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部活動問題(ブラック部活動)(その1)(「ブラック部活動がブラック企業戦士を生む」教育学者が指摘、小田嶋氏:“部活”は尊い なぜならば) [社会]

今日は、部活動問題(ブラック部活動)(その1)(「ブラック部活動がブラック企業戦士を生む」教育学者が指摘、小田嶋氏:“部活”は尊い なぜならば)を取上げよう。

先ずは、昨年11月25日付けダイヤモンド・オンラインがハフポスト日本版の記事を転載した「「ブラック部活動がブラック企業戦士を生む」教育学者が指摘 内田良・名古屋大学大学院准教授インタビュー」を紹介しよう(▽は小見出し、Qは聞き手の質問、Aは内田氏の回答、+は回答内の段落)。
・毎日残業。土日や夏・冬休み返上は当たり前。その上残業代はほとんど出ない。なんて『ブラック』な環境なのか──。 それが学校、中でも部活動の場で日常的に起きている光景だ。 日々練習や試合に明け暮れる生徒と、それを指導する教員。「活動時間が長い」「休みがない」。そんな悲鳴さえ聞こえてくるが、あまりに習慣化し過ぎて、"長時間活動"はなかなか改善しない。
・自主的なはずなのに、生徒や教員を縛り付けている部活動。その実態を著書『ブラック部活動』につづった名古屋大院准教授の内田良氏は、「ブラックな部活動が企業戦士を生む」「部活動をやってこそ一人前という文化がある」と指摘する。 部活動の現場で今何が起きているのか、内田氏に話を聞いた。
▽「部活動が内申に響く」は都市伝説?
Q:著書の中で「自主的だから過熱する」と指摘されていますが、今までそのような指摘はなかったように思います。
A:そうなんですよね。部活動の根本が自主的なものです。だから「自主的なのになぜ強制するのか」という問いが立ちやすい。 今の教員や会社員の働き方改革では、やりがい搾取という議論がありますよね。「好きでやってるからいいでしょう」と言うけれど、実際は搾取されている。好きだからよいという考えに疑問を投げかけるのが大切だと思います。
+やはり部活動が過熱してきた背景に、部活動が「評価」と関係してきたという点が大きいと思います。 評価とはつまり、入試に使われるということです。直接スポーツ推薦を狙っていない生徒でも、なんとなく部活は大事だという感覚があるわけです。
Q:入試や進学への評価という点でみんな気になってしまっている?
A:そうですね。ネット上では「部活動を辞めると内申や入試に響きますか」という投稿をよく見ます。 生徒だけではなくて、保護者も同じような質問をしているんですよ。もちろんスポーツ推薦を目指していれば別ですが、私は部活が内申に響くというのは都市伝説だと思っています。
+通常は入試において、部活動の比重はすごく小さい。まず当日のテストがあって、それとは別に調査書や内申書があります。 内申書は、通知表に書かれているようなことが記載されていて、その中で部活動は本当にごく一部の小さなことです。決して入試の合否を大きく左右するものではないですよね。 でもみんな、部活やめたら内申に響くと思ってしまう。部活動はだいぶ過大評価されていると思いますね。
Q:影響が大きくないのに、なぜ気にするようになってしまったのでしょうか。何かきっかけがあるのでしょうか。
A:スポーツ推薦で部活動が影響するのはもちろんありますし、当然影響はゼロではないです。 それから例えば、当日のテストの点数が他の生徒と同じで、さらに通知表に書いてある9教科の成績も同じだった場合に、最後に部活動が影響する可能性はありますよね。
+なぜここまで過大評価されているのか。その理由の一つとして、これは仮説なんですが、先生もそれに依存していたのではないかと思います。 つまり、先生にとって部活動が入試に影響するという考えは、部活動で生徒をコントロールできるので損ではないわけです。
+先生は明言しないと思いますが、何となくそういう空気を漂わせていただろうし、それを否定することはない。 「入試に関係ないから部活動に入らなくてもいいよ」と言えばいいものを、「何となくこの先の人生に関係あるぞ」という雰囲気で生徒たちをつなぎ止めていた側面はあると思います。
Q:例えば就職の面接で部活動について聞かれることがあります。学校以外の場でも評価の対象になっているのでしょうか。
