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愛国、ナショナリズム(橘氏:アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている、小田嶋氏:HINOMARUに詫びる理由なし) [社会]

今日は、愛国、ナショナリズム(橘氏:アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている、小田嶋氏:HINOMARUに詫びる理由なし)を取上げよう。

先ずは、作家の橘玲氏が3月5日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている[橘玲の世界投資見聞録]」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・「愛国」とはなにかが気になって、マーサ・C・ヌスバウム他の『国を愛するということ』を読んだ。これは1990年代半ばにアメリカのアカデミズムで起きた「愛国」論争の記録で、本稿はその備忘録だと思ってほしい。
▽愛国者ローティは非愛国的なサヨクに我慢ならなかった
・論争の発端は、アメリカの高名な社会学者リチャード・セネットが、「全米人文科学協会」の「アメリカの多元主義とアイデンティティについての国民的対話」プロジェクトを『ニューヨーク・タイムズ』紙(1994年1月30日)ではげしく批判したことだ。プロジェクトの趣旨は、「テレビ中継される一連の「市民集会」を通じて、アメリカ国内のエスニックな分裂や対立を克服すべく国民共同体の紐帯やアメリカ人のアイデンティティについて確認しなおそうというもの」だったが、セネットはこれを「存在しなかったアメリカを回顧することに他ならない」と難詰した。
・「アメリカは、当初から富や宗教、言語の相違、奴隷容認州と奴隷反対州の対立によって断片化されていたのであり、南北戦争以後および近年、人々の間にある考え方や生活形態の多様性はますます増大している。そのような歴史と現状において「アメリカ的性格」や「国民的アイデンティティ」を要求することは、「紳士面したナショナリズム」を表明していることにほかならない」のだ(以上、辰巳伸知氏の「訳者解説」より)。
・これに対してこちらも高名な哲学者のリチャード・ローティが、同じ『ニューヨーク・タイムズ』紙(1994年2月13日)に「非愛国的アカデミー」という反論を載せた。これは“The Unpatriotic Academy”としてインターネットにアップされていて、一読して強い調子に驚かされる。
・ローティの主張は、アメリカの大学(アカデミズム)には自己陶酔的でわけのわからないジャーゴンばかり使っている“サヨク”の知識人が跋扈していて、彼らが「マルチカルチュラリズム(多文化主義)」とか「差異の政治(the politics of difference)」とかを言い立ててアメリカの連帯を破壊しているというものだ。ローティが支持するのは多元主義(pluralism)で、さまざまな文化をもつコミュニティが、(アメリカという)より大きなコミュニティを織り上げていくことだ。ところが文化多元主義のサヨクは人種や宗教・文化によってコミュニティを分断し、対立させている。
・「すべての国と同様に、アメリカの歴史には誇るべきものも恥ずべきものもあった」とローティは書く。「しかし、(ひとびとが)自分の国に誇りをもたなければ、(アメリカ人という)アイデンティティをもたなければ、そのアイデンティティを喜びとともに受け入れ、じっくりと噛みしめ、ともに歩んでいこうとしなければ、よりよい国をつくっていくことなどできるはずがない」
・これを読んで、「『哲学と自然の鏡』のローティってこんなゴロゴリの保守派だったの?」と驚くひともいるだろう。だったら、次の文章を読むと腰が抜けそうになるにちがいない。
・「もしもイデオロギー的な純粋さを追求したり、(正義の)怒りをぶちまけたいという必要から、アカデミックなサヨクが「差異の政治」に固執するなら、そんなものは誰からも相手にされず、なんの役にも立たなくなるにちがいない。非愛国的なサヨクは、けっしてどんな(まともな)場所にもたどりつけない。この国を誇りに思うことを拒絶するようなサヨクは、この国の政治になんの影響も与えられないばかりか、侮辱の対象になってお終いだろう」
・愛国者であるローティは、アメリカの大学を「支配」している非愛国的なサヨクに我慢ならなかったのだ。
▽アメリカでは愛国を指す「ナショナリズム」と「パトリオット」は明確に区別されている
・『国を愛するということ』は、このローティの投稿に驚愕した哲学者のマーサ・ヌスバウムが『ボストン・レビュー』(1994年10/11月号)に寄稿した「愛国主義とコスモポリタニズム」と、それに対するアマルティア・セン、イマニュエル・ウォーラーステイン、マイケル・ウォルツァーなど著名な知識人の応答をまとめたものだ。ヌスバウムはアリストテレスをはじめとするヨーロッパ古典研究者で、「アリストテレス派社会民主主義」を標榜して活発な政治的・倫理的発言を行なっている(訳者解説より)。とはいえ、ここで述べたいのは(私の手に余る)論争の評価ではなく、「愛国」という言葉の使い方だ。
