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歴史問題(9)(「戦争には勝者も敗者もない」――川に人骨……戦時の悲惨さ知る亀井静香の原体験、飢餓 自殺強要 私的制裁--戦闘どころではなかった旧日本軍、米中ソ3国と同時に戦う! また裂き状態だった旧日本軍の意思決定) [国内政治]

昨日に続いて、歴史問題(9)(「戦争には勝者も敗者もない」――川に人骨……戦時の悲惨さ知る亀井静香の原体験、飢餓 自殺強要 私的制裁--戦闘どころではなかった旧日本軍、米中ソ3国と同時に戦う! また裂き状態だった旧日本軍の意思決定)を取上げよう。

先ずは、8月14日付けYahooニュース「「戦争には勝者も敗者もない」――川に人骨……戦時の悲惨さ知る亀井静香の原体験」を紹介しよう(Qは聞き手の質問、Aは亀井氏の回答)。
https://news.yahoo.co.jp/feature/1413
・『「川で泳ぐと、たくさんの人の骨が沈んでいるんです。悲惨ですよ」。広島県で終戦を迎えた元衆議院議員の亀井静香氏(82)は少年時代の記憶を語る。終戦から74年。不戦の誓いを立てた日本では、戦争を知る人たちが次々と鬼籍に入り、戦争の記憶は風化しつつある。現職の国会議員もほとんどが戦後世代。保守系政治家としてこの国の戦後政治を見てきた亀井氏に、自身の戦争体験について聞いた』、亀井静香氏はハト派の硬骨漢で、私も注目していた。郵政民営化問題では小泉に楯突いて離党、国民新党党首に。郵政選挙では堀江貴文氏を刺客に立てられたが、勝利。2017年に引退したのは残念だ。
・『ピカッと光った後に地響き  亀井静香氏は1936(昭和11)年に広島県山内北村(やまのうちきたそん、現・庄原市)で生まれた。県庁のある広島市から北東に80キロほど離れた山間の村。父は村の助役、4人きょうだいの末っ子で、姉2人、兄1人がいた。広島に原爆が投下されたのは1945年8月6日午前8時15分。当時8歳だった亀井氏は今も鮮明に覚えている。 Q:その瞬間は、どこで何をしていたのですか? A:国民学校3年のときだったかな。当時、小学校は校庭を全部イモ畑にして、児童はみんな朝からイモ畑の手入れに駆り出されていた。夏休みなのに。食料がなかったからね。それで朝8時過ぎ、私の通っていた川北小学校は少し高台にあるんですが、山並みの向こうから、ピカッと空に鮮烈な光が見えたんです。アレッと思ったらデーンと地響きがしてきた。 腹の底に響くような、とてつもない地響きだったよ。光った後にね。やがて、みなさんも知っているキノコ雲がサァーッと立ち上ってね。それは恐ろしいというよりも、いったい何が起きたんだろうという気持ちでした。あんな光景は初めて見た。 Q:当時、「原爆」という言葉は? A:知りませんでしたよ。いったい何が起きたんだろう? どうしたんだろう? って。私が生まれた山内北村はまだ村なんだけど、西側に現在の三次市(みよしし)があった。そこが空襲でやられたのかなぁとか、みんなでうわさし合っていた。やがて広島に落とされたのは新型爆弾らしいというのが口づてに伝わってきました。それから数日後ですよ。あの光に遭った人たちが、わが村にも逃げて来たのは。服も着ずに肌があらわな人、全身焼けただれた人、髪の毛が荒れ果てたままの人、それはもう凄まじい光景でした。 亀井静香氏は保守派として知られた政治家だ。1960年に東京大学経済学部を卒業後、2年ほどのサラリーマン生活を経て、警察庁に入庁。1971年、極左事件に関する初代統括責任者となる。1977年に退官、2年後の衆議院議員選挙に出馬、初当選した。自民党では、運輸大臣、建設大臣など閣僚も経験したが、2005年、郵政民営化に反対して自民党を離党。2017年の衆院選に出馬せず政界を引退した。 亀井氏は、幼い頃の郷里での体験が忘れられないという。いちばん上の姉は、原爆投下後の広島市内に入ったことで被爆した。入市被爆である。俳人で俳誌「茜」を主宰していた出井知恵子(いずいちえこ)さんだ。1929年生まれで、1986年に白血病で亡くなっている』、「数日後ですよ。あの光に遭った人たちが、わが村にも逃げて来たのは。服も着ずに肌があらわな人、全身焼けただれた人、髪の毛が荒れ果てたままの人、それはもう凄まじい光景でした」、「広島市から北東に80キロほど離れた山間の村」、にまで数日かけて逃げてきた被災者を目撃したのは強烈な体験だろう。
・『救援活動で被爆した姉  Q:ご家族も被爆されたとのことですが。 A:後で分かったんだが、姉も被爆していたんです。いちばん上の姉が。当時、三次の高等女学校の寄宿舎に住んでいたのですが、すぐに広島市内に救援活動に向かったといいます。多くの女学生と一緒にね。三次から爆心地へ通い続けた。それで二次被爆に遭ってしまったのです。 Q:つまり、三次にとどまっていれば……。 A:広島から70キロは離れているからね。行かなければ被爆はなかったんです。でも、そんなこと分からんから、当時は。それで、白血球の状態がだんだん悪くなって、苦しんで、最後は亡くなった。三次におれば、助かったかもしれません。 Q:お姉さんは、俳句を詠む人だったそうですね。 A:ええ、小さな雑誌を主宰しておりました。亡くなったときに当時の広島市長が、姉が生まれた私の実家の庭に句碑を立ててくれてね。そこにはこんな句が刻まれています。〈白血球 測る晩夏の渇きかな〉 白血球が増えたり減ったりしていたから、そういう恐怖感というようなものを姉は俳句にしたんだと思う。「渇きかな」というのはのどの渇きなんだろうね。姉のクラスメートの多くは同じ目に遭ってますよ。原爆訴訟(原爆被災者が、米国の原爆投下を国際法違反とし、戦争を起こした国を相手取り損害賠償請求を起こした訴訟)を起こした友人もいる。亡くなった人も少なくないですから……』、「いちばん上の姉が・・・二次被爆に遭ってしまった・・・白血病で亡くなった」、のも強烈な体験に違いない。
