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日本のスポーツ界(その26)(競走馬156頭出走取り消し騒動 「巨額賠償金」の行方、「スポ根」を感動ドラマに仕立てる甲子園はブラック労働の生みの親だ、小田嶋氏:高校生の肘をサカナに旨い酒を飲む) [社会]

日本のスポーツ界については、6月14日に取上げた。今日は、(その26)(競走馬156頭出走取り消し騒動 「巨額賠償金」の行方、「スポ根」を感動ドラマに仕立てる甲子園はブラック労働の生みの親だ、小田嶋氏:高校生の肘をサカナに旨い酒を飲む)である。

先ずは、6月23日付けNEWSポストセブン「競走馬156頭出走取り消し騒動 「巨額賠償金」の行方」を紹介しよう。
https://www.news-postseven.com/archives/20190623_1397696.html
・『「目下、競馬界は大混乱で、調教師や厩舎関係者、騎手らが競走除外となった馬のオーナーへの謝罪に追われています。ただ、この件は調教師や騎手に責任はなく、全くおかしな話です」 そう憤るのは元JRAトップ騎手の藤田伸二氏だ。6月15日、JRAは日本農産工業が販売した飼料添加物(馬用サプリメント)「グリーンカル」から禁止薬物のテオブロミンが検出されたと発表。同日と翌16日に出走予定の競走馬のうち、同社の添加物を摂取した可能性のある156頭が競走除外になった。 競馬界ではこの前代未聞の騒動を巡り、“誰に責任があるのか?”で揺れている。 競走馬が口にする飼料などは、所定の機関で禁止薬物を含んでいないかの検査を受けなくてはならない。今回は昨年12月以降、未検査のものが流通したとして、15日の会見でJRAは「検査済みでないものが出回っていたのが一番の問題」と、販売元を批判した。 「販売元の日本農産工業は、商品の全量回収を進める一方、『定期的に薬物検査を実施している』と反論。認識が食い違っている』、「認識が食い違っている」のであれば、第三者委員会で究明すべきだろう。
・『同じ原材料と製造工程の『同一ロット』の製品なら検査は一度でいいという規程がある。今回の争点は問題の飼料添加物が、過去に検査を受けてOKだったものと『同一ロット』にあたるのかどうか。その定義を巡って両者が違った理解をしているようなのです」(競馬紙記者) 改めて両者に問うと、日本農産工業もJRAも「調査中で回答を差し控える」とした。 どちらの責任になるのか、当事者には重大な問題だ。 「急な競走除外で馬の調整が狂い、次のレースへの影響は避けられない。オーナーは補償を求めて声をあげることになる」(藤田氏) 影響を受けた競走馬が多いだけに、巨額賠償になりかねない。アトム市川船橋法律事務所の高橋裕樹弁護士がいう。 「現時点では販売元に損害賠償責任があるように思えますが、156頭の特別出走手当(全ての出走馬に交付される手当。重賞の場合、約43万円)だけで約6500万円。獲得できたかもしれない賞金についての補償まで認められれば、数億円単位の賠償になる」 “審議ランプ”は灯ったままだ』、「数億円単位の賠償」とは、大事になったものだ。

次に、ノンフィクションライターの窪田順生氏が8月1日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「「スポ根」を感動ドラマに仕立てる甲子園はブラック労働の生みの親だ」を紹介しよう。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190801-00210468-diamond-soci&p=1
・『夏の高校野球予選で、肘に違和感を感じたエースの登板を回避した大船渡高校に抗議の電話が殺到した。相変わらず、「無理を押してでも頑張れ」という、根性信仰とでもいうべき異常な価値観が蔓延しているのだ。ブラック企業にもよく見られるこの「信仰」のせいで、今なお大勢の若者が心身を壊し、時に命まで落としているというのに』、「大船渡高校に抗議の電話が殺到」とは、ファンのクレージーさを如実に示している。
