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メディア(その16)(小田嶋氏:ハゲタカとハイエナたちの生態系) [メディア]

メディアについては、6月25日に取上げたばかりであるが、今日も、(その16)(小田嶋氏:ハゲタカとハイエナたちの生態系)である。

コラムニストの小田嶋 隆氏が1月26日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「ハゲタカとハイエナたちの生態系」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/012500128/?P=1
・『この2年ほど、当たるを幸いに有名人の婚外交渉や私生活上の不品行を暴き立てては、斯界に話題を提供してきたいわゆる「文春砲」が、ここのところ自爆気味に見える。 特に、先週号(1月25日号)で、小室哲哉さんの不倫疑惑を暴露した記事への反発は、これまでにない規模の「炎上」と申し上げてよい騒ぎを惹起している。 今回は、文春砲自爆の話題を蒸し返したい。 蒸し返したいという書き方をしたのは、この炎上騒動がおおむね終息したと判断している読者が少なくないと思ったからだ。 私は、終わりだとは思っていない。 むしろ、始まったばかりだと考えている。 何が始まっているのかは、以下に書き進めるなかでおいおい明らかにしていくつもりだ。 2016年の12月27日、私は以下のようなツイートを投稿した。 《2016年は週刊誌が死んだ年だと考えている。いわゆる「文春砲」で息を吹き返したと思っている人もいるんだろうけど、部数の復活も一瞬の話で、要するにああいう品の無いスキャンダリズムに舵を切った時点で真っ当なメディアとして自殺したわけだよね》(こちら) 今回の騒ぎは、私が一昨年の年末に書きこんだ観察が、事実として顕現している姿に見える。 いまわれわれが目撃しているのは、昭和の人間が考えていた「週刊誌ジャーナリズム」なるものが死滅して、新しい何かが誕生する過程で繰り広げられている愁嘆場だということだ。 小室哲哉さんの私生活をあからさまに暴露した今回の記事への評価は、観察する者の立場によって様々だとは思うのだが、個人的には、小室氏本人の口から 《「お恥ずかしい話ですが、普通の男性としての能力というものがなくて」》 という発言を引き出す事態を招いた一点だけをとっても、残酷な仕打ち以上のものではなかったと考えている。 何十人という記者と全国ネットのテレビカメラの前で、自分の男性機能の喪失を告白せねばならなかったご本人の気持ちはいかばかりであったろうか。 記者会見の当日、私は 《個人的な見解ですが、私は、不倫をしている人間より、他人の不倫を暴き立てて商売にしている人間の方がずっと卑しいと思っています。》(こちら)というコメントをツイッターに書きこんだ。 特に目新しい感慨ではない。目からウロコが落ちるような発見を含んでいるわけでもなければ、思わずヒザを打つ秀抜な修辞がほどこされているわけでもない。その、どちらかといえば凡庸な感想ツイートが、現時点で1万件以上のリツイートと、2万件以上の「いいね」を獲得している。それほど、共感する人が多かったということだ』、私も政治家向けの「文春砲」を別にすれば、悪趣味と眉を顰める口だ。
・『ツイッターをはじめて9年になるが、記憶している限りでは、1万RTも、2万件の「いいね」も、今回のこれがはじめてだ。 この数字は、一般の人々の間に底流している「文春砲」への反発が、思いのほか巨大であることを示唆している。でなくても、世間の不倫報道への忌避感を代弁している結果だろう。 私自身は、当欄でも何度か繰り返している通り、「文春砲」には、その言葉が誕生した直後から不快感を抱いている。 たとえば、2016年の6月から7月にかけて 《暴露→告発→糾弾→会見→辞任要求みたいなパパラッチ報道からリンチ制裁に至る流れを「文春砲」だとかいって持ち上げるバカがいるのは仕方ないのだとして、当の編集部が調子ぶっこいて「文集砲ライブ」とか言ってニコ生を流してる姿は醜悪すぎる》(こちら) 《文春砲LIVE」という恥ずかしいタイトルの左下に、わざわざ※(こめじるし)付きで、(※文春砲=週刊文春のスクープ、もしくはスクープ記者のこと)と注釈を付けている。カッペという死語を召喚せざるを得ない。》(こちら) という強い調子のツイートを発信している。 