・『お国のために死ぬのが当たり前  亀井氏が生まれた1936年は、国内では二・二六事件が起き、世界ではナチス・ドイツが存在感を増していた時期だ。物心ついたときは、すでに戦争一色。亀井氏の家にも、通っていた学校にも天皇(昭和天皇)の写真が「御真影」として掲げられていたという。また、アメリカ兵がやって来たときに備えて、家には竹やりがあった。鬼ごっこや、かくれんぼと同じくらい、“戦争ごっこ”も日常だった。必然、幼かった亀井氏も愛国少年になったという。 Q:やはり、亀井さんも「天皇陛下、バンザイ」とか「鬼畜米英」とか? A:そりゃそうよ。だって、それが時代の空気だから。朝、学校に行くと、いちばんに天皇陛下の御真影に挨拶をする。毎日だよ。それは、忠君愛国ですから。そうでないと「非国民」にされる。当時の天皇陛下は生き神様です。 Q:小学生でも、ですか? A:もちろん。いまの人からすればおかしいと思うかもしれないけれど、疑問に思う人間はいなかったと思うね。ごく一部にね、「戦争反対」とか「このままじゃ負ける」と思っとった人がいたかもしれないけれど、ほとんどの人はみ~んな非常に素直に、とにかく鬼畜米英でしたよ。 Q:それは、親とか学校の先生とかに教わるものなんでしょうか。 A:教育もそうなんだけど、空気みたいなものだから。自然にね。時代の空気を吸っていると自然とそうなった。天皇陛下のため、お国のために死ぬのが当たり前だと。だから私のような子どもでも、戦争に負けたことがわかったときには肥後守という折り畳みの小刀を持って、兄貴を「一緒に死のう」って追っかけ回したくらいです。でも、兄貴には逃げられちゃいましたけどね』、文字通りの「愛国少年だった」ようだ。
・『川に沈む人骨  愛国少年だった亀井氏は地元小学校を卒業すると、県内トップレベルの私立修道中学校に進学。広島市内に寄宿した。そこでまた、戦争の悲惨さを目の当たりにする。 Q:当時の広島市内はどんな様子でしたか。 A:もう原爆から4年経っていたからね、焼け野原にバラック(粗末な小屋)がいっぱい立っていました。人間の生命力はすごいと思った。でもね、いまでも覚えているんだけど、川で泳ぐと、たくさんの人の骨が沈んでいるんですよ。 Q:人骨ですか? A:多くの人が熱くて川に逃げて死んだから。それはもう、おびただしい数だったよ。それから、街にはビルがあるでしょ。そのビルの壁には人の影が映ったまま残っている。写真機と一緒で、原爆の光で焼き付けられた人影の跡が。そういうのがあちこちにあった。悲惨ですよ。 だんだん悲しくなって、やがて憤りになってきた。なんで、こんな目に遭わなけりゃいけんのだって。それなのに、日本人は「過ちは繰り返しません」と反省ばかり。やったのはアメリカだよ。勝てば何でも許されるのか。そうじゃないでしょう』、「だんだん悲しくなって、やがて憤りになってきた」、というのは正義感の強い少年としては当然の反応だ。
・『とにかく戦争はやっちゃいかん  「戦争には勝者も敗者もない」というのが亀井氏の持論である。そして、一国のリーダーたる者、何があっても絶対に戦争への舵を切ってはいけないと力説する。 Q:そういう経験から、戦争は反対だと……。 A:経験のあるなしは関係ない。とにかく戦争はやっちゃいかんのだよ。戦争には勝者も敗者もない。それは、勝ったほうも負けたほうも悲惨だから。アメリカだって、ものすごい数の犠牲者を出しているでしょう。そりゃあ、大統領は戦死しないかもしれないけれど。日本の兵隊だろうが、アメリカの兵隊だろうが、死ぬことの悲惨さという面においては同じ。だから、戦争はしちゃいかんのです。 Q:しかし、当時の日本は戦争への道を突き進みました。 A:極端な話、飢え死にしたって戦争はしないほうがましです。当時の日本も、ABCD包囲網(アメリカ、イギリス、中華民国、オランダによる貿易制限措置。1940年頃から進められ、対日石油禁輸などで、日本は追い込まれていった)などで苦しんでいたとはいえ、それでも別の道を選択すべきだった。一国のリーダーは、耐えて、耐えて、国民に「我慢しろ」と言わないとあかん。戦争するわけにはいかないんだ、とね。だけど、それは大変なことですよ。 Q:なぜ、当時の指導者はそれができなかったのでしょうか。 A:言うは易し。当時は、国民もマスコミも「やれ」「やれ」「やれ」でしたからね。そういう中で、リーダーがそうじゃない道を模索して、それを実行するというのは、並大抵のことじゃない。それは分かる。しかしもう二度と、そういう道を選んではならんのです。 