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歴史問題(6)(「君が代」が生まれた背景と五輪の国歌斉唱 選挙で歌を使うと何が起きるか 歴史が語る大きなリスク、半藤一利「明治維新150周年 何がめでたい」 「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す、吉田松陰がワーストNO1である本当の理由) [国内政治]

歴史問題については、昨年10月13日に取上げた。今日は、(6)(「君が代」が生まれた背景と五輪の国歌斉唱 選挙で歌を使うと何が起きるか 歴史が語る大きなリスク、半藤一利「明治維新150周年 何がめでたい」 「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す、吉田松陰がワーストNO1である本当の理由、10万人死亡「東京大空襲」の翌朝 政府が何と言ったかご存じですか 国民を守ろうとはしなかった…)である。

先ずは、作曲家=指揮者、ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督で東大助教授の伊東乾氏が昨年10月24日付けJBPressに寄稿した「「君が代」が生まれた背景と五輪の国歌斉唱 選挙で歌を使うと何が起きるか、歴史が語る大きなリスク」を紹介しよう。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/51412
・『どこかに、日本人がたくさん集まっている状況を考えてみます。例えばスポーツの国際大会などで遠征チームと応援の人たちが偶然集まった、でもいい。場所も、スタジアムであれ、街頭であれ、あるいは一杯飲んでるタイミングでもかまいません。 そんなところで、誰かが立ち上がって突然 「き~み~が~ぁ~よ~ぉ~わ~」と歌い始めたとします。何が起きるでしょう? 一概には言えませんが、そこそこ以上の確率で、一緒に歌い始める人がいる・・・と言っても、不思議な顔をする日本人は少ないのではないでしょうか? 知っている歌を誰かが歌うと、つられて自分も、声を張らなくても歌い出してしまう・・・。こうした経験をお持ちの方は少なくないはずです。それが人間の生理で、これなくして幼児が母語を獲得することはできません』、なるほど。
・『音声言語を話すことができる人は、例外なくこの「引き込み」に引っかかる、そういう生理現象として押さえておいてください。 誰かが1人、「君が代」を歌うと、つられて君が代を歌い出す人がたくさん出てくる。またその中で1人シラケた顔をして黙っていると、歌を知らない場合は疎外感を感じるでしょうし、知っていてわざと歌わないと「どうして参加しないんだ!」という<同調圧力>にさらされる。 というのも、容易に想像がつくところと思います。イデオロギーは無関係、音声と言語を理解し操る知能を持つ霊長類の、必然の生理を述べているに過ぎません』、私も付和雷同しているだけと思っていたが、「必然の生理」とは、一安心した。
・『これを用いて人を調教することができます。人類は、暴力や薬物を用いて人を支配してきた歴史を持ちます。しかし、歌などを用いるこうした調教は、物理的な証拠、例えば殴られた跡であるとか、血液や毛髪の検査で分かる薬物の痕跡とかが残らない「スマートな支配の道具」です。  暴力や薬物を用いて人を調教するケースは「Brain washing(洗脳)」と呼ばれますが、それに該当しないこうした支配を「mind control」と呼んでいます。 適切な訳語がなく、そのままカタカナでマインドコントロールとして日本社会に普及したのは1995年、オウム真理教事件が摘発され、そこで宗教を語ってこれらが濫用されていた事実が明らかになって以降のことと思います・・・ここでは「歌」と「共同体」の重要なポイントだけに絞って、平易にお話したいと思います』、「スマートな支配の道具」とは上手い表現だ。
・『日本の国歌「君が代」を、何かとても古いものと勘違いしている人がいるようです。 確かに歌詞は古今集、平安時代に根を持ちますが、何風とも判断のつかぬあのメロディー、さらにそれに寄せられた特徴的な和声などは近代国家日本初期の迷走がそのまま形になって残っているのも、音楽に関わる者には広く知られた事実です。 この旋律自体は、京都出身の若い宮内省楽士、奥好義(1857-1933)が下書きしたものを、上司で大阪四天王寺出身の雅楽人、林廣守(1831-96)が手直ししたとして箔をつけたものです。 しかし、「国歌」というのは海外向けの発信道具でもあるので、どちらも西欧風の和声などつけられない。ここが重要なポイントです。仕方なくお雇いの海軍軍楽教師、フランツ・エッケルトにハーモニーをつけてもらうのですが、エッケルトは悩んだ末、ついに冒頭と末尾についぞ和声を付すことができませんでした・・・現行の君が代という「国歌」は、日本人のメロディにドイツ人が間違ったハーモニーをつけたものである事実は直視しておくべきだと思います』、なるほど。
