So-net無料ブログ作成

不祥事への謝罪(危機管理)(その2)(2017謝罪の流儀:弁護士 コンサルが明かす謝罪ビジネス最前線 手法は色々 最後は経営者の覚悟次第、ザッカーバーグ「完璧すぎる謝罪」の舞台裏 日米企業トップの「コミュ力格差」は絶望的だ、社員の個人的犯罪まで社長が謝罪する違和感 「謝りすぎ」が示す日本社会の息苦しさ) [企業経営]

不祥事への謝罪(危機管理)については、昨年10月8日に取上げた。今日は、(その2)(2017謝罪の流儀:弁護士 コンサルが明かす謝罪ビジネス最前線 手法は色々 最後は経営者の覚悟次第、ザッカーバーグ「完璧すぎる謝罪」の舞台裏 日米企業トップの「コミュ力格差」は絶望的だ、社員の個人的犯罪まで社長が謝罪する違和感 「謝りすぎ」が示す日本社会の息苦しさ)である。

先ずは、昨年12月19日付け日経ビジネスオンライン「2017謝罪の流儀:弁護士、コンサルが明かす謝罪ビジネス最前線 手法は色々、最後は経営者の覚悟次第」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・日経ビジネス12月18日号の特集「謝罪の流儀2017」では、変わり続ける社会の常識と、それに対応できない企業が受けるダメージの大きさが取材を通じて浮き彫りになった。危機感を募らせる経営者らが頼るのが、専門の知識とノウハウを持った大手弁護士事務所や危機管理のコンサルティングなどを担う総合PR会社である。取材班は今回、彼らに企業が学ぶべき謝罪の流儀や危機対応のあり方について聞いた。活況を呈する「謝罪ビジネス」の最前線とは――。
・「大手法律事務所は、こぞって危機管理のサポートを重要なビジネスと位置付けている。ぜひ話を聞きに行った方がいい」。取材先からこんな助言を受け、取材班が向かったのが西村あさひ法律事務所だ。業界でもいち早く危機管理の分野に参入し、大手企業の不祥事対応や係争案件に関わってきた。
・その内容は、重大な不祥事・紛争などの危機発生時に助言を提供すること。ホームページを参照すると、「(1)関係当局による調査・捜査への対応、(2)適時開示を含めた証券取引所対応、(3)監督官庁等の官公庁対応、(4)マスコミ対応、に関する助言をするほか、国際的な案件では、外国法律事務所等との連携のもとに対応策を助言します」とある。
・公表されている実績だけでも、大きな話題になった事案が並ぶ。2006年に発覚した、旧日興コーディアルグループの不正会計問題では、責任追及委員会に参画。07年に発生した東京都渋谷区の温泉施設「シエスパ」の爆発事故では、業務上過失致死傷罪に問われた施設運営会社の担当役員の刑事弁護も担当した。
・西村あさひで、こうした危機管理のエキスパートとして業界にその名を知られるのが、東京地検特捜部のOBでもある木目田裕弁護士だ。木目田氏は、「企業の危機管理が本格的に重視されるようになったのは2004年ごろから。粉飾決算をはじめ不祥事案件に社会の厳しい目が向けられるようになり、専門的な助言を求める企業が年々増加していった」と振り返る。
▽30人の弁護士が関わるケースも
・木目田氏のような検察OB、さらに金融系や報道機関の出身者など、西村あさひには多様な経歴を持った弁護士が集まっている。専門的な知識だけでなく、実際に「現場」を経験している彼らはその経験を生かし、様々な企業の不祥事や訴訟の案件に対応する。兼任も含めれば、危機管理に従事する弁護士は40人程度に上る。
・木目田氏は、「適切な助言をしながら、企業活動の再生を迅速に実現するのをサポートするのが我々の役割。ただ、近年は案件の内容やテーマも非常に多岐に渡ってきている」と明かす。実際、西村あさひに寄せられる案件は、相談レベルのものも含めれば年間100件以上。案件の大小によって、4~5人から時には30人程度の弁護士が関わることもあるという。
・弁護士といえば法律的な観点からの助言がその役割と思われがちだ。もちろん、それは重要な役割の一つだが、近年は法律論では判断できない、「炎上」への対応が必要なことは本特集でも取り上げた通り。違法性がなくとも、企業倫理に反するような不正に関しても対応が必要になる。危機管理チームの一員である鈴木悠介弁護士は、「監督官庁、マスメディア、世論などの動きに常に目配りしながら、当該企業の関係部門と調整を進める」と話す。
・一方、法律事務所とは別の立ち位置で、企業の危機管理をサポートするのが、コンサルティング会社や総合PR会社である。業界でも特に有名なのが、米国に本社を置くボックスグローバルや老舗のプラップジャパンだ。
・「ステークホルダー(利害関係者)にどのように説明を行い、信頼を得るかが危機管理の成否を分ける」。こう話すのは、ボックスグローバル・ジャパンの野尻明裕社長。同社では平常時からのコミュニケーション体制の構築、メディア・トレーニングのほか、不祥事や事故が発生した場合の対応まで、社内の専門スタッフがサポートしている。
▽模擬記者会見の専用スタジオも完備
・野尻氏が近年感じるのは、企業が向き合うリスクの多様化や変化だ。「従来は表に出ないか、関係者の内々で処理されていたものが、SNS(交流サイト)の普及などでそれでは済まなくなってきた」。誰もが情報を発信できるツールの発達や内部通報制度の整備により、水面下で企業が炎上を防げる時代ではない。野尻氏は「情報は表に出ることを前提にして、どれだけ損失を抑えられるかを考えるべき段階にきている」と語る。
・メディア・トレーニングでは、謝罪の記者会見を想定した「模擬記者会見」などを開き、経営者がどのような振る舞いや質疑応答での対応をするべきかを実践的に訓練する。プラップジャパンでは専用のスタジオを持ち、元新聞記者などのメディア経験者が記者役を務め、年間160件程度のトレーニングを実施している。
・プラップジャパンの井口明彦・メディアトレーニング部部長は「根本的に大事なことは、記者会見でお詫びをする際に“海図”を持って臨むこと。日頃からどのような姿勢を持つべきか、どのように報道機関やステークホルダーに接するべきかを、経営トップがしっかりと考えておくことが求められる」と説明する。
▽「模擬記者会見」にショックを受ける経営者
・同社の顧客の中には、誰もが知る大手企業も少なくない。ただ、大手企業の経営者だからといって、謝罪記者会見に余裕を持って臨める人はほとんどいない。記者役のスタッフの容赦ない質問攻勢に晒されて、つい声を荒げたり、不快感を露わにしたりする人もいるという。
・こうした模擬記者会見の様子は全てビデオカメラで録画され、後で経営者に直接見てもらうようにしている。「思ってもいなかったような自分の姿にショックを受ける経営者は多いが、それが次回以降の改善につながる」と井口氏は話す。
・リスク管理の重要性が認識されるにつれ、PR会社が顧客企業と平常時から密にコミュニケーションを取ることも一般化してきている。プラップジャパンでは顧問契約を結ぶなどして、年間を通じてコンサルティングを手掛けるケースが増加。経営企画や広報、法務など関連部門と連携し、危機管理の体制構築やマニュアルの整備、さらにメディア・トレーニングや社員向けのセミナーなどを組み合わせ、いずれ訪れるかもしれない「その時」に備えている。
▽AIが謝罪会見を評価する試みも
・さらに、プラップジャパンでは今年1月から、東京大学と組み、記者会見の印象をAI(人工知能)で解析・数値化する研究を開始した。同大大学院情報理工学系研究科の山崎俊彦准教授の研究チームが進める、「印象」「魅力」などにまつわる研究内容と、プラップジャパンの知見を組みわせて、記者会見を定性・定量の両面から評価できるようにする試みだ。
・こうしたAIの活用も含め、謝罪にまつわるビジネスはその対象を広げ、新たな手法も開発されつつある。弁護士事務所も法律の枠を超えてその役割が拡大し、知見が蓄積されている。法律事務所とPR会社が連携し、大手企業をサポートする事例も増えてきている。
・ただ、それでも実際に不祥事に直面し、記者会見で矢面に立たされるのはあくまで当事者である企業、そして経営トップであることには変わりがない。そして、大半の経営者にとって、社会と向き合い、謝罪するというのは初めての経験だ。ボックスグローバルの野尻氏は「トップの覚悟と責任が最も重要であることは言うまでもない」と語る。謝罪ビジネスにまつわるソリューションをどのように生かすのかは、経営者自信の当事者意識に尽きるといえるだろう。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/121300188/121300002/?P=1

次に、コミュニケーション・ストラテジストの岡本 純子氏が4月17日付け東洋経済オンラインに寄稿した「ザッカーバーグ「完璧すぎる謝罪」の舞台裏 日米企業トップの「コミュ力格差」は絶望的だ」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・巨大なソーシャルネットワークサービス、フェイスブックのユーザーデータ流用・流出問題について、マーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)が4月10日と11日、2日間にわたって米議会の公聴会で証言台に上った。
・数千万人分のデータ流出というフェイスブックにとって最大の不祥事を受けて開かれた公聴会は、延べ10時間、100人から600の質問を受けるというまさに「千本ノック」状態。この難局をザッカーバーグ氏は、究極の「謝罪力」で乗り切った。強靭なメンタルリフレックス(反射力)を養ったのは、星飛雄馬並みの血のにじむ準備と練習だ。
・今回は隔週連載の番外編。その「演技」の裏側を読み解き、リーダーを目指す人ならば知っておきたい「超一流の謝罪」の作法について解説してみよう。
▽議員のとんちんかんな質問にも真顔で対応
・ネットなどで中継されたこの公聴会、筆者もところどころ視聴したが、ちょっとしたエンターテインメント並みの面白さであった。何が笑えたかと言うと、議員のとんちんかんな質問に33歳のザッカーバーグ氏が「おい、まじかよ」「なんでこんなことも知らないのかよ」という顔を見せずに、取り繕ったまじめな顔で答えているところだ。
・日本の国会もびっくりするほど、高齢化が進んでいるらしいアメリカ議会。質問者の平均年齢は62歳で、コアメンバーの平均年齢は80歳近いというシルバー集団に対峙するザッカーバーグ氏はまさに孫ほどの年齢。自分の祖父や祖母ほどの年齢の人に、スマホの使い方を懇切丁寧に解説している携帯ショップの店員のようなものだ。
・たとえば、こんな質問が飛び出した。「(チャットアプリ)WhatsApp上でeメールしたら、その情報は広告主に伝わるのか?」「ツイッターとフェイスブックは同じようなもんか?」「ユーザーがおカネを支払わないのに、一体どうやってビジネスが成り立っているのか?」「うちの息子はインスタグラムに夢中でね~」「うちの選挙区に高速インターネット回線を持ってきてくれないか」などなど。
・テクノロジーを知らない素人に対して、わかりやすい言葉で説明することが苦手と言われるシリコンバレー界隈の若手経営者だが、ザッカーバーグ氏は、いらだつこともなく、忍耐強く、敬意を持って、わかりやすい言葉での丁寧な説明に終始した。
・この公聴会のシステムとして、一人5分の持ち時間で、次々と質問者が変わっていくものだったために、一人の質問者がどんどんと掘り下げていって追い詰めるという形にはならなかったこともザッカーバーグ氏には幸いした。結果的に、議員側のテクノロジーに対する知識の浅さが露呈する格好となった。
・ザッカーバーグ氏といえば、お決まりのTシャツやパーカがトレードマークだ。Tシャツといっても、Brunello Cucinelliというイタリアンブランドで1枚295ドルもする代物らしいが、今回はそういったカジュアルな服を封印し、濃紺のスーツとフェイスブックカラーの青いネクタイで清潔感や礼儀を示した。
・実は、ザッカーバーグ氏は8年前、WSJ主催のあるコンファレンスで、想定していなかった質問を受けて、大量の汗をかき、聴衆の面前で、パーカを脱ぐという恥ずかしい経験をしている。このときの動画(問題のシーンは14分50秒のところから)を見ると、ザッカーバーグ氏はものすごい早口で、口ごもりがち。声も高く、いかにも西海岸のテックベンチャーの兄ちゃんといった語り口で、今回の公聴会における落ち着きとはまさに天と地の差だ。
▽あらゆる角度からの質問を想定
・この証言に向けて、ザッカーバーグ氏とその周囲の側近たちは膨大な時間を費やし、準備を進めたといわれている。社内スタッフと危機コミュニケーションの専門会社、弁護士、ブッシュ元大統領の側近なども含めて約500人で対応チームを結成し、緻密な戦略を練った。その過程で、ザッカーバーグ氏も何度も想定質問に対する回答の練習を重ねたのだろう。成果は、如実に表れていた。
・企業の危機管理コミュニケーションのコンサルティングに携わる筆者にとって、興味深かったのは、フェイスブックが用意した想定問答集の中身だった。油断をしていたのだろうか、ザッカーバーグ氏が机に置いたまま休憩に入ってしまったため、カメラマンによってその内容が写真に収められてしまったのだ。
・「責任をとって辞任するのか」「アップルがフェイスブックを批判していることについて」など想定される質問とその答え方が箇条書きでリスト化されたもので、まさに「千本ノック」に耐えられるように、あらゆる角度からの質問を想定し、準備していたことが浮かび上がった。
・このように、微に入り細を穿つ準備の結果、完璧な謝罪に必要な5つの要素「謝罪」「現状説明」「原因」「責任」「再発防止策」をきっちりと盛り込んだ完成形が生まれた。
・特に「謝罪」はアメリカ企業にしては随分と潔い印象を受けた。日本の企業はちょっとした不祥事で頭を下げ、謝るが、欧米の企業はあまり簡単に謝罪はしない。今回、ザッカーバーグ氏は「われわれはしっかりとした責任をとらなかった。それは大きな間違いだった。私の間違いだった。本当に申し訳ないと思っている。私がフェイスブックを始め、私が舵を取り、私がいま起こっていることのすべての責任を担っている」と、I’m sorry という強い言葉で自らの非を認めた。こうした謝罪は全体で40回にも上った。
▽果たすべき役割はきっちりと果たした
・一方で、話せないことについては、「調べて後ほど、フォローアップさせていただきます」を連呼、きわどい追及を上手にかわした。結果的に、「公聴会といういわば、『ボクシングのショー』のような舞台において、ザッカーバーグ氏は果たすべき役割はきっちりと果たした」(米危機管理コンサルタントリチャード・リービック氏)。
・新たな規制や不祥事の可能性など、今後もまったく楽観視はできないが、とりあえず、「超絶」危機管理コミュニケーション力によって、第一の関門は乗り越えた。
・このように、企業が危機を乗り越えるか否かはトップのコミュ力に大きく依存する。そういった視点で日本企業を見たときに、まだまだ心もとないと感じる企業も少なくない。 直近の事例で言えば、仮想通貨取引所のコインチェックが見せた危機対応だろう。 フェイスブックと比べるのは企業規模から見ても「お門違い」と言われそうだし、もちろん、日本企業の中でも、強いリーダーシップでグリップを利かせる優良企業もあるのだが、ここは象徴的な事例ということであえて、取りあげさせていただきたい。
・筆者の知人の記者が、最近、最もひどい会見対応の例として挙げたのが、このコインチェックだった。質問に対し、答えを口ごもる、登壇者のちぐはぐなやり取り等、まったくもって説明能力のないトップによる受け答えはまさに幼稚園レベル。そもそも、「会社として何のために存在するのか」「社会にどう貢献していくのか」という「ミッション」についての言及も一切ない、薄っぺらい会見だったことに心からがっかりしたという。
▽日本の企業は「What」を重視しすぎ
・これは、海外の企業と比較したときに強く感じることだが、日本の企業は“What”重視型だ。「何」を売る、「こういうサービス」を提供する、というファクトをアピールする。一方、アメリカなどでは、「社会を、世界をこういうふうに変えたい」という存在意義をアピールする”Why”重視型が多い。特に日本のベンチャーなどには、こういったマクロの視点がすっぽり抜け落ちている場合があり、コインチェックもその例にもれなかった。
・「ベンチャーだから」という言い訳はあるかもしれない。ただ、問題は、何億円という巨額の資金を安易にテレビ広告などに投じていながら、地道な説明責任、危機管理施策を一切放棄してきたという点にある。最近、知名度のないベンチャー企業が集めた資金をテレビ広告などにあて、認知拡大を短兵急に図ろうとするケースが非常に多いが、その陰で、最も重要なトップのコミュニケーションの努力はおざなりになっている。
・筆者は新聞記者時代、まだ勃興期の楽天や成長途上のソフトバンクの取材にあたっていたが、彼らが黎明期に派手な広告を打ったという話は聞いたことはなかった。一流の企業は広告だけで大きくなることはない。地道にトップが前面に出て、説明責任を果たし、実績を積み重ね、一歩一歩着実に信用を獲得していくこと。まずはここが立脚点であろう。
・リーダーはコミュ力ありきである。社員の士気を鼓舞し、ファンを増やし、社会の信頼を獲得する。リーダーとして必要なすべての資質はコミュ力を要するものである。その鍛錬をおざなりにして、企業の成長などありえない。
https://toyokeizai.net/articles/-/216909

第三に、上記と同じ岡本 純子氏が6月26日付け東洋経済オンラインに寄稿した「社員の個人的犯罪まで社長が謝罪する違和感 「謝りすぎ」が示す日本社会の息苦しさ」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・不適切かつ不十分な謝罪で、大炎上した日大アメフト部の反則問題がメディアの報道や人々の口端に上ることもめっきり減った今日この頃。人の心は移ろいやすいものである。一方で、なんとも違和感のある企業や組織の「謝罪事案」が次々と表ざたになり、日本の「謝罪文化」の特殊性を浮かび上がらせている。3つの実例をもとに説明していこう。
・まず1つ目は、プロ野球・阪神タイガースのスコアラーが盗撮容疑で逮捕されたことについて、揚塩健治・阪神球団社長が6月13日、メディアの前で深々と頭を下げて、謝罪したというものだ。
▽盗撮は社員と企業の連帯責任?
・社員が犯罪を犯した場合、果たして会社はどこまで責任を取るべきか。危機管理の定石では、たとえば、その犯罪が就業の場や業務に関連する仕事上で起こされた場合、組織ぐるみの場合には、会社にも責任の一端はあると考えられると解釈されることが多い。また、社会に範を垂れるべき存在の人の場合、任用責任が問われることもある。たとえば、銀行員の横領や学校の先生の犯罪などの場合は組織の側も、謝罪しておくべきという判断は一般的だ。
・一方で、まったく業務と関係のない場での犯罪については、防ぎようがないところはある。コンプライアンス教育が重視され、企業も研修などに力を入れるが、その犯罪抑止効果は限定的だ。  万引きでも盗撮でも、社員個人の意志による犯罪を会社の力で食い止めることなど基本的にはできない。揚塩社長は「被害に遭われた方に心よりおわび申し上げるとともに、皆様に多大なご迷惑とご心配をおかけしたことを深くおわびします」と、平身低頭、謝罪したが、球団が責任を表明するような事案かというと、首をひねらざるをえない。そもそも、盗撮は社員と企業の連帯責任なのだろうか。頭を下げるべきは罪を犯した本人だろう。
・2つ目の事案は、少し前になるが、2017年11月14日、「つくばエクスプレス」を運営する首都圏新都市鉄道が、南流山駅で下りの列車が定刻より20秒早く発車したとして、その日のうちに謝罪のプレスリリースを発表したというものだ。
・出発予定時刻は9時44分40秒だったが、列車は9時44分20秒に発車した。この件でお客様からの苦情等はなかったというが、発車メロディや「ドアが閉まります」のアナウンスが発車後に流れるという事態になったため、「お客様には大変ご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます」と陳謝した。
・ルール違反であり、もちろん看過できるわけではない。しかし、この事案は、海外では驚愕をもって受け止められ、多くのメディアに面白おかしく取り上げられた。そもそも、海外では電車が定刻に発車することのほうが珍しい。筆者もアメリカやイギリスでの生活で、何度となく泣かされた。突然、停車すべき駅を飛ばしたり、何の前触れもなく運休する地下鉄。週末、駅に行くと、今日は1日電車が来ません、などということもざらだ。
・停留所に人が待っていようが満員でもないのに、平気で無視して行ってしまう路線バスもある。長距離バスに乗って旅した時は、突然、バスが故障し、高速道路の途中で、足止めを食らったが、代替えバスを出すでもなく、のんびり修理するのを8時間待たされるということもあった。
・それでも、不思議なのは「誰も大して怒らないこと」。こんなものだろう、と平然としているのだ。日本であれば、駅員に詰め寄り、怒りだす人もいそうなもの。そもそも日本ではこうした「サービス」への期待値が海外に比べて圧倒的に高い。いや、高すぎるところがある。
▽「弁当注文」で謝罪会見
・3つめの事案は、神戸市職員が勤務中に弁当を注文するために、職場を離れる「中抜け」を繰り返し、減給処分されたというものだった。 大阪の放送局ABCテレビによると、神戸市水道局の64歳の男性職員は、勤務時間中に近くにある飲食店に弁当の注文をするため、3分程度の中抜けを半年間に26回したという。結果、この職員は半日分の減給処分となったというが、驚いたのは、6月15日、神戸市の水道局の課長ら4人が並んで会見を開き、深々と頭を下げ、「このような不祥事が生じ、大変遺憾。申し訳ございませんでした」と謝罪をしたことだ。
・半年間に26回ということは1カ月4回、つまり1週間に1回程度、3分間の中抜けということだが、これがダメなら、たばこを吸いに喫煙所に行ったり、就業時間内に居眠りをしたり、業務に関係のないおしゃべりをすることも処分の対象にあたるということにならないだろうか。
・神戸市の広報課に問い合わせたところ、「すべての職員の処分について同様の形で発表している」という。「ご迷惑をおかけした(納税者である)市民に対し、お知らせする意味合いがある」と説明するが、その一方で、ホームページでリリースを掲出するなどして、直接、その市民に謝罪するわけでもない。前例に従って、メディア向けの会見発表を営々と続けてきたという。
・こうした謝罪会見を開くのは本来、被害者に対する反省や謝罪、今後の対応策について表明することが目的であるはずだ。しかし、後々非難されることがないように、とりあえず、メディアに対して謝っておこう、といったアリバイ的なパフォーマンスのような会見も少なくない。
・些末な粗相であっても、針小棒大、揚げ足取りのように会社を責め立てるメディアも少なくないからだ。企業としても「とりあえずメディアに発表しておこう」という思考になるのは致し方ないかもしれないが、市民への告知というよりは会見という儀式が目的化している印象もぬぐえない。
▽「迷惑」恐怖症
・このように「過剰感」のある日本の謝罪文化。その背景の1つにあるのが、日本人の過度な「迷惑」恐怖症だ。この3つの事案すべてに共通した謝罪の言葉は「ご迷惑をおかけして申し訳ない」という常套句だ。つまり、被害者に対する謝罪というよりは、不祥事によって、不快感を持つであろうすべての第三者に対しても謝るべきである、という日本独特の考え方がある。
・東京理科大学の奥村哲史教授らの研究では、アメリカ人の学生が1週間に謝った回数は4.51回に対し、日本人の学生は11.5回も謝っていた。この研究では「謝罪は、アメリカでは責任の所在を明らかにするためのものであるのに対し、日本では、反省を表すためのもので、自らがかかわっていない行為に対しても謝るのが特徴的。謝罪は(日本という閉鎖的社会の中の)一種の社会的潤滑油」と結論づけられた。
・不祥事会見で、いやというほど多用されるこの「迷惑をかけてすまない」という言葉は、人様に迷惑をかけてはいけないという日本独特の価値観の表れであると同時に、その裏には、迷惑はかけられるのも嫌だ、という精神性が隠されている。そもそも、人は本来、生きている限り、誰かに迷惑をかけ、かけられる存在のはずだ。しかし、日本では、迷惑はかけてはいけないという意識の一方で、相手の迷惑も一切、受け入れない「不寛容」が生まれている。
・「迷惑」を過剰に恐れ、つねに人の目を気にして、一挙手一投足に過敏にならざるをえない。行き過ぎた謝罪の根っこにあるのは、こうした日本社会の集団的抑圧、同調圧力だ。とりあえず、謝っておこう。「謝罪の安売り」はそんな日本の息苦しさの象徴でもある。
・謝るべき時は、肝を据えて、真摯に責任を認める潔さはもちろん必要だろう。一方で、そもそも、リスクや間違いを過度に恐れる「リスク回避志向」の強い日本人が、ますます縮こまり、内向きに走る現状もどうかと思えるのだ。
・「謝罪」はある意味、同質的な日本人同士の独特の「折り合い方」の知恵なのかもしれないが、グローバル化で、価値観が多様化する中で、誰かの常識は違う誰かの非常識ということも増えている。「とりあえず謝罪」だけで片付く時代ではないのである。
https://toyokeizai.net/articles/-/226658

第一の記事で、『法律事務所とは別の立ち位置で、企業の危機管理をサポートするのが、コンサルティング会社や総合PR会社・・・模擬記者会見の専用スタジオも完備』、ここまできたかというのが正直な実感だ。株主総会では社内でも模擬株主総会などが行われて久しいが、危機管理は恐らくそれ以上に重大な問題として捉えられているのだろう。ただ、『AIが謝罪会見を評価する試みも』、というのは、AIの得意分野なのだろうか、と首を傾げざるを得ない。単なる「ハヤリモノ」に飛びついただけなのではなかろうか。
第二の記事で、『マーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO)が・・・フェイスブックにとって最大の不祥事を受けて開かれた公聴会は、延べ10時間、100人から600の質問を受けるというまさに「千本ノック」状態』、を、『「超絶」危機管理コミュニケーション力によって、第一の関門は乗り越えた』、というのはさすがである。 『8年前、WSJ主催のあるコンファレンスで、想定していなかった質問を受けて、大量の汗をかき、聴衆の面前で、パーカを脱ぐという恥ずかしい経験をしている』、8年間という年月の経過はあるにせよ、同一人物とは思えないような、見事な変わりようだ。
第三の記事で、 『日本の「謝罪文化」の特殊性を浮かび上がらせている。3つの実例』、は確かに行き過ぎだ。特に、『「弁当注文」で謝罪会見』、にはそもそも処分する必要性にも首を傾げてしまった。懲戒権の濫用という気もする。 『そもそも、人は本来、生きている限り、誰かに迷惑をかけ、かけられる存在のはずだ。しかし、日本では、迷惑はかけてはいけないという意識の一方で、相手の迷惑も一切、受け入れない「不寛容」が生まれている。「迷惑」を過剰に恐れ、つねに人の目を気にして、一挙手一投足に過敏にならざるをえない。行き過ぎた謝罪の根っこにあるのは、こうした日本社会の集団的抑圧、同調圧力だ。とりあえず、謝っておこう。「謝罪の安売り」はそんな日本の息苦しさの象徴でもある・・・「謝罪」はある意味、同質的な日本人同士の独特の「折り合い方」の知恵なのかもしれないが、グローバル化で、価値観が多様化する中で、誰かの常識は違う誰かの非常識ということも増えている。「とりあえず謝罪」だけで片付く時代ではないのである』、などの指摘は説得力がある。お互い、もう少し寛容になりたいものだ。
タグ:東洋経済オンライン 日経ビジネスオンライン 岡本 純子 (危機管理) 不祥事への謝罪 (その2)(2017謝罪の流儀:弁護士 コンサルが明かす謝罪ビジネス最前線 手法は色々 最後は経営者の覚悟次第、ザッカーバーグ「完璧すぎる謝罪」の舞台裏 日米企業トップの「コミュ力格差」は絶望的だ、社員の個人的犯罪まで社長が謝罪する違和感 「謝りすぎ」が示す日本社会の息苦しさ) 「2017謝罪の流儀:弁護士、コンサルが明かす謝罪ビジネス最前線 手法は色々、最後は経営者の覚悟次第」 専門の知識とノウハウを持った大手弁護士事務所や危機管理のコンサルティングなどを担う総合PR会社である 西村あさひ法律事務所 コンサルティング会社や総合PR会社 ボックスグローバルや老舗のプラップジャパン 模擬記者会見の専用スタジオも完備 AIが謝罪会見を評価する試みも 「ザッカーバーグ「完璧すぎる謝罪」の舞台裏 日米企業トップの「コミュ力格差」は絶望的だ」 マーク・ザッカーバーグ最高経営責任者(CEO) 米議会の公聴会で証言台 延べ10時間、100人から600の質問を受けるというまさに「千本ノック」状態 究極の「謝罪力」で乗り切った 議員のとんちんかんな質問にも真顔で対応 ザッカーバーグ氏は8年前、WSJ主催のあるコンファレンスで、想定していなかった質問を受けて、大量の汗をかき、聴衆の面前で、パーカを脱ぐという恥ずかしい経験をしている 今回の公聴会における落ち着きとはまさに天と地の差だ 約500人で対応チームを結成し、緻密な戦略を練った 「社員の個人的犯罪まで社長が謝罪する違和感 「謝りすぎ」が示す日本社会の息苦しさ」 日本の「謝罪文化」の特殊性を浮かび上がらせている。3つの実例をもとに説明していこう 阪神タイガースのスコアラーが盗撮容疑で逮捕 、「つくばエクスプレス」を運営する首都圏新都市鉄道が、南流山駅で下りの列車が定刻より20秒早く発車したとして、その日のうちに謝罪のプレスリリースを発表 3つめの事案は、神戸市職員が勤務中に弁当を注文するために、職場を離れる「中抜け」を繰り返し、減給処分されたというものだった 1週間に1回程度、3分間の中抜けということだが、これがダメなら、たばこを吸いに喫煙所に行ったり、就業時間内に居眠りをしたり、業務に関係のないおしゃべりをすることも処分の対象にあたるということにならないだろうか 「過剰感」のある日本の謝罪文化。その背景の1つにあるのが、日本人の過度な「迷惑」恐怖症だ 被害者に対する謝罪というよりは、不祥事によって、不快感を持つであろうすべての第三者に対しても謝るべきである、という日本独特の考え方 いやというほど多用されるこの「迷惑をかけてすまない」 人様に迷惑をかけてはいけないという日本独特の価値観の表れであると同時に、その裏には、迷惑はかけられるのも嫌だ、という精神性が隠されている そもそも、人は本来、生きている限り、誰かに迷惑をかけ、かけられる存在のはずだ しかし、日本では、迷惑はかけてはいけないという意識の一方で、相手の迷惑も一切、受け入れない「不寛容」が生まれている 行き過ぎた謝罪の根っこにあるのは、こうした日本社会の集団的抑圧、同調圧力だ。とりあえず、謝っておこう。「謝罪の安売り」はそんな日本の息苦しさの象徴でもある 「謝罪」はある意味、同質的な日本人同士の独特の「折り合い方」の知恵なのかもしれないが、グローバル化で、価値観が多様化する中で、誰かの常識は違う誰かの非常識ということも増えている。「とりあえず謝罪」だけで片付く時代ではないのである
nice!(2)  コメント(0) 