・『大船渡高校エースの登板回避で 抗議電話が殺到する事態に  ここまでクレイジーなことになってくると、もはや「熱闘甲子園」というより「発狂甲子園」とでも呼んだ方がいいのではないか――。 夏の高校野球岩手県予選で、県立大船渡高校のエース佐々木朗希投手が、肘の違和感を訴えていたので、監督が登板を回避したところ、球場では怒りの「ヤジ」が飛び、高校にも「なぜ投げさせなかった!」という抗議電話が250件以上も殺到。野球部関係者の「安全確保」のために、警察が出動する事態にまで発展したというのである。 クレーマーたちは野球賭博でもやっていたのかと困惑する方も多いだろうが、ご乱心ぶりはそれだけにとどまらない。「ご意見番」として知られる野球評論家の張本勲さんが、「サンデーモーニング」でこんな発言をしたのだ。 「苦しい時の投球を、体で覚えて大成した投手はいくらでもいる。楽させちゃダメ。スポーツ選手は」「けがを怖がったんじゃ、スポーツやめたほうがいいよ」 中学・高校で起きる事故の半分以上が運動部で起きており、その数は年間35万件にものぼる。その中の多くは、スポーツ科学の「か」の字も知らぬ、“ド根性監督・コーチ”が課したオーバーワークによる「人災」だということが、さまざまな調査で明らかになっている。国や自治体の「部活動ガイドライン」は、そんな昭和の価値観を引きずる“ド根性監督・コーチ”の暴走を防ぐ目的で生まれたのだ。 そういう今の学生スポーツの深刻な問題をまるっきり無視して、前途のある青少年に進んで「破滅」を促すような発言は、さすがにダルビッシュ有選手をはじめ、多くのプロアスリートから批判されている。スポーツを愛し、生涯の仕事としてキャリアを重ねる人たちからすれば、極めてノーマルな反応といえよう』、「中学・高校で起きる事故の半分以上が運動部で起きており、その数は年間35万件にものぼる。その中の多くは、スポーツ科学の「か」の字も知らぬ、“ド根性監督・コーチ”が課したオーバーワークによる「人災」」、ということで生まれた「部活動ガイドライン」も、張本勲氏は恐らく眼も通してないのだろう。
・『スポ根はブラック企業と とてもよく似ている  ただ、個人的にクレイジーだと思うのは、この騒動を受けてもなお、「張本発言」を強く支持する方たちが、世の中にはかなりいるということである。彼らの主張をまとめると、ざっとこんな感じだ。 +佐々木投手本人は絶対に投げたかったはずだから、本人の意志を尊重して投げさせてやるべきだった +甲子園出場を「夢」としてチームで頑張ってきたのだから、佐々木投手個人の将来より「完全燃焼」を優先すべき +公立は部員が少ないので、エースの負担が多くなるのはしょうがない これを見て勘のいい方は、もうお気づきだろう。一見すると、漫画の「巨人の星」や「キャプテン」で見られた昭和のスポ根的世界観のようだが、よくよくその言葉を噛み締めてみれば、ブラック企業の経営者やパワハラ上司たちが言っていることと丸かぶりなのだ。 これまで筆者は、死者を出すほどの過重労働が問題となった企業の経営者や、部下を心療内科送りにしたパワハラ上司の方たちと実際にお会いして、「言い分」を聞く機会がたびたびあったが、確かにこれと瓜二つの主張をよく耳にした。 例えば、過重労働で自殺者を出した企業の経営者は、「無理にやらせているわけではなく、帰れと言ってもみんな残業をする」とか「みんな自分の夢の実現のため、休日出勤や時間外労働をしている」なんて感じで熱弁をふるっていた。 とにかく苦しくなると、「本人の意志」とか「夢」という言葉を持ち出して、劣悪な環境やパワハラを正当化するあたりが、ブラック労働と「根性野球」の支持者は、怖いくらい似ているのだ。 なぜこうなってしまうのか。答えは簡単で「子ども」と「社会人」という違いはあるが、基本的に見ている世界、目指す理想が同じだからだ。白球を追いかける球児、祈る女子高生なんて爽やかイメージでチャラにしようとしているが、そこで行われている坊主強制・連帯責任・理不尽なシゴキ・先輩による後輩イジメなどハラスメントの数々は、ブラック企業とさほど変わらないのだ。 清く正しく美しい高校野球を侮辱するとは何事だ、と今すぐ編集部に抗議の電話をかけたくなる方も多いかもしれないが、その醜悪な現実を、これ以上ないほどわかりやすく世に知らしめた高校がある。 去年の夏、日本中から「感動をありがとう」の大合唱が起きた秋田県の金足農業高校だ』、「白球を追いかける球児、祈る女子高生なんて爽やかイメージでチャラにしようとしているが、そこで行われている坊主強制・連帯責任・理不尽なシゴキ・先輩による後輩イジメなどハラスメントの数々は、ブラック企業とさほど変わらないのだ」、冷徹な分析で、その通りだろう。