・『この歌が生まれた当時、西南戦争が終わりようやく国内は平定されます。しかし莫大な戦費、特に重火器の購入で日本国内の金が海外に流失し、ほとんど失敗国家直前に明治政府は陥りました。そこで国際社会に伍していくために必須の軍事アイテムとして、お雇い外国人海軍軍楽教師などに助けてもらって作ったものにほかなりません。1880年に成立した近代の産物なのです。 君が代は、成立時期としては「あんぱん」や「牛なべ」とほぼ同じ、文明開化の時期の産物、さも古そうに見せて実は近代の模作、という点では、もともとは1895年に開かれた内国勧業博覧会のパビリオンだった、京都の平安神宮とよく似ています』、「さも古そうに見せて実は近代の模作」で平安神宮も同様というのは、初めて知った。
・『明治以前の日本に「国歌(National anthem)」などというものは一切存在せず、またそんな必要もありませんでした。 鎖国していたので、国全体を見渡し、またそれを代表して海外と栄誉礼など軍事儀礼交換などする必要もなかったのですから・・・。 「国歌」という概念の背景は・・・「国民国家(Nation state)」の成立を抜きに考えることができません・・・帝国主義列強が覇権を競い合っていた19世紀後半、国民国家はこぞって「国歌」を制定し、内政外交双方に活用していました。 国内的には、市民兵養成の基礎として「わが国の国民であるぞよ」と幼時から心身に刻印するのに、国歌ほど有効なアイテムはありません。 これはフランス革命と、そのときの革命歌で現在はフランスの国歌である「ラ・マルセイエーズ」を想起していただければ、自明のことと思います。「国の歌」は赤ん坊から自国民としてアイデンティティを染め込む、国民国家の基本ツールにほかなりません』、西欧でも19世紀後半に制定であれば、日本が特に遅れた訳ではないようだ。「赤ん坊から自国民としてアイデンティティを染め込む、国民国家の基本ツール」とは実に上手い表現だ。
・『対外的には、和平条約調印などの折、双方の軍楽隊が対等に国家を演奏といった習慣がすでに定着しており、この残滓はオリンピックでメダルを取った国の国家が演奏されることなどで、現在でもメディアで確認できるでしょう。海外の元首など国賓を迎える際にもこれを栄誉をもって演奏します。 日本が西欧列強から、アジアの一国として尊厳をもって遇してもらえるようになるには、相手側の国の軍楽隊が演奏できる、西欧風の<ナショナル・アンセム>あるいは愛国行進曲のようなものが必須不可欠でした。 それがなく、雅楽や能楽で自己主張しても、諸外国列強は「極東の後れた民族音楽」としか扱えなかったでしょう。 アジアやアフリカの各国が、変にバタ臭い国歌を擁しているのを、私はやや残念に思うのですが、その背景にはこのような事情がありました。この点、日本の「アンパン牛なべ式」の国歌作りは、ユニークな取り組みであったと言えるでしょう』、確かに雅楽や能楽を使う訳にはいかず、和洋折衷方式を採った理由が理解できた。
・『ギリシャ・ローマの古代から19世紀まで軍事行動は基本、白兵戦で、野戦展開している将兵のシグナルには角笛=ホルンやラッパが活用されました。 日本なら法螺貝がこれに相当します。各国が軍楽隊に力を入れたのは、それが軍事情報技術の核を担うものだからにほかなりません。 また、今では体育会系の応援団などに名残をとどめるエールの交換は、和議の場での互いの国歌の交換に端を発します。相手方の奏楽に見劣りのしない音楽が、国威発揚の上で必須不可欠でした。「威風堂々」という訳名を持つエルガーの行進曲も大英帝国で重視されているのをご存知の方も多いでしょう。 「軍楽」は練兵のツールとして、「国歌」はネーション・ステートでの幼時からの「国民創成」にとって必須不可欠なアイテムでした。 そこには「刷り込み(imprinting)」があるだけで、何一つ相対化や批判がありません。軍隊で上官の命令をいちいち批判していたら作戦行動になりません。 だからこそ、武官ベースで軍部が暴走すると、思考しないシステムの自走で、先の大戦のような破局を避けることができません。 歌は反射調教のツールで、そこには「なぜ?」がない。 日の丸や君が代を軽んじられると怒り出す人がいます。そこには「なぜ?」という批判はない。なぜなし、の脊髄反射を刷り込むツールとして、音楽は実に有効な装置であることを、この仕事を30年ほど続けてきた教授職として保証したいと思います』、西欧での本格的な軍楽隊のツールは、オスマントルコらしい。「なぜなし、の脊髄反射を刷り込むツールとして、音楽は実に有効な装置」というのは、言い得て妙だ。