・日本では、「愛国主義」はナショナリズム(Nationalism)のことで、パトリオティズム(Patriotism)は「愛郷主義」、パトリオット(Patriot)は「愛郷者」などと訳されるが(ただしPatriot Lawは「愛国者法」)、アメリカのアカデミズムではローティもヌスバウムも(そして議論に参加した全員が)「国を愛する」意味でPatriotismを使っていて、Nationalismとは厳密に区別されている。そもそもローティの逆鱗に触れたのは、「アメリカの遺産を学ぼう」プロジェクトをセネットが「紳士面したナショナリズム(the gentlemanly face of nationalism)」と揶揄したからなのだ。
・このことからわかるように、パトリオティズムの「愛国」はポジティブな、ナショナリズムの「愛国」はネガティブな含意がある。そしてヌスバウムをはじめ、ローティに批判的な論者も含め全員が「パトリオット(愛国者)」であることを当然と前提としている。
・それに対して日本では、「愛国主義=ナショナリズム」は「軍国主義」と同義で、日本を悲惨な戦争に引きずり込んだ元凶とされてきた。その結果、「愛国」は右翼の独占物になってしまったのだが、アメリカのリベラルがこれを知ったら仰天するだろう。彼らは自分を「愛国者=パトリオット」だと思っているのだから。
・「リベラル/保守」についての議論が混乱する理由のひとつは、日本ではふたつの「愛国」が区別されていないからだ。愛国者(パトリオット)であってもナショナリズムを批判することはできる。というか、アメリカのリベラルは「アンチ・ナショナリズムの愛国主義者」だ。
・この理解がグローバルスタンダードなのは、そもそも国を愛していない者には国について論じる理由がないからだ。「愛国」を否定する者は、「好きでもない国のことにいちいち口出しするな」という“愛国者”からの批判にこたえることができない。ローティの“Unpatriotic(非愛国的)”に皆が驚愕したのは、これが「議論に参加する資格のない奴ら」という(知識人としては)最大級の批判だからだろう。実際、その後の論争で「非愛国的」であることを擁護した者は一人もいない。全員が「愛国者」として、ありうべき「愛国」について論じているのだ。
・このように考えると、日本の「リベラル」の苦境がわかる。「戦後民主主義」は「愛国」を右翼に譲り渡し、「愛国主義(ナショナリズム)」を拒絶してきたために、「愛国リベラル(Patriotic Liberal)」という世界では当たり前の政治的立場を失ってしまった。そのあげく、ネトウヨから「売国奴は黙れ」という攻撃を受けることになるのだが、これに反論するには、「自分たちは愛国者(パトリオット)であり、日本という国を愛しているからこそ(政治や権力を)批判するのだ」と主張しなければならない。このロジックを組み立てることに失敗したのが、日本における「リベラルの衰退」につながっているのだろう。
▽「愛国主義」と「世界市民主義」は両立できるのか?
・『国を愛するために』の原著タイトルは“For Love of Country”で、まさに「(国への)愛」がテーマだ。ヌスバウムをはじめとして、すべての論者に「愛国」の理解は共通している。 はじめに、人間の本性として家族(親や子ども、妻や夫)への愛がある。その周辺に近親者(親族)や友人などへの愛があり、それが生まれ故郷への愛につながっている。これが「愛郷心」だ。この同心円が「国」にまで拡張されて、愛国主義(パトリオティズム)になる。
・この理解では、国を愛することは家族や恋人を愛するような自然な感情だ。それに対してナショナリズムは、「国家主義」や「全体主義」のようなニュアンスで使われる。ただしこの訳語にも問題があって、Nation Stateを「国民国家」と訳すなら、ナショナリズムは「国民主義」としなければならない。
・ともあれ、ナショナリズムを「国家や国民という全体を個人より優先する立場」とするならば、リベラルがナショナリズムを拒絶する理由は明らかだ。リベラルとはその定義上、自由な市民が平等な権利のもとに国家(市民社会)をつくるという政治思想だからだ。ナショナリズムはこの関係を逆転して、市民(個人)を国家(国民)の従属物にしてしまうのだ。
・同様に、一般に“保守派”と呼ばれる共同体主義者(コミュニタリアン)がナショナリズムを拒否する理由もわかる。「白熱教室」のマイケル・サンデルが典型だが、彼らは共同体の伝統や文化を利己的な個人より重視するが、その共同体は国家に従属するものではない。建国の父祖たちがアメリカを「合州国」にしたのは、自立した共同体が集まって民主的な国家を運営するためなのだ。
・リベラルな愛国者は、ナショナリズムだけでなく、「国粋主義(Jingoism)」や「排外主義(chauvinism)」にも反対する。これらが「愛国」の病理現象だからで、ローティやサンデルのような“保守派”が求めるのは、「国(アメリカ)を愛するひとたちによる寛容な多元主義」なのだ。
・だったらなにが問題になるのか、と疑問に思うひともいるだろう。彼らの主張は「リベラル」そのもので、リベラルの側から批判すべきことなどどこにもないように見える。 しかしヌスバウムは、同じ「リベラル」として、ここに「コスモポリタニズム」を対置する。ここでの「コスモポリタン」はギリシアの哲学者(ストア派)のいう「世界市民」のことで、「われわれは単なる統治形態や世俗的な権力にではなく、全人類の人間性によって構成される道徳的共同体に第一の忠誠を誓うべきだ」という立場だ。