・『「自分の意思」で 破滅への道をひた走る  今年7月16日の秋田大会で足金農は敗れた。その試合後、チームを引っ張ってきた3年生の主将は涙ぐんで「正直、本当につらかった」と述べた。だが、これは高校生が「部活」という課外活動で経験する「つらさ」のレベルをはるかに超えたものだった。 《新チームとなってから、いつも周囲から「あの金足農の選手」と見られた。秋の県大会では準々決勝で敗退。冬の厳しい練習で追い込もう。そう意気込んだ矢先の今年1月、練習中に突然倒れて意識を失った。精神的な要因で手足などにまひが残るとされる「転換性障害」との診断。足が動かなくなり、車椅子生活が4カ月間続いた。》(朝日新聞2019年7月16日) 朝日新聞なので、部数激減を“甲子園ビジネス”でカバーしようとでもいうのか何やら感動ドラマっぽい話になっているが、これを社会人に置き換えてほしい。どうひいき目に見ても「ブラック企業」の犠牲者のエピソードではないか。 もちろん、この主将は誰かに強制されて厳しい練習をやっていたわけではないだろう。「自分の選んだ道」「自分の夢」として、甲子園を目指し過酷な練習をしていた。自分のために頑張り、自分のために歯を食いしばっているうちに、精神が追い詰められてしまったのだ。 ただ、それはブラック企業もまったく同じである。電通で「過労自殺」した女性社員をはじめとした、ブラック企業の犠牲者のほとんどは、自分の夢の実現のために、そのハードな職場環境へ自ら身を投じ、自らの意志で過重労働をしているうちに心と体を破壊した。しかし、そこには「お前が選んだんだから」と陰に陽に過度な頑張りを奨励する経営者や上司たちがいたはずだ。 要するに、「自分が選んだ道」や「自分の夢」という言葉を呪文のように繰り返すことで、若者を洗脳して精神的、肉体的に追い込んでいくという、いわゆる「やりがい搾取」というやつだ』、「やりがい搾取」とは言い得て妙だ。
・『破滅へと突き進む若者を 止めない大人たちの罪  高校野球で若者が壊れていくプロセスも、まったく同じである。みな自分の意志で無茶をする。肩が壊れるまで投げさせろと懇願する。熱中症になるまで自分を追い込む。 この「やりがい搾取」が恐ろしい悲劇しか招かないというのは、やはり金足農を見ればよくわかる。試合に敗れた数日後、地元紙にこんな記事が出ている。《金足農業高校の野球部関係者から、部員が練習後に体調不良になったと119番があった。市消防本部によると、6人が手足のしびれや頭痛など熱中症とみられる症状を訴え市内の病院に搬送された。》(秋田魁新報 2019年7月22日) 彼らの夏は終わった。しかし、秋の大会へ向けて、また自分たちを厳しく追い込んでいたのだろう。「この悔しさがバネになるんだ!」とか感動する人も多いかもしれないが、筆者はまったくそう思わない。 ブラック企業で、自分を追い込んで、追い込んで、しまいには心身を壊してしまう若者たちの姿が重なってしまうからである。 このように高校野球もブラック企業も本当に恐ろしいのは、未来のある若者たちが「みんなのため」と叫びながら、次々と「破滅」していくことなのだ。しかも、そういう愚かな行為を本来止めなくてはいけないはずの大人や上司が「よし!よく言った」「悔いのないように完全燃焼しろ!」なんて感じで後押しをする。これこそが、夏になるたび球児が熱中症でバタバタと倒れ、中には深刻な障害が残ったり命を落とす者が後を絶たない理由である。 だからこそ、涼しい季節の開催や球数制限などの「ルール」が必要なのだ。 ブラック企業問題を、経営者の「良心」や「自主性」に任せても絶対に解決ができないのと同じで、部活問題も、”ド根性監督・コーチ”が「科学的指導」に目覚めるのを待っていては、犠牲者が増えるだけだ。むしろ、少子化で公立の場合、野球部員の数が急速に減っていくので、「私立の強豪と張り合うには、向こう以上に厳しい練習をするしかない!」なんて感じで、よりハードな「根性原理主義」へ傾倒していく恐れがある』、「涼しい季節の開催や球数制限などの「ルール」が必要」、というのは大賛成だ。
・『まったく科学的でない 時代遅れの「根性信仰」  そのあたりは、筆者は適当なフィーリングで述べているのではない。6月7日に開催された「投手の障害予防に関する有識者会議」(第2回)の中でも、スポーツ整形外科医師の正富隆委員は、「全ての指導者の方がすばらしい指導者であれば、我々医者は球数制限なんて言わないと思います。残念ながら指導者に潰されている選手をたくさん診ているから、何とか球数制限で守ってやるしかない」と苦言を呈している。 こういう科学的な指摘を、日本高等学校野球連盟(高野連)も、その下にいる小学校・中学校の野球関係者も無視してきた。「根性こそが強くなるためには必要」という、信仰にも似た思い込みがあるからだ。 