・『誰か1人が「君が代」なり何なりのメロディを歌い始めると、それを知る大群衆は容易に、思考を停止したまま、唱和という同調圧力を生み出す生理があります。 そこには悟性による批判は介在しません。客観的で冷静な判断力を欠く投票が例えば昨年の英国、米国、今現在ならカタルーニャで、今現実に起きているわけです。 これを仕かける人もいれば、それに応じてしまう十分に煮上がった国民群衆環境が醸成されている。イデオロギーもイズムも無関係に、生理的な根拠だけで、リスクの所在をつまびらかにしてみました。良識ある読者の賢慮に資することを期待するものです』、ここには触れられてないが、ナチスも勇ましい軍歌で、国民を煽った。「大群衆は容易に、思考を停止したまま、唱和という同調圧力を生み出す生理があります」というのは、大いに噛み締める必要がある。公立学校で、「君が代」斉唱を拒否した教師を処分するなどは、もってのほかだ。

次に、1月28日付け東洋経済オンライン「半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す」を紹介しよう。
https://toyokeizai.net/articles/-/205960
・『1月1日、安倍晋三首相は年頭所感で「本年は、明治維新から、150年目の年です」と切り出し、明治維新を賞賛した。政府は「明治維新150年」記念事業に積極的で、菅義偉官房長官は「大きな節目で、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは重要だ」と述べている・・・今年は国家レベルでもさまざまな祝賀事業が行われる見通しだ。 だが、こうした動きに対し、異議を申し立てる論者も多い。『日本のいちばん長い日』『昭和史』などの名著で知られ、幕末維新史にも詳しい半藤一利氏もその1人である。『賊軍の昭和史』(保阪正康と共著)の著者でもある半藤氏に話を聞いた』、どんな異議なのだろう。
・『私は、夏目漱石や永井荷風が好きで、2人に関する本も出しています。彼らの作品を読むと、面白いことに著作の中で「維新」という言葉は使っていません。特に永井荷風はまったく使っていないのです。漱石や荷風など江戸の人たちは、明治維新ではなく「瓦解(がかい)」という言葉を使っています。徳川幕府や江戸文化が瓦解したという意味でしょう。「御一新(ごいっしん)」という言葉もよく使っています。 明治初期の詔勅や太政官布告などを見ても大概は「御一新」で、維新という言葉は用いられていません。少なくても明治10年代までほとんど見当たりません。 そんなことから、「当時の人たちは御一新と呼んでいたのか。そもそも維新という言葉なんかなかったんじゃないか」と思ったことから、明治維新に疑問を持つようになりました。 調べてみると、確かに「明治維新」という言葉が使われだしたのは、明治13(1880)年か14年でした』、なるほど。
・『明治14年というのは、「明治14年の政変」があり、薩長政府というよりは長州政府が、肥前の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年です。このあたりから「明治維新」を使い出したことがわかりました。 薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握ったわけですが、それが歴史的にも正当性があることを主張するために使った“うまい言葉”が「明治維新」であることがわかったのです。 確かに「維新」と「一新」は、「いしん」と「いっしん」で語呂は似ていますが、意味は異なります。「維新」は、中国最古の詩集『詩経』に出てくる言葉だそうで、そう聞けば何やら重々しい感じがします。 薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、「維新」の美名で飾りたかったのではないでしょうか。自分たちのやった革命が間違ったものではなかったとする、薩長政府のプロパガンダの1つだといっていいでしょう。 歴史というのは、勝った側が自分たちのことを正当化するために改ざんするということを、取材などを通してずいぶん見てきました。その後、いろいろ調べて、明治維新という名称だけではなく、歴史的な事実も自分たちに都合のいいように解釈して、いわゆる「薩長史観」というものをつくりあげてきたことがわかりました』、確かにありそうな話だ。