・とはいえ、ヌスバウムは「愛国」を否定しているわけではない。彼女のローティに対する批判は、「愛国者(パトリオット)でありつつコスモポリタンでもある」ことは可能だし、この国の教育は若者たちを「愛国者」に育てるだけでなく、「世界市民」へと導いていくべきだ、というものだからだ。家族から故郷、国へと拡張された愛(共感)を、世界大にまで広げていこうというわけだ。
・それに対してコミュニタリアンなど保守派からは、「それはたんなる理想論で、愛国主義と世界市民主義は両立できない」との批判がなされる。国への愛をそのまま世界へと拡張することなどできず、教育によってコスモポリタンを養成しようとすれば必然的に「愛国心」を破壊してしまうというのだ。
・『マルチカルチュラリズム』の著書があるカナダの政治学者チャールズ・テーラーはリベラルな共同体主義者だが、「市民社会がうまく働くのは(中略)彼らの政治的社会は非常に重要な企てであることをそのメンバーの大半が確信しており、またその社会を民主制として機能させ続けるのに不可欠な方策に彼らが参加することがきわめて重要であると信じている、という場合である」として、リベラル・デモクラシーを守るためにこそ「(国への)忠誠」や「市民の同一化」が必要だと述べている。
・アメリカのアカデミズムにおける「愛国」問題とは、お互いに「愛国者(パトリオット)」であることを認めつつ、「愛国」に重きを置いたアイデンティティ教育を行なうか、国家の枠を越えた「世界市民」の育成を目指すのかの対立なのだ。
▽フーリガンは「チームに迷惑をかける行為のどこに“愛”があるのか」という問いにこたえることができない
・これはあくまでも私見だが、この構図はサッカーのサポーターとファンのちがいで説明できるかもしれない。 日本でも世界でもサッカーチームには熱烈なサポーターがいて、チームの勝利に歓喜し、敗北に涙を流す。サポーターとは人生(アイデンティティ)がチームと一体化したひとたちで、彼らを突き動かすのは「愛」だ。
・それに対してスタジアムには、たまの休日に家族や恋人とスポーツイベントを楽しみたいというひとたちもたくさん訪れる。彼らも贔屓のチームを応援するが、勝っても負けてもすぐに結果を忘れてしまうし、チームではなく個人を応援しにきたり、サッカークラブに入った子どもにプロの試合を見せにきただけの親もいる。ファンはサッカーが「好き」だが、そこには「愛」と呼べるほどの強い感情はない。
・この例では、サポーターが「愛国者」、ファンが「コスモポリタン」だ。サッカーを楽しむのにどちらが正しいということはなく、両者の立場は対等だが、サポーターはゴール裏、ファンはメインスタンドやバックスタンドに棲み分けている。サポーターの一部がフーリガンとなって人種差別行為などを引き起こすのは、「愛国」の病理現象である国粋主義や排外主義に該当するだろう。
・サッカー協会が繰り返し「差別・暴力の根絶」を宣言するのは、チームへの「愛」がその正当化に使われるからだ。だがこれは、熱烈にチームを応援すると「差別主義者」になるということではない。もともと差別や暴力を好む一部の人間が、サポーターを装って不道徳な(あるいは違法な)行為の機会を得ようとするのだ。
・幸いなことにサッカーでは、チーム愛と、その病理現象であるフーリガンははっきりと区別されている。それはサッカー協会が差別行為に罰則を科しているからで、チームが罰金を支払ったり、無観客試合になったりすることで、フーリガンがチームや選手たちに損害を与えていることがはっきりする。
・こうしてサッカーでは、チームを愛する者はそれを貶めるような行為を自重し、ライバルチームを「リスペクト」すべきだ、ということになった。フーリガンは、「チームに迷惑をかける行為のどこに“愛”があるのか」という問いにこたえることができないのだ。
・それに対して日本で「愛国」を自称するひとたちは、「朝鮮人を殺せ」などと叫ぶ異様な排外主義団体が世界じゅうのメディアで報じられたとき、「日本を貶めるな」と批判したりはしなかった。そればかりか、彼らの主張に乗じて近隣の国を嘲笑したりもした。そこにあるのは「愛」でも「リスペクト」でもなく、たんなる子供じみた(歪んだ)自己満足だ。
▽ホワイト・ワーキングクラス(白人労働者階級)の怒りはアカデミズムの「知性主義」に向けられている
・サッカーが「愛の病」を(かろうじて)抑え込むことができるのは、ファンの存在も大きい。彼らは楽しむためにスタジアムに来ているのだから、そこが差別や暴力の場になったら近づこうとは思わないだろう。メインスタンドの指定席など、高いお金を払ってくれるのはファンなのだから、フーリガンをきびしく取り締まらないと経営が成り立たないのだ。
・その一方で、ファンもサポーターの価値を認めている。なんといってもスタジアムの独特な雰囲気は、ゴール裏にいる熱烈なサポーターの応援がつくりだしているのだから。ファンとサポーターがお互いを認め合ってはじめて、「フィールド・オブ・ドリームス(夢の劇場)」が生まれるのだ。
・サッカーではサポーター(愛国者)とファン(コスモポリタン)の共生が目指され、これに失敗するとスタジアムに閑古鳥が鳴くことになる。それがイタリアのセリエAで、かつては「男たちの人生そのもの」といわれたサッカーは、たびかさなるフーリガンの事件によってすっかり人気を失ってしまった(2007年のスタジアムの暴動で警察官1人が死亡したことで、フーリガン対策法が施行された)。