A:これは根深い問題です。私が色々な先生から話を聞いている限りでは、高校を卒業した生徒が就職活動をする時に、部活動はかなり影響するのではないかと思います。 大学生は部活動をしている人が少ないので影響力はだいぶ弱まりますが、高卒の場合はたくさんの子供がしてますから、就活の際に尋ねられることが多いですね。
+ですから、部活動の改革は学校の中だけでは難しくて、社会全体で改革していていかないといけない。  部活動の就活への影響を弱めていかないと、生徒が部活動に縛られることになる。生徒の本業は学業というところをちゃんと考えて欲しいと思います。
▽「部活動を持ってこそ一人前」 プレッシャーにおびえる教員たち
Q:教員は部活動で評価されるのでしょうか。
A:今回『ブラック部活動』では、あまり評価のことを深く掘り下げませんでした。私が得意なのは、エビデンス・数字を使うことなんですが、評価は、本当に"空気"だから分からないんですよね。 あまり踏み込めないところがあるのですが、私が聞く限り、かなり"空気"のレベルで部活動が先生の評価にも影響している。
+もちろん生徒も、部活動をしっかりやれば入試でよい評価されるのではと感じているように、先生もそういう所におびえている。 つまり、部活動への取り組み方が、その中学校・高校の教員として評価されてるのではないかと感じるわけですね。
+これは暗黙に言われていることですが、「部活動人事」という言葉もあります。つまり、部活動でいい成績を収めた先生は、それによって人事が決まっていくことがあるのではないかと言われています。当然ながら「部活動人事」と表立って言うことはないです。 先生たちは教科によって採用されていて、部活動によって採用されているわけでは決して無いですから。
+そんなことはないはずなんですが、実際は、例えば強豪校の吹奏楽の先生が異動になったら、後任に有名な吹奏楽の先生が来るということがある。当然ながらある程度部活動を意識した人事が回ってるわけです。 ですから、先生たちも部活動によって評価されるのではないかと強く感じています。
+特に、活躍した部活動や生徒の垂れ幕を下ろしたりすると、今年は数が多い少ないというような話になりますよね。 先生たちは自分が顧問を務める部活動がトロフィーを持って来れないと、失敗したと思うわけです。見える形で評価されてしまいます。それが好きな人はいいけれども、授業で頑張りたい先生とっては結構きついですよね。
Q:目に見える形でプレッシャーを与えられてしまいますね。
A:そもそも、大学などで部活動の指導方法を1回も学ばずに教員になり、自分の専門でないことで評価されるのはきついと思います。
Q:教員にとって、部活動は時間外労働で給料もほとんど出ないという現状があります。本当はやりたくなくても、生徒のことを考えたら声を上げづらいのではないでしょうか。
A:例えばある調査では、「部活動は完全に学校の外部の人にやってもらいたいですか」という質問に、約半数がイエスと答えています。 部活自体を持たなくてもいいと思っている先生も、半分ぐらいいるのではないでしょうか。
+しかし、部活動を持ってこそ一人前の教師という文化が学校にあります。もしやりたくないという声を上げるものなら、「なんで教師になったの」と言われてしまう。 そうするとなかなかやりたくないと言う声を上げられない。 最近では、Twitterやインターネットといった匿名の世界で自分の気持ちを訴えることができ、さらにそれが連帯を生み出すことができます。そういった意味では、職員室はできないことが今できているのかなと思います。
Q:部活対策プロジェクト(※1)という動きが出てきていますよね。
A:そうですね。こういう風に先生たちの声が表に出てくるようになったのも、Twitterが大きな理由です。先生たちが職員室で声を上げられないからこそ、ネットでこれだけ盛り上がっているというふうに理解すべきです。 (※1 20〜30代の若手の教員を中心に、2015年12月に発足。生徒や教員が抱える部活動の問題点などをインターネット上で共有し、署名活動などを行っている)
▽「ブラック部活動が ブラック企業戦士を生む」
Q:著書の中で「ブラック部活動がブラック企業戦士の予備軍を生む」と指摘されています。過熱した部活動の文化が、企業の長時間労働にもつながっていると考えますか。