・『そもそも幕末維新の史料、それも活字になった文献として残っているものの多くは、明治政府側のもの、つまり薩長史観によるものです。勝者側が史料を取捨選択しています。そして、その「勝った側の歴史」を全国民は教え込まれてきました。 困ったことに、明治以降の日本人は、活字になったものしか読めません。ほとんどの人が古い文書を読みこなせません。昔の人が筆を使い崩し字や草書体で書いた日記や手紙を、専門家ではない私たちは読めません。読めないですから、敗者側にいい史料があったとしても、なかなか広まりません。どうしても薩長側の活字史料に頼るしかないのです。 そこでは、薩長が正義の改革者であり、江戸幕府は頑迷固陋(ころう)な圧制者として描かれています。学校では、「薩長土肥の若き勤皇の志士たちが天皇を推戴して、守旧派の幕府を打ち倒し新しい国をつくった」「幕末から明治にかけての大革命は、すばらしい人格によってリードされた正義の戦いである」という薩長史観が教えられるわけです。 さすがに最近は、こうしたことに異議を申し立てる反「薩長史観」的な本がずいぶん出ているようですが……』、明治以降の日本人は、活字になったものしか読めないので、「薩長側の活字史料に頼るしかないのです」、というのはその通りだろう。
・『私の父の郷里である新潟県の長岡の在に行くと、祖母から教科書とはまったく逆の歴史を聞かされました。学校で薩長史観を仕込まれていた私が、明治維新とか志士とか薩長とかを褒めるようなことを言うと、祖母は「ウソなんだぞ」と言っていました。「明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、あんなのはドロボウだ。7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ」 いまでは司馬遼太郎さんの『峠』の影響もあり、河井継之助が率いる長岡藩が新政府軍相手に徹底抗戦した話は有名ですが、当時はまったく知りませんでした。明治維新とはすばらしいものだったと教えられていた私は、「へー、そんなことがあるのか」と驚いたものです。 また祖母は、薩長など新政府軍のことを「官軍」と呼ばず「西軍」と言っていました。長岡藩はじめ奥羽越列藩同盟軍側を「東軍」と言うわけです。いまでも長岡ではそうだと思います。これは、会津はじめほかの同盟軍側の地域でも同様ではないでしょうか。 そもそも「賊軍」は、いわれのない差別的な言葉です。「官軍」も「勝てば官軍、負ければ賊軍」程度のものでしかありません。正直言って私も、使うのに抵抗があります』、なるほど。
・『「明治維新150年」をわが日本国が国を挙げてお祝いするということに対しては、「何を抜かすか」という気持ちがあります。「東北や北越の人たちの苦労というものを、この150年間の苦労というものをお前たちは知っているのか」と言いたくなります。 司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、戊辰戦争は、幕府側からみれば「売られたケンカ」なんです。「あのときの薩長は暴力集団」にほかならない。これも司馬さんの言葉です。 本来は官軍も賊軍もないのです。とにかく薩長が無理無体に会津藩と庄内藩に戦争を仕掛けたわけです。いまの言葉で言えば侵略戦争です。 そして、ほかの東北諸藩は、何も悪いことをしていない会津と庄内を裏切って両藩を攻めろ、法外なカネを支払え、と高圧的に要求されました。つまり薩長に隷属しろと言われたのです。これでは武士の面目が立たないでしょうし、各藩のいろんな事情があり、薩長に抵抗することにしたのが奥羽越列藩同盟だったわけです。 私は、戊辰戦争はしなくてもいい戦争だったと考えています。西軍の側が手を差し伸べていれば、やらなくていい戦争ではないかと。 にもかかわらず、会津はじめ東軍の側は「賊軍」とされ、戊辰戦争の後もさまざまに差別されてきました。 そうした暴力的な政権簒奪(さんだつ)や差別で苦しめられた側に配慮せず、単に明治維新を厳(おごそ)かな美名で飾り立てようという動きに対しては何をかいわんやです』、なるほど。