Q:いまは戦争を知らない世代が国会議員の大勢となり、戦争への理解が乏しくなった発言も見受けられます。 A:難しいけど、「戦争を知らない世代」とレッテル貼るわけにもいかんだろう。書物や口伝えで、戦争について理解しているやつもいる。それを「おまえたちは戦後生まれだから知っちゃおらん」って、決めつけちゃいかんよ。そんなこと言ったら歴史なんか成り立たないですよ。 丸山穂高議員がたたかれてたでしょ、この間。(たたくのは)「知らねえくせに、おまえ、戦争、戦争と言うな」という感覚があるんだよ、みんな。やっぱりそれは健全な感覚ってあるからね。一方で、国会議員が一般の人よりレベルが高いなんて考えも錯覚だよ。 Q:国会議員の質が下がったということでしょうか。 A:俺は、そんなことを言うほどの立場じゃないよ。神様じゃねえから。いや、俺なんか、神様から見れば、程度の悪い政治家だったなと思われてるよ。 ただ、戦争は駄目だよ。人を殺し合う。戦争っていうのは、その最たるものだ。俺は、平和主義者だぞ。だから、戦争は嫌に決まってる。人を殺すのが好きなわけねえじゃねえか』、「一国のリーダーは、耐えて、耐えて、国民に「我慢しろ」と言わないとあかん。戦争するわけにはいかないんだ、とね。だけど、それは大変なことですよ」、というのは根っからの「平和主義者」のようだ。安倍首相にはその爪の垢でも煎じて飲ませたいところだ。

次に、8月14日付け日経ビジネスオンラインが掲載した一橋大学大学院特任教授(日本近現代軍事史)の吉田 裕氏へのインタビュー「飢餓、自殺強要、私的制裁--戦闘どころではなかった旧日本軍」を紹介しよう(Qは聞き手の質問)。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/080700039/?P=1
・『映画「この世界の片隅に」  2016年公開)が8月3日、NHKによって地上波放送で初めて放映された。こうの史代さんのマンガを原作とする劇場版アニメだ。主人公は、すずさん。絵を描くのが好きな18歳の女性だ。広島から呉に嫁ぎ、戦争の時代を生きる(関連記事「『この世界の片隅に』は、一次資料の塊だ」)。アジア・太平洋戦争中の、普通の人の暮らしを淡々と描いたことが共感を呼んだ。 一方、アジア・太平洋戦争中の、戦地における兵士の実態を、数字に基づき客観的に描写したのが、吉田裕・一橋大学大学院特任教授の著書『日本軍兵士』だ。「戦闘」の場面はほとんど登場しない。描くのは、重い荷物を背負っての行軍、食料不足による栄養失調、私的制裁という暴力、兵士の逃亡・自殺・奔敵、戦争神経症に苦しむ様子--。同書の記述からは、軍が兵士をヒトとして遇そうとした跡を感じることはできない。加えて、第1次世界大戦から主流となった「総力戦」*を戦う態勢ができていなかった事実が随所に垣間見られる。 *:軍隊だけでなく、国の総力を挙げて行う戦争。軍需物資を生産する産業力やそれを支える財政力、兵士の動員を支えるコミュニティーの力などが問われる なぜ、このような戦い方をしたのか。終戦記念日 を迎えたのを機に考える。吉田特任教授に話を聞いた』、興味深そうだ。
・『吉田さんはご著書『日本軍兵士』の中で衝撃的な数字を紹介しています。 支那駐屯歩兵第一連隊の部隊史を見てみよう 。(中略)日中戦争以降の全戦没者は、「戦没者名簿」によれば、2625人である。このうち(中略)1944年以降の戦没者は、敗戦後の死者も含めて戦死者=533人、戦病死者=1475人、合計2008人である。(後略)(支那駐屯歩兵第一連隊史)(出所:『日本軍兵士』) この部隊の戦没者のうち約76%が終戦前の約1年間に集中しています。しかも、その73%が「戦病死者」。つまり「戦闘」ではなく、戦地における日々の生活の中で亡くなった。敗戦色が濃厚になるにつれ、兵士たちは戦闘どころではなく、生きることに必死だった様子がうかがわれます。 戦病死の中には、「餓死」が大きなウエイトを占めていました。 日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者数はすでに述べたように約230万人だが、餓死に関する藤原彰の先駆的研究は、このうち栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定している*。(『餓死した英霊たち』)(出所:『日本軍兵士』) *:諸説あり 飢餓が激しくなると、食糧を求めて、日本軍兵士が日本軍兵士を襲う事態まで発生しました。 飢餓がさらに深刻になると、食糧強奪のための殺害、あるいは、人肉食のための殺害まで横行するようになった。(中略)元陸軍軍医中尉の山田淳一は、日本軍の第1の敵は米軍、第2の敵はフィリピン人のゲリラ部隊、そして第3の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」として、その第3の敵について次のように説明している。 彼等は戦局がますます不利となり、食料がいよいよ窮乏を告げるに及んで、戦意を喪失して厭戦的となり守地を離脱していったのである。しかも、自らは食料収集の体力を未だ残しながらも、労せずして友軍他部隊の食料の窃盗、横領、強奪を敢えてし、遂には殺人強盗、甚だしきに至っては屍肉さえも食らうに至った不逞、非人道的な一部の日本兵だった。(前掲、『比島派遣一軍医の奮戦記』)(出所:『日本軍兵士』』、「病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)」、というのは驚くべき数字だ。「第3の敵は「われわれが『ジャパンゲリラ』と呼んだ日本兵の一群だった」、戦争で重要な補給を軽視した日本軍の成れの果てだ。