小田島氏対談(元アル中と下戸が語る 酒と依存とお仕事と【前】、【後】) [人生]

今日は、やや古い記事だが、小田島氏対談(元アル中と下戸が語る 酒と依存とお仕事と【前】、【後】)がとても面白かったので取上げよう。

先ずは、3月29日付け日経ビジネスオンライン「オダジマは就活で落とされたことがない 元アル中と下戸が語る、酒と依存とお仕事と【前】」を紹介しよう(▽は小見出し、Yは聞き手)。
・新社会人の皆様、就職おめでとうございます。日頃ご愛読いただいている日経ビジネスオンライン読者の皆様にも、ご子息が社会に出られる方が数多くいらっしゃると思います。今回は、弊誌サイトの人気筆者、小田嶋隆さんに、担当編集の私がインタビューする形で、仕事について、ためになるお話をしていただこうと思います。長くお読みの方はお分かりの通り、これ、企画的に話す方も聞く方も完全に人選ミスですが、普通のコラムとは違う点から、なにかお持ち帰りいただけるのではと祈っております。「え、オダジマタカシって誰?」 という方はこちらをどうぞ。(担当編集Y)
Y:『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』、3刷り突破だそうでおめでとうございます。小田嶋さんのアルコール中毒の経験談は書いてほしい話でしたし、長いお付き合いなのに知らない話がいっぱいあって面白かったです。
小田嶋:結果論ですけど、語りおろしスタイルだったのはよかったような気がしますね。私の文章だとやっぱり回りくどいから、こういう、扱いが難しい話を書くと印象としてちょっと重いものになると思うんですけど、語り口なので読みやすくはあるんじゃないかと。
Y:しかも、さすがミシマ社さんのお仕事だけあって、ところどころに「コラム」が入っていて、小田嶋さんの文章好きにも嬉しい。「酒と文章」「ヨシュア君とのこと」、とても面白かったです。
小田嶋:全部語り下ろしだと何かぬるいものになってしまうから、書いたものも入った方が引き締まるというのはあったかなと思います。
Y:あと、表紙や中面のイラスト。これは『ポテン生活』の方ですよね、木下晋也さん。この組み合わせは思いつかなかった。小田嶋さんのこの本に雰囲気ぴったりです。
小田嶋:たしか私がしゃがんで吐いている絵を、ポップ向けに描いていただきました(笑)。
▽アルコール依存は、時間の潰し方のひとつ
Y:アルコールに限らず「依存」について、いろいろな読み方ができる本だと思うんです。若い世代になると、もう依存先はアルコールじゃないかもしれませんが……。本の中で「時間があるからお酒を飲むんだ」って、すぱっと小田嶋さんは言い切っているじゃないですか。「人が酒を飲む理由としては、パチンコでもそうでしょうけど、他にやることがないから、というのが意外なほど支配的だったりします」と。
小田嶋:今の若い人たちは時間のつぶしようが多様化しているから、お酒を飲む人は減っているかもしれないですけど。今、ある程度の年齢になって唯一いいことって、時間のつぶし方が上手になったという。
Y:そうなんですよね。最近そう思うようになってきました。
小田嶋:ね。例えば「あれ、3時間空いちゃったよ」といったときに、途方に暮れないというか、むしろご褒美のように感じるじゃないですか。
Y:ありますね。
小田嶋:でも若いころのやっぱり今日1日どうしようというのは、すごくどうしようもなかったので、あれは若いときの独特の感覚だと思うけど、時間が長いんですよ。例えば人と約束して「3カ月後ね」と言われると、子供のころは「そんな日は永遠にやって来ないんじゃないか」と。20代のころでも「え、3カ月後?」と、約束することに違和感があったんだけど、今は平気で半年後の約束とかしているじゃないですか。
Y:それであっという間に来るんですよね、半年後が。
小田嶋:そう。それで本当に来るんですよ、半年なんて。それこそ2カ月なんて、え、もう来たのというぐらいすぐ来るでしょう。
小田嶋:若い連中の「この間」って、先週とか3日前だけど、我々が、「ほら、この間言っていたあれさ」というのが5年前だったりしますからね。
Y:するんですよ。恐ろしいですよ。
小田嶋:時間の感覚が全然違うということが、若いときは酒を飲む理由になっていた。2時間空いちゃったからどうしようもないから飲んじゃう、みたいなことだってあったわけですよ。
Y:なるほど。自分自身が空き時間をつくるのが嫌で、読みきれないくらい本を持ち歩く、みたいなことが。
小田嶋:そうそう。だからそれこそ文庫本を3つ、4つ持ってないと移動できないみたいな感じがありましたよね。ぼや~っとすることが難しいんですよね。若いときはね。
Y:思い出した。今回、働くことがお題なんですが、以前「ア・ピース・オブ・警句」で、小田嶋さんが大学4年生のころの話を書かれました。就活がイヤで、山小屋に逃げ出したと。
小田嶋:大学4年生のときの9月の連休ですね。10日間くらいだったかな。
Y:そのときは、山小屋に籠もってぼーっとしていたんでしょうか。
▽初日にいきなり出遅れた
小田嶋:いや、そうでもありませんでした。ある友人が「夏の間、八ヶ岳の山小屋でアルバイトをしているヤツに差し入れを持っていくから一緒に来ないか」と。そいつは大学を入り直したりして、年次がずれているんですね。
Y:じゃあ、就職活動する必要がまだない方で。
小田嶋:そう。「俺、就職活動なんだけど」といちおう言ったんだけど、そういう誘いは断れなかったんですね。じゃあ、ちょっと山で頭を冷やしてくるかと思って。山小屋といっても1カ所じゃなくて、何カ所かの知り合いのところを渡り歩いて、お土産を渡すような感じで。ただ、もう頂上に上がってしまえばそれぞれの山小屋は近い。2時間も歩けば次の山小屋に着く。だからぶらぶらしていましたよ。
Y:退屈しました?
小田嶋:どうでしょう。でも、あれで就職活動で会社を回る決意が、付いたといえば付いたんでしょうね。
Y:このお話を書いていただいたんですよね。長い連載の中でも好きな回です。就活生の方に参考になるかどうかは分かりませんが、プレッシャーが掛かりすぎているご子息がいらっしゃるならお役に立つかもしれませんので、こちら、ぜひ。→「無意味で、だからこそ偉大な」
小田嶋:山から9月の末に下りてきてすぐ、10月1日から会社を回り始めたんだけど、ただ私の就活は事前に下調べしてなかったおかげで、大事な初日を無駄にしちゃったんですよ。
Y:といいますと。
小田嶋:当時は、「指定校制度」というのがまだ残っていて。
Y:ああ、うちは東大しか採らないよ、みたいな。でも小田嶋さんの大学(早稲田大学)ならどこでもOKじゃないんですか。
小田嶋:いや、大学だけじゃなくて学部にも指定があったんですよ。だから早稲田でも文学部とか教育学部とかいうのはダメ、うちは法学部、経済学部しか採らない、という。銀行、商社だと文学部、教育学部あたりはお断りだと。そんなところに、「俺は早稲田の教育でーす」なんて行くと、あ、悪いんだけどうちの対象の学部に入ってないですよと言われて、「え?」と。結局10月1日は全部無駄足になりました。
Y:しかし、小田嶋さん、銀行や商社受けたんですか?
小田嶋:そういうわけでもないんですが、当時は、私だけじゃなくてみんな当時そうでしたけど、あんまり業種とか会社の規模とかということが分からなかったわけ。だから、とにかく有名企業に。
Y:知っているところに行こうと。
小田嶋:あとは「お堀が見えるところがいいな」みたいな。
Y:なんだか腹が立ってきました。準備していない割にめちゃくちゃ望みが高いじゃないですか。
▽就活で落とされたことがない?
・小田嶋:そうなんですよ。「会社の窓からお堀が見えると何かちょっとかっこいいじゃん」というようなミーハー心理からそう言っているだけですけど、でも、お堀の見える企業ってみんな一流企業だということがいまいち分かってなかった。 それで、1日目に大手町周辺は全部だめだということが分かって、失意のうちに帰ってきて、今後はちゃんと調べて、門前払いは喰わないところを受けようと。それで、1段外側のお堀でもいいやということに。
Y:それって江戸城の内堀から外堀ってことですか? 外堀通り沿いの会社に。
小田嶋:そうそう。内堀通りは諦めて外堀に。
Y:なんでそうお堀に拘るのか分かりません(笑)。
小田嶋:外堀に行くと、教育学部を受け入れてくれる企業があって、それで回ったのが食品のA社とB社と、あとぜんぜん違う業界大手のC社。その3つを回ったんですよ。
Y:回ったとおっしゃいますが、全部歩いて回れるじゃないですか。今の学生さんが聞いたら涙を流しそうなほどお手軽な就活ですね。で、ファンの方はご存じの通り、最終的にA社に行かれるわけですが、B社とC社はどうなったんでしょう。
小田嶋:その3つを受けて、B社は順調に重役面接まで行って、だけど「うちは北海道に行ってもらうよ」という話を聞いて、「じゃあ、やめた」と途中で撤退して。
Y:なるほど。リタイアしちゃった。C社はどうですか。
小田嶋:内定が出ましたよ。
Y:すごい。
小田嶋:C社とA社が内定したから、俺は落ちてないんです、よく考えてみれば。
Y:すごいですね。どちらも今なお人気企業だし。え? ということはもしかして、2日目で行ったところでほぼ終わりですか。就活は。
小田嶋:そうそう、終わりです。だからわりと簡単だったんですね。
Y:うわー。私も今の就活生の方に比べれば全然苦労はしていませんが、これはむかつく。でも、どうしてA社にされたんですか。
小田嶋:今でも覚えているんですけれど、就活で知り合った面白い男がいて、当人の言葉を信じれば、成績はひどいものだけれど、やってもいない運動系サークルの部長をしていました、みたいなホラ話で面接を通っているようなヤツ。いい度胸しているなと思っていたら、そいつもA社とC社に通ったんですよ。
Y:なんと。
小田嶋:彼から「2つ受かったけどどうする」と電話がかかってきて、うーん、俺はまだどっちか考えてないんだけどなと言ったら、「そういうときはね、学部の名簿を見て先輩に電話するんだよ」と。
Y:なるほど。実践的ですね。
▽先輩に電話して、C社を切る
小田嶋:そういう知恵を付けられたんですよ。ああ、それはいい考えだと教育学部の名簿を繰って、まずC社の先輩に3人ぐらい電話してみたら、3人が3人とも「うちは来ない方がいいよ」と。
Y:へえ。なぜでしょう。
小田嶋:「うちはすごく厳しいよ。20代のころはめったに午後11時前には帰れないよ。来るなら来るで覚悟を決めてから来た方がいい」みたいな言い方をされたんですよ。俺は、C社がそんな厳しい会社だと思ってなかったから。
Y:それでA社に。ちなみにその知恵を授けてくれた方は?
小田嶋:俺が「A社にするよ」と言ったら「じゃあ、お前がそっちに行くんなら俺はC社に行ってみるよ」と言って、それ以来連絡がない。どうしているのやらと思っているんですけどね。会えたら面白いなと思っているんですけど。
Y:しかしあれですか、最初のころに「人生の諸問題」で、面接の台本を岡さんとやりとりしたみたいな話をしたじゃないですか。それってもしかして効いたんですか。
小田嶋:そうそう、それは効いたの。すごく芝居がかった面接をやっていたんですよ。自分は優が3つだったかな、そのくらいしかなかったんですけど。
Y:それは少ないんですか。
小田嶋:少ない。すごく少ないです。20あればまあ優秀、15とかでも普通ぐらい。1けたというのはいくら何でもまずいでしょうという感じなんですよ。それで、自分は優が3つしかないけど、「優」という字はにんべんに「憂い」と書くと。要するに憂うつな学生生活を送ったものが取るものだと。自分は楽しい学校生活を送ってきたんだから、優が取れないのは仕方ない。でも実際社会に出てみたら学生生活を楽しんだ者の方が、会社員としては間違いなく使えるはずだ、という主張をしました。
Y:そこに何の証拠があるんですか。
小田嶋:何の証拠もないけど。
Y:面接官には受けたわけですね。
小田嶋:受けたんですよ。
Y:すごいというか、何というか。
▽情報が公開されないほうが精神的には楽かも
小田嶋:ひとつには、当時はまだ『面接の達人』みたいな、技術やパターンで切り抜けるガイド本やウェブサイトがなかったから。
Y:就活に明確な方法論がなかった。となると、「人生の大勝負にリスクは侵せない。マニュアルに頼ろう」ではなく、「どうやってこの苦境を頓知で抜けるか」みたいな発想が生まれる余地があったのかもしれませんね。
小田嶋:そう。どうやって受けるネタをやるのかというのが、特に成績の悪い人たちには「俺たちにとっての就活は、受けを取って一点突破することだ」という感じがあったんですよ。
Y:「サッポロビールの面接は、何を聞かれても黙りこくれ」とかそういうやつですね。
小田嶋:そうそう。最後に「男は黙ってサッポロビール」と言ったとか言わないとか、当時は、ああいう都市伝説が流れていたくらいだから。
Y:今なら、あっという間にフェイクニュース扱いされそうな。
小田嶋:どの会社でどういう面接があってこうこうです、という情報が全然なかった時代だから、会社も学生も結構適当にやっていたんですよ。息子の就活を見ていて思ったのは、お互い手のうちを全部明かしてやっちゃっていることの不幸さですね。だって、受ける側も50社とか受けちゃったりするでしょう。
Y:受けるというか、エントリーシートは全然出せる。
小田嶋:例えば恋人選びするときに、3人の中から選ぶとすごく狭いようだけど、じゃあ、50人の中から選べば、いい子を選べるのかという問題なわけですよ。選べるかもしれない。だけど、相思相愛になれたとして、下手すると49回失恋しなきゃいけない話になるでしょう。
Y:まあ、そうですね。
小田嶋:数を出せるから、落ちる会社も多くなる。じゃあなぜそんなに落ちなきゃいけないかというと、どこの企業も欲しがるような学生が50社も受けちゃうからですよね。我々の時代みたいに10月1日に解禁で、実際に面接を受ける人以外は履歴書を出さないというふうになっていれば、どんなに頑張ったって10月の第1週までに7つか8つですよ。そうなれば一番最優秀の生徒でも7つしか内定を取れないわけですよ。
Y:なるほど。無駄な競争が起こらない。
▽でも、あっという間に辞めました
小田嶋:そうそう。それで、企業の側も10月1日に来た子は自分のところを第1志望にしたんだと分かるから、だからある程度優遇するけど、10月2日とか3日に来たら、絶対、第一志望じゃないことは分かるから、「うちに何か用ですか」と。
Y:あはは。あれ、じゃ小田嶋さんも言われたでしょう。
小田嶋:そこで「実は指定学部制度を知らないでむなしく帰ってきました」と言って、ちょっと受けを取りました。
Y:ははあ。「情報があれば幸せかというと、そうでもないんじゃない?」みたいな話なんですかね。
小田嶋:そう。振られる子と、すごくモテて50人振る子とがいるわけだけど、でも、50人振ってうれしいのか。そういうわけでもないでしょう。会社だって、落とす人を増やしていいことがあるわけじゃない。
Y:一方でむやみに落とされたり、振られたりすると、自己否定に陥る危険はありますね。就職も恋愛もつまるところ相性ですから、落ちたり振られたりしても本来気に病むことじゃないんですけれど、数が重なるとダメージになりそう。
小田嶋:だから「出会いの数が多いほどいいんだ」という問題ではない。志望の会社に入れたら幸せか、というともちろんそれも違う。そもそも俺、そうして入った会社をあっという間に辞めてしまうわけですから。
Y:そう、問題は入社した後ですよね。そして小田嶋さんはお酒との付き合いに深く沈み込んでいくわけですが……。(後編に続きます)
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/284031/032600028/?P=1