・『宮武外骨の『府藩県制史』を見ると、「賊軍」差別の様子がはっきりわかります。これによると、県名と県庁所在地名の違う県が17あるのですが、そのうち賊軍とされた藩が14もあり、残りの3つは小藩連合県です。つまり、廃藩置県で県ができるとき、県庁所在地を旧藩の中心都市から別にされたり、わざわざ県名を変えさせられたりして、賊軍ばかりが差別を受けたと、宮武外骨は言っているわけです。 たとえば、埼玉県は岩槻藩が中心ですが、ここは官軍、賊軍の区別があいまいな藩だった。「さいたま」という名前がどこから出たのかと調べると、「埼玉(さきたま)」という場所があった。こんな世間でよく知られていない地名を県の名にするなんて、恣意的な悪意が感じられます。 新潟県は県庁所在地が新潟市なので名は一致していますが、長岡が中心にありますし、戊辰戦争がなければ長岡県になっていたのではないでしょうか。 県名や県庁所在地だけ見ても、明治政府は賊軍というものを規定して、できるだけ粗末に扱おうとしていることがわかります。 また、公共投資で差別された面もあります。だから、賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れたのだと思います。 いまも原子力発電所が賊軍地域だけに集中しているなどといわれますが、関係あるかもしれません。』、原発が開発の遅れた賊軍地域だけに集中しているとは、驚かされた。「埼玉」の由来も面白い。
・『立身出世を閉ざされた「賊軍」藩出身者・・・賊軍藩の出身だと、官僚として出世できないんですよ。歴史事実を見ればわかりますが、官途に就いて名を成した人はほとんどいません。歴代の一覧を見れば明らかですが、総理大臣なんて岩手県の原敬が出るまで、賊軍出身者は1人もいない。ほとんど長州と薩摩出身者で占められています。 ちなみに明治維新150年目の今年は長州出身の安倍氏が総理ですが、彼が誇るように明治維新50年も(寺内正毅)、100年も(佐藤栄作)も総理は長州出身者でした。 また、明治年間に爵位が与えられて華族になったのも、公家や殿様を除けば、薩長出身者が突出して多いのです。特に最も高い位の公爵と侯爵を見ると、全部が長州と薩摩なんです。 政官界では昭和の戦争が終わるまで、賊軍出身の人は差別されていたと思われるのです。明治以降、賊軍の出身者は出世できないから苦労したのです』、これは十分考えられることだ。
・『NHK大河ドラマ「八重の桜」では会津藩出身者の苦労が描かれていましたが、それ以外の負けた側の藩の出身者も差別された・・・例を1つ挙げれば、神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業しています。長岡出身で博文館を創業した大橋佐平という人がいちばん初めに古本屋を開いて成功したのですが、当時、いちばん大きい店でした。その後、大橋が中心となって、長岡の困っている人たちをどんどんと呼んで、神田に古本屋がたくさんできていったんです。 こんな具合に、賊軍藩の出身者たちは、自分たちの力で生きるしかなかったのです』、「神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業しています」というのにも驚かされた。
・『「賊軍」地域は、戊辰戦争の敗者というだけでは済まなかったということです。賊軍派として規定されてしまった長岡にとっては「恨み骨髄に徹す」という心情が横たわるわけです。 いまも長岡高校で歌い継がれているようですが、長岡中学校の応援歌の1つ『出塞賦(しゅっさいふ)』に次のような一節がありました。 「かの蒼竜(そうりゅう:河井継之助の号)が志(し)を受けて忍苦まさに幾星霜~」 勝者は歴史を水に流せるが、敗者はなかなかそうはいかないということでしょう』、こうした恨みが残っている限り、国民的に祝うのは無理があるといえよう。

第三に、元レバノン大使の天木直人氏が2月12日付け同氏のブログに掲載した「吉田松陰がワーストNO1である本当の理由」を紹介しよう。
http://kenpo9.com/archives/3260