まあ、アタマに来ていたわけです。 興味のある向きは、「文春砲」というキーワードで検索すれば、文春砲の公式ツイッターアカウントにたどりつくことができる。 ぜひ見に行ってほしい。 見どころのひとつは、当該アカウントのホームページ上に登場する「文春(ふみはる)くん」と名づけられたアニメキャラの絵柄だ。 片目をつぶって舌を出しながら、片手でバズーカ砲のような携行火器を構えている「文春くん」の立ち姿は、私の目には 「へへっ、オレはターゲットを見つけたら何の遠慮もなくぶっ放すぜ」と宣言しているように見える。 表情は、いわゆる「ゲス顔」という言葉で分類される顔だと思う。 あれが、ゲス顔でないのだとしたら、私はほかに実例を思い浮かべることができない。 商業雑誌の編集部が、自分たちの取材活動を擬人化した二次元表象を設定するにあたって、どうしてこんな小面憎いゲス顔の半ズボンのガキを持ってきたのかを考えると、なかなか興味深い。 おそらく、彼らとしては、「ヘヘん。パパラッチと言わば言えだ。スクープは撮ったもん勝ちの記事は売ったもん勝ちってこった」「報道倫理がどうしたとか取材マナーがハチのアタマだとかいった書生くさい小理屈論争がお好きなら学校新聞の部室か昼下がりの牛丼屋で好きなだけ開陳してくれ。オレらプロは忙しくてそれどころじゃないんであしからず」「ケケケ。ウチの社屋の壁がどうして真っ黒なのか勉強してから苦情を持ち込みやがれ」ぐらいな一種捨て鉢なプロ根性を図案化したつもりでいるのだろう。 こういうところでいい大人が悪ぶってみせずにおれないのは、彼らが、一方において、うしろめたさを感じているからだと、そういうふうに見るのは、これはうがち過ぎであろうか。 ふみはるくんはふるえている。 そう思うと、いささか哀れだ』、「いい大人が悪ぶってみせずにおれないのは、彼らが、一方において、うしろめたさを感じているからだ」、というのは鋭い指摘だ。
・『何度も書いたことだが、もう一度書いておく。 不倫(本来なら「婚外交渉」という単語を使いたい。「不倫」という情緒に汚れた言い方は好まない。ただ、字数や語感の点で「不倫」を使った方が文章が書きやすかったりする。困ったことだ)は、好ましいことではない。民法上の不法行為であることはもとより、なによりパートナーの信頼を裏切る行為だからだ。 しかしながら、当事者でない人間にとって、他人の不倫は、文字通りの他人事だ。 このことはつまり、誰も他人の不倫を責める資格を持ってはいないし、面白がって話題にする権利も持っていないことを意味している。 それ以上に、仮に結果として誰かの不倫関係を知ることになったのだとしても、普通の人間はそれを暴く権利も理由も必然性も持っていない。なんとなれば、不倫ではあっても(あるいは不倫であるからこそ)それは個人の私生活の範囲内の出来事なのであって、その個人の私生活の秘密は、その彼または彼女が暮らしている社会が健全な市民社会である限りにおいて、最終的かつ不可逆的に防衛されなければならないものだからだ。 では、報道にたずさわる者なら、他人の不倫を暴く権利を持っているものなのだろうか。 これは、一概には言えない。 不倫をはたらいた当事者の立場にもよれば、その婚外交渉の当事者の関係性にもよる。 相手が政治家をはじめとする高い倫理基準を求められる人間であるのなら、そういう人間の不倫は、公益のために暴露されても仕方がない場合もあるだろう。 が、単に著名な人間だからという理由で、歌手や俳優やスポーツ選手の婚外交渉がもれなく世間に公表されなければならないのかといったら、私はそんなことはないと思っている。 文春砲が、誕生以来2年ほどの間、一部で強烈な反発を招きながらも、大筋として、スキャンダル好きの商業メディアと一般大衆の心をとらえてきた理由のひとつは、ターゲットの選び方が巧妙だったからだ。 どういうことなのかというと、彼らは、世間がなんとなく反発を抱いている人間に的を絞って、その不倫を暴く仕事を続けていたわけで、結果、世間は、内心で叩きたいと思っていた人間について、存分に叩いてかまわない材料を与えられることになったわけで、なればこそ、文春砲は、社会的なリンチをスタートさせるホイッスルとして制裁趣味を抱く人々に歓迎されていたということだ。 世間は、不倫を糾弾していたようでいて、実は不倫そのものにはたいして興味を持っていなかったし、怒りを覚えてもいなかった。