次に、後編を3月30日付け日経ビジネスオンライン「あの人の酒席に付き合うかどうかの判断基準 元アル中と下戸が語る、酒と依存とお仕事と【後】」を紹介しよう(▽は小見出し、Yは聞き手)。
Y:『上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白』を読んで、下戸の私に面白かったというか、興味深かったのが、「アルコールは本来たいして面白くもない人間関係を演劇化する」という指摘なんです(P.116)。
小田嶋:Yさんは飲まないんでしたっけ。
Y:それなりに好きですが、量は全然いけません。そして、自分ひとりでバーに行く人の気持ちがよく分からなかったりします。
小田嶋:ああ、居ますね。
Y:お酒を飲むためにわざわざああいう空間が用意されているのはなぜなのか。そもそも独り酒というのがすごく苦手で、自意識が過剰なんでしょうけど、身の置きどころがなくなっちゃうんですね。しかもお酒に強くもないから、薄くなった水割りをいつまでも舐めているという。で「バーに行く人って何が楽しいんでしょう?」と。
小田嶋:バーに独りで行って独りで飲む人間というのは、ひとつ考えられるのはアルコールを摂取している人間ですよね。ガソリンを入れるみたいな。
Y:ええ、でも、だったら部屋で飲んでいても同じなわけですよね。わざわざバーで飲むというのは、もしかしたら「独り、お酒を飲んでいる自分」を演じるという、演劇的な楽しみがあるのかな? と、これを読んで思ったわけです。
小田嶋:外から見たら別にかっこよくもないけど(笑)。アルコール依存症ではないとしたら、酒を自宅ではなく、外で飲む意味って、カウンターの内側に居る人、見知らぬお客さんも含めて、やっぱり他人との関係の中にあるんですよ。
Y:何らかの関係性、コミュニティーと、お酒は切り離せない。
小田嶋:ええ。だから、酒を含んだコミュニティーに依存している人たちというのは、コミュニティー依存でもあるわけですよ。だけど、酒そのものに対して依存している人間は、独りであれ5人であれ10人であれ、あるいは旅行中であれ勤務中であれ、酒がないといけないという人たちです。 アルコールそのものへの依存ではない大半の人は、独りで飲んでいるようで、マスターとの会話とか、他の人のやりとりが目当てだったりすると思うんだけどね。例えば「酔ったから言いますけど」とか、普段とは違う“酔っ払った自分”というキャラを作ることができるじゃないですか。そうすると、バカバカしい会話でも平気で入っていけたりする。仕事上の言いにくい話もできたりする。
Y:うーん。自分は酒が弱いんで、酔うこと自体を警戒するから、「酔っ払ったから言いますけれど」という便利なキャラになれないんですよね。仕事の飲みは、小田嶋さんはこなしていたほうですか。
▽「飲めないと仕事にならない」
小田嶋:1985年くらいかな、会社を辞めて、TBSラジオのアルバイトをしながらライター仕事もやって、「放送作家になろうか、どうしようか」、と思っていたころは、TBSの人とやたらとタダ酒を飲みまくって、お酒を覚えたという部分はあるといえばあります。
Y:なるほど。バブル前夜の1980年代。
小田嶋:そう。放送局周辺なんて打ち合わせと言っちゃえば伝票が切れちゃうわけだから、してみると放送作家との打ち合わせというのは、ディレクターにとっては一番飲む材料になるわけで、だから私はよく何だかんだと彼らと飲み歩いていたわけですよ。 でもそのころの酒はまだまだ楽しい酒ではあったんですけどね。いよいよやばくなったのは独りで飲むようになってからの話なんだけど、でも飲む機会があれば必ず逃さず飲むというふうになっていったのは、そのタダ酒の機会と、しかもそのタダ酒が仕事につながっていたわけですよ。
Y:はー。
小田嶋:今の出版界はそうでもないけど、昔は「編集者は飲めないと仕事にならないよ」と言われていた時代があったでしょう。編集者もそうだし、放送作家、ディレクター周辺も、仕事というとだいたい飲みに行って、そこでやんややんややっているうちに話がまとまって、よし、それじゃこの線で行きましょう、えっと、どの線だったっけみたいなやつですよ(笑)。
Y:ああ。でも、そういう場がないとコミュニケーションが取れない時代でもありましたね。
小田嶋:そう。当時は携帯もメールもなかったから、編集者と書き手というのは、大作家じゃなくても、単なるパシリのライターみたいな俺でも、「とにかく会って密に話をする」という習慣だったんですよ。原稿を渡す、渡さないもそうだし、直す、直さないとかタイトルをどうしようかとかということをいちいちやっていたんですよ。それぐらい仕事を、まあ、つまらない手間をかけてやっていたわけですよ。
小田嶋:ある意味、悪く言えば生産性がすごく低かったんだけど、よい面を言えば、みんなが顔を合わせて知恵を出し合って作っていた感覚はすごく強いんですよ。雑誌にしても番組にしても。
Y:ありました。
小田嶋:「こんな面白い特集企画どこから出てきたんですか」「ええっと、誰だっけ」という。ワイワイ飲んでいるときに、じゃあ、これで行こうよ、それ最高! なんていって決まるみたいなのが、あるといえばあったんですよね。特にサブカルってそういうものだったんですよ。集団的な宴会芸の延長で雑誌が、番組ができている、みたいな感じだったんですよね。
Y:あったかもしれません。
小田嶋:だからサブカル周辺のライターというのは、大酒飲みである必要はないけど、座持ちというのか、そういうところに顔を出せる人間である必要というのはちょっとあって、やっぱり仕事と不可分ではあったんですよ。この本の中であんまり仕事と不可分だったというところの話はしてないけど。酒が深まっていく過程の中には、「仕事」は間違いなくあった、ということです。
Y:仕事全般にまで敷延できるかどうか分かりませんけれども、でもそれこそ普通の会社だって「終わったら飲みに行く」というのは私が入ったころって普通にあった。でも、これまたいつの間にか誰も飲みに行かなくなった。
小田嶋:飲みニケーションという言葉は今の若い人たちはすごく嫌うし、俺も好きな言葉じゃない。とはいえ、それって仕事の前提だったでしょう。
Y:そうなんです。前提だったんですよ。飲み会に出なかったので「あいつ人嫌いだ」くらいに言われましたからね。お茶なら喜んで付き合うのに。
小田嶋:ね。だから好きとか嫌いとかいうんじゃなくて、前提だったわけですよ。 言い換えると、「飲みニケーション」という“のりしろ”がないと、会社組織というのは回らない、という前提があった。個々の人間の個々の能力というのは、それは勝手に発揮してくれればいいけど、その間のすき間を埋めるものは酒でしょうというのがあったわけですよ。
Y:先ほどの「酒の力で」「酒の場だから」というか、サブチャンネルみたいな。
小田嶋:そう。潤滑油がないと回らないでしょうとみんな思い込んでいたんですよ。
Y:実際、仕事の仕組みが大きく変わっていないなら、酒に限らずサブチャンネルは今でも必要なのかもしれませんが……。
小田嶋:私なんかは不幸にも仕事より酒が中心になっちゃったんだけど、同世代で「今の若いやつは酒に誘っても飲みに来ない」ということを嘆くヤツはすごく多い。
▽奢られると思うと、よけい行きたくなくなる?!
小田嶋:彼らは説教しようとか、やり込めてやろうと思っているんじゃなくて、善意でもって「若い部下に言いたいことを言わせてやろう」と、しかも自分の金で奢ってやろうと。どんなやつか知るには飲むのが一番だから、とか思って誘っているのに、「せっかくですけど」と言われるので、俺のこと嫌っているのかと思って傷つく、という。
Y:それってどっちも分かるな。
小田嶋:うん。やっぱりそれは、ある時代からは、「年の離れた男同士が飲むことに、何の意味があるんですか」という問いが発生しているわけですよ。
Y:改めて聞かれると、すごくまっとうな疑問ですね。
小田嶋:まっとうな質問です。だって、突き詰めれば意味ないでしょう。それで、若い人は「しょうがない、行かないでもない。だけど、奢られて借りをつくるのも嫌だし」みたいな気持ちになって。
Y:あー、若手は「貸し借り」って結構気にしますよね。
小田嶋:そうですね。奢られるのがうれしいかというと、借りになるわけだからあまり嬉しくないという。 それで、この話をどう落とすかというと、昔は会社員の間で「奢る、奢られる」「面倒を見る、見られる」という関係が先輩と後輩の間にあったわけですよ。俺はお前の先輩なんだから俺が金を出す。それは実は、行ってこいのパターナリズムを持っていて、「俺の言うことが聞けないのか」という部分もあり、あるいは「男というものの本当の生き方を教えてやる」みたいな部分も、いかに善意とは言えやはり含んでいないわけではない。
Y:逃げ場や、断りようがない形での関係性を強要された、と感じるわけですね。ああ、だから飲み会が嫌だったんだな。
小田嶋:飲みニケーションが崩壊したというのは、その関係性を強要されるメリットが弱くなったことでもある。「会社は特に俺たちを大事に思っていないらしいぞ、だったら先輩と無理に付き合う必要もない」という意識の変化が効いているんですよね。
Y:集団に帰属しても見返りが小さそうだ、と。だったら奢られるよりも、割り勘で借りを作らないほうがいい。
小田嶋:そうそう。飲むということが等価交換、割り勘で飲む世界になった瞬間に、「あんなおっさんと一緒に飲んでもしょうがないじゃん」と。そして、割り勘で飲む以上つまらない説教は聞きません、と。
▽割り勘でも飲みたい相手と行けばよい
Y:要するにそういうことですか。
小田嶋:そういうことですよ。最初に言ったけど、酒ってやっぱり人間と人間をつなぐ紐帯みたいな部分を持っている。だけど、それは等価交換の人間関係じゃないんですよ。やっぱりどこか上下関係だったり主従関係だったり、何かを含んでいる。
Y:「飲め」と言われたら飲まないわけには...みたいな感じの。
小田嶋:そう。「俺の酒が飲めないのか」というあの言い方に現れている。
Y:そうそう。あれが嫌で仕事相手と酒飲みに行きたくなくなった。強制されるのも嫌だし、酒ごときをさらっとこなせない自分も嫌になるし。
小田嶋:若手が飲みに行かないというのは、「俺の酒が飲めないのか」という言葉が出そうな雰囲気が、誘っている方、あるいはその会社の中にあるのを感じるからじゃないかと思いますね。「酒が取り持つ主従関係」みたいな。
Y:それを醸し出さない相手となら、もしかしたら若手も飲みに行きたいかもしれませんね。割り勘で(笑)。誘いたい方、行ったものかどうか迷っている若手の方、この辺が判断基準になるかと。 とはいえ、ストレスやらなにやら、自分を不機嫌にする材料は残念ながら生きていれば事欠かないわけで、そういう辛さから自分を救うものが、依存だったり、嗜癖だったりする、とも小田嶋さんは『上を向いてアルコール』で書いています。「大きな枠組みから言えば、われわれは結局のところなにかに依存していて、その依存先を都合次第で乗り換えているということですよ」(P141)「つまりまあ、わがままに生まれついてしまった人間は、他人から見れば好き放題に言いたいことを言っていてえらく気楽に見えるのかもしれませんが、本人としては、自分を機嫌良く保っておくそれだけのことにいつも苦労している。」(P144)
Y:だから我々は、酒やらなにやらの依存先を、小田嶋さんの言い方に依れば「詐術の1つ」として求める。でないとやっていられない。
小田嶋:そうです。本にも最後に書きましたけれど、皆さん、アル中の気持ちを体験してみたいなら、画面が割れたとか電池が寿命だとかで、3日間スマホなしの生活をしてみればいいわけです。ほとんどの人が禁断症状に襲われるはずで、これとすごく近い。
Y:あ、いま自分自身すごく腑に落ちました。不安や、つらいことがあったり、あまりモチベーションが上がらない仕事をやっているときに、気づくとふっとスマホを出して、Twitterとか見ているんですよね。それで、何か特別面白い話を読んだわけでもないのに、その後って何となく落ち着いているんです。確かに、アルコールがもたらす作用と似ているかもしれない。
小田嶋:そういうのはスマホだけに限りません。「テトリス」みたいなものへの依存ってあるじゃないですか。
Y:聞いたことがありますね。
▽ソリティア、マインスイーパ-ならできる理由
小田嶋:どなたかが書いていてなるほどと納得したんですが、「自分がうつになったときに『テトリス』だけはできた」というんですよ。生産的なことは仕事も家事も何もできなくなっていたときに、「テトリス」だけできたと。自分も原稿がどうしてもやりたくないときに、何もしないのかというと、「ソリティア」か何かやっているんですよ。
Y:「マインスイーパー」をずっとやっているという人の話も読んだ記憶があります。
小田嶋:そうそう。同じです。あれはまったくの無じゃなくて、何か頭の一部だけを使っている。あれはじきに依存を形成するんだけど、やっているときに、心の中に平安が訪れている。酒も、あるタイプの飲み方をしている人たちは、取りあえず酒が入っていると、それが素晴らしくいい気持ちだ、とかいうんじゃなくて、平安なんです。「ソリティア」や「マインスイーパ」を2時間でも3時間でもやっている人は、それに似た状況に入っているんじゃないですかね。別に、クリアしたり高得点を取りたいからじゃないと思う。で、スマホがこうした単純なゲームと似ているのは、「これこれの情報がぜひ欲しい」から触るわけじゃなくて、自分の頭で何か考えなきゃいけないことがつらい、面倒くさいからなんじゃないかと思うんですよ。
Y:そうか。やりたくない仕事、解決できそうもない不安に対して、直面して考えるのが嫌だから、自分のプロセッサーの処理能力をそっちに食わせちゃえ、みたいな。
小田嶋:そう。それ。プロセッサーの処理能力という言い方はいいと思いますよ。
Y:納得しました。つまりそっちに処理能力を取らせてしまえば、心配事が消えたわけじゃないけど、心への負荷が一時的に和らぐんだ。
小田嶋:そう、取りあえずね。例えば、失恋したばっかりのときに、ふっと暇になるとそのことを考えちゃう。それが嫌だからやたら仕事に励むとか、そんな感じ。
Y:うわ、分かる。しかも、スマホってものすごく安楽だしどこでも使えるし。「あなたが辛くなったときには、自動的に目を通して沈静用の薬液が供給されます」みたいな感じですね。こわ。
小田嶋:それで5秒とか10秒の時間をつぶしてくれるでしょう。
Y:確かに。
小田嶋:ちゃんとした時間じゃなくて。その電車の中の移動の7分とかそういう時間をちょっと見ていられるという、あの感じというのはすごく依存に近い。
▽依存は特殊なことではない、と、スマホで思う
Y:そこで「じゃ、スマホ依存って悪いことなのか」という疑問も出ると思いますが。
小田嶋:それは必ず悪いということでもないし、酒ほどは間違いなく悪いものじゃないです。酒をやめるときだって、要するに「無難な依存先に乗り換えようよ」ということではあるわけですよ。依存というものを人間の生活の中から外そう、ということじゃなくて。
Y:そうですね。全ての不安や不快をなくすことは無理なんですから。
小田嶋:無難な依存に乗り換えようよというところの中に、ランニング依存だとか、サッカー依存だとか、鉄道依存とかタカラヅカ依存だとかがある。なんならちょこちょこ依存先を変えていきましょうということです。「ネット断捨離」ってのも、もしかしたら時々やってもいいかもしれませんが、自分が言いたいのは、依存というのが特殊なことだと思っている人が多いけど、実はみんながしているんですよ、という話です。
小田嶋:スマホ依存がアルコール依存と同じようにやばいとは全然思わないけど、依存というのは人間が生きていく限り必ずあるものだから、なるべく無難なものに依存しましょうね、ぐらいな問題で、依存している人は変な人だとか、依存しているからあの人はだめだ、というのはちょっと違う。
Y:なるほど。しかしスマホ中毒の弊害ってなにがありますかね。
▽スマホ中毒は、考える時間の消滅を呼ぶ
小田嶋:ひとつは、周りのスマホ中毒していない人にとっては実に腹立たしく見えるらしいこと。これはマナーもあるけれど、たとえば、スマホを見られない立場、たとえばドライバーにとって、歩行者や自転車に乗っている人が、スマホに夢中になっている状況を考えれば分かりますよね。運転している側からしたらめっちゃめちゃ危ない。だけど本人は気づいてもいない。
Y:ああ、うちの奥様が反スマホ派でした。「PTAのLINEグループに入れない」とぶつぶつ言いながら、いまだにガラケーです。私がリビングでスマホに触ると不機嫌で、食事中は絶対禁止。
小田嶋:時間の使い方がだらしなく見える……らしい。私は妻と、たまに外食でいい店に行ったときに、スマホを使っていたら怒られた、というか呆れられた。こんなにおいしいものを食べていながら、そんなにスマホが楽しいの、と。 もうひとつは、時間の使い方がものすごくヘタになる。スマホを見てる時間って、モノをまったく考えていないですから。
Y:え、そうでしょうか?
小田嶋:自分は能動的に情報を探している、インプットしている、と思うかもしれませんけど、外から取り込んでいるときは、自分の思考は動いてません。プロセッサーの処理能力をダウンロードに喰われているだけですよ。だから、原稿を書くときはネット検索は出来る限りしない。
Y:なるほど……。お酒をやめられた小田嶋さんは、スマホもやめられるんでしょうかね。
小田嶋:それは分かりませんが、そういえば酒をやめるというのはどういうことなのかというのは、すごく説明しにくいんですよ。 というのは、たばこをやめた人間はすごく多いから、何となく見当は付くと思うんだけど、最初の2週間とか3週間は手持ちぶさたでかなわないということと、たばこへの渇望があるわけです。でも、やめて半年もすれば、もう自由になれるんですよ。なんであんなに吸いたかったのか、と。 酒についてもそれと同じ、と思っている人たちがいるんですけど、全然違う。
Y:どっちもやらないので分かりませんが、どう違うんでしょう。
▽断酒は失恋に似ている、かもしれない
小田嶋:どっちもやっていてどっちもやめた人間の、個人的な見解ですが、渇望感だったり肉体的な依存みたいなものは、もしかしたらたばこの方が強いんですよ。酒ってそんなに……もちろん(断酒して)最初の2~3週間というのは結構ひどいもので、禁断症状というのもあるんだけど、でももっとでっかいのは、精神的依存、のみならず、文化的依存みたいなやつなんです。
Y:文化? はて?
小田嶋:うん。これ、うまく説明できないなと思っていたんだけど、この間い思いついたのは、「失恋に似ている」ということです。
Y:失恋ですか。
小田嶋:そう。失恋と言ってもいろいろなケースがありますが、たとえば5年付き合っていた女の人と別れると。大好きだから別れるわけじゃなくて、嫌いだから別れるということもあるでしょう。
Y:まあ、あるでしょうね。
小田嶋:嫌われる場合もあるし、嫌う場合もあるし。でも多くの場合、双方がもうお互い嫌になっちゃったということがあって別れるわけじゃないですか。でも5年付き合っていたということは、まあ、普通の事じゃないわけです。せいせいする一方で、「ああいうところに行くときには、いつも一緒に彼女がいた」という実感が、自分の生活、人生の、ほぼあらゆる瞬間にある。
Y:長い時間を共有していたわけですから……。
小田嶋:そうそう。その共有を全部どけたということは。
Y:そういった経験はもうできなくなるわけだ。
小田嶋:そう。音楽でも飯を食うのでも、あるいはテレビを見るのでも、今まで傍らにいた人間がいない、その味気のなさというのか、慣れなさというのがあるわけです。まして、話し合いの上で別れたのならともかく、大好きだったのに振られた場合というのは、これはとてもじゃないわけですよ。自分の心はまだ彼女のもとにあるのに、自分はたった独りであると。 これは非常に耐えがたいことです。嫌いでさえ結構耐えがたいんだから、もし好きだったらこれはとてもじゃないです。どっちにしても、振られたにしても振ったにしても決裂したにしても、どっちみちこの3つのうちですけど、やっぱり一定期間は日常に戻るのにそこそこ苦労するわけですよ。
Y:かつての恋人と聴いていた音楽とか行っていた店とか、そういうところに引っ掛かっている。そこが酒と似ていると。
小田嶋:そうそう。たとえば「酒なしで旅行に行くのってどうよ」とかそういうことで、大丈夫は大丈夫なんだけど、ふっとあるとき手持ちぶさたになったときに、あ、こういうときにあいつがいないというのは、結構深刻な空しさがあるな、と。どうしようかな、俺はいったい何をしたらいいんだろうと思ってしまうんですよ。 これが相手が女性だと電話しちゃうじゃないですか。でも電話でもしたら相手が「冗談じゃない」と言って会ってくれないかもしれない。やっぱりやめておこう。そうやって何とか日常に復帰しながら、彼女を……。
Y:忘れていくわけですね。
小田嶋:そうそう。一方で、電話したら「分かった」と言って復縁できちゃったら、これは別れられないですよ。「もう同じ人と5回ぐらい別れたんだけど、やっと本当に別れた」というのもよくあるじゃないですか。別れ話をして2週間会わなかったけど、やっぱりどちらからともなく連絡して、また3カ月、だらだらけんかしながら付き合ってとか。
▽人間だって、分かれるのは難しい
Y:そうですね。なるほど。で、酒は、電話するどころかコンビニで24時間買えるわけで。
小田嶋:そう。酒と分かれるのが難しいのは、その気になればいつでも手に入っちゃうということで、そんな200円かそこらでいつでも手に入るものから手を切るということの難しさというのは、これはなかなかね。
Y:たばこはそういうふうにはならないんですか。
小田嶋:たばこというのは依存物質だけど、たばこと共にあった経験というのが自分の人生を形づくっているわけじゃないんですよ。
Y:そうなんだ。
小田嶋:たばこを吸いながら見た映画は素晴らしかったけど、なしで見る映画はくだらん、とかそういう話じゃないんですよ。でも酒は、飲みながら見た映画とか、飲みながら見た野球とか、あるいは酒とともにあった景色とか、旅行に行って行きの電車の中でゆっくり飲みながら窓の景色を見るのって最高だよね、みたいなことがある。だから、酒なしで景色を見ていると、このしらじらしさは何だ、という。
Y:酒がないと「しらじらしい」という感じがする場所って、なるほどあるのかもしれません。  小田嶋:そうそう。それをレイモンド・チャンドラーは「色が薄くなったような」と表現したんですけど。世界から色が消えたような感じというのが、酒をやめるとずっとあるんですよ。
Y:失恋、というのは思いも付きませんでした。やっぱり、ある程度でもお酒に依存してみないと分からない感覚なのかな。
小田嶋:ルー・リードという人の歌の中に「ヘロイン」という歌があって、「Heroin, it's my wife and my life」と言っていますよね。だからヘロインは我が人生、我が妻と言っていますけど、ジャンキーからするとそういうことなんです。
Y:恋人、というのも考えてみれば、相互依存みたいなものかもしれませんけれど。
▽今も気がつくと思い出している……
小田嶋:ないと死ぬ、というほど必要じゃないけど、ないと人生がすごく味気なくなるぐらいなものですよ。なきゃないで済むけど。だから5年付き合っていた恋人と別れて、3年、4年たてばもうあんまり思い出すこともなくなったなとなるかもしれないけど、3カ月とかあるいは2週間とかだと、気が付くと思い出しているみたいな。 酒も、「気がつくと思い出している」みたいな存在ではあるんですよ。酒そのものじゃなくて、酒にまつわるあらゆるもの。恋人も、恋人そのものじゃなくて、恋人とした経験だとか恋人と行った場所だとか、そういう経験とかいろいろな込み込みのものとして思い出す。
(Y:(表示もれ?)ああ、だとしたら離婚した人はこの気持ちが分かりやすいかもしれない。離婚も、嫌な思い出もあるだろうけれど、何年か一緒に暮らした以上、何か素敵な思い出や忘れられない出来事はあるはずで、いなくなってせいせいした部分はともかくとして、いなくなったことにより、自分の人生のかなり大きな部分が意味を失ったということはあるはすよね。依存から離れることというのは、もしかしたら離婚に似ているんでしょうかね。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/284031/032600029/?P=1

第一の記事で、 『でも若いころのやっぱり今日1日どうしようというのは、すごくどうしようもなかったので、あれは若いときの独特の感覚だと思うけど、時間が長いんですよ。例えば人と約束して「3カ月後ね」と言われると、子供のころは「そんな日は永遠にやって来ないんじゃないか」と。20代のころでも「え、3カ月後?」と、約束することに違和感があったんだけど、今は平気で半年後の約束とかしているじゃないですか』、という時間感覚の違いはたしかに実感する。 『「会社の窓からお堀が見えると何かちょっとかっこいいじゃん」というようなミーハー心理からそう言っているだけですけど』、と小田島氏でも当時はそう考えていたというのには驚いた。 『我々の時代みたいに10月1日に解禁で、実際に面接を受ける人以外は履歴書を出さないというふうになっていれば、どんなに頑張ったって10月の第1週までに7つか8つですよ。そうなれば一番最優秀の生徒でも7つしか内定を取れないわけですよ・・・無駄な競争が起こらない』、なるほど近年の就活が激烈になっている理由の一端が伺えたようだ。
第二の記事で、 『例えば「酔ったから言いますけど」とか、普段とは違う“酔っ払った自分”というキャラを作ることができるじゃないですか。そうすると、バカバカしい会話でも平気で入っていけたりする。仕事上の言いにくい話もできたりする』、『特にサブカルってそういうものだったんですよ。集団的な宴会芸の延長で雑誌が、番組ができている、みたいな感じだったんですよね』、 『飲みニケーションが崩壊したというのは、その関係性を強要されるメリットが弱くなったことでもある。「会社は特に俺たちを大事に思っていないらしいぞ、だったら先輩と無理に付き合う必要もない」という意識の変化が効いているんですよね』、『飲むということが等価交換、割り勘で飲む世界になった瞬間に、「あんなおっさんと一緒に飲んでもしょうがないじゃん」と。そして、割り勘で飲む以上つまらない説教は聞きません、と』、『やりたくない仕事、解決できそうもない不安に対して、直面して考えるのが嫌だから、自分のプロセッサーの処理能力をそっちに食わせちゃえ、みたいな・・・つまりそっちに処理能力を取らせてしまえば、心配事が消えたわけじゃないけど、心への負荷が一時的に和らぐんだ』、などの指摘は大いに興味深い。 『無難な依存に乗り換えようよというところの中に、ランニング依存だとか、サッカー依存だとか、鉄道依存とかタカラヅカ依存だとかがある。なんならちょこちょこ依存先を変えていきましょうということです。「ネット断捨離」ってのも、もしかしたら時々やってもいいかもしれませんが、自分が言いたいのは、依存というのが特殊なことだと思っている人が多いけど、実はみんながしているんですよ、という話です』、依存をここまで深く掘り下げるとはさすがだ。(スマホは)『自分は能動的に情報を探している、インプットしている、と思うかもしれませんけど、外から取り込んでいるときは、自分の思考は動いてません。プロセッサーの処理能力をダウンロードに喰われているだけですよ。だから、原稿を書くときはネット検索は出来る限りしない』、も言われてみればその通りだ。 『それをレイモンド・チャンドラーは「色が薄くなったような」と表現したんですけど。世界から色が消えたような感じというのが、酒をやめるとずっとあるんですよ』、幸い酒依存ではないので、分からないが、そんあ状態に陥らないためにも、酒依存には気を付けたい。
タグ:日経ビジネスオンライン 小田島氏対談(元アル中と下戸が語る 酒と依存とお仕事と【前】、【後】) 「オダジマは就活で落とされたことがない 元アル中と下戸が語る、酒と依存とお仕事と【前】」 上を向いてアルコール 「元アル中」コラムニストの告白 アルコール依存は、時間の潰し方のひとつ 若いころのやっぱり今日1日どうしようというのは、すごくどうしようもなかったので、あれは若いときの独特の感覚だと思うけど、時間が長いんですよ。例えば人と約束して「3カ月後ね」と言われると、子供のころは「そんな日は永遠にやって来ないんじゃないか」と。20代のころでも「え、3カ月後?」と、約束することに違和感があったんだけど、今は平気で半年後の約束とかしているじゃないですか 会社の窓からお堀が見えると何かちょっとかっこいいじゃん」というようなミーハー心理からそう言っているだけですけど 我々の時代みたいに10月1日に解禁で、実際に面接を受ける人以外は履歴書を出さないというふうになっていれば、どんなに頑張ったって10月の第1週までに7つか8つですよ。そうなれば一番最優秀の生徒でも7つしか内定を取れないわけですよ。 「あの人の酒席に付き合うかどうかの判断基準 元アル中と下戸が語る、酒と依存とお仕事と【後】」 特にサブカルってそういうものだったんですよ。集団的な宴会芸の延長で雑誌が、番組ができている、みたいな感じだったんですよね 飲みニケーションが崩壊したというのは、その関係性を強要されるメリットが弱くなったことでもある。「会社は特に俺たちを大事に思っていないらしいぞ、だったら先輩と無理に付き合う必要もない」という意識の変化が効いているんですよね 飲むということが等価交換、割り勘で飲む世界になった瞬間に、「あんなおっさんと一緒に飲んでもしょうがないじゃん」と。そして、割り勘で飲む以上つまらない説教は聞きません、と やりたくない仕事、解決できそうもない不安に対して、直面して考えるのが嫌だから、自分のプロセッサーの処理能力をそっちに食わせちゃえ、みたいな 納得しました。つまりそっちに処理能力を取らせてしまえば、心配事が消えたわけじゃないけど、心への負荷が一時的に和らぐんだ 無難な依存に乗り換えようよというところの中に、ランニング依存だとか、サッカー依存だとか、鉄道依存とかタカラヅカ依存だとかがある。なんならちょこちょこ依存先を変えていきましょうということです 依存というのが特殊なことだと思っている人が多いけど、実はみんながしているんですよ、という話です 自分は能動的に情報を探している、インプットしている、と思うかもしれませんけど、外から取り込んでいるときは、自分の思考は動いてません。プロセッサーの処理能力をダウンロードに喰われているだけですよ。だから、原稿を書くときはネット検索は出来る限りしない レイモンド・チャンドラーは「色が薄くなったような」と表現したんですけど。世界から色が消えたような感じというのが、酒をやめるとずっとあるんですよ
nice!(2)  コメント(0) 

経営の親子継承(”お家騒動”)(大塚家具問題2題:苦悩深まる父と娘の関係 父の「匠大塚」も順風満帆とは言いがたい、大塚家具のビジネスモデル大崩壊で 銀行が備え始めた「Xデー」ついに担保保全に走り出し) [企業経営]

今日は、経営の親子継承(”お家騒動”)(大塚家具問題2題:苦悩深まる父と娘の関係 父の「匠大塚」も順風満帆とは言いがたい、大塚家具のビジネスモデル大崩壊で 銀行が備え始めた「Xデー」ついに担保保全に走り出し)を取上げよう。この問題は余りにも馬鹿馬鹿しいので、静観してきたが、いよいよ尻に火がついたようなので、取上げた次第である。

先ずは、3月26日付け東洋経済オンライン「大塚家具と匠大塚、苦悩深まる父と娘の関係 父の「匠大塚」も順風満帆とは言いがたい」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・3月14日、大塚家具のイベントが開かれた。2017年11月、資本業務提携をした貸会議室運営・ティーケーピー(TKP)と共同で新宿ショールームの8階を改装、新たにイベントホールに模様替えした。 出席した大塚久美子社長は、真珠のネックレスに水色のコートという春らしい装いとは対照的に、どこか疲れた表情を浮かべていた。
▽直近決算は過去最大の赤字に
・無理もない。同社が2月8日に発表した2017年度決算では、過去最大となる51億円の営業赤字を計上。父・勝久氏との経営権をめぐる委任状争奪戦から3年が経ったが、業績悪化に歯止めがかからない。3月26日の定時株主総会で、久美子社長の経営責任を問う声が上がるのは必至だ。
・特に深刻視されるのが、資金繰りの問題だ。現預金は、3年前の115億円から2017年末には18億円まで減少。有価証券も切り売りを続け、3年前の71億円から27億円にまで減った。赤字が続いていることで、2016年度からは決算書に継続企業の前提に重要事象がある、との記載もついている。
・そこで同社は、創業の地である埼玉・春日部に保有していた広大な土地を売り払い、今2018年度に十数億円の売却益を確保する計画を立てる。 また複数の金融機関と、計50億円を上限とした融資枠を設定。契約締結に当たり、保有する商品在庫、128億円のほぼすべてを担保に差し入れた。
・大塚家具は今期に営業利益2億円と黒字化を見込む。達成できれば「ほぼ(融資枠を)使わずに、無借金のまま事業を継続できる」(久美子社長)。 だが、この1〜2月の既存店売上高は前年同月比で10%前後のマイナスが続く状態。賃借料や人件費のコスト削減の効果を考慮しても、黒字化のハードルは高い。
・このままいけば、大塚家具が自力で生き残ることは困難だ。残された選択肢は、ファンド傘下での再建か、勝久氏が2015年に設立した匠大塚との連携ぐらいだろう。 ただ、その匠大塚の経営も順風満帆とはいえないようだ。高級家具に特化した匠大塚は、2016年に春日部と東京・日本橋に大型ショールームを開業。春日部店は西武百貨店跡地を改装したもので、売り場面積は東京ドームのグラウンドの2倍の広さに及ぶ超大型店舗だ。
・未上場のため匠大塚の詳細は明らかにされていないが、信用調査会社によると、2015〜2016年度決算は営業赤字が続いている。
▽父の匠大塚も苦戦か
・2017年には、勝久氏の最側近として大塚家具から匠大塚に移り、役員を務めてきた池田真吾氏と所芳正氏が「自己都合」により相次いで辞任。池田氏は登山用品を扱う好日山荘の社長に、所氏はコンサルティング会社の監査役にそれぞれ就任した。
・さらに同年9月には、春日部店の土地を担保に差し入れ、地元の金融機関との間で15億円の融資枠を設けている。 匠大塚は「業務拡大に伴う借り入れ」と説明するが、決して余裕のある状況とはいえないだろう。
・父娘復活へのシナリオは依然として見えてこない。久美子社長は株主を前に、今後の生き残り策をどう説明するのか。
https://toyokeizai.net/articles/-/213810