A:実際に多くの企業で、これだけの長時間労働を許しています。むしろ、長時間働くことや残業をすることこそ素晴らしいという評価・考えは、ひたすら練習をすれば強くなるという部活動の根性論とかなり重なります。
http://diamond.jp/articles/-/150805

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が3月2日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「“部活”は尊い。なぜならば」を紹介しよう。
・高校の部活に週休2日以上の休養日が求められることになりそうだ。 まあ、当然だろう。 中日新聞の記事は、この間の事情を 《学校の運動部活動の在り方に関するガイドラインづくりを進めているスポーツ庁の検討会議は二十三日の会合で、これまで「中学校では週二日以上の休養日を設ける」としてきた活動時間の目安について、審議中の原案に、高校の部活動も原則対象として盛り込むことを了承した。》(こちら) という言い方で伝えている。
・個人的には、なんの問題もないと思う。 というよりも、長らく現場任せのまま放置されていたブラック部活の実態に、スポーツ庁という官僚組織がはじめてメスを入れようとしている点で、画期的な取り組みだと、積極的に評価するべきなのかもしれない。
・一部の体育系の部活が、生徒たちに過酷な練習スケジュールを強要していることは、スポーツ医学的な見地から見て不適切だ……というだけの話ではない。競技力の向上を阻害し、生徒の健全な日常生活を破壊する恐れすらある。顧問として生徒指導に従事する教員の負担が著しく過大である点も無視できない。
・要するに、現状の体育会系の部活(※一部文化系も含む。以下、煩瑣なので「部活」と書かせていただく)は、官庁が乗り出さねばならない程度にどうかしているということだ。あまりにも異常すぎて、内部の関係者が、自分たちのおかしさに気づくことができずにいるのであろう。
・にもかかわらず、いまここにある現実として様々な立場の人間を巻き込んでいる部活という運動体は、内部の人間には制御不能な一個の地獄車だったりする。 というのも、生徒は顧問に口ごたえできないし、顧問は顧問でOBや地域社会の期待を裏切ることができないからだ。もちろん学校は学校でPTAの意向や生徒募集への影響を無視できないし、高体連や高野連や新聞やテレビは部活を素材に制作されるドラマから自由になることができない。とすると、部活が自らをドライブさせている自動運動は、誰が動かしているのかその張本人がわからないにもかかわらず、それでいて誰も止めることのできない地球の自転みたいな調子で、その上に乗っている人間たちの昼夜のあり方を決定してしまう。
・とすれば、こういう怪物は、お上が法と規制のカタナを抜いて退治しにかかるほかに方法がない。 その意味で、スポーツ庁の対応は、着手の段階として、いまのところは適切だと思う。 検討会議が作成しているガイドラインに反発する声もある。 2月27日の日刊スポーツ・コムに 「順番を間違ってないか、公立高の部活週休2日に疑問」(こちら) という見出しの記事が掲載された。
・詳しくはリンク先を参照してほしいのだが、記事の中で、書き手の記者は 《何が悪いって、教員の働き方改革を最優先して、子供たちの気持ちを後回しにしていることだ。故障防止が大きな目的ならば、投手の球数制限など、先に語るべきテーマがあるはずだ。いきなり活動日制限は、順番が間違っている。》 《厳しい練習に励むのは、決してトップアスリートだけではない。スポーツ庁だって、平昌(ピョンチャン)五輪での日本選手の躍進を喜び、メダリストのたゆまぬ努力を礼賛する一方で、高校生には頭ごなしに「週に2日以上は運動するな」と命令するのは、お門違いだ。》 《教員の働き方改革が待ったなしの状況なのは理解で。多忙でどうしようもないならば、部活でなく、授業を減らせばいい。》 と書いている。
・この記事はネット上に配信されるや否や、即座に炎上した。 以来、やれ体育会オヤジの独善だとか、部活至上主義者の横暴だとか、さんざんな言われようで現在に至っている。 袋叩きと言って良い。 なので、当欄では、重複を避ける意味でも、このうえ、記事についていちいちことあげて批判することは控える。