現在、ラグビーのイングランド代表チームを率いるエディ・ジョーンズ氏は、サントリーの監督時代、日本の部活文化を知るため、「スクール・ウォーズ」を3ヵ月かけて全部見たという。その時のことについて、「部活が危ない」(講談社)の著書・島沢優子氏がインタビューをしたところ、ジョーンズ氏はこう述べている。 「感想は…ジャスト・スチューピッド(Just stupid=バカバカしい)。戦時中とかではない。ほんの二十数年前に作られたドラマだということが信じられなかった」 そんなジョーンズ氏に、高校球児に肩が壊れてもいいから投げろという日本人が多いことについて尋ねたらどうか。きっと、こう言うのでないか。「狂っている」ーー。 いい加減にそろそろ、日本社会のあらゆる「狂気」の源泉に「部活」というものがあるという事実を、潔く認めるべきではないか』、説得力溢れた主張だ。「投手の障害予防に関する有識者会議」(第2回)でのスポーツ整形外科医師の正富隆委員の警告を無視する「高野連」や小学校・中学校の野球関係者の姿勢は、目を覚ますべきだろう。

第三に、コラムニストの小田嶋 隆氏が8月2日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「高校生の肘をサカナに旨い酒を飲む」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00033/?P=1
・『毎年、この時期になると高校野球の話題を取り上げている気がしている。 しかも、毎度同じような立場(具体的には「高校生の苦行を見物するのは悪趣味だぞ」的な上から目線での決めつけ)から苦言を並べ立てる趣旨の原稿を書いている自覚がある。 読者の中には、オダジマが毎回繰り返し持ち出してくる甲子園関連記事に食傷している向きも少なくないはずだ。 「ああ、オダジマがまた高校野球にケチをつけている」「きらいなら黙ってればいいのに」「気に食わないコンテンツを無視できないのって、一種の病気だよな」「うん。不幸にして不毛な不治の病だと思う」 大筋において、私のイチャモンのつけ方がおとなげないことは、認めなければならない。 にもかかわらず、自分の言いざまがくだくだしいことを承知の上で、それでも私は口をはさまずにいられない。 困った性分だ。 この問題(←毎夏、甲子園大会が開催されるたびに表面化することになっている、わたくしたち日本人の度し難い思い込み)を、私は看過することができない。 なんとなれば、「無理をすることは美しい」「仮に頑張った結果が報われなくても、頑張ったことそのものに価値がある」「無理をした結果が悪い方向に転んだのだとしても、そんなことはたいした問題ではない。なにより大切なのは、若い人たちが無理を重ねたことを通じて、人間的に成長していくその過程なのだ」式の考え方と、その思想がもたらす「無理」によって成立している組織のあり方こそが、私の一生涯を通しての変わらぬ仮想敵であったからだ。 しかも、その戦いに、今年もまた私は敗北しつつある。 なんと残念ななりゆきであろうか。 われら21世紀の日本人は、いまだにインパールの延長戦を戦い続けている。そして、その自分たちの全国民を挙げての愚かな敗北の物語を、あろうことか、美しいと思い込んでいる。 私がどんなに口を酸っぱくして指摘しても、多数派の日本人は、自己犠牲の物語が大好きで、それゆえ、高校生たちが、理不尽な運命に苦しむ姿を、夏休みの娯楽として消費する習慣を決してあきらめようとしない。 経緯を振り返っておく。 2019年の7月25日、第101回全国高校野球選手権大会への出場を懸けた岩手大会決勝で、大船渡・国保陽平監督(32)が高校最速の163キロを記録したエースの佐々木朗希投手(3年)を起用せずに、敗退した。 国保監督が佐々木投手の連投を避けるべく決勝戦での登板を回避させた判断の是非について申し上げるなら、すでに結論は出ている。 あれは、どこからどう見ても正しい決断だった。 この点について議論の余地はない。むしろ、これほどまでに明白な論点に関して、いまだに議論がくすぶっていることを、われわれは恥じなければならない』、「われら21世紀の日本人は、いまだにインパールの延長戦を戦い続けている。そして、その自分たちの全国民を挙げての愚かな敗北の物語を、あろうことか、美しいと思い込んでいる。 私がどんなに口を酸っぱくして指摘しても、多数派の日本人は、自己犠牲の物語が大好きで、それゆえ、高校生たちが、理不尽な運命に苦しむ姿を、夏休みの娯楽として消費する習慣を決してあきらめようとしない」、というのは鋭い指摘だ。