・一方、ドイツのブンデスリーガはきらびやかなスター選手がいるわけでもなく、「面白くないリーグ」の代名詞だったのが、「家族で安心して楽しめるスタジアム」をアピールすることで、いまや全試合満員が当たり前になった。サッカーはグローバルスポーツなので、こうした成功例と失敗例によって、(日本を含む)他国のリーグもどうすればいいかわかるのだ。
・このように考えると、社会がちゃんと機能するには、愛国者もコスモポリタンも必要だとわかる。愛国者であることで批判されるいわれはないし、すべての国民が愛国者である必要もない。問題なのはサッカーとちがって、どうすれば両者が正しく共生できるかの仕組みが欠けていることだろう。
・なお、この論争が行なわれたのは20年前で、いまでは「国家」を家族や故郷と同じ“自然な”愛の対象と見なす研究者は多くないだろう。また、家族や仲間への共感にしても、それは純粋によいものではなく、部族主義につながるだけだとの批判も出てきた(ポール・ブルーム『反共感論』)。
・愛国心(ファスト思考)を拡張してもコスモポリタン(世界市民)になることはできず、社会を正しく運営するには理性(スロー思考)が必要なのだ。こうした啓蒙に効果があるかどうかは別として、無償の「愛」や「共感」は問題を解決するのではなく、問題を生み出しているという認識がこれからの主流になっていくだろう。
・いうまでもないが、この「愛国論争」はアメリカの知的コミュニティのなかのもので、その背後には高卒や高校中退で働いている膨大な「愛国者」がいる。彼ら(脱落しつつある)白人中流層がトランプ大統領を生み出し、アメリカを分裂させたのだから、ローティの懸念は正しかったともいえる。もっとも、ホワイト・ワーキングクラス(白人労働者階級)の怒りは「サヨク」だけでなく、ここに登場するすべての論者を含むアカデミズムの「知性主義」に向けられているのだが。
http://diamond.jp/articles/-/161805

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が6月15日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「HINOMARUに詫びる理由なし」を紹介しよう。
・いよいよロシアワールドカップ(W杯)がはじまった。 私にとって、サッカーのW杯ほどわくわくさせてくれるイベントはほかにない。4年に一度、世界一周旅行に旅立つみたいな心持ちだ。あと何回見られるだろうか。 死ぬ前に、もう一回現地でナマの試合を観戦してみたいと思っている。生活に余裕ができたら、次の大会か、それが無理ならそのまた次の大会を機に、半月ほどスケジュールを空けて開催地を訪れてみたいものだ。
・今大会は、自国の代表チームとは距離を置くつもりだ。応援とは別の気持ちで、各国の精鋭の戦いを観賞しようと思っている。それでも十分に楽しいはずだ。 日本代表が勝つようなことがあれば、私は喜ぶだろう。しかし、負けることになっても、それはそれで溜飲が下がるはずだと思っている。両面作戦だ。勝てば勝ったで選手を誇りに思うし、負ければ負けたで自らのサッカーファンとしての見識を誇りに思うことになる。どっちにしても、私は拍手を惜しまない。
・と、そんなことを考えている折も折、ツイッターのタイムラインに奇妙な文字列が流れ込んできた。どんなテキストであるのかを示すために、引用できれば良いのだが、それはできない。シャイロック、じゃなかったジャスラックが目を光らせているからだ。日本音楽著作権協会に登録している音楽家の楽曲を引用すると、著作権使用料が発生する。このことが、わたくしども文筆家を様々な場面で苦しめている。
・今回は、ある楽曲の歌詞について書こうと思っているのだが、その歌詞を読者の目前に引用して示すことができない。このことを、私が大変に心苦しく思っているということをどうかご理解いただきたい。 歌詞検索サイトにリンクを張っておこうかと思ったが、これが著作権の侵害になるものなのかどうかに、私は確たる知識を持っていない。
・ゆえに読者諸兄は、自ら曲名を判断し、各自検索して欲しい。もし、ジャスラックが何かを言ってきたら、歌詞のサイトも消されることになると思う。そうなったら、読者諸兄には、できれば架空の歌詞を暫時思い浮かべながら次行以降を読んでほしい。 ご確認いただけただろうか。
・ごらんのとおり、不思議な歌だ。 私は、初見で「うひゃあ」と思った。 「気高きこの御国の御霊」「たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ」「さぁ いざゆかん 守るべきものが 今はある」 といったあたりの言霊の幸ふところに感じ入ったからだ。
・まあ、あえて言うなら、君が代風、軍歌風、愛国歌風といったあたりの周辺にある何かではあるのだろう。 私個人は、この歌がどうだということではなくて、こういう出来物が、民放のサッカー放送のテーマのカップリング曲として選ばれる時代がやってきたことに強い印象を持たずにおれなかった。 平たく言えば、びっくりした、ということだ。
・別の感慨もある。 具体的には、この歌の歌詞の中で使われている古語風の言い回しの不徹底さというのか中途半端さに当惑させられたということだ。 で、その場で、以下の二つのツイートを発信した。《僕らの燃ゆる御霊 って、自分に敬語使ってる感じ? 》《「遥か高き波がくれども」のところもなんだかきもちわるい。どうしても文語っぽく書きたいんだったら、「きたれども」にしておくほうが良かったところだと思う。》