・『実話BUNKAタブー誌(コアマガジン社)が2月号で特集した「日本をダメにした幕末・維新のワースト15人」の中では、吉田松陰がワーストNO1にランクされていた。 その理由は、吉田松陰が「松下村塾」という私塾を開いてテロリストを養成したからだ。 しかし、本当の理由はそれではない。 吉田松陰の考えこそが、大問題であるのだ。 その事を、歴史学者の磯田道史氏が、二日ほど前の東京新聞の連載「変革の源流」(7)で、吉田松陰が獄中で綴った思想書「幽囚録」を引用して、教えてくれた』、『すなわち、吉田松陰はこの幽囚録で、その後の日本がたどる道を提言していたというのだ。 蝦夷(北海道)の地を開墾して、諸侯を封じ、隙に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して内地の諸侯同様に参勤させ、朝鮮を攻めて質をとって朝貢させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ、と提言していたというのだ。 そして、磯田氏はこう語っている。ここに書かれている思想は、明治以降の外交政策に大きく影響しましたと。 北海道開発、琉球処分、台湾出兵、日韓併合、満州事変、フィリピン占領と、ほぼ予言通りに進みましたと。 武力に頼る中央集権国家の確立に影響を与えた吉田松陰は、間違いなくワーストNO1である。 しかし、ワーストNO1どころか、その吉田松陰を称えるのが、安倍首相の下で急速に進んでいる今の政治の風潮なのだ。 アジアとの共生が出来ないはずである』、大東亜共栄圏の原型となる構想を描き、明治以降の外交政策に大きく影響したとは、初めて知った。ただ、吉田松陰を責めるのはいささか酷で、むしろその構想を実現しようとしたその後の世代に責任がある、と考えるべきなのではなかろうか。
明日も引き続き歴史問題を取上げる予定である。
タグ:埼玉県 日本のいちばん長い日 東洋経済オンライン 長岡 昭和史 天木直人 伊東乾 威風堂々 JBPRESS 歴史問題 ラ・マルセイエーズ 安倍晋三首相 同氏のブログ (6)(「君が代」が生まれた背景と五輪の国歌斉唱 選挙で歌を使うと何が起きるか 歴史が語る大きなリスク、半藤一利「明治維新150周年 何がめでたい」 「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す、吉田松陰がワーストNO1である本当の理由) 「「君が代」が生まれた背景と五輪の国歌斉唱 選挙で歌を使うと何が起きるか、歴史が語る大きなリスク」 音声言語を話すことができる人は、例外なくこの「引き込み」に引っかかる、そういう生理現象として押さえておいてください 誰かが1人、「君が代」を歌うと、つられて君が代を歌い出す人がたくさん出てくる。またその中で1人シラケた顔をして黙っていると、歌を知らない場合は疎外感を感じるでしょうし、知っていてわざと歌わないと「どうして参加しないんだ!」という<同調圧力>にさらされる これを用いて人を調教することができます 歌などを用いるこうした調教は、物理的な証拠、例えば殴られた跡であるとか、血液や毛髪の検査で分かる薬物の痕跡とかが残らない「スマートな支配の道具」です 暴力や薬物を用いて人を調教するケースは「Brain washing(洗脳)」と呼ばれますが、それに該当しないこうした支配を「mind control」と呼んでいます 「君が代」 歌詞は古今集、平安時代に根を持ちます この旋律自体は、京都出身の若い宮内省楽士、奥好義(1857-1933)が下書きしたものを、上司で大阪四天王寺出身の雅楽人、林廣守(1831-96)が手直ししたとして箔をつけたものです。 しかし、「国歌」というのは海外向けの発信道具でもあるので、どちらも西欧風の和声などつけられない。ここが重要なポイントです。仕方なくお雇いの海軍軍楽教師、フランツ・エッケルトにハーモニーをつけてもらうのですが、エッケルトは悩んだ末、ついに冒頭と末尾についぞ和声を付すことができませんでした 国際社会に伍していくために必須の軍事アイテムとして、お雇い外国人海軍軍楽教師などに助けてもらって作ったものにほかなりません。1880年に成立した近代の産物 君が代は、成立時期としては「あんぱん」や「牛なべ」とほぼ同じ、文明開化の時期の産物 さも古そうに見せて実は近代の模作、という点では、もともとは1895年に開かれた内国勧業博覧会のパビリオンだった、京都の平安神宮とよく似ています 帝国主義列強が覇権を競い合っていた19世紀後半、国民国家はこぞって「国歌」を制定し、内政外交双方に活用 国内的には、市民兵養成の基礎として「わが国の国民であるぞよ」と幼時から心身に刻印するのに、国歌ほど有効なアイテムはありません 対外的には、和平条約調印などの折、双方の軍楽隊が対等に国家を演奏といった習慣がすでに定着しており、この残滓はオリンピックでメダルを取った国の国家が演奏されることなどで、現在でもメディアで確認できるでしょう。