次に、ジャーナリストの高橋 篤史氏が6月13日付け現代ビジネスに寄稿した「大塚家具のビジネスモデル大崩壊で、銀行が備え始めた「Xデー」ついに担保保全に走り出し…」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽10ヵ月連続で前年割れ
・大塚家具の業績悪化が底なし沼の様相を呈している。先月27日には創業の地である春日部ショールームを閉鎖した。3年前、世間の耳目を集めた激しい親子げんかの末、経営権を奪取した大塚久美子社長だが、直後からビジネスモデルは崩壊を始め、いまや土俵際まで追い詰められている。
・大塚家具を悩ますのは何と言っても顧客離れだ。ある平日に東京・有明の旗艦店をのぞいたところ、広々とした店内に客の姿はほとんどなく、静まりかえった中、店員ばかりが目に付いた。先日公表された5月の月次売上高は前年に比べ10%のマイナス。これで前年割れは10ヵ月連続、しかも2桁台のマイナスが珍しくない。
・先月発表された今年度第1四半期(1~3月)は、営業赤字14億円と大幅減収ペースにコスト削減が追い付いていない状況。すでに通期で2期連続の大幅赤字が続くが、このままだと51億円もの営業赤字を計上した前期と同程度の赤字決算になる恐れもある。
・関係者によれば、「久美子氏はとにかく前任者の否定から入る」という。創業者で実父の大塚勝久氏が築いた大塚家具はもともと都心に大型店を構えて広域から集客し、会員制による懇切丁寧な接客で客単価を引き上げる戦略をとっていた。しかし、それにはまず新聞の折り込みチラシなど広告宣伝費を大量に投下する必要がある。久美子氏はそれが気に入らなかったらしい。
・勝久氏を追放後、久美子氏は広告宣伝費を削り、かわりに会員制を取りやめて、低中価格帯の品揃えが豊富なニトリやイケアのように誰でも入りやすい店づくりを指向した。しかし、それが当たったのはお家騒動直後の「お詫びセール」だけで、後が続かなかった。 確かに業績好調な同業者を見習うことに一定の合理性はある。しかし、舵の切り方があまりに急でちぐはぐだったのだろう。新たなビジネスモデルを確立する前に元のビジネスモデルが瓦解してしまった。
▽凄まじいキャッシュの流出
・これを数字で検証すれば、次のようになる。 勝久氏追放前の2014年12月期、大塚家具は販管費全体の12・4%にあたる38億3300万円の広告宣伝費を投じていた。これを17年12月期には半分の19億5300万円まで削っている。販管費に占める割合も7・5%まで落とした。 しかし一方で売上総利益(下記注)は305億円から209億円へと100億円近くも萎んでしまったのである。
(注)売上総利益とは、売上高-売上原価
・これでビジネスが成り立つわけはない。中古家具事業や法人営業強化といった増収策も焼け石に水だ。 大塚家具は無借金の優良財務で知られた会社だった。確かにこれだけ赤字続きでも自己資本比率は64%(18年3月末)と高い。金融機関との間でコミットメントライン(融資枠)を設定しているが、借り入れもまだない。しかし、そんな外見とは裏腹に資金繰りは日に日に細っている。
・かつて100億円以上あった現預金は18年3月末の時点で10億2600万円まで減ってしまった。この間、埼玉県春日部市で取得していた物流施設用地を約24億円で売却し、昨年11月には業務提携先で貸し会議室事業を行うティーケーピーに自己株を10億5100万円で譲渡、さらに三井不動産や三越伊勢丹ホールディングスといった持ち合い株を大量に売却したが、本業のキャッシュ流出は凄まじく、現預金は見る間に減少した。
▽不採算店を閉められない事情
・まさに格言で言う「勘定あって銭足らず」の状態なのだが、では、分厚い自己資本は何に張り付いているのか。流通業なので大量の商品在庫を抱えていることは当然だが、大塚家具のバランスシートで目を引くのは多額の差入保証金である。 18年3月末でその額は50億円に上る。差入保証金は店舗の賃貸借契約時に大家に預けたもので、見方によっては金融資産と同等に考えることも可能だ。賃貸借契約が満了すれば戻ってくるからである。
・しかし、事はそう簡単ではない。いざ店舗を閉鎖する際には必ず原状回復費用がかかるため一定額は相殺される。さらに契約期間途中の明け渡しとなれば、違約金が発生することもありうる。
・大塚家具の場合、都心の大型フロアを借りているためそもそも多額の差入保証金が必要だったと見られるが、その契約期間が長期にわたる点も特徴だ。17年12月期の有価証券報告書によれば、差入保証金の償還までの年数は5~10年のものが15億7900円、10年超のものも8億9400万円に上る。差入保証金の半分は5年以上先にしか戻ってこない。
・じつはこのことが不採算店の店舗リストラの柔軟性を奪っている可能性は高い。閉めたくても多額の損失(=差入保証金の取りっぱぐれ)が生じるため閉められないとのジレンマである。 その窮余の策がティーケーピーに余剰フロアを転貸して貸し会議室ビジネスに使ってもらうという前述の業務提携だが、その分の家賃引き下げ効果くらいしか期待できるものはない。自己株を買ってもらったのは転貸主である大塚家具がテナントのティーケーピーから差入保証金を取ったものと考えれば分かりやすい。
▽商品在庫はすべて担保に差し出した
・大塚家具にとってまとまった換金可能資産は残りの投資有価証券21億5100万円くらいしかない(18年3月末)。それを売ったとしても前期並みの赤字が続けば手元資金は底をついてしまう計算だ。 となると、あとは借金をするしかないが、これもそう簡単な話ではない。前述したように大塚家具は金融機関との間でコミットメントラインを設定しており、昨年末でその額は50億円だ。が、もはやコーポレートの信用では借りられなくなっている。昨年の時点で商品在庫のすべて(約129億円)と差入保証金の一部(約13億円)を担保に差し出しているのである。
・さらに今年に入ってからは一部金融機関の警戒心が高まっているようだ。というのも日本政策投資銀行は今年1月4日、3月9日、4月11日に計4本の動産譲渡登記を行っているのである。万が一、法的整理となれば登記の先順位が回収では物を言う。政投銀はそれをも想定し始め、商品在庫の担保保全に走っているのだろう。
・そもそも大塚家具の現預金がここまで細った一因には配当の大盤振る舞いがあったことを見逃してはならない。お家騒動でプロキシファイト(委任状争奪戦)が行われた際、久美子氏は株主から賛同を得るため大幅増配を約束した。15年12月期、大塚家具はそれまでの倍増となる年80円配を実施。必要な原資は14億円超にも上った。
▽「家具や姫」の末路
・不可解なのは、大赤字に陥った16年12月期も80円配を継続、さらに赤字幅が拡大し現預金の枯渇さえ心配され始めた前期も減配とはいえ年40円配を実施した点だ。 前期はアレンジメントフィーとして1億円を費用計上したが、これは前述のコミットメントライン設定に関するものとみられる。それだけの手数料を払ってやっとのこと融資枠を確保するという状況下、タコ足配当をするのは馬鹿げている。
・久美子氏の過去の動きをあらためて調べると、実父・勝久氏からの経営権奪取は用意周到なものだったとわかる。始まりは久美子氏がいったん取締役を退任して4年後の08年2~4月。久美子氏の主導で資産管理会社「ききょう企画」の株主構成を見直し、同社発行の社債15億円と引き換えに勝久氏の保有株を大量に移したのだ。
・それまでききょう企画株の50%は久美子氏の一歳下の長男・勝之氏が持っていた。勝久氏は勝之氏を後継者と考えていたからだ。 そこで久美子氏は相続対策と称して、勝之氏の保有株を自身と二女・舞子氏、三女・智子氏(夫は現・取締役専務執行役員の佐野春生氏)、二男・雅之氏(現・執行役員社長室長)にも分け与え、各18%と平等にした上で大塚家具株を保有させることを提案(残り10%は実母の千代子氏が保有していた)。
・これに伴い、久美子氏ら譲り受け側には贈与税納付のため各自2000万円の銀行借り入れが必要だったが、それでもスキームを実行した。 かねて周囲に対し「自分が後継社長になる」と言って憚らなかった久美子氏はその後、舞子氏、智子氏、雅之氏を味方に付け、ききょう企画を実質支配。勝久氏を説き伏せ、09年3月に念願の社長に就任する。が、前述した社債15億円の償還を勝久氏から求められると、14年1月に同社の取締役から解任して閉め出した。
・続く7月、激怒した勝久氏により大塚家具の社長を解任されると、久美子氏はききょう企画を足がかりに反撃、勝久氏のパワハラ問題などをあげつらい株主として訴訟提起を要請する内容証明郵便を監査役に送るなどし取締役会を揺さぶった。そして「家具や姫」との親しみやすいイメージを振りまき、株主総会でのプロキシファイトを制し、実父・勝久氏の追放に成功する。
・現在、ききょう企画は前述の社債償還のため三井住友銀行から10億5000万円を借り入れ、さらに三菱UFJ銀行にも保有する大塚家具株の3分の1を担保に差し出している。経営権奪取の足がかりとしたききょう企画の保有資産は大塚家具株がほぼすべてで、借金の利払いはその配当金だけが頼りだ。
・赤字にもかかわらず配当を続ける真因がそこにあると考えるのは邪推だろうか…
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56010

第一の記事で、『2016年度からは決算書に継続企業の前提に重要事象がある、との記載もついている』、『このままいけば、大塚家具が自力で生き残ることは困難だ。残された選択肢は、ファンド傘下での再建か、勝久氏が2015年に設立した匠大塚との連携ぐらいだろう。 ただ、その匠大塚の経営も順風満帆とはいえないようだ』、いよいよ土俵際に追い詰められたようだ。3月27日付け日経新聞では、株主総会で最終赤字に株主から批判も出たが、社長報酬4割カットで一応乗り切ったようだ。
第二の記事で、『舵の切り方があまりに急でちぐはぐだったのだろう。新たなビジネスモデルを確立する前に元のビジネスモデルが瓦解してしまった』、というのはいくら父娘の確執とはいえ、馬鹿なことを仕出かしたものだ。おそらく、プロキシファイトを乗り切ることだけに注意が向いて、その後の経営の在り方にまでは十分な注意が払われなかったのだろう。『じつはこのことが不採算店の店舗リストラの柔軟性を奪っている可能性は高い。閉めたくても多額の損失(=差入保証金の取りっぱぐれ)が生じるため閉められないとのジレンマである』、と店舗リストラをやりたくても大きな制約になったいるのでは、深刻だ。『ききょう企画は前述の社債償還のため三井住友銀行から10億5000万円を借り入れ・・・保有資産は大塚家具株がほぼすべてで、借金の利払いはその配当金だけが頼りだ。 赤字にもかかわらず配当を続ける真因がそこにあると考えるのは邪推だろうか…』、これは経営権奪取で無理をしたツケといえるのかも知れない。 
タグ:東洋経済オンライン 現代ビジネス 経営の親子継承 (”お家騒動”) (大塚家具問題2題:苦悩深まる父と娘の関係 父の「匠大塚」も順風満帆とは言いがたい、大塚家具のビジネスモデル大崩壊で 銀行が備え始めた「Xデー」ついに担保保全に走り出し) 「大塚家具と匠大塚、苦悩深まる父と娘の関係 父の「匠大塚」も順風満帆とは言いがたい」 直近決算は過去最大の赤字に 特に深刻視されるのが、資金繰りの問題だ 2016年度からは決算書に継続企業の前提に重要事象がある、との記載もついている 保有する商品在庫、128億円のほぼすべてを担保に差し入れた この1〜2月の既存店売上高は前年同月比で10%前後のマイナスが続く状態 このままいけば、大塚家具が自力で生き残ることは困難だ。残された選択肢は、ファンド傘下での再建か、勝久氏が2015年に設立した匠大塚との連携ぐらいだろう。 ただ、その匠大塚の経営も順風満帆とはいえないようだ 高橋 篤史 「大塚家具のビジネスモデル大崩壊で、銀行が備え始めた「Xデー」ついに担保保全に走り出し…」 5月の月次売上高は前年に比べ10%のマイナス。これで前年割れは10ヵ月連続、しかも2桁台のマイナスが珍しくない 舵の切り方があまりに急でちぐはぐだったのだろう。新たなビジネスモデルを確立する前に元のビジネスモデルが瓦解してしまった 凄まじいキャッシュの流出 大塚家具は無借金の優良財務で知られた会社だった 本業のキャッシュ流出は凄まじく、現預金は見る間に減少した 不採算店を閉められない事情 いざ店舗を閉鎖する際には必ず原状回復費用がかかるため一定額は相殺される。さらに契約期間途中の明け渡しとなれば、違約金が発生することもありうる じつはこのことが不採算店の店舗リストラの柔軟性を奪っている可能性は高い。閉めたくても多額の損失(=差入保証金の取りっぱぐれ)が生じるため閉められないとのジレンマである 商品在庫はすべて担保に差し出した 配当の大盤振る舞い 経営権奪取の足がかりとしたききょう企画の保有資産は大塚家具株がほぼすべてで、借金の利払いはその配当金だけが頼りだ 赤字にもかかわらず配当を続ける真因がそこにあると考えるのは邪推だろうか
nice!(1)  コメント(0) 

イノベーション(その2)(欧州「ソサイエタル・イノベーション」とは 世界のイノベーション事情(1)欧州のイノベーション、「おっぱいポロリ」動画がYouTube誕生のきっかけ、日本人の「技術信仰」が生産性向上を妨げる 技術革新は「人口減少の特効薬」ではない) [イノベーション]

イノベーションについては、昨年4月24日に取上げた。今日は、(その2)(欧州「ソサイエタル・イノベーション」とは 世界のイノベーション事情(1)欧州のイノベーション、「おっぱいポロリ」動画がYouTube誕生のきっかけ、日本人の「技術信仰」が生産性向上を妨げる 技術革新は「人口減少の特効薬」ではない)である。なお、今回からタイトルから技術革新は外した。

先ずは、Japan Innovation Network 代表理事  多摩大学大学院 教授の紺野 登氏が昨年12月7日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「欧州「ソサイエタル・イノベーション」とは 世界のイノベーション事情(1)欧州のイノベーション」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・「世界のイノベーション事情」といえば、米シリコンバレーを思い浮かべる読者も少なくないと思うが、これから2回は、欧州を取り上げる。
・理由は3つある。(1)ここでいう欧州とは主に欧州連合(EU)のメンバー国家を指すが、地域を挙げてイノベーション政策を推進している。(2)彼らのイノベーション政策や制度は米国とも日本とも違うが、社会や市民のためのイノベーションを目的としている。どちらかといえば社会的課題を多く抱え、それがイノベーションの起点ともなり得る点で日本の状況に近い。そして(3)今、シリコンバレーに限らず、イノベーションは世界の諸地域に広がった経済・経営活動であり、その重要な一極が欧州だからである。
▽地域「イノベーション・エコシステム」の台頭
・デンマークの首都コペンハーゲンからスウェーデンに伸びる全長16kmのオーレスン大橋を渡って約1時間。スウェーデン南部スコーネ地域の中核都市、ルンド市。今、この地域に世界的関心が集まっている。2019年完成予定で、中性子利用研究のための欧州最大のESS(欧州核破砕中性子源)の工事が進んでいるからだ。ルンド市では、世界最強と言われる陽子線形加速器、世界各国の研究所とスパコン間のデータ管理などの施設が集約され、クリーンエネルギー、食品、医薬、医療、ITなど各分野での基礎研究及び応用研究が進んでいる。
・同施設群にはルンド市庁舎、ルンド大学などが近接し、一大「イノベーション・エコシステム」(地域生態系)が形成されつつある。しかし、ここでの主眼は科学技術でなく、地域全体の「ソサイエタル(社会構造的)・イノベーション」にある。同市は「イノベーティブなルンド」をスローガンに、若者が未来のために活躍できる、グローバルな知識経済の中心のひとつとなることを目指している。人里離れた場所でなく、都市、すなわち人々や社会のまっただ中で最先端の研究開発が行われるのである。
・こういった思考で、社会と経済の発展のためと、イノベーションを位置づけ、企業(ルンドには、かつてソニー・エリクソンが本社を置き、今でもソニーモバイルコミュニケーションズのオフィスがある)、大学、自治体、市民を巻き込んだ活動を展開しようというのが欧州先進地域でのイノベーションの基本形であり、ルンド市及び周辺地域はその代表的存在といえる。
・ここから東北東へ約1000kmに位置する、フィンランドの首都ヘルシンキの隣町エスポー市。ここでも地域のイノベーション・エコシステム「EIG(エスポー・イノベーション・ガーデン)」が展開されている。
・主体はエスポー市、アールト大学、ノキアなどのグローバル企業、中小企業やスタートアップ企業などである。エスポー市はノキアの本拠地として知られてきたが、ノキアが携帯電話事業から撤退した後は行く末が危ぶまれていた。しかし、同地域が蓄積してきた知識資産、大学などをハブとするネットワークによって発展し続け、北欧のイノベーション拠点として人や資本を集めている。
・アールト大学の学生発で始まったスタートアップ・イベント「SLUSH(スラッシュ)」(www.slush.org)は、2016年には1万7000人を集めた(スタートアップカルチャーについては次回で触れる)。一時は表舞台から消えたノキアだが、現在は通信インフラ事業者として戦略を転換、フランスの通信機器大手、アルカテル・ルーセントを買収・統合し、再び成長を始めている。
▽世界でもっとも豊かな地域
・こういった地域のイノベーション・エコシステムが生まれる背景はなんだろうか。 欧州は国別に見れば、いずれも日本より経済的にも小さい。しかしEU全体として見ればGDP(国内総生産)では中国を上回り(2015年)、購買平価ベースでは世界最大の経済地域だ(英国の離脱という問題を抱えているが…)。日本と同様に製造業、輸出が強く、圧倒的に中小企業の構成比が高い。したがって、ドイツの「インダストリー4.0」のような生産技術革新が国家的な課題となり、それに伴う革新的ビジネスモデルへの期待が高まっている。
・中小企業が多いこともあって、EUをはじめ、その実務組織である欧州委員会(EC)、欧州地域委員会といった地域政府の役割が大きい。EUは毎年国別のイノベーション・ランキングを発表し、イノベーション政策のイニシアティブを取ろうとしている。
・基盤となっているのはデジタル社会への移行である。EUの「ホライゾン2020」はEUにおける科学技術・イノベーション政策(ICT関連の研究・イノベーションプロジェクトを含む総計770億ユーロのファンディング。2014年発効)であり、(1)卓越した科学、(2)産業界のリーダーシップ、(3)社会的課題への取り組みを目的とする。
・各国のコンセンサスとして、欧州におけるイノベーションの要請は第一次及び第二次世界大戦の痛々しい記憶から生まれている。地域の平和を維持するには社会的・経済的なイノベーションを持続的に興していくことが不可欠という認識である。これは、軍事分野での研究開発投入が大きい米国とは異なる点であり、平和国家日本としても学ぶことのできるモデルではないだろうか。
・しかし、現実的には課題も大きい。EU各国はそれぞれ産業形態や経済状態、政治状況も異なり、足並みが揃っているとは言えない面も多い。 たとえばドイツでは、より民間企業の力の方が強い。そうした中で、欧州地域のイノベーションを推進していこうというのが、スウェーデンやフィンランドのような“優等生”である。彼らのひとつの特徴は政府、企業、労働者の協調でイノベーション政策が展開されている点である。
・イノベーションは一国の閉じられた環境、枠組みの中、一企業の内部だけで実現するのは不可能である。欧州委員会が標榜するのは「オープンイノベーション2.0」である。それは、(1)政府・公共、(2)大学・教育機関、(3)企業・産業、(4)市民・ユーザーが相互に関わりつつ、市民やユーザーが主体となって、社会や地域にインパクトを生み出すというモデルである。
・いわゆるオープン・イノベーション(1.0)は、自社の技術を他社に開示する(インサイドアウト)、あるいは外部の知を自社に導入する(アウトサイドイン)、オープンな研究開発を意味するが、結局は企業間の知財のやりとり、研究開発効率や知財を活用した一企業の利益に帰する。これに対して「オープンイノベーション2.0」は社会的目的の達成のための多様な相互関係性(四重奏的なイノベーション)が狙いである。
▽欧州のシリコンバレー
・欧州イノベーション指標(2016年)のベスト5は、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、オランダ、英国であった。これらの国々を地図上で見れば、北海及びバルト海沿岸諸国に集中している。ちょうどカリフォルニア州が重なる規模だ。いわばシリコンバレーを凌ぐ可能性を秘めた欧州のイノベーション地域だと言える。
・これらの国々は社会的なコストが高く、その削減といった点でもイノベーションが必須なのである。たとえばキャッシュレス社会への挑戦である。スウェーデンの労働コストは同じEU圏内でもブルガリアの10倍を超える。そこでのキャッシュレス化の効果は大きい。日本はキャッシュレス化の移行が遅く、GDPの2割が未だに現金で流動している。一方のスウェーデンは既に2%以下となっており、キャッシュレス化が進んでいる。
・今後、この地域が社会的イノベーションの震源地となる可能性は高い。たとえば「フューチャーセンター」や「リビングラボ」などの“場”の広がりもそのひとつだ。フューチャーセンターは欧州の政府に始まった社会的イノベーションのための横断的な対話、政策形成のための空間や機能である。リビングラボはそうしたプログラムを元に、都市や地域共同体、公共空間の中で、市民や顧客とともに社会実験、共創を進める手法である。現在、欧州地域には400近くのリビングラボが立ち上がってきており、この波は日本にも広がっている。
▽イノベーション経営を目指す企業
・欧州企業はこうしたイノベーション社会・経済においてどのような経営を行っていくべきだと考えているのだろうか。それは「イノベーション経営」である。 イノベーション経営とは、組織的プロセス、組織文化に染み渡ったイノベーションのための実践知であり、企業のイノベーションを具体化する手法、方法論である。
・例えばフィンランドの森林産業、製紙産業においては、デジタル化によるビジネスモデル破壊を契機として、いち早く産業界としてのイノベーション経営政策が重視されてきた。前述の「ホライゾン2020」のレポートでは、特に中小企業における「イノベーション経営に関する能力の欠如が経済的影響を生み出すための重要な障壁」だと指摘する。スウェーデン、フィンランドでは「イノベーション経営」の修士号を授与する大学も少なくない。CIO(最高イノベーション責任者)を設置する企業も増えつつある。
・フランスでは、CIOを組織化する「パリCIOクラブ」があり、活発な活動を行っている。ちなみにイノベーション政策担当大臣やCIOには女性の参画が多い。こういった傾向は欧州だけではないが、イノベーション経営という面で一歩進んでいると考えられよう。
・EUがイノベーション経営のイニシアティブを取るもうひとつの背景には、実は保守的な文化や社会がある。日本人は新しもの好きと言われるが、確かにあまりこだわらずに新製品やサービスを受け入れる。しかし欧州は違う。重い伝統と先端をどのようにブレンドするのか。そこで社会的なイノベーションがエンジンとなる。
・一方、日本企業は、日本人が新たな物事に柔軟性があるのに、イノベーション経営に踏み切れずに躊躇している感がある。変化を望まず不確実性を回避しようという日本企業の傾向が指摘されている。これでは本来成長すべき新たな事業を育てる余地がなくなる。社会や文化のポテンシャルを日本企業は活かしていないと言える。オープンイノベーション2.0、ダイバーシティ、女性の活用など、欧州から学べる点は多い。 次回は、「スタートアップカルチャー」を切り口に、欧州とその周辺を見ていくことにしたい。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/040400128/120600018/

次に、ファウンダーズ・スペース社代表、シリコンバレー業界団体組合議長のスティーブン・S・ホフマン氏が4月7日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「「おっぱいポロリ」動画がYouTube誕生のきっかけ」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・シリコンバレーに拠点を置くアップル、グーグル、フェイスブック、エアビーアンドビー、ウーバー……といった企業は、どうやって次々と大きなイノベーションを起こしているのか? 新刊『シリコンバレー式 最高のイノベーション』では、22ヵ国でスタートアップを支援するインキュベーター&アクセラレーター会社のCEOである著者が、シリコンバレーで起きているイノベーション成功の秘密を初公開! 小さなアイデアが大きな変革をもたらし、世の中を一変させるプロセスを、多くの実例を紹介しながら解き明かす。起業家、企業のオーナー、ビジネスパーソンを問わず、あらゆるビジネスに応用できるイノベーションのヒント。本連載では、その基本中の基本である「小さく、少なく始める」コツについて10回にわたって紹介していきたい。
▽大きく考えてはいけない
・ イノベーションを起こすには、大きなことを考えなければならないと思っている人は多い。  あなたが大企業の経営者なら、組織全体にまたがるような、大規模なイノベーションプロジェクトを実行する必要があると思っているだろう。 全員が力を合わせなければならない。 おカネに糸目はつけていられない。 これが会社の未来そのものであり、次の大きな収益の柱は、イノベーションによってもたらされる。
・だが、これは真実からはほど遠い。 本物のイノベーションを起こすには、大きく考えてはいけない。 小さく考えなければいけない。 大規模なイノベーションのプロジェクトはたいてい失敗に終わる。多額の予算、大人数のチーム、大きな結果が求められるからこそ、失敗するのだ。
・ことイノベーションに関しては、たいてい一番小さなアイデアが産業を変える力を持つ。〈ポストイット〉も面ファスナーの〈ベルクロ〉も、使い捨てカミソリもそうだ。 これまで産業に革命をもたらしたのは、いずれもシンプルなアイデアだった。
・今となっては、付箋なんて当たり前で、誰でも思いつきそうに見える。 だが、それまで誰も思いつかなかった。 しかもそれは、失敗のおかげでひらめいたアイデアだった。 3Mで科学者として働いていたスペンサー・シルバーは、超強力な粘着剤を開発しようとしていた。 それなのに偶然、「粘着力の弱い」付けたり外したりできるような糊が生まれた。 5年もの間、シルバー博士はこの発明を製品化しようと試みた。でも、誰も見向きもしなかった。
・しかし、あるとき同僚が賛美歌のしおりにこの新しい糊を使おうと思いついた。 一連のちょっとしたひらめきがポストイットにつながったのだ。 偉大なイノベーションが起きたプロセスを振り返ると、同じような経過をたどっているケースが多い。
・優れたアイデアは壮大なビジョンからではなく、ちょっとした実験と偶然の発見から生まれている。 壮大なビジョンは後付けだ。 発見秘話はマスコミによって書き換えられ、人々の心の中で違うストーリーができあがる。
▽〈YouTube〉に壮大なビジョンはなかった
・テクノロジーのスタートアップにも同じことが言える。 僕たちにもお馴染みの例を挙げよう。〈ユーチューブ〉の始まりは、壮大なビジョンがきっかけではなかった。 世界中の動画とクリエイターと視聴者をつなぐためのグローバルなプラットフォームを目指していたわけではない。 始まりは全く違うものだった。
・最初は、出会い系サイトの〈ホット・オア・ノット〉をパクって動画を加えた〈チューン・イン・フックアップ〉というサービスだった。 でも、そこに人が集まらなかったので、創業者たちは他のアイデアを考え始めた。
・ひらめきが生まれたのは、2つのちょっとした不満からだった。 1つ目は、創業者のジョード・カリムがジャネット・ジャクソンの「おっぱいポロリ」動画をオンラインで見つけられず、イライラしていたこと。 2つ目は、共同創業者のチャド・ハーリーとスティーブ・チェンが、ディナーパーティーの動画をメールで送ろうとして、容量不足で送れなかったことだ。
・そこで、動画共有の簡単なしくみを作ったところ、反響がすごかった。 あっという間にいくつかの動画が拡散され、ユーチューブの情報量は爆発的に伸び、動画コンテンツはすべてここに集まるようになった。
・ユーチューブが世界最大のオンライン動画サイトになったのは、壮大なビジョンがあったからでも、計画があったからでもない。 小さなイノベーションが強烈な効果をもたらした結果だ。 もし最初からグローバルな放送局を目指していたら、ユーチューブは生まれていなかった。
・例えば、かつて〈デジタル・エンタテインメント・ネットワーク〉というスタートアップがあった。 ドットコムバブルの時期にテレビ番組をインターネットで流そうとしていた。 壮大なビジョンはあったが失敗だった。 コンテンツにカネがかかりすぎ、広告も取れなかった。
▽小さく考える環境と構造を創る
・多くのスタートアップが同じような失敗をしている。 例えば、僕のところにやって来たある台湾企業は、すべてのスマート機器を解錠できるような単一のアプリを作ろうとしていた。 スマート自転車の鍵から自動車、自宅、引き出しなど、すべてを解錠できるアプリだ。 課金モデルは無理だと諦め、アプリを無料にして、アプリ内でソーシャル・ネットワークを築こうとした。
・自動車メーカーからIoT機器メーカーまで、あらゆる企業とパートナーを組むことを狙っていた。さらに複雑なことに、このアプリで解錠するには、スマート機器に特殊な仕様が必要だった。 そんなやり方で、これほど大規模で複雑なものを軌道に乗せるのは、はなから不可能だった。
・僕は単刀直入に、こう言った。「小さく考えたほうがいい。君たちのアプリを高く評価してくれる顧客を1社選んで、そこに力を注ぐべきだ」と。 安全に価値を置く企業を狙って、セキュリティのソリューションを売り込むことを勧めた。
・社内のドア、机、ファイル棚、倉庫といった重要なアクセスポイントを、単一のスマホアプリで制御できるようにするのがいい。 スマートロックの数に従って課金できるし、付加価値のあるサービスを提供することもできる。
・元の計画よりそのほうがはるかにシンプルで、狙う顧客も1種類に限られ、はっきりとした収益モデルもできる。 このピボット(方向転換)が成功するかどうかはまだわからないが、僕は期待している。
・3人のスタートアップでも、3万人の多国籍企業でも、イノベーションのプロセスはほぼ同じだ。 チームが小さく考えられるような環境と構造を創り出さなければならない。
https://diamond.jp/articles/-/164519