・『負傷兵は自殺を強要される  この後の質問の前提にある日本軍兵士の悲惨な事態を読者の皆さんと共有するため、もう少し、引用を続けます。 兵士たちは飢餓に苦しむだけでなく、自殺を強要されたり、命令によって殺害されたりすることもありました。以下に説明する行為は「処置」 と呼ばれました。 (前略)戦闘に敗れ戦線が急速に崩壊したときなどに、捕虜になるのを防止するため、自力で後退することのできない多数の傷病兵を軍医や衛生兵などが殺害する、あるいは彼らに自殺を促すことが常態化していったのである。 その最初の事例は、ガダルカナル島の戦いだろう。(中略)撤収作戦を実施して撤収は成功する。しかし、このとき、動くことのできない傷病兵の殺害が行われた。(中略)(中略)視察するため、ブーゲンビル島エレベンタ泊地に到着していた参謀次長が、東京あて発信した報告電の一節に、次のような箇所がある。 当初より「ガ」島上陸総兵力の約30%は収容可能見込にして特別のものを除きては、ほとんど全部撤収しある状況なり(中略) 単独歩行不可能者は各隊とも最後まで現陣地に残置し、射撃可能者は射撃を以て敵を拒止し、敵至近距離に進撃せば自決する如く各人昇コウ錠[強い毒性を持つ殺菌剤]2錠宛を分配す これが撤収にあたっての患者処置の鉄則だったのである。(『ガダルカナル作戦の考察(1)』) つまり、すでに、7割の兵士が戦死・戦病死(その多くは餓死)し、3割の兵士が生存しているが、そのうち身動きのできない傷病兵は昇コウ錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤退させる方針である。(出所:『日本軍兵士』』、「身動きのできない傷病兵は昇コウ錠で自殺させた上で、単独歩行の可能な者だけを撤退させる方針」、いくら劣勢にあったとはいえ、近代の軍とは思えないような酷いやり方だ。
・『第1次大戦時に修正できなかった精神主義  食糧が不足し餓死と背中合わせ。戦闘で負傷すれば、自殺を強要される。こうした“踏んだり蹴ったり”の環境では、戦闘どころではありません。戦争はもちろんしないに越したことはありません。しかし、仮にしなければならないとするなら、兵士をヒトとして遇し、十分な食糧と休息を与えるべきだったのではないでしょうか。 なぜ、アジア・太平洋戦争では、そんな態勢が作れなかったのでしょう。日清・日露というそれ以前の戦争では、兵士をヒトとして遇していたのでしょうか。 吉田:アジア・太平洋戦争の時ほど極端ではありませんが、日本軍に独特の精神主義が存在していました。典型は、歩兵による白兵突撃です。銃の先に銃剣を付け突撃し攻撃路を開く、というやり方。その背景には、「精神力で敵を圧倒する」という精神主義がありました。 日露戦争後、こうした考え方が軍内に広まっていきます。例えば、陸軍は歩兵操典などの典範令(教則本)を大改正して、ドイツ製の翻訳から、独自のものに改めました。内容的には、日本古来の伝統、精神を重視するものにした。例えば夜襲を重視しています。 Q:日露戦争当時の軍は、日露戦争は白兵突撃によって勝ったと認識していたのですか。司馬遼太郎さんが同戦争を描いた小説『坂の上の雲』の影響かもしれませんが、「二〇三高地の戦いにおける白兵戦は愚かな作戦だった」という印象を持っていました。乃木希典・第三軍司令官は、効果が小さいにもかかわらず、犠牲の多い、白兵突撃を繰り返した、と。 吉田:事実はともかく、「白兵戦によって勝った」「日本精神によって勝った」という“神話”を作ってしまったのです。 本来なら、その後に起きた第1次世界大戦を研究する中で、こうした精神主義を修正すべきでした。しかし、それができなかった。 例えば、歩兵による白兵突撃主義を取ったのは、日本軍だけではありません。欧州諸国の軍も同様でした。派手な軍服を着て、横一列に並んで突撃していったのです。しかし、第1次世界大戦を戦う中で挫折した。機関銃と戦車の登場が契機でした。 日本軍は、第1次世界大戦中の欧州の状況を詳しく研究しました。しかし、研究するのと参加するのとでは話が違います。欧州戦に参加しなかった日本軍は、第1次世界大戦をリアリティーをもって感じることができなかったのでしょう』、その後も1939年のノモンハン事件では、ソ連の圧倒的な戦車火砲の前に、日本陸軍は事実上、大敗北を喫しているのに、これも教訓にしなかった。精神主義の桎梏は根強いようだ。