・『当日の朝日新聞が興味深い記事を掲載している。 記者は、まず 《賛否はあるだろうが、選手を守るための判断なら、第三者が口を挟むべきではないと思う。》と、シンプルに断言している。 おっしゃる通りだと思う。私自身、この点に異論はない。 ただ、注意せねばならないのは、記者氏が、最初に掲げたこの結論を補強するために、以下のような論陣を張っている点だ。 《投球数制限を議論する中で、「毎日一緒にいる指導者に任せて欲しい」という現場の声をよく聞く。「だから投げさせて」と主張するなら、「だから投げさせない」という考え方もあって当然だ。指導者と選手がどう話し合い、どんな準備をしてきたか。それは当人たちにしか分からない。 投げさせた監督も、投げさせなかった監督も非難されるなら、厳格な投球数制限をするしかない。 甲子園という夢は破れたが、注目を浴びながら決勝まで勝ち上がった経験は、チームメートにとってもプラスになるだろう。この夏を総括し、次の目標へと切り替える作業も、現場に任せればいい。》 要約すれば、「どんな判断であれ、現場の決断を最大限に尊重すべきだ」というお話だ。 明快な主張だとは思うものの、一方において、この記事が、いかにも朝日新聞らしい論理展開に終始している点も指摘しておかなければならない。 なんとなれば、「部外者は当事者の判断に口をはさむべきではない」というこの理屈は、大会の主催者である朝日新聞社ならびに高野連の開催責任をテンから投げ出した物言いでもあるからだ。 実際、「現場で選手を見ている監督の判断(←投げさせるのであれ投げさせないのであれ)がすべてに優先されるべきだ」 と断言してしまったが最後、球数制限の導入や、大会日程の見直しをはじめとする春夏の甲子園大会の改革に関して進行しつつある議論は、すべて吹っ飛んでしまう。 私自身は、目先の勝利と選手の将来を天秤にかける過酷な判断を「現場」(具体的には「監督」)に丸投げしている主催者の無責任こそが、この問題の元凶であると考えている。 別の言い方をすれば、公式のルールなりレギュレーションを通じて連投規制なり球数制限なりを導入しない限り、この種の問題は毎年のように繰り返され、必ずや監督なり選手なりを重圧の中で苦しめるはずだということでもある。 甲子園の日程が狂気の沙汰であることははっきりしている。 というよりも、狂気は、甲子園以前の少年野球の段階で、すでに始まっているものなのかもしれない』、「目先の勝利と選手の将来を天秤にかける過酷な判断を「現場」(具体的には「監督」)に丸投げしている主催者の無責任こそが、この問題の元凶であると考えている」、というのはその通りだ。
・『NHKのNEWS WEBが《トミー・ジョン手術 4割が高校生以下 野球指導者の意識改革を》という見出しで、こんな記事を配信している。 なんでも、《群馬県館林市にある慶友整形外科病院は「トミー・ジョン手術」を行う国内でも有数の病院で、これまでプロ野球選手を含めおよそ1200件の手術を行っています。このうち、10年以上にわたって600件以上の手術を行ってきた古島弘三医師が、担当した患者を分析したところ、高校生以下の子どもがおよそ4割を占め、中には小学生もいたことが分かりました。》ということらしい。 なんといたましい話だ。 わたしたちは、子供たちの肘をサカナに旨い酒を飲んでいる。 さて、前置きが長くなった。 私が本当に言いたいのは、ここから先の話だ。 つまり、問題の本質は、大会日程の過酷さや、投手の肘への負担の大きさよりも、むしろその若者たちの負担や犠牲を「美しい」と思い込んでしまっているわれら日本人の美意識の異様さの中にあるはずだという主張を、私は、またしても蒸し返そうとしている次第なのだ。 2018年の10月、プレジデントオンラインに、元文部科学省の官僚で、現在は映画評論家として活躍している寺脇研氏が、 《監督の"打つな"を無視した野球少年の末路 上からの命令は「絶対」なのか》と題する記事を寄稿している。 私は、今回の問題をめぐる議論を眺めていて、この記事を思い出さずにおれなかった。 というのも、当初は佐々木投手を登板させることに関して 「甲子園出場というかけがえのない舞台の大切さ」「有望な投手が故障する可能性の恐ろしさ」「大会日程の過酷さ」「球数制限の是非」といったあたりで沸騰していたはずの議論が、 いつしか 「全体のために尽くす心の大切さ」「高校生が野球を野球たらしめている自己犠牲の精神から学ぶ人生の真実」みたいな「道徳」ないしは「美意識」の話に移行していく流れを、ネット上の様々な場所でいくつも目撃せねばならなかったからだ。 