第三に、元投資銀行のアナリストで小西美術工藝社社長のデービッド・アトキンソン氏が6月23日付け東洋経済オンラインに寄稿した「日本人の「技術信仰」が生産性向上を妨げる 技術革新は「人口減少の特効薬」ではない」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・日本でもようやく、「生産性」の大切さが認識され始めてきた。「生産性向上」についてさまざまな議論が展開されているが、『新・観光立国論』(山本七平賞)で日本の観光政策に多大な影響を与えたデービッド・アトキンソン氏は、その多くが根本的に間違っているという。 34年間の集大成として「日本経済改革の本丸=生産性」に切り込んだ新刊『新・生産性立国論』を上梓したアトキンソン氏に、真の生産性革命に必要な改革を解説してもらう。
▽生産性に対する根強い誤解
・先日あるところで、東証一部上場の某大企業の社長と同席しました。その時、その社長からこんな質問をされて、びっくりさせられました。「利益が出ていないというだけで、日本企業の生産性は低いと言い切っていいものでしょうか」。
・確かに、この連載の過去記事にも「生産性は分子が利益だから」というコメントが何度も寄せられています。 このようなコメントを見るにつけ、まだまだ生産性と収益性や、「コスト削減をすれば生産性が上がる」など、生産性と効率性を混同している人が少なくないのを痛感させられます。 混同している人が一般の方だけではなく、一部上場企業の経営者にもいるという事実を思い知らされ、正直、絶望しました。
・しかし絶望してばかりはいられません。気を取り直して、今回の記事では「イノベーション」について考えていきたいと思います。 一般的に、生産性向上の秘訣はイノベーションにあると言われています。 既存の商品の値段をただ単に上げるだけでは、消費者の納得が得られず、持続的に生産性を向上することはできません。一方で、より付加価値の高い、新しい商品を開発することができれば、より高い価格で販売することが可能になります。
・掃除機のダイソンがいい例です。市場が飽和し、コモディティ化が進んで、低価格品が主流になっていた掃除機の市場で、ダイソンは従来品よりも何万円も高い商品を導入し、定着させることに成功しました。正直に言うと、掃除機としての本質的な機能がそこまですごいかは微妙ではないかと思います。しかし、私もダイソンを使っています。購入した理由は、ストーリーとデザインに魅了されたからです。
・このように、基本性能だけではなく、デザイン性を向上させることでも、生産性を上げることは十分に可能です。たとえば自動車です。最高級車と軽自動車は、人を運ぶという自動車の基本性能には、それほど大きな違いはありません。しかし、最高級車と軽自動車では価格に何百万円から、場合によっては1000万円以上の差があります。なぜそこまで価格に違いがあるのでしょうか。それは、デザインであったり、ストーリーや夢、いわゆるブランド力に違いがあるからでしょう。
▽イノベーションに効くのは「Entrepreneurism」
・私は、最近の政府の委員会の議論や、マスコミの報道を見るにつれ、ある危惧を抱いています。それは、日本の技術力を持ってすればAIやロボットなどの分野を伸ばし、これからの人口減少下でも十分に戦っていけるという論調が多いことです。
・日本ではイノベーションという英語が「技術革新」と訳されることが多いためか、イノベーションと技術力は切っても切り離せないものだと考えられています。 事実、政府予算も技術革新ならば「何でもOK」というスタンスで、最先端技術と言えば何でも通るような風潮があるように感じます。
・しかし、「何が生産性の向上をもたらすのか」を学問的に分析した結果によると、日本で思われているのとは違う要因が重要だということが明らかにされています。英国も、相対的に生産性が低い国です。そこで、政府を上げて、対米・対独の生産性ギャップを縮小させ、国民所得を高めようとしている最中です。政府は大学と協力し、徹底的に生産性を調査・分析して、ポイントを探っています。
・この分析では生産性向上に決定的に重要だと思われる5つの要素を識別して、相関関係と因果関係を分析しています。まさにエビデンスに基づく政策(Evidence Based Policy Making)で対応しようとしているのです。
・その英国政府の分析によると、技術革新はイノベーションを起こし、生産性向上をもたらす最重要の要素ではありません。いちばん重要なのは、実は、Entrepreneurismです。「Entrepreneur」は、一般的に起業家と訳します。しかし経済学では、より広い意味合いが含まれています。「イノベーションの担い手として創造性と決断力を持って事業を創始し運営する個人事業家」という説明を見たことがありますが、これも英語のニュアンスと微妙に違います。
・国連の定義では、Entrepreneurとは、「市場に変化と成長を起こす人として、新しい発想の創出、普及、適用を促す人、チャンスを積極的に探って、それに向かって冒険的にリスクを取る人」。このようにEntrepreneurであることは、何も新しい企業だけではなく、既存企業の中でも可能です。
・英国政府の分析によると、このEntrepreneurismと生産性の間の相関係数は0.91。極めて強い関係があることが明らかになっています。 つまり、新しい発想を持って、既存の経営資源(人材、技術)を組み直したり、新しい企業体系を作ったり、技術と組織、その他の資源の新しい組み合わせを構築することが、生産性向上にはいちばん効果的だというのが結論なのです。
・このような組織変更が生産性向上にとって極めて重要だということは、1990年代のアメリカと日本の企業行動の違いを考えると合点がいきます。 アメリカの生産性は1990年代に飛躍的に向上しました。一方、日本の生産性は、まったくと言っていいほど上がりませんでした。
・なぜこの違いが生まれたのでしょうか。それは、アメリカでは多くの企業が技術革新の効果を最大限に引き出すために、組織を大幅に刷新し、仕事のやり方を大胆に変えたのに対し、日本では技術導入はしたものの、組織や仕事の仕方に手を付ける企業が少なかったからです。そのため、日本は生産性を上げることができなかったのです。
・組織や仕事のやり方を刷新できるか否かは、企業の「機敏性」がモノを言います。統計的な分析に長けている「IMD World Digital Competitiveness Ranking 2017」によると、日本企業の機敏性は世界63カ国中57位で、先進国最下位です。
・既存の経営資源の組み直しが生産性の向上に最も貢献するというのは、当たり前といえば当たり前です。新しい技術を生み出すより、既存の技術の使い方を変えるほうが簡単なのは自明でしょう。
▽2番目、3番目も「技術革新」ではない
・Entrepreneurismに次いで生産性の向上に寄与する要素は「設備投資を含めた労働者一人当たりの物的資本増強」です。物的資本とは土地、公的なインフラ、機械などを含みます。その投資行動自体もGDP成長に貢献するので、当然、生産性向上に貢献する傾向も確認されています。 物的資本の増強と生産性向上との相関係数は0.77。こちらもかなり高い数字です。実際、戦後のGDPの成長のうち、約半分は設備投資によるという分析結果も出ています。
・3番目に生産性の向上と高い相関があるのが「社員教育によるスキルアップ」で、相関係数は0.66です。イノベーションを起こし成長を推進するには、社員自身もレベルアップしていかなければならず、そのための再教育が必要なのは言うまでもありません。新しいスキルの獲得、新しい技術を活用できるスキルなどが必要になります。
・日本では職責が上がれば上がるほど、教育、研修を受ける機会が少なくなるのが一般的です。そのため、日本では経営者教育が十分ではなく、国際的には日本の経営者の能力は極めて低く評価されています。「IMD World Talent Ranking 2017」によると、日本の経営者ランキングは、機敏性が63カ国中57位、分析能力が59位、有能な経営者が58位、経営教育を受けたことがある割合が53位、海外経験が63位でした。 冒頭で紹介したように、利益と生産性の関係が理解できていない大企業の社長もいらっしゃいますので、低い評価なのもうなずけます。
・1990年代に入ってIT化が進み、経営者の勘や経験の重要性が低下する一方、調査分析能力の重要性が増していると言われています。しかし、日本の経営者の分析能力は、先のIMDの評価では63カ国中59位で、先進国中最下位です。
・日本では国民の平均年齢が高くなるにつれ、経営者も高齢化する傾向があります。つまり、学校を卒業してからより長い年月が経ち、古いやり方に慣れている経営者が、他国と比べて幅を利かせているのです。そのような高齢経営者の場合、新しいやり方の存在自体も知らないことが少なくありません。
・実際、日本は先進国なのに「いまだにファックスが多く使われている」と揶揄する声も聞こえてきます。日本では頭の古い経営者の再教育が不可欠なのですが、それに気づいている人は少なく、もちろん実行もできていないのが現実です。
▽技術革新と研究開発だけでは生産性が上がらない
・では、日本人が大好きな「技術革新」はどうなのでしょうか。実は生産性向上と「技術革新」の相関係数は意外に低く、0.56です。先に紹介した3つの要素と比べると決して高くはありません。このことは、技術革新だけでは生産性を上げるのには不十分であることを示唆しています。
・英国政府はこの問題にかなり力を入れています。英国は大学の評価が高く、さまざまな分野で革新的な技術を生み出していますが、経済全体の生産性向上に対する貢献度合いは思ったほど高くないからです。英国政府は、その原因を普及率が低いからだと分析しています。これは、2番目のEntrepreneurismと深い関係があります。要するに、研究開発のための研究開発に終始してしまい、実際に導入までこぎ着ける力が足りないのです。
・これは日本にも大いに当てはまると思います。技術大国と言いながら案外アナログの部分が多い。特に零細企業は、あたかも昭和がまだ終わっていないようなところが非常に多いです。事実、日本は特許の数が非常に多いのに、特許が活用されない比率が極めて高いとも言われています。
・また、日本では効率化と生産性向上が混同されていることも、技術開発と生産性の相関が弱い要因になっています。どういうことか、日本の農家の例で考えてみましょう。
・それまで1日かけてやっていた仕事を、機械を導入することによって半日でできるようになったとします。1日かかっていたものが半日でできるようになったということは、効率性が倍になったことを意味します。しかし、それだけでは生産性が上がったことにはなりません。 たとえば、1日の仕事が半日になっても、余った半日はテレビを見て過ごしていたら、効率はよくなりますが、生産性はむしろ下がります。理由は、機械のコストがかかるからです。
・生産性の向上とは、同じ人間の数でより多く売り上げるか、同じ売り上げをより少ない人数で上げるかのいずれかです。 機械を使い効率が倍になったのであれば、それまでの倍の農地を耕し、売り上げを倍にしなくては、生産性を上げたことにはならないのです。要するに、仕事を楽にするのではなく、その効果を最大限に生かすために産業の構造を大きく変えないといけないのです。日本ではそれが行われないので、技術革新の効果が出ないのです。
・確かに、生産性の高い人は仕事の効率もよい傾向がありますが、仕事の効率が良いからといって生産性が高いとは限りません。誤解をしている人が多いのですが、これはとても重要なポイントです。 確かに、商品をより早く作ることができれば、効率が良いことにはなります。しかしいくら効率よく作っていても、その商品が必要とされていない、いわば「ちょんまげ商品」であれば、生産性はゼロなのです。
▽日本はすでに「過剰競争」に陥っている
・先の英国政府の分析では、5つの要素の中で「競争」がもっとも生産性向上との相関が低いことが明らかになりました。分析の結果では、相関係数はたった0.05%でした。 一定の競争は必要ですが、競争が過度になると、今度は価格破壊が起こり、余裕が消えて、研究開発が犠牲となります。その結果、生産性を下げてしまうことにつながるのです。特許という制度は、このように過度な競争をいたずらに助長しないために設けられた制度だと言えるでしょう。
・ちなみにWEFによると、日本の企業間競争の厳しさは世界一です。「大胆提言!日本企業は今の半分に減るべきだ」でも紹介したように、日本では人口が減少し需要者が減っているにもかかわらず、企業の数は十分に減っていません。そもそも日本の企業の数は、経済規模に比較して多すぎです。
・これが、企業間の過当競争を招く要因になっています。特に大手企業は下請けの中小企業を競争させ、自分たちにより有利な取引条件を引き出そうとします。このことが、まわりまわって国民全体の所得を下げているという事実があるのにもかかわらずです。
・私が社長を務めている小西美術工藝社も、悩まされている1社です。自分たちの利益のために、多すぎる中小企業による過当競争を強いるのは、建設業界はじめ日本のさまざまな業界で見られる悪習でしかありません。
・私が「企業を統合させるべし」という話をすると、「企業数が減れば雇用が減って、失業者が増える」というバカげた指摘をしてくる人がいますが、そんなことはありえません。人手不足の下、労働者は生産性の高い企業に移ればいいだけです。
・これからの日本では、人口が減って財政的な余裕がますますなくなります。社会保障制度を守るためには、諸外国以上にイノベーションを徹底的に進め、生産性を上げる必要があります。 日本では今まで、技術ありきで、高い技術力に酔いしれて、それさえ開発すれば何でも解決できると信じ込んでいた長い歴史があります。
・その理由はよくわかります。日本経済の高度成長は主に急激な人口の増加によってもたらされたにもかかわらず、いまだに多くの人が、あたかも日本は高い技術力と国民の勤勉性だけで世界第2位の先進国になったと信じているからです。しかし、そんなものは神話でしかありません。
・『新・生産性立国論』やこの連載でも繰り返し述べているように、日本がこれからの時代を生き抜いていくためには、生産性の向上が絶対に不可欠です。それには今までの常識を捨てて、それこそ教育を徹底し、分析能力を高め、現実を直視できるよう経営者を鍛え直すべきなのです。
https://toyokeizai.net/articles/-/225904

第一の記事で、ルンド市には、『一大「イノベーション・エコシステム」(地域生態系)が形成されつつある。しかし、ここでの主眼は科学技術でなく、地域全体の「ソサイエタル(社会構造的)・イノベーション」にある』、 『各国のコンセンサスとして、欧州におけるイノベーションの要請は・・・地域の平和を維持するには社会的・経済的なイノベーションを持続的に興していくことが不可欠という認識である。これは、軍事分野での研究開発投入が大きい米国とは異なる点であり、平和国家日本としても学ぶことのできるモデルではないだろうか』、『「オープンイノベーション2.0」は社会的目的の達成のための多様な相互関係性(四重奏的なイノベーション)が狙いである』、『この地域が社会的イノベーションの震源地となる可能性は高い。たとえば「フューチャーセンター」や「リビングラボ」などの“場”の広がりもそのひとつだ。フューチャーセンターは欧州の政府に始まった社会的イノベーションのための横断的な対話、政策形成のための空間や機能である。リビングラボはそうしたプログラムを元に、都市や地域共同体、公共空間の中で、市民や顧客とともに社会実験、共創を進める手法である。現在、欧州地域には400近くのリビングラボが立ち上がってきており』、などは興味深い。日本のマスコミももっと欧州の動向も取上げてほしいものだ。
第二の記事で、 『本物のイノベーションを起こすには、大きく考えてはいけない。 小さく考えなければいけない。 大規模なイノベーションのプロジェクトはたいてい失敗に終わる。多額の予算、大人数のチーム、大きな結果が求められるからこそ、失敗するのだ』、『〈YouTube〉に壮大なビジョンはなかった』、などというのは初耳だが、その通りなのかも知れない。 なかでもYouTubeの話は面白かった。
第三の記事で、 『英国・・・政府は大学と協力し、徹底的に生産性を調査・分析して、ポイントを探っています。この分析では生産性向上に決定的に重要だと思われる5つの要素を識別して、相関関係と因果関係を分析しています。まさにエビデンスに基づく政策(Evidence Based Policy Making)で対応しようとしているのです』、という姿勢には大いに学ぶべきだ。日本のように、御用学者を集めた審議会で、いいかげんに決めているのとは大違いだ。 『英国政府の分析によると、このEntrepreneurismと生産性の間の相関係数は0.91。極めて強い関係があることが明らかになっています。 つまり、新しい発想を持って、既存の経営資源(人材、技術)を組み直したり、新しい企業体系を作ったり、技術と組織、その他の資源の新しい組み合わせを構築することが、生産性向上にはいちばん効果的だというのが結論なのです・・・2番目、3番目も「技術革新」ではない』、なるほど。 (英国では)『要するに、研究開発のための研究開発に終始してしまい、実際に導入までこぎ着ける力が足りないのです。 これは日本にも大いに当てはまると思います。技術大国と言いながら案外アナログの部分が多い。特に零細企業は、あたかも昭和がまだ終わっていないようなところが非常に多いです・・・また、日本では効率化と生産性向上が混同されていることも、技術開発と生産性の相関が弱い要因になっています』、『日本人が大好きな「技術革新」はどうなのでしょうか。実は生産性向上と「技術革新」の相関係数は意外に低く、0.56です。先に紹介した3つの要素と比べると決して高くはありません。このことは、技術革新だけでは生産性を上げるのには不十分であることを示唆しています』、『日本はすでに「過剰競争」に陥っている』、などの指摘は新鮮で説得力がある。日本政府も同氏を、インバウンド関連の審議会などで活用するだけでなく、経済財政諮問会議のような本丸でも活用すべきだろう。
タグ:イノベーション 東洋経済オンライン 日経ビジネスオンライン ダイヤモンド・オンライン デービッド・アトキンソン 新・観光立国論 (その2)(欧州「ソサイエタル・イノベーション」とは 世界のイノベーション事情(1)欧州のイノベーション、「おっぱいポロリ」動画がYouTube誕生のきっかけ、日本人の「技術信仰」が生産性向上を妨げる 技術革新は「人口減少の特効薬」ではない) 紺野 登 「欧州「ソサイエタル・イノベーション」とは 世界のイノベーション事情(1)欧州のイノベーション」 一大「イノベーション・エコシステム」(地域生態系)が形成されつつある。しかし、ここでの主眼は科学技術でなく、地域全体の「ソサイエタル(社会構造的)・イノベーション」にある 各国のコンセンサスとして、欧州におけるイノベーションの要請は第一次及び第二次世界大戦の痛々しい記憶から生まれている。地域の平和を維持するには社会的・経済的なイノベーションを持続的に興していくことが不可欠という認識である。これは、軍事分野での研究開発投入が大きい米国とは異なる点であり、平和国家日本としても学ぶことのできるモデルではないだろうか スティーブン・S・ホフマン 「「おっぱいポロリ」動画がYouTube誕生のきっかけ」 本物のイノベーションを起こすには、大きく考えてはいけない。 小さく考えなければいけない。 大規模なイノベーションのプロジェクトはたいてい失敗に終わる。多額の予算、大人数のチーム、大きな結果が求められるからこそ、失敗するのだ 〈YouTube〉に壮大なビジョンはなかった ・ユーチューブが世界最大のオンライン動画サイトになったのは、壮大なビジョンがあったからでも、計画があったからでもない。 小さなイノベーションが強烈な効果をもたらした結果だ 小さく考える環境と構造を創る 「日本人の「技術信仰」が生産性向上を妨げる 技術革新は「人口減少の特効薬」ではない」 新・生産性立国論 この分析では生産性向上に決定的に重要だと思われる5つの要素を識別して、相関関係と因果関係を分析しています。まさにエビデンスに基づく政策(Evidence Based Policy Making)で対応しようとしているのです 英国政府の分析によると、このEntrepreneurismと生産性の間の相関係数は0.91。極めて強い関係があることが明らかになっています。 つまり、新しい発想を持って、既存の経営資源(人材、技術)を組み直したり、新しい企業体系を作ったり、技術と組織、その他の資源の新しい組み合わせを構築することが、生産性向上にはいちばん効果的だというのが結論なのです 日本企業の機敏性は世界63カ国中57位で、先進国最下位 2番目、3番目も「技術革新」ではない 日本の経営者の分析能力は、先のIMDの評価では63カ国中59位で、先進国中最下位です 日本人が大好きな「技術革新」はどうなのでしょうか。実は生産性向上と「技術革新」の相関係数は意外に低く、0.56です。先に紹介した3つの要素と比べると決して高くはありません。このことは、技術革新だけでは生産性を上げるのには不十分であることを示唆しています 日本では効率化と生産性向上が混同されていることも、技術開発と生産性の相関が弱い要因になっています 日本はすでに「過剰競争」に陥っている
nice!(1)  コメント(0) 

ネットビジネス(その4)(メルカリ上場を認めた東証の判断は本当に正しいか、メルカリ上場、スマホに特化したビジネスモデルの「光と影」、GDPRより怖い? EUが準備中の「クッキー法」 個人情報保護の規制が、ネット広告に波紋) [産業動向]

ネットビジネスについては、昨年9月17日に取上げた。今日は、(その4)(メルカリ上場を認めた東証の判断は本当に正しいか、メルカリ上場、スマホに特化したビジネスモデルの「光と影」、GDPRより怖い? EUが準備中の「クッキー法」 個人情報保護の規制が、ネット広告に波紋)である。

先ずは、百年コンサルティング代表の鈴木貴博氏が5月18日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「メルカリ上場を認めた東証の判断は本当に正しいか」を取上げよう(▽は小見出し)。
▽上場を迎えるメルカリがこれまで懸念されてきたこと
・長い間「日本唯一のユニコーン企業」と呼ばれてきた「メルカリ」。同社が東証マザーズへ6月中旬に新規上場することを、東京証券取引所が承認した。ユニコーンとは、株式を公開しないままその市場価値が1000億円を超える企業で、アメリカのシリコンバレーや中国国内にはうようよ存在しているが、日本でそう呼ばれていたのはメルカリただ1社と長らく言われてきた。
・ユニコーン企業の上場であるがゆえに、その株式時価総額も巨大なものになる。現時点で、上場の想定仮条件の上限となる1株あたり2700円で算出すると、時価総額は最大で3730億円。現在東証マザーズの時価総額トップとなるミクシィの時価総額が3000億円弱だから、メルカリは株式を公開した段階で東証マザーズの1位銘柄になりそうだ。
・さて、そのメルカリだが、昨年あたりからずっと「いよいよ株式公開が実現しそうだ」と報道されながらも、結局実現できないという状態が続いていた。メルカリのビジネスモデルに問題があると指摘されたからだ。
・メルカリは、スマホを使って会員同士が要らないものを売ったり買ったりできるフリーマーケットアプリだ。部屋の中にある不用品をスマホで撮影して出品すると、すぐに買い手が見つかるという手軽さから人気となり、先行するヤフオクを凌ぐ人気アプリとなった。
・しかし、メルカリ自身に責任はないものの、スマホを使ったビジネスサービスの常として悪意を持つ利用者も登場し、そのことが問題視された。買い手がお金を支払ったのに商品が届かない、世間で物議を醸す商品が出品されるといった事例は初期に起きたが、その後メルカリ側が制度を整えて、そのような欠陥は改善された。
・一方で、なかなか撲滅が難しかったのが盗品の販売だ。以前、メルカリは登録時に身分証明が不要だったことから、盗品の出品が多いと言われていた。その結果、新聞を騒がすような事件が起きる。四国では、書店から大量の書籍を盗んで出品していた女性が逮捕された。高校の野球部から野球道具を盗んで、メルカリで販売する事件も話題となった。
・この点は、昨年の上場審査の段階でボトルネックになっていた。そしてメルカリは昨年10月に「違法・規約違反行為への対策強化のお知らせ」を発表して、初回出品時に住所、氏名、生年月日を登録させた上で、売上金を振り込む銀行口座と氏名が一致しないと送金されないように仕組みを改めた。裏側では捜査機関との連携も強化することを発表した。
▽上場前に「アッテ」も終了  法的リスクは払拭されたか
・メルカリの姉妹サービスとして登場した、「メルカリアッテ」も問題が多かった。これはスマホのGPS機能を利用して、近所に住んでいる人同士が色々な仕事や、近所だからこそできるような取引を行うというサービスだった。 たとえば「犬の子どもが生まれたのでお譲りします」「力仕事ができないので大型冷蔵庫を粗大ゴミとして出すのを手伝ってください」といったサービスを想定していたものだが、実際にやってみるとトラブルが指摘されるようになった。
・「若い女性が取引のつもりで会いに行ったら、怖い人に囲まれた」といった事件は多く報道された。「話相手になります」というサービスが少女売春に発展したり、バイトの応募かと思ったら詐欺グループにひっかかるという事態が起きたという報道もあった。一時「メルカリアッテは無法地帯ではないか」と言われるほどだった。
・このメルカリアッテも、今年5月31日で閉鎖される。サービス終了の真の理由ははっきりしないが、「6月の上場を見据えてのことではないか」という世間の推測は、それほど外れていないだろう。
・メルカリ上場に最後まで抵抗していたのは、金融庁だったという話がある。これも昨年問題になった事件だが、メルカリに4万円の現金が4万7000円で出品された。この一見わけがわからない出品の意図は、闇金と同じ仕組みのお金の貸し借りをネット上で行うことである。購入者は4万円の現金を手にした上で、クレジットカードの決済が来る40日程度の期限までに、カード会社に4万7000円を支払うようにするのだ。
・闇金と違い、4万円を借りた人は闇金業者からの取り立てに怯える必要はない。とはいえ、お金にルーズな多重債務者予備軍がこの手のサービスを使うため、最後は借り手が自己破産してクレジットカード会社が大損する可能性がある。
・この仕組みの問題は、闇金的なサービスの仲介をすることでメルカリも安全に利益を上げられるということだ。メルカリは問題発生後、現金の出品を禁止した。しかしすぐに、「お札でつくったペーパークラフトを売ります」「河原で拾った石を買ってくれたら4万円キャッシュバックします」といった脱法行為が相次いだ。
▽東証が上場を認めた理由は?  投資家から「企業寄り」との声も
・こうしたなか、金融庁は法的リスクの観点から、メルカリの上場に難色を示していたと見られるのだ。そんなメルカリが晴れて上場となったのは、なぜだろうか。注目されるのが、企業の上場の可否を判断する東証の意向である。
・実は東証の審査については、近年「企業寄りではないか」という指摘が相次いでいる。以前は東証の審査は投資家寄りであることを重視していて、粉飾をしたカネボウやライブドア、株主を虚偽表示していた西武鉄道など、有力企業が相次いで上場廃止にされていた。
・その東証の姿勢が、企業寄りになる転機になったと考えられる事件が2つある。1つは、2007年に日興コーディアル証券の不正会計が発覚した事件だ。これは組織ぐるみで行われた利益の水増しだと第三者委員会で認定され、その決算書を前提に社債の発行が行われたという点で悪質だった。しかし、課徴金5億円が課せられただけで上場は維持された。
・日興コーディアルの事件が「東証は身内に甘い」という理由による例外的な決着だったとすれば、一般企業の巨額不正会計にもかかわらず上場が維持された2011年のオリンパスの損失隠し事件の方が、より明確な姿勢の転機であったかもしれない。 この事件をきっかけに、その後の東芝のように企業の存続すら危ぶまれる不正事件が起きても、上場維持の判断を下すといった体質へと、東証は変わって行ったように見える。
▽証取所がビジネスを重視するのは悪いことか
・では、そもそもそれは「悪い」ことなのか。 問題は何をもって悪いというかだが、従来の基準を曲げて上場の可否を判断しているかもしれないという観点で言えば、今の東証には大きな問題があるだろう。しかし、より大所高所に立ち、日本の株式市場を繁栄させるという観点で考えれば、今の東証の判断はビジネスとしては悪くないと考えることができるかもしれない。
・実際に過去、日本航空、ダイエー、西武鉄道、カネボウ、ライブドアといった企業が次々と上場廃止になったことが、株式市場全体の株価の上昇に大きく水を差すことになった。 ところが、日本経済がリーマンショックから回復している過程で起きたオリンパス事件の場合、損失を被ったのは事件を知って慌てて株式を売った個人投資家だけである。事件の記憶が薄れた後のオリンパスは、本業も順調で株価は事件当時の3倍の水準で推移している。以前のルールであれば上場廃止の後に底値でファンドに売却され、株主の損失はもっと大きかったに違いない。
・東芝問題も一時はどうなるかと思ったが、結局は東芝メモリを売却しなくても企業が存続できるのではないかと言われるまでに状況は好転している。このような結果が出ているのを見ると、筋はどうであれ、ルールを曲げることも東証のビジネスをうまく運営するためには重要なのではないかと、逆説的ながら考えさせられてしまうのである。
・投資家は、今回のメルカリ上場をどのように受け止めるだろうか。
https://diamond.jp/articles/-/170325