・『部下による反抗恐れ私的制裁を容認  Q:兵士たちは餓死や処置を覚悟しなければならないだけでなく、私的制裁にも苦しめられました。私的制裁を苦にして、逃亡、奔敵(敵側に逃亡すること)、自殺に至る兵士が多数いました。 初年兵教育係りの助手を命じられたある陸軍上等兵による、初年兵への執拗な私的制裁によって、彼の班に属する初年兵28人のほとんどが「全治数日間を要する顔面打撲傷」を負った。このため、私的制裁を恐れた初年兵の一人が、自傷による離隊を決意して自分自身に向けて小銃を発砲したところ、弾丸がそれて他の初年兵に命中し、その初年兵が死亡する事件が起こった。(『陸軍軍法会議判例類集1』)(出所:『日本軍兵士』) なんとも悲惨な話です。なぜ、私的制裁を取り締まることができなかったのでしょう。 吉田:当時は、徹底的にいじめ、痛めつけることで、強い兵士をつくることができると考えられていました。この考えから抜け出すことができなかったのです。 加えて、私的制裁が古参兵にとってガス抜きの役割を果たしていたことが挙げられます。兵士たちは劣悪な待遇の下に置かれています。この鬱屈とした激情が上官に向かって爆発すると、軍としては困る。実際、上官に逆らう対上官犯 は戦争が進むにつれて増えていきました。これを、単に規制するだけでは、火に油を注ぐことになりかねません。そこで、「下」に向けて発散するのを容認する傾向がありました。 鬱屈とした激情を、「下」だけでなく「外」に向かって発散するのを容認する面もありました。 そうした教育の戦場における総仕上げが、「刺突」訓練だった。初年兵や戦場経験を持たない補充兵などに、中国人の農民や捕虜を小銃に装着した銃剣で突き殺させる訓練である。 藤田茂は、1938年末から39年にかけて、騎兵第二八連隊長として、連隊の将校全員に、「兵を戦場に慣れしむるためには殺人が早い方法である。すなわち度胸試しである。これには俘虜(捕虜のこと)を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるから、なるべく早くこの機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」、「これには銃殺より刺殺が効果的である」と訓示したと回想している。(『侵略の証言』)(出所:『日本軍兵士』)』、「私的制裁が古参兵にとってガス抜きの役割を果たしていた」、「この鬱屈とした激情が上官に向かって爆発すると、軍としては困る・・・そこで、「下」に向けて発散するのを容認する傾向がありました」、いわば公認の「いじめ」のようだ。
・『軍刑法に私的制裁の禁止条項なし  Q:軍法会議は機能していなかったのですか。 吉田:陸軍や海軍の刑法には、私的制裁を禁止する条項がありませんでした。 陸軍刑法に「陵虐の罪」の規定があります。しかし、これは、兵士を裸にして木にくくりつけるなど非常に極端な行為を対象にするもので、日常的に起こる私的制裁を対象にするものではありませんでした。 取り締まるとすれば、一般の刑法の「暴行及び傷害の罪等」を適用する。 確かに、初年兵28人に「全治数日間を要する顔面打撲傷」を与えた陸軍上等兵は刑法の傷害罪で懲役6カ月の有罪判決を受けています。この事件は初年兵の一人が自傷を試みたことによって発覚しました。 Q:かつて見た、「ア・フュー・グッドメン」という映画を思い出しました。トム・クルーズ氏が主演で、軍に勤める法務官。海軍の基地で、ジャック・ニコルソン氏演じる司令官が「コードR」(規律を乱す者への暴力的制裁)を命じて、若い兵士を死に至らしめる。法務官が法廷で大ばくちを打って、司令官を有罪に持ち込む、というストーリーです。この「コードR」に相当するものが、当時の日本の軍刑法には存在しなかったのですね。 吉田:軍法会議に関する研究は実は進んでいないのです。法務省が資料を保管し、公開してこなかったのが一因です。今は、国立公文書館に移管されたようですが。二・二六事件をめぐる軍法会議の資料が閲覧できるようになったのは敗戦後50年もたってからのことです。これから新たな研究が出てくるかもしれません』、「敗戦後50年もたってから」、漸く「二・二六事件をめぐる軍法会議の資料が閲覧できるようになった」、というのは余りの遅さに驚かされたが、今後の資料解明を期待したい。

第三に、上記の続きを、8月15日付け日経ビジネスオンライ「米中ソ3国と同時に戦う! また裂き状態だった旧日本軍の意思決定」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00005/080700040/?P=1
・『(前編はこちら)日本は産業力が伴わないにもかかわらず、対中戦争を戦いつつ、対米戦争に突入していった。それどころではない、ソ連を加えた3カ国と同時に戦う方針を二度までも立てようとした。その背景には、政府と陸海軍が統一戦略を立てるのを妨げる明治憲法の仕組みがあった。高橋是清はこれを是正すべく、参謀本部の 廃止を主張したが……。引き続き、吉田裕・一橋大学大学院特任教授に話を聞く  前編では、アジア・太平洋戦争中の日本軍が、その兵士をヒトとして扱っていなかった点について、伺いました。今回は、日本軍が総力戦*態勢を整えていなかった点についてお聞きします。 *:軍隊だけでなく、国の総力を挙げて実施する戦争。軍需物資を生産する産業力やそれを支える財政力、兵士の動員を支えるコミュニティーの力などが問われる  食糧の調達が十分でなく、多くの餓死者が出ました。そこから容易に想像がつくように、他の軍需工業品についても、供給力が伴っていませんでした。産業に、総力戦を支える力がなかった。