・古語は厄介なツールだ。 私もときに使う機会がないわけではないのだが、使用はツイッター上で狂歌を詠む場面に限っている。つまり、パロディ目的以外では使わないでいる。 理由は、正確に使いこなす自信がないからでもあれば、効果を疑っているからでもある。
・なによりもまず、古語ならびに歴史的仮名遣いは、誤用すると馬鹿丸出しに見える。この点が非常につらい。 しかも、誤用しやすい。理由は、古語とは言っても、自国の言語であるだけに、かえって勘違いに気づくことが難しいからだ。外国語なら、辞書の力を借りて、なんとか間違いを正すことができる。ところが、古語の場合、古語の現代語訳を集成した辞書はあっても、現代語を古語に翻訳する使用法に特化した辞書が見当たらない。探せばどこかにあるのかもしれないのだが、普通の人は持っていない。少なくとも私は知らない。
・さらに、古文は、当該の言葉とその用例が、どの時代の、どの階層の人間による、どんな関係性の中での発話であるのかがはっきり確定しないと、正解を見出せない仕様になっている。同じ古文でも源氏物語の文体と、平家物語の文体は徹頭徹尾まるで別の世界の言語だし、徒然草と好色一代男の文章もはっきりと別のものだ。混用したらえらいことになる。
・ということはつまり、専門で研究している学者でもなければ、破綻のない擬古文を自分の手で独自に書き起こすことは、ほぼ不可能なのですね。 かといって、仮に正確に使いこなすことができたのだとしても、たいしてありがたがられるわけでもない。 むしろ、イヤミったらしいはずだ。
・そもそも現代社会に生きるほとんどすべての人間にとってなじみのない言葉や語法を用いて文章を書くことは、そのことだけでも相当に「気取った」「これ見よがし」な、「教養をひけらかしているっぽい」態度なわけで、だとすると、そういういけ好かない人間が、いけ好かない文章を振り回している場面でミスを犯すのは、これは爆発的にみっともないやりざまということになる。
・たとえばの話、フランス料理の店でギャルソンを呼びつけて、フランス語で食事を注文するのは、これはかなりリスクの高い振る舞い方だ。そこで、メロンを頼んでマロンが出てきたりしたら目もあてられない。
・何を言っているのかわからないムキもあろうかとは思うが、とにかく、そこいらへんのビストロで半端なフランス語を振り回してはいけないのと同じように、表現者たるもの、古典教養に関して満腔の自信を抱いているのでない限り、擬古文で歌を書くなどという暴挙に挑んではならないのである。
・それでも時々私が古語を使ってみたくなるのは、狂歌をカマす時などは、古語を使った方が断然「それらしく」なるからだ。「それらしく」というのは、つまり粋に構えた通人の狂歌っぽく仕上がるということで、どうせ拗ね者の捨て台詞ならせめて古体な口ぶりで演出しようではないかという意地みたいなものでもある。
・不思議なのは、地上波民放局がそれなりに社運を賭けたイベントであるはずのW杯サッカー中継のテーマソングを商品化するにあたって、しかるべきチェックが行われていなかったのか、ということだ。 「僕らの燃ゆる御霊」にしても「波がくれども」にしても、あたりまえに古典文を読んできた人間なら第一感で気持ちの悪さを感じるはずのところだ。逆に言えば、この程度のゲロゲロ古典文さえチェックできていなかったということは、結局のところ、この歌が、校閲者なりの他人の目を通ることなく、あるいは、その目があっても反映されることなく商品化されてしまったことを意味している。
・さてしかし、「HINOMARU」が炎上したのは、擬古文としての不自然さのゆえではなかった。どちらかといえば、炎上の焦点となったのは本作が偽物ながらも醸していた「軍歌っぽさ」の方だった。 で、批判が集中したことを受けて、作者の野田洋次郎氏は、謝罪をしている(こちら)。
・現在のところ、この話題をめぐって熱く議論されている論点は、「謝罪が必要だったのか」という点と、もうひとつは 「気に入らない歌に集団で抗議するのは、言論弾圧ではないのか」というポイントだ。
・以上の2点について、以下、簡単に考えを述べておく。  謝罪は不要だったと思う。この歌に不快感を抱いた人々がいたことは事実だが、そんなことは謝罪を求められる理由にはならない。 どんな歌であっても、不快に感じる聴き手はいる。それだけの話だ。 歌を歌う人間は、自分の信じるところを歌えば良い。それを聴いて不快に思った人間は、その旨を訴えれば良い。それだけの話だ。特定の民族やマイノリティーをあからさまに差別しているとか、誰かの名誉を明らかに毀損しているとか、歌の出来上がりそのものが誹謗中傷で構成されているとかいう極端な事例でない限り、歌は自由に書かれ、歌われ、聴かれるべきものだ。
・歌であれ文章であれ映像作品であれ、個人が制作する制作物である以上、万人に愛されることはあり得ない。まして、作り手が真摯に取り組んだインパクトの強い作品であれば、それだけ誰かを傷つける可能性も大きくなる。とすれば、誰かが傷ついたからという理由でいちいち謝罪するのは馬鹿げてもいれば、馬鹿でもある。
・もし仮に、誰一人傷つかない作品があるのだとしたら、その作品には力がないと考えなければならない。 咲いた咲いたチューリップの花がといった調子の歌でさえ、特定の花に特有の記憶を固着させている人間の心に爪痕を残すことはあり得る。そう思えば、「傷つけた」などという言葉を口にすること自体が馬鹿な態度だったと申し上げざるをえない。