次に、元銀行員で法政大学大学院教授の真壁昭夫氏が6月26日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「メルカリ上場、スマホに特化したビジネスモデルの「光と影」」を紹介しよう(▽は小見出し)。
▽スマホのフリマアプリで急成長したメルカリが上場
・6月19日、フリマアプリなどを手掛けるメルカリが、東証マザーズ市場に上場した。同社は、わが国にとって大きな希望となり得る潜在性を持っている。そうした期待を反映して、公開価格(3000円)を上回る5000円で初値がつき、後場に入ると、値幅制限いっぱいまで買われて株価は6000円をつける場面があった。同社の成長を期待する投資家は多かった。
・メルカリは、他のIT企業と異なりスマートフォンをベースにアプリ開発を進めてきた。その結果、スマートフォン上でフリーマーケットのように消費者同士が物品などを取引する使いやすさがヒットし、目覚ましい成長を遂げてきた。今後、そのプラットフォームを生かし、さらなる事業分野の拡大を目指している。その意味では、メルカリには大きな期待がかかっている。
・一方、メルカリには、これからまだやらなければならないこともある。盗品の出品など、コンプライアンス体制の強化は喫緊の課題といってもよいだろう。現在は、主に人間の目に頼る手法で法令に違反する出品などを摘発していると言われている。しかし、それはいずれ限界に直面するだろう。
・メルカリには、輝かしい将来性があることは間違いない。その一方、将来のためにやらなければならないことも多い。海外事業の拡充を図るためにも、メルカリは法令遵守の体制を強化し、安心かつ安全な取引環境を整備しなければならない。
▽マッチングに着目した メルカリのビジネスモデル
・メルカリのビジネスモデルには、興味深いポイントが多い。スマートフォンという日常生活に欠かせないデバイスをベースに、同社は個人間の取引を仲介してきた。取引が成立すれば、メルカリは手数料を得る。これがビジネスモデルだ。
・具体的には、ネットワーク上での“フリーマーケット”のプラットフォームを提供し、消費者と消費者(個人同士)がダイレクトに取引を行うこと(C2C、Consumer to Consumer)を可能にした。その上で、メルカリは出品者から売り上げ代金の10%を手数料として徴収し、収益を獲得してきた。
・突き詰めていえば、メルカリが目指していることは、スマートフォンを用いた個人の需要と供給の“マッチング”だ。スマートフォンを使う利点は、出品したいモノの写真を撮り、ネット空間に出品し、売り上げを管理するなど、すべてのプロセスを片手で、簡単に行えることだ。パソコンではこうはいかない。
・このマッチングは、ありそうでなかった。わたしたちが必要なモノやサービスを手に入れる場合、企業から購入することが多い。しかし、欲しいモノやコトを提供してくれるお店が、常にあるとは限らない。
・メルカリは、スマートフォンのアプリ上でウインドウショッピングをするような気軽さで、「あったらいいな」と思うものを何気なく探し、見つかれば買うことを可能にした。それは大手企業がカバーしきれてこなかった経済圏といえる。“ありそうでなかった”ビジネスを、メルカリはスマートフォンという生活に欠かせない要素を用いることで実現した。それがメルカリの強さであり、興味深いポイントだ。
・その着眼点を応用できる分野は多いだろう。ネット上でのフリーマーケットのプラットフォームを支えるテクノロジーを応用して、同社はスキルのマッチングである“teacha(ティーチャ)”も展開している。メルカリは決済サービスである“メルペイ”の普及も重視している。それは、同社の経済圏の拡大が目指されていることを意味する。
▽メルカリのアプリは本当の“蚤の市”ではない
・同時に、メルカリへの不安の部分もある。メルカリのビジネスを見ていると、確かに、人と人のマッチングの機能はある。しかし、そこから得られる安心感を高めるための取り組みは不十分、との印象があることも確かだ。ユーザーが安心してC2Cの取引契約を結び、欲しいものを手に入れるためのテクノロジーの開発は道半ばに見える。
・ユーザーの不安は、掲示板である“メルカリボックス”を見ればよくわかる。「品物が届かない」、「出品者と連絡が取れない」、「写真で見た状態と全然違う」などだ。要は、フリーマーケットの機能が完全に実現できていないのである。その状況が続くことは、メルカリそのものへの不信感につながるだろう。
・フリーマーケット(もともとは、“蚤の市”)とは、物と物を交換する場として社会に広がってきた。買い手は品物を実際に手に取り、自分の目で確認する。納得できれば買う。反対に、納得できないなら買わない。これがフリーマーケットだ。
・実際に確認できれば、安心できる。だからこそ、欧米では“蚤の市”を中心に、個人間の取引が社会に組み込まれてきた。この基本的なフリーマーケットの機能に比べると、メルカリのアプリはこなれていない。
・米国では、蚤の市の役割を重視した、個人間の取引アプリも使われている。代表例が“OfferUp”だ。同社のアプリでは衣類から自動車まで、あらゆるモノが出品されている。同社は、「対面での引き渡し」を基本にアプリを開発している。興味を持った人は、実際に出品者を確認し、モノを目で見て、確認し、気に入れば買う。それがヒットしているということは、実際に目で見ることは、わたしたちの安心感に大きな影響を与えるということだ。
・メルカリは、ネット空間で取引を完結し、全国配送を強みとしている。しかし、それがいつ、いかなる場でも通用するとは限らない。その強みを発揮するためには、利用者の安心感を高めることが欠かせない。実際、品物の品質などに不安があるからメルカリを使わないという人も少なくはないようだ。
▽今、最も必要な コンプライアンス強化
・そのほかにもメルカリには問題がある。一時、象牙など国際条約に抵触するものが取引されていたことは記憶に新しい。夏休みの宿題の代行サービスなど、本来の目的から逸脱した出品もあった。今なお、盗品、ブランド品の偽物など法令に違反した出品は後を絶たないようだ。
・法令違反の対象となる出品を、メルカリは人海戦術によってモニターし、問題があると判断された場合には取引を停止している。それは根本的な解決にはならない。隠語などを使うことで、監視を回避する手立てはあるからだ。
・また、新プロジェクトのリスクを評価する組織力にも不安がある。すでに終了した“メルカリアッテ”は典型例だ。同サービスは地域密着型のコミュニティアプリを謳い、対面による物品取引(手数料無料)も可能。しかし、このサービスを利用したところ、トラブルに巻き込まれそうになったとの報道がある。これは、安全な取引を実現するための本人確認の徹底など、基本的な認識の甘さ、欠如に起因しているように思えてならない。それが続くと、市場参加者やユーザーから、メルカリは社会的な責任を果たしていないとみなされる恐れがある。
・同社は海外進出によって、さらなる成長を目指そうとしている。しかし、その前にやらなければならないことは多い。上場当日、山田会長は不正を検知するためのAI(人工知能)などテクノロジーの開発に注力すると述べたが、それは上場する前に実施されるべき内容だ。
・メルカリはアマゾンを目指している。アマゾンは不正を検知すると即時にユーザーのアカウントをブロックするだけでなく、電話での質問にも対応している。一方、メルカリのWebを見ると、問題が発生した場合に電話で相談できるのか否かなど、すぐにはわからないことが多い。
・そうした部分から、メルカリはユーザーの利便性と安心感の向上を目指すべきだ。そのために、コンプライアンス体制の強化や取引ルールの厳格化は欠かせない。メルカリへの安心感が高まれば、ユーザーが増加し、悪意ある取引者を減らすこともできるだろう。コンプライアンスの強化とともにユーザーの評価が高まるか否かは、メルカリの成長を左右する要因の一つと考える。
https://diamond.jp/articles/-/173156

第三に、5月28日付け日経ビジネスオンライン「GDPRより怖い? EUが準備中の「クッキー法」 個人情報保護の規制が、ネット広告に波紋」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・欧州連合(EU)は5月25日、個人情報に関して世界で最も厳しい規制とされる「一般データ保護規則(GDPR)」を施行した。データを本人がコントロールする権利を明文化し、域外への個人情報の転送を厳しく取り締まる同規制に、日本企業の多くはまだ対応ができていない。
・一部ではGDPRよりも大きな波紋を呼びそうな「eプライバシー規制」の準備も進んでいる。ユーザーのオンライン上の行動を追跡できる、「クッキー」の取り扱いが大きく変わる可能性がある。違反企業に対する課徴金の最大額もGDPRと同じ、世界売上高の4%か2000万ユーロ(約26億円)の高い方という途方もない金額になる見込みだ。
・リスクマネジメントに関して助言するニュートン・コンサルティング(東京・千代田)が5月9日に発表したアンケート調査(調査期間は4月下旬~5月上旬)では、GDPRについて「対応している」と答えた会社はわずか21%しかない。莫大な課徴金におののきつつも「取り締まりの実例がないあいだは後回しにする企業が多いのではないか」(個人情報に詳しいある弁護士)。
・GDPRについて、日本企業が最も注目してきたのが「第三国への移転」に関する規制だ。欧州の提携企業が取得した個人情報を欧州域外に持ち出しする際は、個別にユーザーの保護などに関する契約を両者の間で結び、当局の承認を得なければならない。
・しかし、実はこの問題は出口が見えてきている。欧州委員会は昨年10月、欧州がユーザー保護の体制が整っていると認めた国や地域に付与する「十分性認定」を日本にも付与する方針を明言した。認定を受ければ、個人情報の転送を自由にできるようになる。日本の個人情報保護委員会は認定に向けて日本企業が対応すべき5項目を掲げた。例えば取り扱いを特段慎重にする必要がある「要配慮個人情報」に「性的嗜好」や「労働組合での活動内容」を含めることなどだ。
・GDPRに詳しいあるコンサルタントは「この5項目に対応するのは、それほど難しくない。しかし、欧州と日本の法制度の違いを棚上げしたまま議論が進んでいる」と指摘する。その違いが「クッキー」の取り扱いだ。
▽「ポップアップ」だらけの欧州サイト
・まずは、こちらのリンクをクリックしてほしい。表示されるのは、日本経済新聞の子会社である英フィナンシャル・タイムズのウェブサイトだ。過去にこのサイトを訪れたことがない場合、ウェブブラウザーのどこかにクッキーの利用を求める「ポップアップ」が表示されているはずだ。日本ではあまりお目にかからないこうしたポップアップが、欧州のサイトでは頻繁に表示される。クッキーに対する考え方が、日本と欧州では異なるからだ。
・クッキーは、サイト側が利用者のパソコンやスマートフォンと言った端末を識別するための「目印」のようなものだ。例えば、EC(電子商取引)サイトでは、会員IDとパスワードでログインする前でも、カートの中に欲しい商品を入れておくことができるだろう。これはクッキーによりサイト側がそれぞれの端末を区別しているからできることだ。
・ユーザーの利便性を高めてくれるクッキーだが、ネット広告の配信でも重要な役割を果たしている。他のサイトで見た商品の広告が別のサイトでも表示される「行動ターゲティング広告」がその典型だ。ネット広告事業者は各サイトがユーザーの端末に付与しているクッキーを名寄せし、サイト間でユーザーの行動履歴を共有する「クッキーシンク」と呼ばれる仕組みを提供している。「この仕組みが10年ほど前にできたことで、広告枠の単価は100倍になった」とあるネット広告業の経営者は語る。
・中には行動ターゲティング広告を「つきまとわれているようで気持ち悪い」と感じるユーザーもいるだろう。そのため、欧州はクッキーを個人情報として保護対象に指定。ポップアップなどで注意を喚起し、クッキーを取得することや第三者提供をすることについて、ユーザーの同意を取るよう各企業に求めている。他方、日本の個人情報保護法はクッキーを保護対象にしていない。そのため、同意がなくても取得や第三者提供ができてしまう。
・GDPRはクッキーを個人情報として取り扱うことを一部の域外の企業にも求めている。西村あさひ法律事務所の石川智也パートナーはこう解説する。「欧州居住者を対象にしたサービスを提供しているサイト、または欧州居住者の行動を“監視する”仕組みがあるサイトは、日本の企業でも対象になる」。
・前者に該当するのはドイツ語やフランス語でも表示をしているゲームや旅行関連のサイトなど。より適用範囲が広いのは後者だ。「グーグルアナリティクスのようなアクセス解析ツールを利用しているだけで“監視”とみなされる可能性がある」(石川氏)。欧州居住者が自社のサイトを訪れるかどうかは前もってわからない。「クッキーと解析ツールを使っているサイトは原則対応すべきだと思った方がいい」(同)。運用会社のMFSインベストメント・マネジメントのように、欧州のサイトと同様のポップアップで同意を求める日本企業も出てきている。
▽クッキーを巡るルールが一変?
・こうした対応をさらに厳しく迫るのが、欧州委員会が最終調整を進めている「eプライバシー規則」だ。一部では「クッキー法」とも呼ばれている。本来、GDPRと同じタイミングで施行されるはずだったが、域内企業の反発が多かったため継続審議となっている。「2018年内か19年にも内容が固まる見通しで、GDPRと同じ課徴金と域外適用の制度が組み込まれるとみられる」(石川氏)
・そのポイントは、行動ターゲティング広告のような追跡行為を受け入れるか否かをユーザーに明確に確認することや、クッキーの提供を拒否するユーザーにも平等にウェブサービスを提供することなどだ。つまり、ユーザー側が希望しないクッキーでの追跡行為を排除することを求めている。
・ポップアップの説明が「マーケティングに利用する」などあやふやなものだと、同意とは認められなくなる可能性がある。前出のネット広告業の経営者は「クッキーの提供者が激減し、ネット広告の収益モデルがひっくり返る可能性がある。ネット上の無料サービスが維持できず、課金が必要になる例が増えるかもしれない」とeプライバシー規則の先行きに気をもむ。
・これまで多くのネット事業者が「分かりにくい説明をすることはユーザーにかえって不親切だ」という理屈で、同意をせずに、あるいはあやふやな同意でクッキーを取得したり外部提供したりしてきた。しかし、米フェイスブックの情報流出問題などを背景に、こうしたネット広告の“常識”に疑問を抱くユーザーも増えている。
・マーケティング会社のイーライフ(東京・渋谷)が5月に発表した約2400人へのアンケート調査では、「ネット広告で印象が良かった、または役に立った」ことは「ない」という回答が約80%に上った。ネット広告に懐疑的な人にも関係なくクッキーを使って追跡している現在の広告ビジネスモデルは、むしろ広告主のブランドを傷つける可能性すらある。
・eプライバシー規則により、こうしたユーザーの懐疑的な声はさらに強くなる可能性がある。現在のネット広告がはらむ問題に大きな波紋を投げかけることになりそうだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/052500827/?P=1

第一と第二の記事は、いずれもメルカリ上場問題を取上げたもので、前者は上場前にビジネスモデル上の各種問題点や認可した東証の姿勢の変化をみたものだ。後者は上場後に、市場の反応や今後の課題を見たものである。第一の記事で、 『この仕組みの問題は、闇金的なサービスの仲介をすることでメルカリも安全に利益を上げられるということだ。メルカリは問題発生後、現金の出品を禁止した。しかしすぐに、「お札でつくったペーパークラフトを売ります」「河原で拾った石を買ってくれたら4万円キャッシュバックします」といった脱法行為が相次いだ』、というのはいくら規制しても、それをかいくぐる「悪知恵もの」とのいたちごっこといった様相で、規制の現実的な難しさを露呈している。 『より大所高所に立ち、日本の株式市場を繁栄させるという観点で考えれば、今の東証の判断はビジネスとしては悪くないと考えることができるかもしれない』、としているが、これは投資家の株式市場への信認という長い目で見る必要があり、私個人としては、少なくともオリンパスや東芝については、上場廃止すべきだったと考えている。
第二の記事で、 『同社は海外進出によって、さらなる成長を目指そうとしている。しかし、その前にやらなければならないことは多い。上場当日、山田会長は不正を検知するためのAI(人工知能)などテクノロジーの開発に注力すると述べたが、それは上場する前に実施されるべき内容だ』、というのはその通りで、コンプライアンスに殊の外厳格な海外への進出には慎重であるべきと思う。
第三の記事で、『行動ターゲティング広告を「つきまとわれているようで気持ち悪い」と感じるユーザーもいるだろう』、私なぞもその典型だ。 『アンケート調査では、「ネット広告で印象が良かった、または役に立った」ことは「ない」という回答が約80%に上った。ネット広告に懐疑的な人にも関係なくクッキーを使って追跡している現在の広告ビジネスモデルは、むしろ広告主のブランドを傷つける可能性すらある。 eプライバシー規則により、こうしたユーザーの懐疑的な声はさらに強くなる可能性がある。現在のネット広告がはらむ問題に大きな波紋を投げかけることになりそうだ』、というのであれば期待できそうだ。
タグ:ネットビジネス クッキー 闇金業者 鈴木貴博 日経ビジネスオンライン スマホ ダイヤモンド・オンライン 真壁昭夫 (その4)(メルカリ上場を認めた東証の判断は本当に正しいか、メルカリ上場、スマホに特化したビジネスモデルの「光と影」、GDPRより怖い? EUが準備中の「クッキー法」 個人情報保護の規制が、ネット広告に波紋) 「メルカリ上場を認めた東証の判断は本当に正しいか」 上場を迎えるメルカリがこれまで懸念されてきたこと 日本唯一のユニコーン企業 フリーマーケットアプリ 盗品の販売 上場前に「アッテ」も終了 上場に最後まで抵抗していたのは、金融庁 メルカリに4万円の現金が4万7000円で出品 最後は借り手が自己破産してクレジットカード会社が大損する可能性 問題発生後、現金の出品を禁止した。しかしすぐに、「お札でつくったペーパークラフトを売ります」「河原で拾った石を買ってくれたら4万円キャッシュバックします」といった脱法行為が相次いだ 東証が上場を認めた理由は?  投資家から「企業寄り」との声も より大所高所に立ち、日本の株式市場を繁栄させるという観点で考えれば、今の東証の判断はビジネスとしては悪くないと考えることができるかもしれない 「メルカリ上場、スマホに特化したビジネスモデルの「光と影」」 マッチングに着目した メルカリのビジネスモデル 人と人のマッチングの機能はある。しかし、そこから得られる安心感を高めるための取り組みは不十分 基本的なフリーマーケットの機能に比べると、メルカリのアプリはこなれていない 法令違反の対象となる出品を、メルカリは人海戦術によってモニターし、問題があると判断された場合には取引を停止している。それは根本的な解決にはならない。隠語などを使うことで、監視を回避する手立てはあるからだ 同社は海外進出によって、さらなる成長を目指そうとしている 「GDPRより怖い? EUが準備中の「クッキー法」 個人情報保護の規制が、ネット広告に波紋」 一般データ保護規則(GDPR) 「eプライバシー規制」の準備 この仕組みが10年ほど前にできたことで、広告枠の単価は100倍になった」とあるネット広告業の経営者は語る 行動ターゲティング広告を「つきまとわれているようで気持ち悪い」と感じるユーザーもいるだろう 欧州はクッキーを個人情報として保護対象に指定。ポップアップなどで注意を喚起し、クッキーを取得することや第三者提供をすることについて、ユーザーの同意を取るよう各企業に求めている。他方、日本の個人情報保護法はクッキーを保護対象にしていない。そのため、同意がなくても取得や第三者提供ができてしまう クッキーを巡るルールが一変? イーライフ(東京・渋谷)が5月に発表した約2400人へのアンケート調査では、「ネット広告で印象が良かった、または役に立った」ことは「ない」という回答が約80%に上った ネット広告に懐疑的な人にも関係なくクッキーを使って追跡している現在の広告ビジネスモデルは、むしろ広告主のブランドを傷つける可能性すらある eプライバシー規則により、こうしたユーザーの懐疑的な声はさらに強くなる可能性がある。現在のネット広告がはらむ問題に大きな波紋を投げかけることになりそうだ
nice!(1)  コメント(0) 

愛国、ナショナリズム(橘氏:アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている、小田嶋氏:HINOMARUに詫びる理由なし) [社会]

今日は、愛国、ナショナリズム(橘氏:アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている、小田嶋氏:HINOMARUに詫びる理由なし)を取上げよう。

先ずは、作家の橘玲氏が3月5日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている[橘玲の世界投資見聞録]」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・「愛国」とはなにかが気になって、マーサ・C・ヌスバウム他の『国を愛するということ』を読んだ。これは1990年代半ばにアメリカのアカデミズムで起きた「愛国」論争の記録で、本稿はその備忘録だと思ってほしい。
▽愛国者ローティは非愛国的なサヨクに我慢ならなかった
・論争の発端は、アメリカの高名な社会学者リチャード・セネットが、「全米人文科学協会」の「アメリカの多元主義とアイデンティティについての国民的対話」プロジェクトを『ニューヨーク・タイムズ』紙(1994年1月30日)ではげしく批判したことだ。プロジェクトの趣旨は、「テレビ中継される一連の「市民集会」を通じて、アメリカ国内のエスニックな分裂や対立を克服すべく国民共同体の紐帯やアメリカ人のアイデンティティについて確認しなおそうというもの」だったが、セネットはこれを「存在しなかったアメリカを回顧することに他ならない」と難詰した。
・「アメリカは、当初から富や宗教、言語の相違、奴隷容認州と奴隷反対州の対立によって断片化されていたのであり、南北戦争以後および近年、人々の間にある考え方や生活形態の多様性はますます増大している。そのような歴史と現状において「アメリカ的性格」や「国民的アイデンティティ」を要求することは、「紳士面したナショナリズム」を表明していることにほかならない」のだ(以上、辰巳伸知氏の「訳者解説」より)。
・これに対してこちらも高名な哲学者のリチャード・ローティが、同じ『ニューヨーク・タイムズ』紙(1994年2月13日)に「非愛国的アカデミー」という反論を載せた。これは“The Unpatriotic Academy”としてインターネットにアップされていて、一読して強い調子に驚かされる。
・ローティの主張は、アメリカの大学(アカデミズム)には自己陶酔的でわけのわからないジャーゴンばかり使っている“サヨク”の知識人が跋扈していて、彼らが「マルチカルチュラリズム(多文化主義)」とか「差異の政治(the politics of difference)」とかを言い立ててアメリカの連帯を破壊しているというものだ。ローティが支持するのは多元主義(pluralism)で、さまざまな文化をもつコミュニティが、(アメリカという)より大きなコミュニティを織り上げていくことだ。ところが文化多元主義のサヨクは人種や宗教・文化によってコミュニティを分断し、対立させている。
・「すべての国と同様に、アメリカの歴史には誇るべきものも恥ずべきものもあった」とローティは書く。「しかし、(ひとびとが)自分の国に誇りをもたなければ、(アメリカ人という)アイデンティティをもたなければ、そのアイデンティティを喜びとともに受け入れ、じっくりと噛みしめ、ともに歩んでいこうとしなければ、よりよい国をつくっていくことなどできるはずがない」
・これを読んで、「『哲学と自然の鏡』のローティってこんなゴロゴリの保守派だったの?」と驚くひともいるだろう。だったら、次の文章を読むと腰が抜けそうになるにちがいない。
・「もしもイデオロギー的な純粋さを追求したり、(正義の)怒りをぶちまけたいという必要から、アカデミックなサヨクが「差異の政治」に固執するなら、そんなものは誰からも相手にされず、なんの役にも立たなくなるにちがいない。非愛国的なサヨクは、けっしてどんな(まともな)場所にもたどりつけない。この国を誇りに思うことを拒絶するようなサヨクは、この国の政治になんの影響も与えられないばかりか、侮辱の対象になってお終いだろう」
・愛国者であるローティは、アメリカの大学を「支配」している非愛国的なサヨクに我慢ならなかったのだ。
▽アメリカでは愛国を指す「ナショナリズム」と「パトリオット」は明確に区別されている
・『国を愛するということ』は、このローティの投稿に驚愕した哲学者のマーサ・ヌスバウムが『ボストン・レビュー』(1994年10/11月号)に寄稿した「愛国主義とコスモポリタニズム」と、それに対するアマルティア・セン、イマニュエル・ウォーラーステイン、マイケル・ウォルツァーなど著名な知識人の応答をまとめたものだ。ヌスバウムはアリストテレスをはじめとするヨーロッパ古典研究者で、「アリストテレス派社会民主主義」を標榜して活発な政治的・倫理的発言を行なっている(訳者解説より)。とはいえ、ここで述べたいのは(私の手に余る)論争の評価ではなく、「愛国」という言葉の使い方だ。
・日本では、「愛国主義」はナショナリズム(Nationalism)のことで、パトリオティズム(Patriotism)は「愛郷主義」、パトリオット(Patriot)は「愛郷者」などと訳されるが(ただしPatriot Lawは「愛国者法」)、アメリカのアカデミズムではローティもヌスバウムも(そして議論に参加した全員が)「国を愛する」意味でPatriotismを使っていて、Nationalismとは厳密に区別されている。そもそもローティの逆鱗に触れたのは、「アメリカの遺産を学ぼう」プロジェクトをセネットが「紳士面したナショナリズム(the gentlemanly face of nationalism)」と揶揄したからなのだ。
・このことからわかるように、パトリオティズムの「愛国」はポジティブな、ナショナリズムの「愛国」はネガティブな含意がある。そしてヌスバウムをはじめ、ローティに批判的な論者も含め全員が「パトリオット(愛国者)」であることを当然と前提としている。
・それに対して日本では、「愛国主義=ナショナリズム」は「軍国主義」と同義で、日本を悲惨な戦争に引きずり込んだ元凶とされてきた。その結果、「愛国」は右翼の独占物になってしまったのだが、アメリカのリベラルがこれを知ったら仰天するだろう。彼らは自分を「愛国者=パトリオット」だと思っているのだから。
・「リベラル/保守」についての議論が混乱する理由のひとつは、日本ではふたつの「愛国」が区別されていないからだ。愛国者(パトリオット)であってもナショナリズムを批判することはできる。というか、アメリカのリベラルは「アンチ・ナショナリズムの愛国主義者」だ。
・この理解がグローバルスタンダードなのは、そもそも国を愛していない者には国について論じる理由がないからだ。「愛国」を否定する者は、「好きでもない国のことにいちいち口出しするな」という“愛国者”からの批判にこたえることができない。ローティの“Unpatriotic(非愛国的)”に皆が驚愕したのは、これが「議論に参加する資格のない奴ら」という(知識人としては)最大級の批判だからだろう。実際、その後の論争で「非愛国的」であることを擁護した者は一人もいない。全員が「愛国者」として、ありうべき「愛国」について論じているのだ。
・このように考えると、日本の「リベラル」の苦境がわかる。「戦後民主主義」は「愛国」を右翼に譲り渡し、「愛国主義(ナショナリズム)」を拒絶してきたために、「愛国リベラル(Patriotic Liberal)」という世界では当たり前の政治的立場を失ってしまった。そのあげく、ネトウヨから「売国奴は黙れ」という攻撃を受けることになるのだが、これに反論するには、「自分たちは愛国者(パトリオット)であり、日本という国を愛しているからこそ(政治や権力を)批判するのだ」と主張しなければならない。このロジックを組み立てることに失敗したのが、日本における「リベラルの衰退」につながっているのだろう。
▽「愛国主義」と「世界市民主義」は両立できるのか?
・『国を愛するために』の原著タイトルは“For Love of Country”で、まさに「(国への)愛」がテーマだ。ヌスバウムをはじめとして、すべての論者に「愛国」の理解は共通している。 はじめに、人間の本性として家族(親や子ども、妻や夫)への愛がある。その周辺に近親者(親族)や友人などへの愛があり、それが生まれ故郷への愛につながっている。これが「愛郷心」だ。この同心円が「国」にまで拡張されて、愛国主義(パトリオティズム)になる。
・この理解では、国を愛することは家族や恋人を愛するような自然な感情だ。それに対してナショナリズムは、「国家主義」や「全体主義」のようなニュアンスで使われる。ただしこの訳語にも問題があって、Nation Stateを「国民国家」と訳すなら、ナショナリズムは「国民主義」としなければならない。
・ともあれ、ナショナリズムを「国家や国民という全体を個人より優先する立場」とするならば、リベラルがナショナリズムを拒絶する理由は明らかだ。リベラルとはその定義上、自由な市民が平等な権利のもとに国家(市民社会)をつくるという政治思想だからだ。ナショナリズムはこの関係を逆転して、市民(個人)を国家(国民)の従属物にしてしまうのだ。
・同様に、一般に“保守派”と呼ばれる共同体主義者(コミュニタリアン)がナショナリズムを拒否する理由もわかる。「白熱教室」のマイケル・サンデルが典型だが、彼らは共同体の伝統や文化を利己的な個人より重視するが、その共同体は国家に従属するものではない。建国の父祖たちがアメリカを「合州国」にしたのは、自立した共同体が集まって民主的な国家を運営するためなのだ。
・リベラルな愛国者は、ナショナリズムだけでなく、「国粋主義(Jingoism)」や「排外主義(chauvinism)」にも反対する。これらが「愛国」の病理現象だからで、ローティやサンデルのような“保守派”が求めるのは、「国(アメリカ)を愛するひとたちによる寛容な多元主義」なのだ。
・だったらなにが問題になるのか、と疑問に思うひともいるだろう。彼らの主張は「リベラル」そのもので、リベラルの側から批判すべきことなどどこにもないように見える。 しかしヌスバウムは、同じ「リベラル」として、ここに「コスモポリタニズム」を対置する。ここでの「コスモポリタン」はギリシアの哲学者(ストア派)のいう「世界市民」のことで、「われわれは単なる統治形態や世俗的な権力にではなく、全人類の人間性によって構成される道徳的共同体に第一の忠誠を誓うべきだ」という立場だ。
・とはいえ、ヌスバウムは「愛国」を否定しているわけではない。彼女のローティに対する批判は、「愛国者(パトリオット)でありつつコスモポリタンでもある」ことは可能だし、この国の教育は若者たちを「愛国者」に育てるだけでなく、「世界市民」へと導いていくべきだ、というものだからだ。家族から故郷、国へと拡張された愛(共感)を、世界大にまで広げていこうというわけだ。
・それに対してコミュニタリアンなど保守派からは、「それはたんなる理想論で、愛国主義と世界市民主義は両立できない」との批判がなされる。国への愛をそのまま世界へと拡張することなどできず、教育によってコスモポリタンを養成しようとすれば必然的に「愛国心」を破壊してしまうというのだ。
・『マルチカルチュラリズム』の著書があるカナダの政治学者チャールズ・テーラーはリベラルな共同体主義者だが、「市民社会がうまく働くのは(中略)彼らの政治的社会は非常に重要な企てであることをそのメンバーの大半が確信しており、またその社会を民主制として機能させ続けるのに不可欠な方策に彼らが参加することがきわめて重要であると信じている、という場合である」として、リベラル・デモクラシーを守るためにこそ「(国への)忠誠」や「市民の同一化」が必要だと述べている。
・アメリカのアカデミズムにおける「愛国」問題とは、お互いに「愛国者(パトリオット)」であることを認めつつ、「愛国」に重きを置いたアイデンティティ教育を行なうか、国家の枠を越えた「世界市民」の育成を目指すのかの対立なのだ。
▽フーリガンは「チームに迷惑をかける行為のどこに“愛”があるのか」という問いにこたえることができない
・これはあくまでも私見だが、この構図はサッカーのサポーターとファンのちがいで説明できるかもしれない。 日本でも世界でもサッカーチームには熱烈なサポーターがいて、チームの勝利に歓喜し、敗北に涙を流す。サポーターとは人生(アイデンティティ)がチームと一体化したひとたちで、彼らを突き動かすのは「愛」だ。
・それに対してスタジアムには、たまの休日に家族や恋人とスポーツイベントを楽しみたいというひとたちもたくさん訪れる。彼らも贔屓のチームを応援するが、勝っても負けてもすぐに結果を忘れてしまうし、チームではなく個人を応援しにきたり、サッカークラブに入った子どもにプロの試合を見せにきただけの親もいる。ファンはサッカーが「好き」だが、そこには「愛」と呼べるほどの強い感情はない。
・この例では、サポーターが「愛国者」、ファンが「コスモポリタン」だ。サッカーを楽しむのにどちらが正しいということはなく、両者の立場は対等だが、サポーターはゴール裏、ファンはメインスタンドやバックスタンドに棲み分けている。サポーターの一部がフーリガンとなって人種差別行為などを引き起こすのは、「愛国」の病理現象である国粋主義や排外主義に該当するだろう。
・サッカー協会が繰り返し「差別・暴力の根絶」を宣言するのは、チームへの「愛」がその正当化に使われるからだ。だがこれは、熱烈にチームを応援すると「差別主義者」になるということではない。もともと差別や暴力を好む一部の人間が、サポーターを装って不道徳な(あるいは違法な)行為の機会を得ようとするのだ。
・幸いなことにサッカーでは、チーム愛と、その病理現象であるフーリガンははっきりと区別されている。それはサッカー協会が差別行為に罰則を科しているからで、チームが罰金を支払ったり、無観客試合になったりすることで、フーリガンがチームや選手たちに損害を与えていることがはっきりする。
・こうしてサッカーでは、チームを愛する者はそれを貶めるような行為を自重し、ライバルチームを「リスペクト」すべきだ、ということになった。フーリガンは、「チームに迷惑をかける行為のどこに“愛”があるのか」という問いにこたえることができないのだ。
・それに対して日本で「愛国」を自称するひとたちは、「朝鮮人を殺せ」などと叫ぶ異様な排外主義団体が世界じゅうのメディアで報じられたとき、「日本を貶めるな」と批判したりはしなかった。そればかりか、彼らの主張に乗じて近隣の国を嘲笑したりもした。そこにあるのは「愛」でも「リスペクト」でもなく、たんなる子供じみた(歪んだ)自己満足だ。
▽ホワイト・ワーキングクラス(白人労働者階級)の怒りはアカデミズムの「知性主義」に向けられている
・サッカーが「愛の病」を(かろうじて)抑え込むことができるのは、ファンの存在も大きい。彼らは楽しむためにスタジアムに来ているのだから、そこが差別や暴力の場になったら近づこうとは思わないだろう。メインスタンドの指定席など、高いお金を払ってくれるのはファンなのだから、フーリガンをきびしく取り締まらないと経営が成り立たないのだ。
・その一方で、ファンもサポーターの価値を認めている。なんといってもスタジアムの独特な雰囲気は、ゴール裏にいる熱烈なサポーターの応援がつくりだしているのだから。ファンとサポーターがお互いを認め合ってはじめて、「フィールド・オブ・ドリームス(夢の劇場)」が生まれるのだ。
・サッカーではサポーター(愛国者)とファン(コスモポリタン)の共生が目指され、これに失敗するとスタジアムに閑古鳥が鳴くことになる。それがイタリアのセリエAで、かつては「男たちの人生そのもの」といわれたサッカーは、たびかさなるフーリガンの事件によってすっかり人気を失ってしまった(2007年のスタジアムの暴動で警察官1人が死亡したことで、フーリガン対策法が施行された)。
・一方、ドイツのブンデスリーガはきらびやかなスター選手がいるわけでもなく、「面白くないリーグ」の代名詞だったのが、「家族で安心して楽しめるスタジアム」をアピールすることで、いまや全試合満員が当たり前になった。サッカーはグローバルスポーツなので、こうした成功例と失敗例によって、(日本を含む)他国のリーグもどうすればいいかわかるのだ。
・このように考えると、社会がちゃんと機能するには、愛国者もコスモポリタンも必要だとわかる。愛国者であることで批判されるいわれはないし、すべての国民が愛国者である必要もない。問題なのはサッカーとちがって、どうすれば両者が正しく共生できるかの仕組みが欠けていることだろう。
・なお、この論争が行なわれたのは20年前で、いまでは「国家」を家族や故郷と同じ“自然な”愛の対象と見なす研究者は多くないだろう。また、家族や仲間への共感にしても、それは純粋によいものではなく、部族主義につながるだけだとの批判も出てきた(ポール・ブルーム『反共感論』)。
・愛国心(ファスト思考)を拡張してもコスモポリタン(世界市民)になることはできず、社会を正しく運営するには理性(スロー思考)が必要なのだ。こうした啓蒙に効果があるかどうかは別として、無償の「愛」や「共感」は問題を解決するのではなく、問題を生み出しているという認識がこれからの主流になっていくだろう。
・いうまでもないが、この「愛国論争」はアメリカの知的コミュニティのなかのもので、その背後には高卒や高校中退で働いている膨大な「愛国者」がいる。彼ら(脱落しつつある)白人中流層がトランプ大統領を生み出し、アメリカを分裂させたのだから、ローティの懸念は正しかったともいえる。もっとも、ホワイト・ワーキングクラス(白人労働者階級)の怒りは「サヨク」だけでなく、ここに登場するすべての論者を含むアカデミズムの「知性主義」に向けられているのだが。
http://diamond.jp/articles/-/161805