・むしろ、ここでは、日刊スポーツの記者氏の真意を汲み取って、「部活」という組織なり経験が、いかにわたくしども日本人にとってかけがえのない存在であるのかということについてあらためて考えてみたいと思っている。 私自身、もともとは、この記事に寄せられた批判の多くに共感したからこそ、このテーマについて書くことにしたわけなのだが、あれこれ検討しているうちに、単に部活をやっつけるだけでは何かを見落とすことになるのではなかろうかと考えるに至った次第だ。
・というのも、日刊スポーツの記事が大筋において的外れなのはその通りなのだとして、そのこととは別に、記者が訴えんとしていた「部活のかけがえのなさ」の実体的な意味は、「学校」よりもっと大きな「社会」という枠組みの中で考えないと正確には伝わらない話だと思ったからだ。
・ネット上で、件の記事を思うさまにやっつけているのは、おおむね「非部活的な」論者だ。 つまり、高校時代はどちらかといえば勉強のできた組の生徒で、部活練習で朝から晩まで泥にまみれているみたいな暮らし方とは無縁な学校時代を経て社会に出た人たちだということだ。
・こういう人々にとって、部活出身者は、なれなれしくて声がデカくて野卑で高圧的で徒党を組みがちな、なんというのか、日常的に交流したいとはどうにも思えない人たちであるわけで、だからこそ、彼らは、その権化みたいな日刊スポーツの記者氏の言い分を全力で否定しにかかったのだと思う。
・実際、記事の行間には、体育会系っぽさが横溢している。 それゆえ、ネット内に蟠踞する反部活系の論客たちは、日刊スポーツの記事の内容以上に、その行間にある体育会系っぽい匂いに強烈な忌避感を抱いた。 これは、だから、単に部活のありかたをめぐる論争というだけのできごとではない。 昔から戦われてきた、わりと陰険な対立だと思う。
・ネット上ではケチョンケチョンに論破されたあげくにヒモで縛られた資源ゴミの新聞紙みたい扱われている例の日刊スポーツの記事にも、支持者がいないわけではない。 それどころか、あの記事に共感を抱いている読者は、実のところ、日本人の多数派かもしれない。 少なくとも私はそう思っている。
・特に、スポーツ新聞のコアな読者層や、自身がハードな部活を経験した中高年の多くは、あの記事に深い共感をおぼえたはずだ。 「部活が、オレを作った」 と彼らは考えている。 「部活のキツい練習を乗り越えたあの時代の汗と涙が、いまの自分を支えている」 「オレは、教室で学ばなかったさまざまな人生の真実を部活の泥の中で学んだ」 「理屈じゃないんだ」 という形式で、彼らはものを考えている。 で、実際のところ 「理屈じゃないんだ」 と考えている彼らは、理屈では自らが勝てないことを知っている人たちであったりもする。
・とはいえ、理屈では勝つことができず、言葉ではうまく説明できないからこそ、その分だけ、部活への思いは、彼らの中に深く根を張っている。 「理屈じゃないんだ」 と考える彼らは、ネット上で燃え上がっている論争に、あえて積極的に関わろうとはしない。 だから、彼らの気分を代弁した記事は、表面上は、ボロ負けの形で論破されている。
・しかし、彼らが敗北を認めているのかというと、おそらくそんなことはない。 彼らは黙っているだけだ。 「理屈屋の連中が理屈で勝つのは当然の展開で、だから、オレたちの立場は理屈の上ではきれいに否定されているわけだな」 「でも、理屈じゃないんだ」 と、彼らは考えている。
・現実に、世界は理屈で動いているわけではない。 先輩との付き合い方、後輩の扱い方、忍耐と要領、リーダーシップとフォロワーシップ、命令と服従、友情と割り切り、圧力のかわしかた、団結と自己犠牲、勝利への執念、グッドルーザーとしての振る舞い方、あきらめない心とあきらめた仲間への思いやり、あきらめてしまった自分へのアフターケアとあきらめていないふりをすることの大切さなどなど、部活という特殊な閉鎖環境で学んだことが、自分をマトモな社会人にしてくれた、と、彼らはそう考えて、自分を鍛えてくれた部活に感謝している。
・仮に、部活の練習にいくらか有害だったり不適切だったりする要素が含まれているのだとして、だからって、ほかならぬ自分がくぐりぬけてきた思春期の試練がまるごと無意味な徒労だったと決めつけられて、はいそうですかと自分の青春を否定できると思うか? 終業のベルが鳴ると同時に帰宅して予習復習に励んでいたタイプのいけ好かない高校生が、将来、有識者会議に招集されることが当然の展開なのだとして、すべての高校生があんたみたいな腐れインテリを目指すべきだというガイドラインはいくらなんでも行き過ぎじゃないのか?