例として、吉田さんは軍靴に注目されています。 雨のために凍死するものが続出した。軍靴の底が泥と水のために糸が切れてすっぽり抜けてしまい、はきかえた予備の新しい地下足袋もたちまち泥にすわれて底が抜けてしまった。そのために、はだしで歩いていた兵隊がやられてしまったのである。雨水が体中にしみわたり、山上の尾根伝いに、深夜はだしで行軍していたら、精神的肉体的疲労も加わって、訓練期間の短くて、こき使われることの最も激しい老補充兵が、倒れてしまうのも当然のことであろう。(『遥かなり大陸の戦野』)(略) 頑丈な軍靴を作るためには、縫糸は亜麻糸でなければならなかった。亜麻の繊維から作られる亜麻糸は細くて強靭であり、特に、陸海軍の軍靴のように有事の動員に備えて長く貯蔵しておく必要があるものは、「絶対にこの糸で縫うことが必要である」とされていた(『製麻』)。 しかし、亜麻は日本国内では冷涼な気候の北海道でしか栽培することができない。そのため、日中戦争が始まると軍の需要に生産が追い付かなくなった。北朝鮮や満州での栽培も試みられたが十分な成果をあげることができず、結局、品質の劣る亜麻の繊維まで使わざるをえなくなった。 (中略) 以上のように、こうした基礎的な産業面でも、日本はかなり早い段階から総力戦上の要請に応えられなくなっていたのである。 なぜ、このような準備不足のまま、アジア・太平洋戦争に突入したのでしょう。日中戦争については、意図せず戦線が拡大していった面があります。満州事変は、関東軍が勝手に始めたもの。時の若槻礼次郎内閣が意思決定して開始したわけではありません。日中戦争の火蓋を切った盧溝橋事件にしても偶発的に始まった。しかし、対米戦はそうとは言えません。真珠湾攻撃によって、こちらから仕掛けたわけですから。 吉田:おっしゃるとおりですね。対中戦争は国家意思に基づいて始めたものではありません。盧溝橋事件も、偶発的に始まったことが最近の研究で明らかになっています。他方、対米戦は4度の御前会議を経たのち、閣議決定して開戦しました。』、「雨のために凍死するものが続出した。軍靴の底が泥と水のために糸が切れてすっぽり抜けてしまい、はきかえた予備の新しい地下足袋もたちまち泥にすわれて底が抜けてしまった」、というのでは、もはや戦争どころではない。確かに「総力戦*態勢を整えていなかった」ようだ。
・『統一した意思決定ができない明治憲法  Q:盧溝橋事件(1937年)によって日中戦争が始まる前の1935年に、陸軍で軍務局長を務めていた永田鉄山が刺殺されました。総力戦をにらみ、それに耐える国家体制を作るべく様々な構想を練っていた戦略家です。彼が生き続けていたら、その後の展開は違ったものになっていたでしょうか。 吉田:そういう考えは、あり得ます。彼は非常に優秀な軍事官僚で、重要人物です。しかし、彼一人で状況を変えることができたかは判断がつかないところです。私は、より大きなシステム上の問題があると考えています。 Q:システム上の問題とは? 吉田:明治憲法です。これが定める統治構造は分散的で、総力戦を戦うのに必要な統一的な意思決定をするのに不向きでした。さまざまな決定が折衷案もしくは両論併記になってしまうのです。 例えば、陸軍は対ソ戦をにらみ北進を主張する。海軍は石油をはじめとする東南アジアの資源を求めて南進を主張する。すると、結論は「南北併進」になってしまうのです。1941年7月に開かれた御前会議はこのような決定をくだしました。 さらに言えば、南北併進に基づく決定をしながら、政府は米国との外交交渉を継続するのです。戦争の準備をすれば日米関係は悪化します。外交交渉は進まない。つまり、その場しのぎの決定しかできず、それが悪循環を引き起こしたのです。陸海軍の間に統一戦略はない。政府と軍も進む方向が異なる。三つどもえの状態に陥っていました。 Q:明治憲法のどこに問題があったのですか。 吉田:いわゆる統帥権*の独立ですね。 *:作戦・用兵に関する命令。陸軍の統帥部として参謀本部が、海軍の統帥部として軍令部があった。それぞれのトップは参謀総長と軍令部長 総力戦を戦うのであれば、本来なら、国務(政府)と統帥(軍)が統一した戦略をもって臨む必要があります。しかし、これはなかなか実現しませんでした。 「国家機関の分立制」「政治権力の多元性」といわれる仕組みを採用していたからです。「統帥権の独立」を盾に、軍は政府の外に立つ。軍の中でも陸軍省と海軍省が分立している。軍令*については陸軍の参謀本部と海軍の軍令部が分立している。政府においても、各国務大臣は担当分野についてそれぞれが天皇を輔弼(ほひつ、補佐)する仕組み。各国務大臣の権限が強く、首相の権限は弱かったわけです。 Q:明治憲法は、なぜ「国家機関の分立制」を採ったのですか。 吉田:同憲法の起草者たちが政党勢力を恐れたからです。政党が議会と内閣を制覇し、天皇大権が空洞化して、天皇の地位が空位化することを恐れた。 総力戦を戦うならば、明治憲法を改正しこれを改める必要があったと思います』、「明治憲法」が「「国家機関の分立制」を採った」のは、「起草者たちが政党勢力を恐れたからです。政党が議会と内閣を制覇し、天皇大権が空洞化して、天皇の地位が空位化することを恐れた」、「天皇大権」維持のために「総力戦を戦う」のに不向きな体制を取ったようだ。