記事中で、寺脇氏は「星野君の二塁打」という道徳教材の中で称揚されている「ギセイの精神」について、 《「ギセイ」とわざわざ片仮名で書いたあたりに作者のわずかばかりの逡巡は匂うものの、戦争を反省し人権尊重をうたう日本国憲法が施行された直後に発表された作品とは思えない無神経さだ。 こんなセリフを、そのまま現在の教科書に使っていいはずはない。すでに「犠牲バント」という言葉が消え、単に「バント」あるいは「送りバント」と呼ばれるようになって久しい現代において、「犠牲の精神」がなければ社会へ出てもダメだと決め付けるようなもの言いは時代錯誤だ。ちなみに、もう1社の教科書では「犠牲」の部分は使われていない。この話をこんな形で道徳の教科書に使うのは不適切ではないだろうか。》と書いている。 同感だ』、「トミー・ジョン手術 4割が高校生以下」というのは痛ましい悲劇だ 。「当初は佐々木投手を登板させることに関して 「甲子園出場というかけがえのない舞台の大切さ」「有望な投手が故障する可能性の恐ろしさ」「大会日程の過酷さ」「球数制限の是非」といったあたりで沸騰していたはずの議論が、 いつしか 「全体のために尽くす心の大切さ」「高校生が野球を野球たらしめている自己犠牲の精神から学ぶ人生の真実」みたいな「道徳」ないしは「美意識」の話に移行していく流れを、ネット上の様々な場所でいくつも目撃せねばならなかったからだ」、というのは由々しいことだ。元文部科学省の官僚・・・寺脇研氏の主張ももっともだが、教科書検定では自らの意見を言えなかった事情も知りたいところだ。
・『が、現状を見るに、小学校の道徳教材の中で暗示される「ギセイ」の物語は、毎夏集中放送される甲子園球児の「青春残酷物語」を通じて、補強され、シンクロされ、具体化されている。 われわれは、ギセイの物語を美しいと思うべく条件づけられている。 目の肥えた野球ファンは、夏の甲子園大会が、エースピッチャーにとって過酷であるという程度のことは、十分に認識している。ただ、彼らは、同時に、夏の甲子園のグラウンド上で展開される一回性の魔法が「残酷だからこそ美しい」ということを、よく承知している人々でもある。 つまり、暑くて、苦しくて、将来有望な投手の肘や肩を台無しにするかもしれない危険をはらんでいるからこそ、観客であるわれわれは、その運命の残酷さに心を打たれるわけで、逆に言えば、グラウンド上の子供たちが、快適な気象条件と穏当な日程の中で、のびのびと野球を楽しんでいるのだとしたら、そんな「ヌルい」コンテンツを、われら高校野球ファンはわざわざ観戦したいとは思わないということだ。 こじつけだと思う人もあるだろうが、私は、道徳の教科書を制作している人々が「星野君の二塁打」を通じて現代の小学生に伝えようとしている精神は、今回の佐々木投手の登板回避をめぐる議論にも少なからぬ影響を与えていると思っている。 というよりも、そもそものはじめから、佐々木投手の登板回避をめぐる話題は、投手の肘がどうしたとか、大会の日程がハチのアタマであるとかいった些末な話ではなくて、そのものズバリ、「犠牲」の物語なのである。 類まれな才能が、美しい生贄として野球の神に捧げられなかったなりゆきを、残念に思っている人々が、たくさんいるからこそ、佐々木投手の話題は、いまだにくすぶり続けている、と、そういうふうに考えなければならない。 大船渡高校の監督が佐々木投手の登板回避を決断して試合に敗れた週の日曜日、TBS系列が午前中に放送している「サンデーモーニング」という番組の中で、野球評論家の張本勲氏が、監督の判断に「喝」を入れたことが話題になった。 番組の中で、張本氏は以下のように述べている。 「最近のスポーツ界で私はこれが一番残念だと思いましたよ。32歳の監督で若いから非常に苦労したと思いますがね、絶対に投げさせるべきなんですよ」「けがを怖がったんじゃ、スポーツやめたほうがいいよ。みんな宿命なんだから、スポーツ選手は」「(佐々木の)将来を考えたら投げさせたほうがいいに決まってるじゃない。苦しいときの投球を体で覚えてね、それから大成したピッチャーはいくらでもいるんだから。楽させちゃダメですよ。スポーツ選手は」 論評の言葉が見つからない。 最新のスポーツ医学がもたらすところの知見によれば、とか、そういうことをここで繰り返しても仕方がなかろう。 ただ、この場を借りて強調しておかなければならないのは、張本氏の主張は、素っ頓狂であるように見えて、あれはあれで、野球好きな日本人のど真ん中の感慨でもあるということだ。 