・おそらく、野田氏が謝罪したのは、W杯の開幕を間近に控えて、炎上を早めに鎮火させることを、クライアント筋から求められた結果なのだと思う。 してみると、炎上の責任は、自局が展開する応援歌という枠組みの中にこういう「それっぽい」作品を放り込んでみせたテレビ局のキャンペーン展開のぞんざいさに求められなければならない。
・若い世代の楽曲制作者が、古文の素養を欠いていたことを責めるのは適切な態度ではない。「それっぽい」歌を書こうとした結果がなんちゃって軍歌ポップスに着地してしまった経緯も仕方のない展開だと思う。よって、RADWIMPSには何の責任もない。
・次に、言論弾圧について。 まず、6月12日に「HINOMARUに抗議するライブ会場前アクション」という名前のアカウントから以下のような呼びかけのツイートが配信された。《RADWIMPSの『HINOMARU』に抗議し、廃盤と2度と歌わない事を求めるライブ会場前行動  6月26日(火)17時~夜まで@神戸ワールド記念ホール前  集まろう!  絶対に許されない歌を出してしまいました。バンドとレコード会社は表明して下さい。ファンの方々は求めて下さい。それが解決策です。》(こちら)
・このツイートは、記事執筆時点で、1050回RTされ、446の「いいね」を獲得している。 特筆すべきは、1638のリプライ(返事)がついていることだ。それだけ、反響が大きかったということではあるのだが、そのリプライをアタマから読んでいくと、あらまあびっくり、ほとんどがツイート主への反論である。リプライを返した人々は異口同音に、「HINOMARU」への抗議行動の呼びかけを強い口調で非難している。
・こうした流れを受けて、同じ日にある政治学者が以下のようなツイートを書き込んでいる。《右であれ、左であれ、自分の意見をいう自由は認められなくてはならない。歌詞が気に入らないから歌うなというのは、表現の自由を奪う行為。何故、「リベラル」は、この蛮行を批判しないのか?彼らは自由を愛するのではなく、我が国を憎悪しているだけではないのか?》(こちら)
・このツイートは、これまでのところ、RT5239、いいね9126の、リプライ139を記録している。一方の代表的な意見と見て良いだろう。 このツイートに対して、私は、当該ツイートを引用した上で、以下のような文言を付け加えている。《「歌詞が気に入らない」と感じ「歌うな」と発言することもまた「言論」「意見」「表現」であるということがどうしてわからないのか。「表現・言論の自由」は、あくまでも公権力が国民の表現・言論を弾圧することからの自由を保障したものであって、国民同士の意見の対立はむしろ自由の成果だぞ。》(こちら) この私のツイートには、RT796、いいね970、リプライ72のアクティビティーが返ってきている。
・以上、ここに挙げた3つのツイートへの反応を見る限り、少なくともツイッター上では、「HINOMARU」への抗議行動に賛同する人より、「HINOMARU」への抗議行動に反発する人の方がはるかに多いことがわかる。 私自身、誰かの歌が気に入らないからという理由で、ライブ会場の前で抗議行動を呼びかけたり、すでに発売されているCDの廃盤を求めたりすることはナンセンスだと思っている。自分自身が不快感を表明することはともかくとして、相手に「歌わないことを求める」のは、筋違いであるのみならず愚劣な態度だとも考えている。
・じっさいのところ、冒頭の、この作り物っぽい3つしかツイート履歴のないアカウントが呼びかけている抗議行動は、反応を見る限りでは、まるで成功しそうに見えない。私は、この抗議行動の呼びかけ自体、本気でやっているもなのかどうか、いまひとつ信じきれないでいる。
・さてしかし、本物かどうかさえわからないこのバカげた抗議行動への反発は本物だ。 ツイッター上では、「言論弾圧」への反撃の書き込みが溢れている。 私は、抗議デモが実際に本当に行われたならともかく、歌に苦情が寄せられた程度の事実をとらえて、「弾圧」という言葉を使って騒ぎ立てることもまた、典型的な過剰反応だと思っている。
・結局、今回の騒動を通じて、最も大きく燃え上がったのは、「HINOMARU」という歌への抗議の声ではなくて、歌の作者が謝罪したことによって生じた「言論弾圧を許すな」という反作用だった、というのが、私の観察結果だ。
・形式論理で話をすれば、「言論弾圧を許すな」という声も、糾合の仕方や運動のまとめかた次第では言論弾圧のための道具として利用できるわけで、「言論」と「表現」をめぐるせめぎあいは、どこまで行ってもいたちごっこの部分を含むことから逃れられない。
・歌への抗議を抗議への反発が圧倒している今回のような事態が生じている背景には、世代によって「ロック」という言葉の受け止め方が違ってきているからだと思う。もう少し詳しく述べると、「ロック」というというイディオムが内包している「反抗」「抵抗」の対象が、ある年齢よりも若い世代の人々にとっては、すでに「公権力」や「政権」や「体制」ではなくなってきている、ということだ。
・たとえば商業ロケンローラーにしてもお笑い芸人にしても、自分たちのネタにクレームをつけてくるのは、「政府」や「当局」ではない。 苦情を寄せてくるのは、圧倒的に「良識派の視聴者」や「人権団体」である場合が多い。テレビ局のディレクターが右顧左眄しつつ動向に気を配っているのも、実は「与党」や「政権」よりも、「野党の有力政治家に連なる反差別団体」や「活動家」だったりするわけで、してみると、彼らが当面自分たちの戦うべき敵として意識する対象は、「政府」「政権」「権力」「与党」ではなくて、「視聴者」「リベラル」「野党」「フェミ」「人権」「ポリコレ」ってなことになる。