・『高橋是清が主張した参謀本部の廃止  Q:総力戦をにらんで、憲法を改正しようという具体的な動きがあったのですか。 吉田:首相や蔵相を務めた高橋是清が1920年に参謀本部廃止論を唱えています。この軍事上の機関が内閣のコントロールから独立して、軍事、外交、経済の面で影響力を及ぼしている、とみなしていました。陸軍大臣や海軍大臣の統制に服していた参謀総長や軍令部長が、だんだんそれを逸脱するようになってきたのです。 首相に在任中だった原敬も、「何分にも参謀本部は山県(有朋)の後援にて今に時勢を悟らず。元来先帝(明治天皇)の御時代とは全く異りたる今日なれば、統率権云々を振廻すは前途のため危険なり。(中略)参謀本部辺りの軍人はこの点を解せず、ややもすれば皇室を担ぎ出して政界に臨まんとす。誤れるの甚だしきものなり(下略)」(『原敬日記』)として参謀本部に批判的でした。 ただし、憲法改正までは言っていません。明治憲法は欽定憲法(天皇が国民に下賜した憲法)なので、「欠陥がある」とは言い出しにくいのです。もちろん、明治憲法も改憲の手続きを定めてはいたのですが。 参謀本部や軍令部は明治憲法が規定する機関ではありません。これらは、そもそも統帥権をつかさどる機関として設置されたのではありません。最初は、政治(政府)の影響力が軍に及ぶのを遮断する役割でした。明治の初期は、政治家であり軍人である西郷隆盛のような人が力を持っていました。そうすると、軍が政争に巻き込まれる可能性が生じます。それを避けようとしたのです。 統帥権の独立と言うけれど、明治憲法のどこにもそのような規定はありません。内閣が担う輔弼の役割の範囲外と書かれてはいないのです。そうではあるけれども、既成事実の積み上げによって、政治や社会が容認するところとなった。戦前の日本にはシビリアンコントロールが根付かなかったですし。内閣には常に陸海軍大臣という軍人の大臣がいたので、純粋なシビリアンの内閣は存在しませんでした。 そして、ある段階から、軍が自分の要求を通すための口実として統帥権を利用するようになったのです。ロンドン海軍軍縮条約(1930年に締結)あたりからですね。それに、政党も乗じるようになりました。 Q:当時、政友会の衆院議員だった鳩山一郎が、同条約の調印は統帥権の干犯だとして、時の浜口雄幸内閣を糾弾しました。 吉田:そうですね。 Q:高橋是清と原敬はどちらも政友会を率いて首相を務めました。政友会は親軍的なイメージがありますが、そうではないのですね。 吉田:ええ、少なくとも1920年代は親軍的ではありませんでした』、「参謀本部や軍令部は明治憲法が規定する機関ではありません。これらは、そもそも統帥権をつかさどる機関として設置されたのではありません。最初は、政治(政府)の影響力が軍に及ぶのを遮断する役割でした」、「ある段階から、軍が自分の要求を通すための口実として統帥権を利用するようになったのです」、問題は「明治憲法」だけでなく、慣習にもありそうだ。
・『日中、日米、日ソの3正面で戦う  Q:ここまでご説明いただいたような事情で、戦前・戦中の日本はずっと統一した意思決定ができなかった。 吉田:はい。そのため、1941年ごろには、3正面作戦を戦おうとしていました。なし崩し的に始まった日中戦争が泥沼化し、1941年12月には対米戦争が始まる時期です。 1941年6月に独ソ戦が始まると、陸軍はこれを好機ととらえ、対ソ戦を改めて検討し始めました。ドイツと共にソ連を東西から挟み撃ちにしようと考えたわけです。関東軍が満州で特種演習(関特演)を行ったのはこの文脈においてです。 この時、兵力はもちろん、大量の物資を満州に集積しました。「建軍以来の大動員」を言われる大きな動きでした。つまり、日露戦争よりも大規模な部隊を配備したわけです。しかし、予想に反してソ連が踏ん張り、極東に配備していた戦力を欧州戦線に移動しなかったので、対ソ戦は実現しませんでした。動員した兵力と物資は無駄になり、その後、ソ連とのにらみ合いに終始することになったわけです。 Q:ゾルゲ事件はこのころの話ですか。駐日ドイツ大使館員をカバーに利用していたソ連のスパイ、ゾルゲが、「日本が対ソ戦を始めることはない」との情報を得て、ソ連に通報。スターリンはこの情報を元に、対独戦に集中した、といわれています。 吉田:この頃の話ですね。ただし、スターリンはゾルゲがもたらした情報をさして重視しなかったといわれています。 Q:対中、対米、対ソ戦を同時に戦う。後知恵ではありますが、無謀に聞こえますね。 吉田:その通りですね。しかも、1942年の春ごろ、陸軍は再び対ソ戦を考えるのです。マレーシアを落とし、フィリピンを占領して、初期作戦を予定通り終えたことから、南方は持久戦に持ち込み、対ソ戦を始めようと考えた。満州に配置された関東軍の規模がピークを迎えるのはこの頃です。 同じ時期に海軍は、ミッドウェーやソロモン諸島に戦線を拡大します。米国の戦意をそぐのが目的でした。いずれも失敗に終わりますが。 初期作戦が終了した後も、陸海軍で統一した戦略がなかったわけです。陸海軍が統一した軍事戦略をようやく作ることができたのは1945年初頭のこと。本土決戦を前にしてのことでした』、「対ソ戦」を「独ソ戦が始まると、陸軍はこれを好機ととらえ、対ソ戦を改めて検討し始めました」、「1942年の春ごろ」と2度にわたって検討したというのでは、ソ連の対日参戦を批判する資格はなさそうだ。「陸海軍が統一した軍事戦略をようやく作ることができたのは1945年初頭」、日本は敗けるべくして敗けたようだ。