重要なのは、張本氏に限らず、多くのスポーツファンが「チームのために」「勝利のために」自らの青春を捧げることを美しい行為であると考える美意識を共有していることだ。 肩がどうしたとか肘がどうしたというお話は、その「美意識」(←美しく「散る」若者の姿を見たいというわれら凡庸人の願望)を飾るスパイスであるに過ぎない』、「そもそものはじめから、佐々木投手の登板回避をめぐる話題は、投手の肘がどうしたとか、大会の日程がハチのアタマであるとかいった些末な話ではなくて、そのものズバリ、「犠牲」の物語なのである。 類まれな才能が、美しい生贄として野球の神に捧げられなかったなりゆきを、残念に思っている人々が、たくさんいるからこそ、佐々木投手の話題は、いまだにくすぶり続けている」、「重要なのは、張本氏に限らず、多くのスポーツファンが「チームのために」「勝利のために」自らの青春を捧げることを美しい行為であると考える美意識を共有していることだ」、などは本質を突いた鋭い指摘だ。
・『われわれは、自己犠牲の物語を美しいと感じるように育てられている。 ついでに言えばだが、その美意識は、現政権が現行憲法を改正する上での最も重要な動機になってもいる。 自民党が公表している改正案の中では、日本国憲法の中にある「個人」という言葉が、すべて「人」に書き換えられることになっている。 要するに、新しい憲法草案の中では、われら国民は、一個の個人である前に、「国家」なり「公」の一構成要素であると考えられているわけだ。 最後に余計なことを言ったかもしれない。 が、私もまた、犠牲者としてリストアップされている人間の一人である以上、言うべきことは言っておかなければならない。 ベースボールは、アメリカで誕生した時点では、進塁と得点を競うシンプルなゲームだった。 それが、地球の裏側のわが国に渡来して「野球」という言葉に翻訳されると、いつしかそれは「犠牲バント」と「敬遠四球」によって実現されるインパールな敗北を愛でる暗鬱な儀式に変貌した。 星野君の二塁打は祝福されない。 勝利に貢献しなかったからではない。 全体に同調しなかったからだ。 同じ文脈において、国保監督の判断は、称賛はされても祝福はされない。 敗北したからではない。 国民の気分に同調しなかったからだ。 いやな結論になった。 毎年、この季節はいやな原稿を書いている。 私は世の勤め人の夏休みを呪っているのかもしれない。 この底意地の悪い原稿を読み終わったら、夏休みを楽しんでいる皆さんは、どうかゆったりとした気持ちを取り戻してください。ごめいわくをおかけしました』、「われわれは、自己犠牲の物語を美しいと感じるように育てられている。 ついでに言えばだが、その美意識は、現政権が現行憲法を改正する上での最も重要な動機になってもいる。 自民党が公表している改正案の中では、日本国憲法の中にある「個人」という言葉が、すべて「人」に書き換えられることになっている。 要するに、新しい憲法草案の中では、われら国民は、一個の個人である前に、「国家」なり「公」の一構成要素であると考えられているわけだ」、この問題が憲法改正にまでつながっているとは、改めて驚かされた。「ベースボールは、アメリカで誕生した時点では、進塁と得点を競うシンプルなゲームだった。 それが、地球の裏側のわが国に渡来して「野球」という言葉に翻訳されると、いつしかそれは「犠牲バント」と「敬遠四球」によって実現されるインパールな敗北を愛でる暗鬱な儀式に変貌した」、個々人としては、政府やマスコミに惑われずに、同調圧力に抗して自分なりに考えるようにしていきたい。
タグ:日経ビジネスオンライン ダイヤモンド・オンライン 窪田順生 Newsポストセブン 日本のスポーツ界 小田嶋 隆 (その26)(競走馬156頭出走取り消し騒動 「巨額賠償金」の行方、「スポ根」を感動ドラマに仕立てる甲子園はブラック労働の生みの親だ、小田嶋氏:高校生の肘をサカナに旨い酒を飲む) 「競走馬156頭出走取り消し騒動 「巨額賠償金」の行方」 JRAは日本農産工業が販売した飼料添加物(馬用サプリメント)「グリーンカル」から禁止薬物のテオブロミンが検出されたと発表 同社の添加物を摂取した可能性のある156頭が競走除外になった 認識が食い違っている 賞金についての補償まで認められれば、数億円単位の賠償になる 「「スポ根」を感動ドラマに仕立てる甲子園はブラック労働の生みの親だ」 大船渡高校エースの登板回避で 抗議電話が殺到する事態に 大船渡高校に抗議の電話が殺到 野球評論家の張本勲 「苦しい時の投球を、体で覚えて大成した投手はいくらでもいる。楽させちゃダメ。