・われわれの社会は、部活で養われた集団性と自己犠牲の精神を企業戦士に不可欠な資質として、高く評価し、利用してきた経緯の上に成り立っている。 言葉を変えていえば、一丸となって練習に励む部員たちの滅私奉公の集団性をあらまほしき自己鍛錬として賛美する部活魂の教条を、そのままグローバル社畜の労働観として結実せしめたのが現代日本の人材育成プロセスだったわけで、決して自己都合の有給休暇を申請しないばかりか日々のサービス残業を自らの喜びとして消化する夜勤人形は、実は部活アルゴリズムによる鍛造作品だったのである。
・1年に3日しか休まない甲子園出場チームの部活練習は、ダルビッシュがいつだったか自身のブログの中でものの見事に否定し去っていた通り、競技力の向上に寄与しないばかりか、一番大切な高校球児たちの選手生命を脅かす深刻な脅威でもある。 その点で、休まない部活には、ほとんどまったく擁護の余地がない。
・ただ、世間の人間が部活に期待しているのは、必ずしも部員をアスリートとして成長させる過程や、チームを強化する機能ではない。 だから、ダルビッシュをはじめとするスポーツの世界の専門家の言う部活批判は、部活の価値のうちの半分しか否定したことになっていないし、事実、休まない部活の素晴らしさを信奉している人々の心にはまったく届いていない。 「わかってるよ」 「うん。適切に休養をとった方が成果があがるとかいうお話は、20年前から通算で3000回ぐらい聞いてる」 「理屈じゃないんだよ」 「勤行だよ勤行」 「レギュラーなおもて罰走をとぐ、いわんや補欠をや、だよ」
・部活に期待されているものの中身は、実に多様で、しかも当然のことながら理屈では説明できない。 精力善用。高校生にグレるいとまを与えない練習スケジュール。勝っても勝たなくてもとにかく一日中練習することの尊さを教えること。勝利と同じほどに尊い敗北の価値を知ること。先輩後輩のケジメを学ぶこと。協調性。克己心。チームスピリッツ。パシリ耐性。理不尽に耐える根性。
・特に最後の「理不尽に耐える根性」は強烈だ。 この教条がある限り部活は不滅だ。 というのも、外部の人間が部活の理不尽さを指摘すればするだけ、部活の価値が上昇することになるからだ。 ともあれ、理不尽の温床であることが部活の価値の源泉であり、様々な理不尽の中で練習することが自分たちの人間性を高めている、と少なくとも部活の内部にいる彼らはそう考えている。
・とすると、彼らの練習は、滝に打たれている修験者の修行とそんなに変わらないわけで、ということはつまり、滝の水が放出する位置エネルギーの浪費を責めても仕方がないのと同じ理路において、部活の理不尽を指摘しても意味がないのである。 「部活の決まりごととか練習メニューとか序列とかって、理不尽なことだらけですよね」 「だからこそ、理不尽に耐える心が養われるんじゃないか」 という、この種のやりとりに絶望した経験を持つ人は、少なくないはずだ。
・理不尽を指摘すると、指摘された側の人間が 「理不尽だからこそ価値があるんだ」 と答えるこの融通無碍な構造の不死身さが、うちの国の組織の本質なのかもしれない。 結局のところ、あらゆる組織が何らかの理不尽を内包している以上、大切なのは、個々の組織の理不尽を指摘したり改革したり改善したり修正することではない、と、リアリストを自認する人々はそういう順序でものを考える。
・むしろ、組織の中で活動するにあたって個人が身につけておくべき心構えは、理不尽に適応することだ。自分が直面している理不尽を看過し、黙殺し、あるいは身をかわし、ひたすら耐えるなりして、とにかくその理不尽と対決しないことが結局は自分を守ることになるというわけだ。
・私は、高校では陸上部の部員だったが、陸上競技は、チームスポーツでないという点で、ほかの運動部の部活とは性質の違う環境だった。 というよりも、私は、個人競技である陸上部の「部活っぽくない」ところに惹かれて入部した生徒だったわけで、そもそものはじめから、部活を嫌っていた。