海外の元首など国賓を迎える際にもこれを栄誉をもって演奏します 日本が西欧列強から、アジアの一国として尊厳をもって遇してもらえるようになるには、相手側の国の軍楽隊が演奏できる、西欧風の<ナショナル・アンセム>あるいは愛国行進曲のようなものが必須不可欠でした それがなく、雅楽や能楽で自己主張しても、諸外国列強は「極東の後れた民族音楽」としか扱えなかったでしょう 体育会系の応援団などに名残をとどめるエールの交換は、和議の場での互いの国歌の交換に端を発します 相手方の奏楽に見劣りのしない音楽が、国威発揚の上で必須不可欠 「軍楽」は練兵のツールとして、「国歌」はネーション・ステートでの幼時からの「国民創成」にとって必須不可欠なアイテムでした そこには「刷り込み(imprinting)」があるだけで、何一つ相対化や批判がありません なぜなし、の脊髄反射を刷り込むツールとして、音楽は実に有効な装置である 「半藤一利「明治維新150周年、何がめでたい」 「賊軍地域」出身作家が祝賀ムードにモノ申す」 年は、明治維新から、150年目の年です 記念事業に積極的 賊軍の昭和史 「明治維新」という言葉が使われだしたのは、明治13(1880)年か14年でした 「明治14年の政変」があり、薩長政府というよりは長州政府が、肥前の大隈重信らを追い出し政権を奪取した年 薩長が革命を起こし、徳川政府を瓦解させ権力を握ったわけですが、それが歴史的にも正当性があることを主張するために使った“うまい言葉”が「明治維新」 薩長政府は、自分たちを正当化するためにも、権謀術数と暴力で勝ち取った政権を、「維新」の美名で飾りたかったのではないでしょうか 明治維新という名称だけではなく、歴史的な事実も自分たちに都合のいいように解釈して、いわゆる「薩長史観」というものをつくりあげてきた 幕末維新の史料、それも活字になった文献として残っているものの多くは、明治政府側のもの、つまり薩長史観によるものです 明治以降の日本人は、活字になったものしか読めません。ほとんどの人が古い文書を読みこなせません 薩長が正義の改革者であり、江戸幕府は頑迷固陋(ころう)な圧制者として描かれています 明治新政府だの、勲一等だのと威張っているヤツが東京にたくさんいるけど、あんなのはドロボウだ。7万4000石の長岡藩に無理やりケンカを仕掛けて、5万石を奪い取ってしまった。連中の言う尊皇だなんて、ドロボウの理屈さ 薩長など新政府軍のことを「官軍」と呼ばず「西軍」と言っていました。長岡藩はじめ奥羽越列藩同盟軍側を「東軍」と言うわけです。 「賊軍」は、いわれのない差別的な言葉 「官軍」も「勝てば官軍、負ければ賊軍」程度のものでしかありません 戊辰戦争は、幕府側からみれば「売られたケンカ」なんです。「あのときの薩長は暴力集団」にほかならない 戊辰戦争はしなくてもいい戦争だったと考えています 県名と県庁所在地名の違う県が17あるのですが、そのうち賊軍とされた藩が14もあり、残りの3つは小藩連合県です 岩槻藩が中心ですが、ここは官軍、賊軍の区別があいまいな藩 世間でよく知られていない地名を県の名にするなんて、恣意的な悪意が感じられます 賊軍と呼ばれ朝敵藩になった県は、どこも開発が遅れた 原子力発電所が賊軍地域だけに集中 立身出世を閉ざされた「賊軍」藩出身者 神田の古本屋はほとんどが長岡の人が創業 「賊軍」地域は、戊辰戦争の敗者というだけでは済まなかったということです。賊軍派として規定されてしまった長岡にとっては「恨み骨髄に徹す」という心情が横たわるわけです 「吉田松陰がワーストNO1である本当の理由」 「日本をダメにした幕末・維新のワースト15人」の中では、吉田松陰がワーストNO1にランク 吉田松陰の考えこそが、大問 東京新聞の連載「変革の源流」(7)で、吉田松陰が獄中で綴った思想書「幽囚録」を引用して、教えてくれた その後の日本がたどる道を提言していたというのだ。 蝦夷(北海道)の地を開墾して、諸侯を封じ、隙に乗じてカムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して内地の諸侯同様に参勤させ、朝鮮を攻めて質をとって朝貢させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ、と提言していたというのだ 明治以降の外交政策に大きく影響 その吉田松陰を称えるのが、安倍首相の下で急速に進んでいる今の政治の風潮なのだ。 アジアとの共生が出来ないはずである
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