スポーツ選手は」「けがを怖がったんじゃ、スポーツやめたほうがいいよ」 中学・高校で起きる事故の半分以上が運動部で起きており、その数は年間35万件にものぼる その中の多くは、スポーツ科学の「か」の字も知らぬ、“ド根性監督・コーチ”が課したオーバーワークによる「人災」だということが、さまざまな調査で明らかに スポ根はブラック企業と とてもよく似ている とにかく苦しくなると、「本人の意志」とか「夢」という言葉を持ち出して、劣悪な環境やパワハラを正当化するあたりが、ブラック労働と「根性野球」の支持者は、怖いくらい似ているのだ 白球を追いかける球児、祈る女子高生なんて爽やかイメージでチャラにしようとしているが、そこで行われている坊主強制・連帯責任・理不尽なシゴキ・先輩による後輩イジメなどハラスメントの数々は、ブラック企業とさほど変わらないのだ 「自分の意思」で 破滅への道をひた走る 「自分が選んだ道」や「自分の夢」という言葉を呪文のように繰り返すことで、若者を洗脳して精神的、肉体的に追い込んでいくという、いわゆる「やりがい搾取」というやつだ 破滅へと突き進む若者を 止めない大人たちの罪 涼しい季節の開催や球数制限などの「ルール」が必要 まったく科学的でない 時代遅れの「根性信仰」 「投手の障害予防に関する有識者会議」 スポーツ整形外科医師の正富隆委員 「全ての指導者の方がすばらしい指導者であれば、我々医者は球数制限なんて言わないと思います。残念ながら指導者に潰されている選手をたくさん診ているから、何とか球数制限で守ってやるしかない」と苦言 「高校生の肘をサカナに旨い酒を飲む」 若い人たちが無理を重ねたことを通じて、人間的に成長していくその過程なのだ」式の考え方と、その思想がもたらす「無理」によって成立している組織のあり方こそが、私の一生涯を通しての変わらぬ仮想敵 われら21世紀の日本人は、いまだにインパールの延長戦を戦い続けている。そして、その自分たちの全国民を挙げての愚かな敗北の物語を、あろうことか、美しいと思い込んでいる。 私がどんなに口を酸っぱくして指摘しても、多数派の日本人は、自己犠牲の物語が大好きで、それゆえ、高校生たちが、理不尽な運命に苦しむ姿を、夏休みの娯楽として消費する習慣を決してあきらめようとしない 「部外者は当事者の判断に口をはさむべきではない」というこの理屈は、大会の主催者である朝日新聞社ならびに高野連の開催責任をテンから投げ出した物言い 目先の勝利と選手の将来を天秤にかける過酷な判断を「現場」(具体的には「監督」)に丸投げしている主催者の無責任こそが、この問題の元凶 NHKのNEWS WEB トミー・ジョン手術 4割が高校生以下 野球指導者の意識改革を 問題の本質は、大会日程の過酷さや、投手の肘への負担の大きさよりも、むしろその若者たちの負担や犠牲を「美しい」と思い込んでしまっているわれら日本人の美意識の異様さの中にある 「全体のために尽くす心の大切さ」「高校生が野球を野球たらしめている自己犠牲の精神から学ぶ人生の真実」みたいな「道徳」ないしは「美意識」の話に移行していく流れを、ネット上の様々な場所でいくつも目撃せねばならなかったからだ 元文部科学省の官僚で、現在は映画評論家として活躍している寺脇研氏 戦争を反省し人権尊重をうたう日本国憲法が施行された直後に発表された作品とは思えない無神経さだ。 こんなセリフを、そのまま現在の教科書に使っていいはずはない 佐々木投手の登板回避をめぐる話題は、投手の肘がどうしたとか、大会の日程がハチのアタマであるとかいった些末な話ではなくて、そのものズバリ、「犠牲」の物語なのである。 類まれな才能が、美しい生贄として野球の神に捧げられなかったなりゆきを、残念に思っている人々が、たくさんいるからこそ、佐々木投手の話題は、いまだにくすぶり続けている 重要なのは、張本氏に限らず、多くのスポーツファンが「チームのために」「勝利のために」自らの青春を捧げることを美しい行為であると考える美意識を共有していることだ 自己犠牲の物語を美しいと感じるように育てられている その美意識は、現政権が現行憲法を改正する上での最も重要な動機になってもいる 自民党が公表している改正案の中では、日本国憲法の中にある「個人」という言葉が、すべて「人」に書き換えられることになっている。 要するに、新しい憲法草案の中では、われら国民は、一個の個人である前に、「国家」なり「公」の一構成要素であると考えられているわけだ
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