・つまり、私は、高校生の頃から、一貫して、部活的な人間ではなかった。 具体的には、協調性やチームスピリッツみたいなものはハナで笑っていたし、リーダーシップも皆無なら、後輩の面倒を見るテの趣味もなく、自己犠牲の精神にいたっては心から憎んでさえいたということだ。 そんなわけなので、サラリーマンは半年しかつとまらなかった。 
・私は、自分が部活を拒絶したことと、企業社会に適応できなかったことを、無関係なふたつの出来事であったとは思っていない。 自分は、部活に適応できない人間だったから、会社員がつとまらなかったのだと、半分ぐらいはそう思っている。 逆に言えば、部活が、会社員としての資質を伸ばす上で有効な場所だということを、私自身が、半ば信じているということでもある。
・部活を否定することは、日本の企業社会のある部分をそのまま否定することを意味している。 だから、部活をめぐる議論は簡単には落着しない。 躍起になって部活を批判する人々がいる一方で、他方には、その意見に決して耳を傾けない人たちがいる。 最終的に、この問題は、部活それ自体のあり方を超えて、わたくしども日本人の集団性についての見解の対立を反映した論争に発展することになるはずだ。
・私は、短距離走の選手だったので、練習スケジュールは自分で決めていた。 部活から学んだことは、とにかくむずかしいことを考えずに、思い切り走りきることだった。 苦手なものから走り去ることを繰り返していれば、誰であれ、いずれたどりつくべき場所に到達する。 私はいま、そういう場所にいる。 他人の部活については、勝手にしやがれと思っている。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/030100133/?P=1

第一の記事で、 『内申書は・・・その中で部活動は本当にごく一部の小さなことです。決して入試の合否を大きく左右するものではないですよね。 でもみんな、部活やめたら内申に響くと思ってしまう。部活動はだいぶ過大評価されていると思いますね』、 『先生に『とって部活動が入試に影響するという考えは、部活動で生徒をコントロールできるので損ではないわけです』、 『先生たちも部活動によって評価されるのではないかと強く感じています』、 『ブラック部活動がブラック企業戦士の予備軍を生む」』、などの指摘はその通りだ。
第二の記事で、 『いまここにある現実として様々な立場の人間を巻き込んでいる部活という運動体は、内部の人間には制御不能な一個の地獄車だったりする。 というのも、生徒は顧問に口ごたえできないし、顧問は顧問でOBや地域社会の期待を裏切ることができないからだ。もちろん学校は学校でPTAの意向や生徒募集への影響を無視できないし、高体連や高野連や新聞やテレビは部活を素材に制作されるドラマから自由になることができない。とすると、部活が自らをドライブさせている自動運動は、誰が動かしているのかその張本人がわからないにもかかわらず、それでいて誰も止めることのできない地球の自転みたいな調子で、その上に乗っている人間たちの昼夜のあり方を決定してしまう』、との分析には面白いだけでなく、説得力もある。さすがだ。 『部活を否定することは、日本の企業社会のある部分をそのまま否定することを意味している。 だから、部活をめぐる議論は簡単には落着しない。 躍起になって部活を批判する人々がいる一方で、他方には、その意見に決して耳を傾けない人たちがいる。 最終的に、この問題は、部活それ自体のあり方を超えて、わたくしども日本人の集団性についての見解の対立を反映した論争に発展することになるはずだ』、部活動問題はもっと単純と考えていたが、そこまで深い問題だというのを小田嶋氏から教えてもらった。私自身は日本人の強すぎる集団性をもっと弱めて、個性を大切にしてゆくべきと考えている。
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