・『日露戦争時の「勝利の方程式」から抜け出せなかった  Q:陸軍がなぜそれほど対ソ戦にこだわったのか、また海軍はなぜマリアナ諸島やソロモン諸島のような遠くにまで戦線を拡大したのか、素人には理解できないところです。 吉田:日露戦争の時から続くロシア、ソ連の脅威が陸軍の頭から離れなかったのでしょう。加えて、満州事変のあと満州国を建国し、ソ連と国境を直接接するようになったことが大きい。しかも、ソ連の部隊増強ペースはかなり速かったのです。 Q:満州というソ連との緩衝地帯を自ら無くしておいて、その脅威におびえるとのいうのは、皮肉な話です。 吉田:その通りですね。 海軍も日露戦争の成功体験から逃れることができませんでした。海軍の基本的な考えは、日本海海戦*のような艦隊決戦で決着をつけること。そのため、太平洋を西進する米艦隊の戦力を、「漸減邀撃(ぜんげんようげき)」してそいでいく。具体的には、第1陣は潜水艦部隊、第2陣は一式陸上攻撃機を使った空爆、第3陣は魚雷を積んだ軽巡洋艦です。この一式陸上攻撃機の基地がマリアナ諸島のサイパンなどに置かれていました。 *:東郷平八郎司令官が率いる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を破った海戦 そして、艦隊の規模が同等になったところで、西太平洋で艦隊決戦を挑む。そのために巨大な戦艦「大和」や「武蔵」を建造したわけです。 しかし、艦隊決戦は対米戦争の最後まで行われることはありませんでした。マリアナ沖海戦は、空母を中心とする機動部隊同士の戦いになりました。ミッドウェー海戦も機動部隊が前衛を構成し、大和は後ろに控えているだけでした。燃料の石油を食いつぶしただけです。むしろ、空母を戦艦が守るかたちで布陣すべきでした。 ソロモン諸島の基地は、米国とオーストラリアを結ぶシーレーンを遮断する役割を担っていました。 前編で、陸軍は「白兵戦によって勝った」という“神話”ができたお話をしました。陸軍も海軍も、日露戦争の総括が甘かったのです』、「総括が甘かった」のは、「日露戦争」に限らず、太平洋戦争についてもいえるようだ。それにしても、安倍首相の戦前の日本美化は、これらの「総括」をしてないからこそなのではなかろうか。
タグ:亀井静香 yahooニュース 日経ビジネスオンライン 歴史問題 (9)(「戦争には勝者も敗者もない」――川に人骨……戦時の悲惨さ知る亀井静香の原体験、飢餓 自殺強要 私的制裁--戦闘どころではなかった旧日本軍、米中ソ3国と同時に戦う! また裂き状態だった旧日本軍の意思決定) 「「戦争には勝者も敗者もない」――川に人骨……戦時の悲惨さ知る亀井静香の原体験」 広島市から北東に80キロほど離れた山間の村 ピカッと光った後に地響き 数日後ですよ。あの光に遭った人たちが、わが村にも逃げて来たのは。服も着ずに肌があらわな人、全身焼けただれた人、髪の毛が荒れ果てたままの人、それはもう凄まじい光景でした 救援活動で被爆した姉 お国のために死ぬのが当たり前 川に沈む人骨 「戦争には勝者も敗者もない」 一国のリーダーたる者、何があっても絶対に戦争への舵を切ってはいけない 極端な話、飢え死にしたって戦争はしないほうがましです 吉田 裕 「飢餓、自殺強要、私的制裁--戦闘どころではなかった旧日本軍」 『日本軍兵士』 「総力戦」*を戦う態勢ができていなかった事実 この部隊の戦没者のうち約76%が終戦前の約1年間に集中しています。しかも、その73%が「戦病死者」 栄養失調による餓死者と、栄養失調に伴う体力の消耗の結果、マラリアなどに感染して病死した広義の餓死者の合計は、140万人(全体の61%)に達すると推定 負傷兵は自殺を強要される 第1次大戦時に修正できなかった精神主義 部下による反抗恐れ私的制裁を容認 軍刑法に私的制裁の禁止条項なし 「米中ソ3国と同時に戦う! また裂き状態だった旧日本軍の意思決定」 ソ連を加えた3カ国と同時に戦う方針を二度までも立てようとした。その背景には、政府と陸海軍が統一戦略を立てるのを妨げる明治憲法の仕組みがあった 軍靴の底が泥と水のために糸が切れてすっぽり抜けてしまい、はきかえた予備の新しい地下足袋もたちまち泥にすわれて底が抜けてしまった。そのために、はだしで歩いていた兵隊がやられてしまったのである 統一した意思決定ができない明治憲法 「国家機関の分立制」「政治権力の多元性」 同憲法の起草者たちが政党勢力を恐れたからです。政党が議会と内閣を制覇し、天皇大権が空洞化して、天皇の地位が空位化することを恐れた 高橋是清が主張した参謀本部の廃止 日中、日米、日ソの3正面で戦う 陸海軍が統一した軍事戦略をようやく作ることができたのは1945年初頭のこと。本土決戦を前にしてのことでした 日露戦争時の「勝利の方程式」から抜け出せなかった 陸軍も海軍も、日露戦争の総括が甘かったのです
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