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が6月15日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「HINOMARUに詫びる理由なし」を紹介しよう。
・いよいよロシアワールドカップ(W杯)がはじまった。 私にとって、サッカーのW杯ほどわくわくさせてくれるイベントはほかにない。4年に一度、世界一周旅行に旅立つみたいな心持ちだ。あと何回見られるだろうか。 死ぬ前に、もう一回現地でナマの試合を観戦してみたいと思っている。生活に余裕ができたら、次の大会か、それが無理ならそのまた次の大会を機に、半月ほどスケジュールを空けて開催地を訪れてみたいものだ。
・今大会は、自国の代表チームとは距離を置くつもりだ。応援とは別の気持ちで、各国の精鋭の戦いを観賞しようと思っている。それでも十分に楽しいはずだ。 日本代表が勝つようなことがあれば、私は喜ぶだろう。しかし、負けることになっても、それはそれで溜飲が下がるはずだと思っている。両面作戦だ。勝てば勝ったで選手を誇りに思うし、負ければ負けたで自らのサッカーファンとしての見識を誇りに思うことになる。どっちにしても、私は拍手を惜しまない。
・と、そんなことを考えている折も折、ツイッターのタイムラインに奇妙な文字列が流れ込んできた。どんなテキストであるのかを示すために、引用できれば良いのだが、それはできない。シャイロック、じゃなかったジャスラックが目を光らせているからだ。日本音楽著作権協会に登録している音楽家の楽曲を引用すると、著作権使用料が発生する。このことが、わたくしども文筆家を様々な場面で苦しめている。
・今回は、ある楽曲の歌詞について書こうと思っているのだが、その歌詞を読者の目前に引用して示すことができない。このことを、私が大変に心苦しく思っているということをどうかご理解いただきたい。 歌詞検索サイトにリンクを張っておこうかと思ったが、これが著作権の侵害になるものなのかどうかに、私は確たる知識を持っていない。
・ゆえに読者諸兄は、自ら曲名を判断し、各自検索して欲しい。もし、ジャスラックが何かを言ってきたら、歌詞のサイトも消されることになると思う。そうなったら、読者諸兄には、できれば架空の歌詞を暫時思い浮かべながら次行以降を読んでほしい。 ご確認いただけただろうか。
・ごらんのとおり、不思議な歌だ。 私は、初見で「うひゃあ」と思った。 「気高きこの御国の御霊」「たとえこの身が滅ぶとて 幾々千代に さぁ咲き誇れ」「さぁ いざゆかん 守るべきものが 今はある」 といったあたりの言霊の幸ふところに感じ入ったからだ。
・まあ、あえて言うなら、君が代風、軍歌風、愛国歌風といったあたりの周辺にある何かではあるのだろう。 私個人は、この歌がどうだということではなくて、こういう出来物が、民放のサッカー放送のテーマのカップリング曲として選ばれる時代がやってきたことに強い印象を持たずにおれなかった。 平たく言えば、びっくりした、ということだ。
・別の感慨もある。 具体的には、この歌の歌詞の中で使われている古語風の言い回しの不徹底さというのか中途半端さに当惑させられたということだ。 で、その場で、以下の二つのツイートを発信した。《僕らの燃ゆる御霊 って、自分に敬語使ってる感じ? 》《「遥か高き波がくれども」のところもなんだかきもちわるい。どうしても文語っぽく書きたいんだったら、「きたれども」にしておくほうが良かったところだと思う。》
・古語は厄介なツールだ。 私もときに使う機会がないわけではないのだが、使用はツイッター上で狂歌を詠む場面に限っている。つまり、パロディ目的以外では使わないでいる。 理由は、正確に使いこなす自信がないからでもあれば、効果を疑っているからでもある。
・なによりもまず、古語ならびに歴史的仮名遣いは、誤用すると馬鹿丸出しに見える。この点が非常につらい。 しかも、誤用しやすい。理由は、古語とは言っても、自国の言語であるだけに、かえって勘違いに気づくことが難しいからだ。外国語なら、辞書の力を借りて、なんとか間違いを正すことができる。ところが、古語の場合、古語の現代語訳を集成した辞書はあっても、現代語を古語に翻訳する使用法に特化した辞書が見当たらない。探せばどこかにあるのかもしれないのだが、普通の人は持っていない。少なくとも私は知らない。
・さらに、古文は、当該の言葉とその用例が、どの時代の、どの階層の人間による、どんな関係性の中での発話であるのかがはっきり確定しないと、正解を見出せない仕様になっている。同じ古文でも源氏物語の文体と、平家物語の文体は徹頭徹尾まるで別の世界の言語だし、徒然草と好色一代男の文章もはっきりと別のものだ。混用したらえらいことになる。
・ということはつまり、専門で研究している学者でもなければ、破綻のない擬古文を自分の手で独自に書き起こすことは、ほぼ不可能なのですね。 かといって、仮に正確に使いこなすことができたのだとしても、たいしてありがたがられるわけでもない。 むしろ、イヤミったらしいはずだ。
・そもそも現代社会に生きるほとんどすべての人間にとってなじみのない言葉や語法を用いて文章を書くことは、そのことだけでも相当に「気取った」「これ見よがし」な、「教養をひけらかしているっぽい」態度なわけで、だとすると、そういういけ好かない人間が、いけ好かない文章を振り回している場面でミスを犯すのは、これは爆発的にみっともないやりざまということになる。
・たとえばの話、フランス料理の店でギャルソンを呼びつけて、フランス語で食事を注文するのは、これはかなりリスクの高い振る舞い方だ。そこで、メロンを頼んでマロンが出てきたりしたら目もあてられない。
・何を言っているのかわからないムキもあろうかとは思うが、とにかく、そこいらへんのビストロで半端なフランス語を振り回してはいけないのと同じように、表現者たるもの、古典教養に関して満腔の自信を抱いているのでない限り、擬古文で歌を書くなどという暴挙に挑んではならないのである。
・それでも時々私が古語を使ってみたくなるのは、狂歌をカマす時などは、古語を使った方が断然「それらしく」なるからだ。「それらしく」というのは、つまり粋に構えた通人の狂歌っぽく仕上がるということで、どうせ拗ね者の捨て台詞ならせめて古体な口ぶりで演出しようではないかという意地みたいなものでもある。
・不思議なのは、地上波民放局がそれなりに社運を賭けたイベントであるはずのW杯サッカー中継のテーマソングを商品化するにあたって、しかるべきチェックが行われていなかったのか、ということだ。 「僕らの燃ゆる御霊」にしても「波がくれども」にしても、あたりまえに古典文を読んできた人間なら第一感で気持ちの悪さを感じるはずのところだ。逆に言えば、この程度のゲロゲロ古典文さえチェックできていなかったということは、結局のところ、この歌が、校閲者なりの他人の目を通ることなく、あるいは、その目があっても反映されることなく商品化されてしまったことを意味している。
・さてしかし、「HINOMARU」が炎上したのは、擬古文としての不自然さのゆえではなかった。どちらかといえば、炎上の焦点となったのは本作が偽物ながらも醸していた「軍歌っぽさ」の方だった。 で、批判が集中したことを受けて、作者の野田洋次郎氏は、謝罪をしている(こちら)。
・現在のところ、この話題をめぐって熱く議論されている論点は、「謝罪が必要だったのか」という点と、もうひとつは 「気に入らない歌に集団で抗議するのは、言論弾圧ではないのか」というポイントだ。
・以上の2点について、以下、簡単に考えを述べておく。  謝罪は不要だったと思う。この歌に不快感を抱いた人々がいたことは事実だが、そんなことは謝罪を求められる理由にはならない。 どんな歌であっても、不快に感じる聴き手はいる。それだけの話だ。 歌を歌う人間は、自分の信じるところを歌えば良い。それを聴いて不快に思った人間は、その旨を訴えれば良い。それだけの話だ。特定の民族やマイノリティーをあからさまに差別しているとか、誰かの名誉を明らかに毀損しているとか、歌の出来上がりそのものが誹謗中傷で構成されているとかいう極端な事例でない限り、歌は自由に書かれ、歌われ、聴かれるべきものだ。
・歌であれ文章であれ映像作品であれ、個人が制作する制作物である以上、万人に愛されることはあり得ない。まして、作り手が真摯に取り組んだインパクトの強い作品であれば、それだけ誰かを傷つける可能性も大きくなる。とすれば、誰かが傷ついたからという理由でいちいち謝罪するのは馬鹿げてもいれば、馬鹿でもある。
・もし仮に、誰一人傷つかない作品があるのだとしたら、その作品には力がないと考えなければならない。 咲いた咲いたチューリップの花がといった調子の歌でさえ、特定の花に特有の記憶を固着させている人間の心に爪痕を残すことはあり得る。そう思えば、「傷つけた」などという言葉を口にすること自体が馬鹿な態度だったと申し上げざるをえない。
・おそらく、野田氏が謝罪したのは、W杯の開幕を間近に控えて、炎上を早めに鎮火させることを、クライアント筋から求められた結果なのだと思う。 してみると、炎上の責任は、自局が展開する応援歌という枠組みの中にこういう「それっぽい」作品を放り込んでみせたテレビ局のキャンペーン展開のぞんざいさに求められなければならない。
・若い世代の楽曲制作者が、古文の素養を欠いていたことを責めるのは適切な態度ではない。「それっぽい」歌を書こうとした結果がなんちゃって軍歌ポップスに着地してしまった経緯も仕方のない展開だと思う。よって、RADWIMPSには何の責任もない。
・次に、言論弾圧について。 まず、6月12日に「HINOMARUに抗議するライブ会場前アクション」という名前のアカウントから以下のような呼びかけのツイートが配信された。《RADWIMPSの『HINOMARU』に抗議し、廃盤と2度と歌わない事を求めるライブ会場前行動  6月26日(火)17時~夜まで@神戸ワールド記念ホール前  集まろう!  絶対に許されない歌を出してしまいました。バンドとレコード会社は表明して下さい。ファンの方々は求めて下さい。それが解決策です。》(こちら)
・このツイートは、記事執筆時点で、1050回RTされ、446の「いいね」を獲得している。 特筆すべきは、1638のリプライ(返事)がついていることだ。それだけ、反響が大きかったということではあるのだが、そのリプライをアタマから読んでいくと、あらまあびっくり、ほとんどがツイート主への反論である。リプライを返した人々は異口同音に、「HINOMARU」への抗議行動の呼びかけを強い口調で非難している。
・こうした流れを受けて、同じ日にある政治学者が以下のようなツイートを書き込んでいる。《右であれ、左であれ、自分の意見をいう自由は認められなくてはならない。歌詞が気に入らないから歌うなというのは、表現の自由を奪う行為。何故、「リベラル」は、この蛮行を批判しないのか?彼らは自由を愛するのではなく、我が国を憎悪しているだけではないのか?》(こちら)
・このツイートは、これまでのところ、RT5239、いいね9126の、リプライ139を記録している。一方の代表的な意見と見て良いだろう。 このツイートに対して、私は、当該ツイートを引用した上で、以下のような文言を付け加えている。《「歌詞が気に入らない」と感じ「歌うな」と発言することもまた「言論」「意見」「表現」であるということがどうしてわからないのか。「表現・言論の自由」は、あくまでも公権力が国民の表現・言論を弾圧することからの自由を保障したものであって、国民同士の意見の対立はむしろ自由の成果だぞ。》(こちら) この私のツイートには、RT796、いいね970、リプライ72のアクティビティーが返ってきている。
・以上、ここに挙げた3つのツイートへの反応を見る限り、少なくともツイッター上では、「HINOMARU」への抗議行動に賛同する人より、「HINOMARU」への抗議行動に反発する人の方がはるかに多いことがわかる。 私自身、誰かの歌が気に入らないからという理由で、ライブ会場の前で抗議行動を呼びかけたり、すでに発売されているCDの廃盤を求めたりすることはナンセンスだと思っている。自分自身が不快感を表明することはともかくとして、相手に「歌わないことを求める」のは、筋違いであるのみならず愚劣な態度だとも考えている。
・じっさいのところ、冒頭の、この作り物っぽい3つしかツイート履歴のないアカウントが呼びかけている抗議行動は、反応を見る限りでは、まるで成功しそうに見えない。私は、この抗議行動の呼びかけ自体、本気でやっているもなのかどうか、いまひとつ信じきれないでいる。
・さてしかし、本物かどうかさえわからないこのバカげた抗議行動への反発は本物だ。 ツイッター上では、「言論弾圧」への反撃の書き込みが溢れている。 私は、抗議デモが実際に本当に行われたならともかく、歌に苦情が寄せられた程度の事実をとらえて、「弾圧」という言葉を使って騒ぎ立てることもまた、典型的な過剰反応だと思っている。
・結局、今回の騒動を通じて、最も大きく燃え上がったのは、「HINOMARU」という歌への抗議の声ではなくて、歌の作者が謝罪したことによって生じた「言論弾圧を許すな」という反作用だった、というのが、私の観察結果だ。
・形式論理で話をすれば、「言論弾圧を許すな」という声も、糾合の仕方や運動のまとめかた次第では言論弾圧のための道具として利用できるわけで、「言論」と「表現」をめぐるせめぎあいは、どこまで行ってもいたちごっこの部分を含むことから逃れられない。
・歌への抗議を抗議への反発が圧倒している今回のような事態が生じている背景には、世代によって「ロック」という言葉の受け止め方が違ってきているからだと思う。もう少し詳しく述べると、「ロック」というというイディオムが内包している「反抗」「抵抗」の対象が、ある年齢よりも若い世代の人々にとっては、すでに「公権力」や「政権」や「体制」ではなくなってきている、ということだ。
・たとえば商業ロケンローラーにしてもお笑い芸人にしても、自分たちのネタにクレームをつけてくるのは、「政府」や「当局」ではない。 苦情を寄せてくるのは、圧倒的に「良識派の視聴者」や「人権団体」である場合が多い。テレビ局のディレクターが右顧左眄しつつ動向に気を配っているのも、実は「与党」や「政権」よりも、「野党の有力政治家に連なる反差別団体」や「活動家」だったりするわけで、してみると、彼らが当面自分たちの戦うべき敵として意識する対象は、「政府」「政権」「権力」「与党」ではなくて、「視聴者」「リベラル」「野党」「フェミ」「人権」「ポリコレ」ってなことになる。
・この問題については、いずれ別に項目を立てて考えなければならないと思っているのだが、今回はすでに行数を書きすぎたので結論を急ぐ。 振り返ってみれば、はるか30年ほど前に、ビートたけしという名前の芸人が、たしか「週刊プレイボーイ」に掲載されたインタビューの中で、「オイラは右翼だよ」と宣言していたものだった。
・当時、その記事を読んだ私は、「これはまた見事な逆張りだなあ」と無邪気に感心していたのだが、ことここに至った現時点から振り返って見るに、じつに1980年代初頭のまだ「ポリコレ」という言葉も何もなかった時点で、すでにして、あのビートたけしという男は、良い子ちゃんの行動規範に堕した戦後民主主義的サヨク人権思想がひとっかけらもロックじゃなくなっていることに気づいていたわけなのだな。
・私個人は、もう20年以上前の時点で、ロックは死んだと思い込んでいたのだが、どうやらその考えは間違っていた。 ロックは、私が知っていた時代のそれとはまったく別の、どうにも始末に負えない不死のゾンビとして、目の前に立ちはだかっている。
・御霊にでもなるほかに、対抗するすべはなさそうだ。 とても困っている。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/061400147/

第一の記事で、 『リチャード・セネットが・・・「紳士面したナショナリズム」』、こうした「本音」での議論は最近出てきたと思っていたところ、90年代からあったというのには驚かされた。アメリカでは、『パトリオティズムの「愛国」はポジティブな、ナショナリズムの「愛国」はネガティブな含意がある。そしてヌスバウムをはじめ、ローティに批判的な論者も含め全員が「パトリオット(愛国者)」であることを当然と前提としている、『アメリカのアカデミズムでは・・・「国を愛する」意味でPatriotismを使っていて、Nationalismとは厳密に区別されている』、『それに対して日本では、「愛国主義=ナショナリズム」は「軍国主義」と同義で、日本を悲惨な戦争に引きずり込んだ元凶とされてきた。その結果、「愛国」は右翼の独占物になってしまったのだが、アメリカのリベラルがこれを知ったら仰天するだろう。彼らは自分を「愛国者=パトリオット」だと思っているのだから。 「リベラル/保守」についての議論が混乱する理由のひとつは、日本ではふたつの「愛国」が区別されていないからだ。愛国者(パトリオット)であってもナショナリズムを批判することはできる。というか、アメリカのリベラルは「アンチ・ナショナリズムの愛国主義者」だ』、 『アメリカのアカデミズムにおける「愛国」問題とは、お互いに「愛国者(パトリオット)」であることを認めつつ、「愛国」に重きを置いたアイデンティティ教育を行なうか、国家の枠を越えた「世界市民」の育成を目指すのかの対立なのだ』、などの指摘はなるほどと納得した。 『これはあくまでも私見だが、この構図はサッカーのサポーターとファンのちがいで説明できるかもしれない』、とのアナロジーは分かりやすい。 『ホワイト・ワーキングクラス(白人労働者階級)の怒りは「サヨク」だけでなく、ここに登場するすべての論者を含むアカデミズムの「知性主義」に向けられているのだが』、こうした怒りが、やがて現実路線に戻らざるを得なくなったトランプに裏切られたあとの展開が見物だ。
第二の記事で、 『君が代風、軍歌風、愛国歌風・・・の歌が・・・民放のサッカー放送のテーマのカップリング曲として選ばれる時代がやってきた』、というのには私も驚いた。 『古語ならびに歴史的仮名遣いは、誤用すると馬鹿丸出しに見える。この点が非常につらい。 しかも、誤用しやすい。理由は、古語とは言っても、自国の言語であるだけに、かえって勘違いに気づくことが難しいからだ』、古語には疎い私にはよくは分からないが、一応、納得できる。 『「表現・言論の自由」は、あくまでも公権力が国民の表現・言論を弾圧することからの自由を保障したものであって、国民同士の意見の対立はむしろ自由の成果だぞ』、との小田島氏のツイターはその通りだ。  『結局、今回の騒動を通じて、最も大きく燃え上がったのは、「HINOMARU」という歌への抗議の声ではなくて、歌の作者が謝罪したことによって生じた「言論弾圧を許すな」という反作用だった、というのが、私の観察結果だ』、『自分たちのネタにクレームをつけてくるのは、「政府」や「当局」ではない。 苦情を寄せてくるのは、圧倒的に「良識派の視聴者」や「人権団体」である場合が多い。テレビ局のディレクターが右顧左眄しつつ動向に気を配っているのも、実は「与党」や「政権」よりも、「野党の有力政治家に連なる反差別団体」や「活動家」だったりするわけで、してみると、彼らが当面自分たちの戦うべき敵として意識する対象は、「政府」「政権」「権力」「与党」ではなくて、「視聴者」「リベラル」「野党」「フェミ」「人権」「ポリコレ」ってなことになる』、なるほど。 『ロックは、私が知っていた時代のそれとはまったく別の、どうにも始末に負えない不死のゾンビとして、目の前に立ちはだかっている。 御霊にでもなるほかに、対抗するすべはなさそうだ。とても困っている』、との結びは傑作だ。
タグ:橘玲 日経ビジネスオンライン 言論弾圧 ダイヤモンド・オンライン 小田嶋 隆 愛国、ナショナリズム (橘氏:アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている、小田嶋氏:HINOMARUに詫びる理由なし) 「アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている[橘玲の世界投資見聞録]」 「アメリカの多元主義とアイデンティティについての国民的対話」プロジェクト 紳士面したナショナリズム アメリカでは愛国を指す「ナショナリズム」と「パトリオット」は明確に区別されている パトリオティズムの「愛国」はポジティブな、ナショナリズムの「愛国」はネガティブな含意がある 日本では、「愛国主義=ナショナリズム」は「軍国主義」と同義で、日本を悲惨な戦争に引きずり込んだ元凶とされてきた。その結果、「愛国」は右翼の独占物になってしまったのだが、アメリカのリベラルがこれを知ったら仰天するだろう。彼らは自分を「愛国者=パトリオット」だと思っているのだから 日本の「リベラル」の苦境がわかる。「戦後民主主義」は「愛国」を右翼に譲り渡し、「愛国主義(ナショナリズム)」を拒絶してきたために、「愛国リベラル(Patriotic Liberal)」という世界では当たり前の政治的立場を失ってしまった そのあげく、ネトウヨから「売国奴は黙れ」という攻撃を受けることになるのだが、これに反論するには、「自分たちは愛国者(パトリオット)であり、日本という国を愛しているからこそ(政治や権力を)批判するのだ」と主張しなければならない。このロジックを組み立てることに失敗したのが、日本における「リベラルの衰退」につながっているのだろう ・リベラルな愛国者は、ナショナリズムだけでなく、「国粋主義(Jingoism)」や「排外主義(chauvinism)」にも反対する ・アメリカのアカデミズムにおける「愛国」問題とは、お互いに「愛国者(パトリオット)」であることを認めつつ、「愛国」に重きを置いたアイデンティティ教育を行なうか、国家の枠を越えた「世界市民」の育成を目指すのかの対立なのだ この構図はサッカーのサポーターとファンのちがいで説明できるかもしれない ホワイト・ワーキングクラス(白人労働者階級)の怒りは「サヨク」だけでなく、ここに登場するすべての論者を含むアカデミズムの「知性主義」に向けられているのだが 「HINOMARUに詫びる理由なし」 君が代風、軍歌風、愛国歌風 民放のサッカー放送のテーマのカップリング曲として選ばれる時代がやってきたことに強い印象を 古語ならびに歴史的仮名遣いは、誤用すると馬鹿丸出しに見える。この点が非常につらい。 しかも、誤用しやすい 専門で研究している学者でもなければ、破綻のない擬古文を自分の手で独自に書き起こすことは、ほぼ不可能なのですね 不思議なのは、地上波民放局がそれなりに社運を賭けたイベントであるはずのW杯サッカー中継のテーマソングを商品化するにあたって、しかるべきチェックが行われていなかったのか、ということだ 、「HINOMARU」が炎上したのは、擬古文としての不自然さのゆえではなかった。どちらかといえば、炎上の焦点となったのは本作が偽物ながらも醸していた「軍歌っぽさ」の方だった 批判が集中したことを受けて、作者の野田洋次郎氏は、謝罪をしている どんな歌であっても、不快に感じる聴き手はいる。それだけの話だ。 歌を歌う人間は、自分の信じるところを歌えば良い 野田氏が謝罪したのは、W杯の開幕を間近に控えて、炎上を早めに鎮火させることを、クライアント筋から求められた結果なのだと思う 炎上の責任は、自局が展開する応援歌という枠組みの中にこういう「それっぽい」作品を放り込んでみせたテレビ局のキャンペーン展開のぞんざいさに求められなければならない 。「表現・言論の自由」は、あくまでも公権力が国民の表現・言論を弾圧することからの自由を保障したものであって、国民同士の意見の対立はむしろ自由の成果だぞ 今回の騒動を通じて、最も大きく燃え上がったのは、「HINOMARU」という歌への抗議の声ではなくて、歌の作者が謝罪したことによって生じた「言論弾圧を許すな」という反作用だった、というのが、私の観察結果だ 、「ロック」というというイディオムが内包している「反抗」「抵抗」の対象が、ある年齢よりも若い世代の人々にとっては、すでに「公権力」や「政権」や「体制」ではなくなってきている、ということだ 自分たちのネタにクレームをつけてくるのは、「政府」や「当局」ではない。 苦情を寄せてくるのは、圧倒的に「良識派の視聴者」や「人権団体」である場合が多い。テレビ局のディレクターが右顧左眄しつつ動向に気を配っているのも、実は「与党」や「政権」よりも、「野党の有力政治家に連なる反差別団体」や「活動家」だったりするわけで、してみると、彼らが当面自分たちの戦うべき敵として意識する対象は、「政府」「政権」「権力」「与党」ではなくて、「視聴者」「リベラル」「野党」「フェミ」「人権」「ポリコレ」ってなことになる ロックは、私が知っていた時代のそれとはまったく別の、どうにも始末に負えない不死のゾンビとして、目の前に立ちはだかっている 御霊にでもなるほかに、対抗するすべはなさそうだ。 とても困っている
nice!(0)  コメント(0) 