彼らが熱中したのは、前々からなんとなく面白くなく思っていた人間の人格のあり方を指弾することであり、不倫実行者が不倫発覚前にかぶっていたいい子ぶりっ子の仮面を、よってたかって引き剥がして嘲笑することだったわけで、文春砲が果たしていた役割は、その「まだ無傷でいるパブリックエネミー予備軍」を見つけ出して、その彼らを不倫のタグ付きで公開処刑の刑場に送り込むことだったのである。 が、自ら「文春砲」を名乗り、「文春砲ライブ」なる小銭稼ぎのイベントを企画しはじめたころから、ゲス顔の文春くんの仕事ぶりは、あらかじめ狙いを定めたターゲットを編集部が想定したシナリオにハメこんで貶めにかかるテの、マッカーシズムじみた手法に移行していった。そんなこんなで、もともとは、読者の関心に応える取材だったはずのものが、不倫告発自体を自己目的化したうえで商売のシステムに乗っける「不倫狩り」の様相を帯びるに至って、いよいよ自爆への傾斜を深めつつあるわけですね。 文春砲のスキャンダル暴露記事は、編集部に、ワイドショーやスポーツ新聞などの後追い取材のメディアから得る情報提供料や、「dマガジン」(NTTドコモが運営する有料の雑誌閲覧アプリ)経由の閲覧料収入(クリック数に呼応して増加する設定になっている)をもたらしている。で、その貴重な現金収入は、おそらく相当な金額にのぼっているはずの取材手数料や経費をまかなうための必須のドル箱にもなっている。 ただ、このビジネスモデルは、本来の、部数による売上と単行本収入(と、連載記事の単行本化による収入)という雑誌本来の収益構造とは別立ての、「日銭稼ぎ」に近い』、「文春砲が果たしていた役割は、その「まだ無傷でいるパブリックエネミー予備軍」を見つけ出して、その彼らを不倫のタグ付きで公開処刑の刑場に送り込むことだったのである」、というのは実に本質を突いた指摘だ。
・『仮に当面はそれで採算がとれているのだとしても、中長期的に見て「文春砲」が文春に勝利をもたらすのかどうかは、いまだ未知数だと申し上げなければならない。 というのも、ゲス不倫を暴けば暴くほど、看板が泥にまみれている点が、伝統ある総合雑誌の立ち姿としてどうにも致命的からだ。 実際、文春の看板は泥よりももっと悪いものにまみれている。 その彼らの看板が昨年来まみれている泥よりもさらに悪いものを、彼らは、この先、食べねばならないハメに陥ることになるかもしれない。それはとてもつらい経験になるはずだ。 雑誌発売日のあとの最初の日曜日のお昼前に、とある民放のバラエティー番組に、週刊文春の記者がVTRで出演したのだそうだ。 そのVTRの中で、記者は、同誌の不倫疑惑報道をきっかけに引退を表明した音楽プロデューサー・小室哲哉氏(59歳)について「本意ではない結果になった」とコメントしたのだという(こちら)。 私は、この番組を見ていないのだが、伝えられているところによれば、記者は、顔を映さないアングルで画面に登場していたようで、ネット上では、その点に激しい糾弾の声が集中している。 「ヒトの私生活を暴いておいて、自分は顔出しNGかよ」「卑怯者と書いてぶんしゅんほうと読ませるみたいなw」「誰がゲスの極みなのか鏡を見てよく考えてもらいたいですね」 まあ、当然のツッコミではある。 この空気は、編集長自らが顔出しで記者会見を開いて説明しないと収まらないだろう。 というのも、これまで、文春砲を文春砲たらしめていたのは、 「世間を騒がせた人間は世間に向けて自分の潔白を証明するのか、でなければ世間に向けて自らの罪を詫びるのかせねばならない。とすれば、いずれにせよ、記者会見を開いて自分の言葉で説明しなければならないはずだ」 という感じの、メディアを公開裁判所に擬した理屈で、その種のメディア万能のフルオープン至上主義の正義を奉じてきた張本人が、これだけ世間を騒がせたあげくに、編集部の隅っこに隠れて会社員でございますみたいな顔をしていたのではスジが通らないからだ。 自らを「砲」になぞらえている人間が、チキンであるはずはないわけで、だとすれば、近いうちに、われわれは、編集長の記者会見を見ることができるはずだ。私は信じている。 さて、文春は死んだのだろうか。 私は、現段階では、死んだとは思ってはいない。 雑誌にかかわってなんだかんだで35年ほどになる。 その間、たくさんの雑誌の臨終に立ち会ってきた。ひとつの雑誌の編集部どころか、ジャンルまるごとが消える事態にも直面してきた。現在でも、雑誌の世界は、時々刻々、急速にシュリンクしつつある。このことを、私のような雑誌の世界で暮らしてきた人間は、身に迫る実感として、身にしみて感じている。 そんななかで、週刊文春は、私が生まれる前から一流の雑誌だったし、いまもって日本一の発行部数を誇る総合雑誌だ。簡単に死ぬとは思えない。 ただ、雑誌は、編集長のものだ。 看板が同じでも、編集長が変わると、誌面はかなり根本的に変貌する』、「小室哲哉氏」の「不倫疑惑報道」は確かに取り上げた意味を疑わせるものだ。「近いうちに、われわれは、編集長の記者会見を見ることができるはずだ。私は信じている」と編集長の記者会見を暗に催促しているが、果たして応じるだろうか。