・この問題については、いずれ別に項目を立てて考えなければならないと思っているのだが、今回はすでに行数を書きすぎたので結論を急ぐ。 振り返ってみれば、はるか30年ほど前に、ビートたけしという名前の芸人が、たしか「週刊プレイボーイ」に掲載されたインタビューの中で、「オイラは右翼だよ」と宣言していたものだった。
・当時、その記事を読んだ私は、「これはまた見事な逆張りだなあ」と無邪気に感心していたのだが、ことここに至った現時点から振り返って見るに、じつに1980年代初頭のまだ「ポリコレ」という言葉も何もなかった時点で、すでにして、あのビートたけしという男は、良い子ちゃんの行動規範に堕した戦後民主主義的サヨク人権思想がひとっかけらもロックじゃなくなっていることに気づいていたわけなのだな。
・私個人は、もう20年以上前の時点で、ロックは死んだと思い込んでいたのだが、どうやらその考えは間違っていた。 ロックは、私が知っていた時代のそれとはまったく別の、どうにも始末に負えない不死のゾンビとして、目の前に立ちはだかっている。
・御霊にでもなるほかに、対抗するすべはなさそうだ。 とても困っている。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/061400147/

第一の記事で、 『リチャード・セネットが・・・「紳士面したナショナリズム」』、こうした「本音」での議論は最近出てきたと思っていたところ、90年代からあったというのには驚かされた。アメリカでは、『パトリオティズムの「愛国」はポジティブな、ナショナリズムの「愛国」はネガティブな含意がある。そしてヌスバウムをはじめ、ローティに批判的な論者も含め全員が「パトリオット(愛国者)」であることを当然と前提としている、『アメリカのアカデミズムでは・・・「国を愛する」意味でPatriotismを使っていて、Nationalismとは厳密に区別されている』、『それに対して日本では、「愛国主義=ナショナリズム」は「軍国主義」と同義で、日本を悲惨な戦争に引きずり込んだ元凶とされてきた。その結果、「愛国」は右翼の独占物になってしまったのだが、アメリカのリベラルがこれを知ったら仰天するだろう。彼らは自分を「愛国者=パトリオット」だと思っているのだから。 「リベラル/保守」についての議論が混乱する理由のひとつは、日本ではふたつの「愛国」が区別されていないからだ。愛国者(パトリオット)であってもナショナリズムを批判することはできる。というか、アメリカのリベラルは「アンチ・ナショナリズムの愛国主義者」だ』、 『アメリカのアカデミズムにおける「愛国」問題とは、お互いに「愛国者(パトリオット)」であることを認めつつ、「愛国」に重きを置いたアイデンティティ教育を行なうか、国家の枠を越えた「世界市民」の育成を目指すのかの対立なのだ』、などの指摘はなるほどと納得した。 『これはあくまでも私見だが、この構図はサッカーのサポーターとファンのちがいで説明できるかもしれない』、とのアナロジーは分かりやすい。 『ホワイト・ワーキングクラス(白人労働者階級)の怒りは「サヨク」だけでなく、ここに登場するすべての論者を含むアカデミズムの「知性主義」に向けられているのだが』、こうした怒りが、やがて現実路線に戻らざるを得なくなったトランプに裏切られたあとの展開が見物だ。
第二の記事で、 『君が代風、軍歌風、愛国歌風・・・の歌が・・・民放のサッカー放送のテーマのカップリング曲として選ばれる時代がやってきた』、というのには私も驚いた。 『古語ならびに歴史的仮名遣いは、誤用すると馬鹿丸出しに見える。この点が非常につらい。 しかも、誤用しやすい。理由は、古語とは言っても、自国の言語であるだけに、かえって勘違いに気づくことが難しいからだ』、古語には疎い私にはよくは分からないが、一応、納得できる。 『「表現・言論の自由」は、あくまでも公権力が国民の表現・言論を弾圧することからの自由を保障したものであって、国民同士の意見の対立はむしろ自由の成果だぞ』、との小田島氏のツイターはその通りだ。  『結局、今回の騒動を通じて、最も大きく燃え上がったのは、「HINOMARU」という歌への抗議の声ではなくて、歌の作者が謝罪したことによって生じた「言論弾圧を許すな」という反作用だった、というのが、私の観察結果だ』、『自分たちのネタにクレームをつけてくるのは、「政府」や「当局」ではない。 苦情を寄せてくるのは、圧倒的に「良識派の視聴者」や「人権団体」である場合が多い。テレビ局のディレクターが右顧左眄しつつ動向に気を配っているのも、実は「与党」や「政権」よりも、「野党の有力政治家に連なる反差別団体」や「活動家」だったりするわけで、してみると、彼らが当面自分たちの戦うべき敵として意識する対象は、「政府」「政権」「権力」「与党」ではなくて、「視聴者」「リベラル」「野党」「フェミ」「人権」「ポリコレ」ってなことになる』、なるほど。 『ロックは、私が知っていた時代のそれとはまったく別の、どうにも始末に負えない不死のゾンビとして、目の前に立ちはだかっている。 御霊にでもなるほかに、対抗するすべはなさそうだ。とても困っている』、との結びは傑作だ。
