって例えれば王より飛車を可愛がるヘボ将棋だ 朝鮮、台湾、満州などは投資が先行するばかりで、リターンの少ない赤字プロジェクト 「日本の生命線」の経済的実態 湛山はそれだけでなく、当時の日本が朝鮮、台湾、満州に投資するよりも、まだ日本国内の資本を豊かにすべき段階の国であることも指摘 満蒙は日本の生命線 戦前の日本人はファクトに目を向けず、フェイクニュースに踊らされていたのである 満州で終戦を迎えた人々の悲劇 満州事変の3つの教訓 満州を放棄できなかった理由 理由1:指導者が現場を知らなかった 理由2:覚悟と勇気が足りなかった 理由3:自らつくった世論に押し流された 軍も政府も、そうした世論を半ば追認し、半ば自らあおって対外政策を進めてきた 満州国の実態については、ファクトを隠し、夢のある話や景気のよいスローガンばかりを流して世論をつくり、国民をリードしてきた手前、いまさら満州国は赤字で手放したほうが国際社会との関係も改善できるとは言えなくなっていたのだ 世論をつくり、世論によって政治を進める手法は今日でも見られる。われわれは世論調査の支持率に目を向けるばかりでなく、世論調査の背景や世論の行き着く先についても注意を払うべきである。世論とは、一方で危ういものであるということも満州事変の教訓 力対力で解決しようとすれば必ず戦争になる 日本人は、なぜ戦争が起こるのか、なぜ戦争を終わらせることが難しいのか、満州事変から終戦までの歴史をもう一度振り返る必要がある 古谷 経衡 ネット右翼の「思想的苗床」となった『戦争論』を再検証する ネット右翼十五年史(3)1998年夏 漫画家・小林よしのりによる『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』 少し政治や社会や歴史に関心のある学友は、みなこの『戦争論』と同『ゴー宣』シリーズを貪るように回し読みしたものである 総発行部数90万部を突破して記録的なベストセラー 読破した、というのが、当時の「亜インテリ少年」たちにとってある種の勲章となった 土台としての「架空戦記」もの 大逆転! 幻の超重爆撃機富嶽 正面から「日本の戦争大義は正しかった」と漫画の中で主張するくだんの『戦争論』に良い意味で衝撃を受けたクチ すでに当時の保守論壇で使い古されていた陳腐な歴史観の漫画化に過ぎない、という厳然たる事実を認めざるを得ない 小林の『戦争論』は、ほとんどすべてこの渡部昇一の『かくて昭和史は甦る』を下敷きにしていると明瞭に判断できる 小林の『戦争論』には、当時、産経新聞や雑誌『正論』とその周辺だけに自閉していた「保守というサロン」の中の空気を、初めて漫画化した作品であるという評価を与えなければならない 小林の『戦争論』は、自閉的な当時の「保守」というサロンのジャーゴンを、分かりやすく部外者に伝達する漫画版のパンフレットのようなものであったといえる 小林の『戦争論』の大きな元ネタともいえる渡部の『かくて昭和史は甦る』 渡部昇一史観 第一次大戦の講和条約(パリ講和会議)において、日本側から提出された人種差別撤廃条約が、アングロサクソン(白人)の西欧列強によって拒絶された」という人種対立 日本の朝鮮統治は良かった論 日本の植民地はいい植民地」理論 部昇一史観によると、損得勘定で損をした植民地というのは植民地ではなく、朝鮮半島の支配も大義(内鮮一体=朝鮮半島を日本本土と一体化しようという朝鮮総督のスローガン)ある善政であり植民地支配ではない、というのだから罪深い
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