・『私自身、さまざまな雑誌を舞台に、新任の編集長が着任するタイミングで連載企画をスタートさせてもらったり、逆に自分に声をかけてくれた編集長の退任のタイミングで連載陣から離脱したりした経験をいくつか重ねてきている。このことからもわかるように、雑誌の内容は、誌名の看板からやってくる伝統のDNAよりも、その時々のトップの人柄なり思想なりをより強く反映することになるものなのだ。 とすれば、ひとつの雑誌がどんなに煮詰まって見えるのであれ、編集長をはじめとするスタッフの顔ぶれを変えれば、内容が一新される可能性は常にある。その意味で、出口が見えなくなっているかに見える雑誌にも、必ず打開策は用意されている。 また、雑誌は一枚岩の組織でもない。 雑誌は、その本能として、誌面の中に一定量の異分子を養っておく習性をそなえている。 過度に純一な思想に偏った雑誌は生き残れない、と、長い経験が教えるからだ。 だからこそ、私のような書き手にもかろうじて生計の道が残されていたわけで(本来声のかかるはずのない雑誌で、誌面にそぐわない文章を書く機会が多かったのです)、結局のところ、雑誌はひとつの生態系だということなのだろう。 ハゲタカとハイエナを一掃しろとは言わない。 そんなことは無理にきまっているし、環境からスカベンジャー(注)を排除することは暴挙でさえある。 ただ、ハゲタカとハイエナだけでは、生態系は維持できないということを、一匹のフンコロガシとして申し上げて、ごあいさつに代えさせていただきたい。ご清聴ありがとう』、「雑誌はひとつの生態系だということなのだろう」、というのはその通りなのかも知れない。最後の締めはいつもながら見事だ。
(注)ここでのスカベンジャーとは、ハゲタカ、ハイエナなどの腐肉食動物(Wikipedia)。
タグ:メディア 小室哲哉 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 メディア(その16)(小田嶋氏:ハゲタカとハイエナたちの生態系) (その16)(小田嶋氏:ハゲタカとハイエナたちの生態系) 「ハゲタカとハイエナたちの生態系」 「文春砲」 ここのところ自爆気味 品の無いスキャンダリズムに舵を切った時点で真っ当なメディアとして自殺 他人の不倫を暴き立てて商売にしている人間の方がずっと卑しいと思っています 世間の不倫報道への忌避感 「文集砲ライブ」 文春(ふみはる)くん 「へへっ、オレはターゲットを見つけたら何の遠慮もなくぶっ放すぜ」と宣言しているように見える いい大人が悪ぶってみせずにおれないのは、彼らが、一方において、うしろめたさを感じているからだと、そういうふうに見るのは、これはうがち過ぎであろうか 誰も他人の不倫を責める資格を持ってはいないし、面白がって話題にする権利も持っていないことを意味 それは個人の私生活の範囲内の出来事なのであって、その個人の私生活の秘密は、その彼または彼女が暮らしている社会が健全な市民社会である限りにおいて、最終的かつ不可逆的に防衛されなければならないもの 文春砲が果たしていた役割は、その「まだ無傷でいるパブリックエネミー予備軍」を見つけ出して、その彼らを不倫のタグ付きで公開処刑の刑場に送り込むことだったのである ゲス不倫を暴けば暴くほど、看板が泥にまみれている点が、伝統ある総合雑誌の立ち姿としてどうにも致命的からだ メディア万能のフルオープン至上主義の正義を奉じてきた張本人が、これだけ世間を騒がせたあげくに、編集部の隅っこに隠れて会社員でございますみたいな顔をしていたのではスジが通らない 近いうちに、われわれは、編集長の記者会見を見ることができるはずだ。私は信じている 結局のところ、雑誌はひとつの生態系だということなのだろう
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