タグ:橘玲 日経ビジネスオンライン 言論弾圧 ダイヤモンド・オンライン 小田嶋 隆 愛国、ナショナリズム (橘氏:アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている、小田嶋氏:HINOMARUに詫びる理由なし) 「アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている[橘玲の世界投資見聞録]」 「アメリカの多元主義とアイデンティティについての国民的対話」プロジェクト 紳士面したナショナリズム アメリカでは愛国を指す「ナショナリズム」と「パトリオット」は明確に区別されている パトリオティズムの「愛国」はポジティブな、ナショナリズムの「愛国」はネガティブな含意がある 日本では、「愛国主義=ナショナリズム」は「軍国主義」と同義で、日本を悲惨な戦争に引きずり込んだ元凶とされてきた。その結果、「愛国」は右翼の独占物になってしまったのだが、アメリカのリベラルがこれを知ったら仰天するだろう。彼らは自分を「愛国者=パトリオット」だと思っているのだから 日本の「リベラル」の苦境がわかる。「戦後民主主義」は「愛国」を右翼に譲り渡し、「愛国主義(ナショナリズム)」を拒絶してきたために、「愛国リベラル(Patriotic Liberal)」という世界では当たり前の政治的立場を失ってしまった そのあげく、ネトウヨから「売国奴は黙れ」という攻撃を受けることになるのだが、これに反論するには、「自分たちは愛国者(パトリオット)であり、日本という国を愛しているからこそ(政治や権力を)批判するのだ」と主張しなければならない。このロジックを組み立てることに失敗したのが、日本における「リベラルの衰退」につながっているのだろう ・リベラルな愛国者は、ナショナリズムだけでなく、「国粋主義(Jingoism)」や「排外主義(chauvinism)」にも反対する ・アメリカのアカデミズムにおける「愛国」問題とは、お互いに「愛国者(パトリオット)」であることを認めつつ、「愛国」に重きを置いたアイデンティティ教育を行なうか、国家の枠を越えた「世界市民」の育成を目指すのかの対立なのだ この構図はサッカーのサポーターとファンのちがいで説明できるかもしれない ホワイト・ワーキングクラス(白人労働者階級)の怒りは「サヨク」だけでなく、ここに登場するすべての論者を含むアカデミズムの「知性主義」に向けられているのだが 「HINOMARUに詫びる理由なし」 君が代風、軍歌風、愛国歌風 民放のサッカー放送のテーマのカップリング曲として選ばれる時代がやってきたことに強い印象を 古語ならびに歴史的仮名遣いは、誤用すると馬鹿丸出しに見える。この点が非常につらい。 しかも、誤用しやすい 専門で研究している学者でもなければ、破綻のない擬古文を自分の手で独自に書き起こすことは、ほぼ不可能なのですね 不思議なのは、地上波民放局がそれなりに社運を賭けたイベントであるはずのW杯サッカー中継のテーマソングを商品化するにあたって、しかるべきチェックが行われていなかったのか、ということだ 、「HINOMARU」が炎上したのは、擬古文としての不自然さのゆえではなかった。どちらかといえば、炎上の焦点となったのは本作が偽物ながらも醸していた「軍歌っぽさ」の方だった 批判が集中したことを受けて、作者の野田洋次郎氏は、謝罪をしている どんな歌であっても、不快に感じる聴き手はいる。それだけの話だ。 歌を歌う人間は、自分の信じるところを歌えば良い 野田氏が謝罪したのは、W杯の開幕を間近に控えて、炎上を早めに鎮火させることを、クライアント筋から求められた結果なのだと思う 炎上の責任は、自局が展開する応援歌という枠組みの中にこういう「それっぽい」作品を放り込んでみせたテレビ局のキャンペーン展開のぞんざいさに求められなければならない 。「表現・言論の自由」は、あくまでも公権力が国民の表現・言論を弾圧することからの自由を保障したものであって、国民同士の意見の対立はむしろ自由の成果だぞ 今回の騒動を通じて、最も大きく燃え上がったのは、「HINOMARU」という歌への抗議の声ではなくて、歌の作者が謝罪したことによって生じた「言論弾圧を許すな」という反作用だった、というのが、私の観察結果だ 、「ロック」というというイディオムが内包している「反抗」「抵抗」の対象が、ある年齢よりも若い世代の人々にとっては、すでに「公権力」や「政権」や「体制」ではなくなってきている、ということだ 自分たちのネタにクレームをつけてくるのは、「政府」や「当局」ではない。 苦情を寄せてくるのは、圧倒的に「良識派の視聴者」や「人権団体」である場合が多い。テレビ局のディレクターが右顧左眄しつつ動向に気を配っているのも、実は「与党」や「政権」よりも、「野党の有力政治家に連なる反差別団体」や「活動家」だったりするわけで、してみると、彼らが当面自分たちの戦うべき敵として意識する対象は、「政府」「政権」「権力」「与党」ではなくて、「視聴者」「リベラル」「野党」「フェミ」「人権」「ポリコレ」ってなことになる ロックは、私が知っていた時代のそれとはまったく別の、どうにも始末に負えない不死のゾンビとして、目の前に立ちはだかっている 御霊にでもなるほかに、対抗するすべはなさそうだ。 とても困っている
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