人権(LGBTなど)(全世界に日本の恥をさらした自民党総務会長 同性婚国賓を宮中晩餐会から「排除」すべきか?、「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」 在日13年の黒人作家が書き下ろした本音) [社会]

今日は、人権(LGBTなど)(全世界に日本の恥をさらした自民党総務会長 同性婚国賓を宮中晩餐会から「排除」すべきか?、「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」 在日13年の黒人作家が書き下ろした本音)を取上げよう。

先ずは、東大助教授で作曲家=指揮者 ベルリン・ラオムムジーク・コレギウム芸術監督の伊東 乾氏が昨年11月30日付けJBPressに寄稿した「全世界に日本の恥をさらした自民党総務会長 同性婚国賓を宮中晩餐会から「排除」すべきか?」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・11月23日、自由民主党の総務会長が以下のような凄まじい失言をしているのを目にしました。 「天皇皇后両陛下が国賓を迎えて開く宮中晩餐会で国賓のパートナーが同性だった場合、自分は晩餐会への(同性パートナーの)出席には反対」
・さらにその背景として「日本国の伝統に合わない」云々という、言うも恥ずかしい教養の欠如振りを見せている。あまりにも突っ込みどころ満載な、このお粗末な報道から、いくつか問題を考えてみたいと思います。
▽婚姻制度は文化によって違う
・あえて名前などは記しませんが、くだんの政治家さんは、フランスのフランソワ・オランド前大統領が国賓として来日した際に、宮中晩餐会に事実婚のパートナー女性を伴って参加したことを取り上げたそうです。 そのうえで「奥さんではないパートナー女性が天皇皇后両陛下と並んで座るのに、宮内庁がどう対処すべきか悩んだ」そうです。 しかし、まず「悩む」方がおかしいし、さらにそこで「日本国の伝統」を持ち出すのは相当変なことです。
・例えばアラブの首長が来日したとしましょう。イスラムでは妻を4人まで持つことが可能です。 仮に、アラブの王様と「第1夫人」「第2夫人」「第3夫人」「第4夫人」と、ずらーっと並んだ奥さんたちがやって来たとししましょう。 そこで日本側が「日本国の国情に合わないから」とか「伝統が・・・」とか言って、第2夫人以下を締め出すというようなことがあるとすれば、いったいどれほど外交的にマイナスか・・・。 と言うより、自国の風習を他の文化に押しつけるくらい、やってはいけないことはないわけです。そんな外交音痴は亡国の挙と言わざるを得ない。
・そもそも「宮中晩餐会」に日本の伝統を持ち出すのがおかしい。 たかだか明治以降、もっと言えば現行のものは戦後のここ数十年の話であって、日本国の伝統ではなく、今日の国際情勢を見ながら、適切に国賓を非礼のないようにお迎えするのが、外交であり「お・も・て・な・し」というものでしょう。
・そもそも、イスラムであれば妻は4人までと節度ある上限が示されていますが「日本国の伝統」はどうでしょう? 近代に限っても、例えば、宮中晩餐会に関わりがある例で考えるなら、明治天皇には、明らかに分かっているだけで「側室」が4人は存在しています。 大正天皇は明治天皇の息子ですが、お母さんは明治天皇の皇后ではありません。柳原愛子典侍、通称「二位の局」が天皇の生母で、明治天皇は后である昭憲皇太后こと、病弱であったとされる一条美子との間には子供がありません。
・ここ20年ほど、皇位継承をめぐって女帝問題など様々な議論があります。これらについては別論としますが、少なくとも封建時代以前、領主とか君主といわれる人たちの1つの仕事は、血統を絶やさないことです。 近代以降の明治天皇ですら正妻と側室4で5人の妻、妻でない女性の数などは正確に把握できない状態が「日本の伝統」の1つの切り口にほかなりません。
・ちなみに、どの程度正確な数字か分かりませんが平安時代初期の帝である嵯峨天皇には皇子が23、皇女が27、合計50人の子があったそうで、当然ながら皇后(橘嘉智子)以外にも記録に残らない人まで含め、多くの「妻」がありました。
・あまりにも皇子が多いので、これらを皇族として税で養うのには限界があり、そこから「皇室に起源を持つ臣下」に臣籍降下して「源氏」という姓ができるわけです。 どこかの政治家の日本の歴史や文化の認識では、源氏物語も源平の戦いも鎌倉幕府も「日本国の伝統」と無関係になるようで、これはまた面白い独自研究もあったものだと思います。
・観光絵葉書以前の印象で「伝統」のような言葉を振り回す政治屋業種も問題なら、それで右往左往するなら、有権者の教養水準が低下していると言わねばなりません。そんなことでは日本の伝統が泣くでしょう。 言うまでもありませんが、現行の日本国憲法と真っ向から矛盾する、こうした多重婚を「日本の伝統」云々で是認するという話ではありません。
・「誤読以前」はご勘弁いただきたい。文化の多様性に対して外交は謙虚であるべきで、特に宮中晩餐会といった場所について、思いつきの陣笠アドリブは、相当危なっかしいというのが第1点です。
▽同性婚の国賓パートナーを排除すべきか?
・さらに、どこかで言及されていた「同性婚」の国賓、これは具体例を挙げる方がいいでしょう。 ルクセンブルク大公国の首相 グザヴィエ・ベッテル(1973-) はフランスやギリシャで学んだ弁護士で、21世紀初頭にはテレビ番組の司会もしていた多才な人です。 ルクセンブルク市長を経て2013年、アンリ大公から組閣の大命を受けて34年ぶりの政権交代で首相になります。
・ときに40歳の若さでしたが、自らルクセンブルク内での同性婚を合法化し、2015年、ベルギー人の男性建築家ゴティエ・デストネ氏と結婚します。 2013年、ベッテル首相とゴーティエ氏はローマ教皇フランシスコから招待を受け、バチカンで祝福を受けています。
・これに先立ち、フランシスコ教皇は、ローマ教会が長年にわたって性的マイノリティに対して迫害を加え続けてきたことに「謝罪すべき」と繰り返し声明を発してもいる。 これと対照的でみっともなかったのがドナルド・トランプ政権のお粗末な対応でした。
・NATO(北大西洋条約機構)首脳会議に集まった各国トップ「配偶者の会」で、メラニー夫人などと並んで唯一男性として参加したゴーティエ氏の名を、ホワイトハウスの公式フェイスブックでは削除して発表したのです。 当然ながら轟々たる非難を浴び、修正するという失態を演じています。
・欧州では、アイスランドの女性首相ヨハンナ・シグルザルドッティル(1942-)が首相在任中の2010年に長年の生活パートナー、脚本家のヨニナ・レオスドッティルと「同性婚」入籍して、先進的な例として世界の注目を集めました。
・ただ、これは少し冷静に見る必要があるケースで、シグルザルドッティル元首相はかつて男性と結婚、2児を育てたのちに離婚。 政治家として活躍し首相まで務める日常生活を、あれこれうるさいことのない生活のベストパートナーと言うべきレオスドッティル女史と送ってきたもので、入籍時点で68歳。
・残りの人生をどのように生きるか、という生活の選択でもあって、単に「性的マイノリティのリべレーション」といった風潮だけで見ると、大切な一面を見失うことになるように思います。 ほかにも、男性の生活パートナーを持つ政治家は欧州に多く、ベルギーのエリオ・ディ・ルポ元首相(1951-)、フランスの元パリ市長ベルトラン・ドラノエ氏などの例が知られています。
・ドラノエ・パリ市長は初期の例として暴漢に襲われて重症を負ったりしていますが、ルクセンブルクのベッテル首相が「すでにルクセンブルク国民は、そんなこどどうでもよいと思っているようだ」と述べているように、ことさらに取り沙汰されていない。
・むしろそこに注目したいと思います。 ある政治家が、例えばポニーテールが好きだろうと、ミニスカートが好きだろうと、それでセクハラなどに及ぶなど悪影響のない限り、政治家として大事なのは政策実行能力であって、それ以外の要素があれこれ取り沙汰されるのは、そもそも本質的ではありません。
・むしろここでは、さらに進んだ点を記しておきましょう。ベルギーのディ・ルポ元首相は、エリオ、という名や苗字にディが入ることから分かるかもしれませんが、露骨なイタリア系です。 さらに、ルクセンブルクのベッテル首相の伴侶はベルギー人の男性建築家、性別のみならず国籍も国境も自由自在になっている。
・マーストリヒト体制・ユーロ導入から10年を経た2010年以降の欧州では、様々なボーダーが現実問題として壊されており、島国日本の「独自の価値観」とは、かなりかけ離れたものになっている。 日本で首相のパートナーが同性かつ隣国人なんてことがあるか、考えてみるといいでしょう。
・私たち音楽の世界もそうですが、仕事をきちんとしていればプロとして一流であって、その人がどういうプライバシーであるか、など問うこと自体が、全く的外れという冷静な分別にこそ、注目すべきと思います。 では「同性婚」を奨励すべきか? と問われるなら、日本での制度導入に私は非常に慎重でもあるのですが、長くなりましたので、そうした話題は稿を分けてお話したいと思います。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/51712
(上記リンクは2頁目以降は有料)

次に、在日13年の黒人作家のバイエ・マクニール氏が1月17日付け東洋経済オンラインに寄稿した「「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」 在日13年の黒人作家が書き下ろした本音」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・「ブラックフェイス(黒塗りメイク)」は人種差別行為か――。昨年12月31日に放映された「ガキの使い!大晦日年越しSP 絶対に笑ってはいけないアメリカンポリス24時」(日本テレビ)の中で、ダウンタウンの浜田雅功が、アメリカの黒人コメディアン、エディ・マーフィに扮して登場。日本で賛否両論を巻き起こすと同時に、英BBCや米ニューヨーク・タイムズなどもこれを報じた。
・擁護派の多くは、「差別的な意図がなければブラックフェイスはOK」としているが、米国出身で在日13年の黒人作家、バイエ・マクニール氏は、これは日本で行われている人種差別行為の氷山の一角に過ぎない、と見る。
・日本式の「ブラックフェイス」に初めて出くわしたのは2004年、初来日して間もないときのことだ。日本の友人と渋谷をぶらついていると、交差点付近の壁に、モータウンの衣装と白い手袋を身にまとい、髪にはパーマをあて、顔は黒塗りのゴスペラッツのポスターがあった。
・アメリカ人の自分は愕然としたが、日本人の友人の誰1人として少しも驚いていなかった。この日の出来事から、黒人の人種差別的な描写が日本では普通であることを知った。当時は日本に長く滞在しようとは考えていなかった (それが今では13年になる) ため、ブラックフェイスについて詳しく調べなかった。が、この国にほれ込み、ここに住んで生計を立てようと決めてから、それに対する考え方が変わった。
▽来日から11年後に再び・・・
・それから11年後、「ブラックフェイス」が再び自分の目にするところになるとは、まったくといっていいほど考えていなかった。  マクニール氏の昨年12月31日のツイート それは、ラッツ&スターとももいろクローバーZが、フジテレビの「ミュージックフェア」で共演することになった際、ブラックフェイスで一緒にポーズをとっている宣伝用写真が公開されたときのことだ。このドゥーワップ・グループが恥ずべき“無恥のバトン”を次の世代につなごうとしていることに世界中の目が向けられ、多くの人がショックを受け、当惑した。SNS上でも話題になり、中でも#StopBlackfaceJapanのハッシュタグは注目を集めた。
・日本で活動家になろうと考えたことはなかったが、これには活動を起こさねばとの思いを抱いた。日本が世界の舞台で恥をかくのを避けるため、フジテレビに対してこの部分の放映を中止することを求める嘆願活動を行った。当時ファーストレディで来日を予定していたミシェル・オバマ氏と、前駐日アメリカ大使のキャロライン・ケネディ氏にこの問題に介入することを求める公開状も作成した。
・嘆願には5000人近くの署名が集まった。大半は日本の人々によるもので、フジテレビと番組スポンサーのシオノギ製薬に送られた。そして3月7日、番組は放送されたが、ブラックフェイスは登場しなかった。画面には小さい文字で番組に編集が加えられているとのメッセージが表示されたが、その理由については推測の域を出ない。
・放送中止の理由は明らかに、嘆願書とキャンペーンにより世界から集まったあらゆるたぐいの注目によるものだった。だが、フジテレビも、ほかのニュースメディアも、この件について報じることはなかった。そのため、現在の嘆願活動と同様に、多くの日本人は世界中、および日本に住む人々から、ブラックフェイスに対する非難の声が上がっていることに気づかなかった。
▽ペリーが残した「ミンストレル・ショー」
・これは残念なことだ。というのも、この問題に対する日本人の意見を、「日本には人種差別の歴史がない。だからブラックフェイスは差別的な意図のない、無害なエンターテインメントだ」というものから、「意図にかかわらず、これは人類にとって有害であり、現在の日本に対する好意的イメージを著しく毀損する可能性がある」というものへと変えるには、以下の3点しかないと私は考えるからだ。
・第1に、アメリカではなく、日本におけるブラックフェイスの歴史に関する事実に着目することが重要だ。実際のところ、1854年にペリー提督がこの白人至上主義的行為を日本に紹介してからというもの、ブラックフェイスはずっと日本に存在している。
・ペリー提督は、日本人の観衆のために、白人の部下にブラックフェイスで「ミンストレル・ショー (顔を黒く塗った白人と、白人が登場する寸劇)を演じさせた。当時の記録によると、臨席していた日本人はこれを喜んで観ていたという。これがあまりに面白かったため、ペリー提督が離日した後も、日本人は自分たちの中で、この人種差別的な行為を続けた。アメリカの直接的関与と関わりなく、日本のミンストレル劇や黒塗りメイクで演じる日本人のコメディアンは1870年から2017年の大晦日に至るまで存在し、これは記録に残っている。
・ブラックフェイスを演じる人々は人種差別主義者だろうか?いや、必ずしもそうではない、と私は思う。では、日本に150年以上存在し続けるうちに、ブラックフェイスに内在する人種差別的なDNAは少しでも薄れただろうか。いや、それもないだろう。歴史的な証明を見れば、これには多くの日本人も同意するだろう。
・第2に、ブラックフェイスは害になり得るし、実際に害になっていることがある。日本に住むアフリカ系外国人だけでなく、多人種の血を引く日本人、とりわけ日本の学校ですでにはびこっているいじめの被害を受けやすい子どもにとってはそうだ。
・2年前にミス・ユニバース日本代表となった黒人と日本人のハーフの宮本エリアナを取材したとき、アフリカの起源を併せもつ女性として日本で前例のない立場となった背景について聞いた。自らが日本人の血を完全には引いていないことで、いじめられ、苦しめられただけでなく、同じくハーフの友人も同様の扱いを受け、悲しいことに自殺にまで追い込まれたことを話してくれた。そして、このことが彼女を成功に導く力になったのだと語った。友人を死に追いやったいじめに向き合い、それに取り組む場を作り出したかったのである。
▽メディアが「外国人の扱い方」を左右する
・日本の子どもの多くは、古い映画の愛好家でもないかぎり、エディ・マーフィという昔のコメディアンになじみは薄い。つまり、純真な日本の子どもがブラックフェイスを施した浜田雅功を見たとしても、それをエディ・マーフィだとは思わないのである。彼らの目には、黒人の外見的特徴を面白おかしく誇張した下手なモノマネが映るばかりだ。
・これをこの番組の暴力性とあわせて考えた場合、たとえば学校のような場で、浜田ファンと遭遇する、多人種の地をひく同級生や外国人教師(10年前の私がそうだった)にとって、いい話ではない。だからこそ、ブラックフェイスは完全に無害である、とは言えないのだ。
・特に浜田がやったように、ブラックフェイスが笑いの種として使われる場合、暗黙の偏見を助長する。そしてそれは、日本においてすでにしばしば見られる外国人の「他人化」を悪い方向へと導く、肌の色に対する感情や態度につながる。
・幸いなことに、私に対して人種的なののしり言葉やヘイトスピーチを投げかける人はこれまでにいなかったが、お笑いであれ、ミュージカルであれ、ニュースであれ、日本のメディアにおける黒人描写の結果として生まれる世界観が、日本人が私をどう扱うべきかを日本人に伝えることになる。これがメディアの力なのである。
・第3に、ブラックフェイスは許されるべきではないという意見が、世界では趨勢的である。日本もその正当な一員としての立場を確保しているグローバルコミュニティでは、こうした良識を欠く行為は容認できないという見解で一致している。
・現在、日本は東西の思想が融合した好例として、先進国の地位を得ている。ブラックフェイスそのものについては日本のメディアやエンターテインメント界で150年を超える歴史があるが、日本人が文化面での理想の一部としてブラックフェイスにこだわっているのではないと私は考えたい。
▽ブラックフェイスは氷山の一角
・さまざまな人種や国籍の外国人が、現在の日本が持つ魅力的なイメージに引かれて日本への旅を考えている。日本人がブラックフェイスを用いたり、擁護したりしていることは、これらの外国人には、日本人の心理に潜む(ほかの無神経な表現にも表われがちな)無神経さの表れと映る。
・このことを日本人が知ったら、ブラックフェイスや、そのほかの人種的特徴の戯画化は、面白かろうがなんだろうが、やめるだろう。公共の場での喫煙を禁じたように。また、日本が示してきた環境生態系に対する品位や洗練を、日本が避けて通ることのできない多元文化への歩みを受け止めるだろう。
・とはいえ、ブラックフェイスは氷山の一角にすぎない。これは大いに注目を集めた一角だが、実はさらに大きな病の兆候でしかない。ブラックフェイスそのものが必ずしも人種差別主義的という訳ではないが、日本には人種差別と排外的な感情が確かに存在する。
・家探しや職探し、警察による人種や肌の色を疑念の根拠とするような捜査、外国人へのサービス提供を拒む企業や店。そのほかにも目立たない形で、差別はある。大部分の日本人はこうした実態を認識していないため、日本には人種差別はないと確信を持って主張する。今回のように目立つ、警鐘を鳴らすような事態が発生したときに、それが多くの注目を集めることは驚愕に値しない。
・問題は、こうした事例を減らすために何ができるか、ということだ。 日本が根深い差別的な考え方をなくすべきであることは、明白だ。なぜなら日本の未来にとっては、日本人と非日本人や多人種・民族の血を引く人々との共存は極めて重要な命題だからだ。これに疑いを持つ人はいないだろう。だが、言うは易く行うは難し。特効薬はない。
・たいていの日本人には外国人と直接触れ合う機会がないため、メディア、主にジャーナリストや影響力のある人々に大きな責任があることは疑いようがない。つまり、私たちのイメージや評価はもっぱら彼らの手にゆだねられている。ブラックフェイスは、無頓着さと、グローバルコミュニティへの参加に必要な認識や感受性の欠如を反映している。メディア業界は、自らが独立した存在であると考えているかもしれないが、事実はそうではない。
▽日本が世界からのけ者にされないために
・日本におけるメディアの一部として、自分にも、この責任の一端はある。だからこそ私は当初から、日本に住むアフリカ系の血を引く人々のもう一つのイメージ、つまり、この国のメディアがせっせと広めてきたさまざまな外国人についての間違った情報を打ち消すようなイメージを提示することで、自分の責任を果たそうとしてきた。
・私たちはおとぎの国の親日派でも、エキゾチックな異邦人でも、要警戒の怪しい人物でもない。私は外国人の経験やものの見方の多様性を示すことで、こうした情報に基づいて外国人が誤解されるのを解くよう、さまざまな取り組みを行ってきた。
・現在の時代精神 (トランプ、ブレグジットなど) はさておき、日本は、すでに危険なまでに不寛容へと向かう世界にどのように関わりたいかを自問しなければならない。不寛容へ向かう傾向の結果を私たちは見てきているし、それはかんばしいものではない。
・また、これには国民的な議論も必要である。だが、事実が公に提示されなければ、また、公に国の将来に関する議論への積極的な参加が促されなければ、これは実現しない。日本が土俵際まで追い込まれるのを待っていては、手遅れになるだろう。日本にはこの点で先見の明があることを願いたい。
・日本は私にとって大切な国であり、わが家だ。日本の友人や家族は私が知る人の中でも最高の人たちである。この国からは、返しきれないくらいに、多くのものを与えてもらった。そして私はこの国を深く愛している。 だが、その愛は見境のないものではない。愛するわが家を世界ののけ者の立場に追いやるリスクがある問題を、黙って見ていることはできない。日本は世界から迫害されるべきではないし、日本にはそれを回避する力がある。友人や愛する人を中傷から守るために、自分でできるあらゆる手段を尽くして擁護したいと思っている。
・だが、日本の運命を決するのは、究極的には日本人の手にかかっている。そして、ブラックフェイスを過去の遺物とすることは、最初の一手として最適な象徴的行為となるだろう。
https://toyokeizai.net/articles/-/204735

第一の記事で、大失言をした自由民主党の総務会長は、竹下亘氏のようだ。驚いたのは、彼が田舎の政治家上がりではなく、かつて、竹下登首相の秘書だったことに加え、なんと元NHK記者だったことである。 『そもそも「宮中晩餐会」に日本の伝統を持ち出すのがおかしい。 たかだか明治以降、もっと言えば現行のものは戦後のここ数十年の話であって、日本国の伝統ではなく、今日の国際情勢を見ながら、適切に国賓を非礼のないようにお迎えするのが、外交であり「お・も・て・な・し」というものでしょう』、というのはその通りだ。 『「同性婚」を奨励すべきか? と問われるなら、日本での制度導入に私は非常に慎重でもあるのですが、長くなりましたので、そうした話題は稿を分けてお話したいと思います』、少子化問題でも持ち出すのだろうか、今後の稿が楽しみだ。
第二の記事で、 『ブラックフェイスは・・・は日本で行われている人種差別行為の氷山の一角に過ぎない』、というのは初耳だが、言われてみればその通りなのだろう。『1854年にペリー提督がこの白人至上主義的行為を日本に紹介してからというもの、ブラックフェイスはずっと日本に存在している』、そんな歴史があったことも初めて知った。 『家探しや職探し、警察による人種や肌の色を疑念の根拠とするような捜査、外国人へのサービス提供を拒む企業や店。そのほかにも目立たない形で、差別はある。大部分の日本人はこうした実態を認識していないため、日本には人種差別はないと確信を持って主張する。今回のように目立つ、警鐘を鳴らすような事態が発生したときに、それが多くの注目を集めることは驚愕に値しない』、「家探し」についてはやむを得ない面もあると思うが、「外国人へのサービス提供を拒む企業や店」については、未だにあるとすれば問題だろう。なお、筆者は触れてないが、日本人には白人系と非白人系の扱いには大きな格差がある。 『日本が土俵際まで追い込まれるのを待っていては、手遅れになるだろう。日本にはこの点で先見の明があることを願いたい』、親日家の筆者の危機感と忠告を正面から受け止めるべきだろう。
タグ:東洋経済オンライン JBPRESS 伊東 乾 人権(LGBTなど) (全世界に日本の恥をさらした自民党総務会長 同性婚国賓を宮中晩餐会から「排除」すべきか?、「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」 在日13年の黒人作家が書き下ろした本音) 「全世界に日本の恥をさらした自民党総務会長 同性婚国賓を宮中晩餐会から「排除」すべきか?」 自由民主党の総務会長 天皇皇后両陛下が国賓を迎えて開く宮中晩餐会で国賓のパートナーが同性だった場合、自分は晩餐会への(同性パートナーの)出席には反対 「日本国の伝統に合わない」 そもそも「宮中晩餐会」に日本の伝統を持ち出すのがおかしい。 たかだか明治以降、もっと言えば現行のものは戦後のここ数十年の話であって、日本国の伝統ではなく、今日の国際情勢を見ながら、適切に国賓を非礼のないようにお迎えするのが、外交であり「お・も・て・な・し」というものでしょう ある政治家が、例えばポニーテールが好きだろうと、ミニスカートが好きだろうと、それでセクハラなどに及ぶなど悪影響のない限り、政治家として大事なのは政策実行能力であって、それ以外の要素があれこれ取り沙汰されるのは、そもそも本質的ではありません 2010年以降の欧州では、様々なボーダーが現実問題として壊されており、島国日本の「独自の価値観」とは、かなりかけ離れたものになっている 「同性婚」を奨励すべきか? と問われるなら、日本での制度導入に私は非常に慎重でもあるのですが、長くなりましたので、そうした話題は稿を分けてお話したいと思います バイエ・マクニール 「「黒塗りメイクは世界では人種差別行為だ」 在日13年の黒人作家が書き下ろした本音」 日本式の「ブラックフェイス」 #StopBlackfaceJapan ラッツ&スターとももいろクローバーZ 恥ずべき“無恥のバトン”を次の世代につなごうとしていることに世界中の目が向けられ、多くの人がショックを受け、当惑 1854年にペリー提督がこの白人至上主義的行為を日本に紹介してからというもの、ブラックフェイスはずっと日本に存在している 日本のミンストレル劇や黒塗りメイクで演じる日本人のコメディアンは1870年から2017年の大晦日に至るまで存在 ブラックフェイスは害になり得るし、実際に害になっていることがある メディアが「外国人の扱い方」を左右する ブラックフェイスは許されるべきではないという意見が、世界では趨勢的である。日本もその正当な一員としての立場を確保しているグローバルコミュニティでは、こうした良識を欠く行為は容認できないという見解で一致している ブラックフェイスは氷山の一角 家探しや職探し、警察による人種や肌の色を疑念の根拠とするような捜査、外国人へのサービス提供を拒む企業や店。そのほかにも目立たない形で、差別はある 大部分の日本人はこうした実態を認識していないため、日本には人種差別はないと確信を持って主張する 日本が土俵際まで追い込まれるのを待っていては、手遅れになるだろう。日本にはこの点で先見の明があることを願いたい
nice!(2)  コメント(0) 

カジノ解禁(統合型リゾート(IR)法案)(その4)(強行採決狙うカジノ法案 裏に安倍首相とトランプの“密約”、中国大陸客に乗っ取られたマカオ 日本のカジノも同じ轍か、「カジノ」が第二のモリカケ騒動になりそうな3つの理由) [経済政策]

カジノ解禁(統合型リゾート(IR)法案)については、昨年6月10日に取上げた。実施法案が衆院を強行採決で通過したのを踏まえ、今日は、(その4)(強行採決狙うカジノ法案 裏に安倍首相とトランプの“密約”、中国大陸客に乗っ取られたマカオ 日本のカジノも同じ轍か、「カジノ」が第二のモリカケ騒動になりそうな3つの理由)である。

先ずは、6月12日付け日刊ゲンダイ「強行採決狙うカジノ法案 裏に安倍首相とトランプの“密約”」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・安倍政権が13日にも、衆院内閣委での強行採決をもくろんでいるカジノを含む統合型リゾート(IR)実施法案。カジノ推進の維新に恩は売れても、公明も本音は慎重だし、財界から強い要求があるわけではない。世論調査(4月・朝日新聞)でも「今国会で成立させる必要はない」が71%にも上る。それでも、安倍首相が今国会での成立に鼻息が荒いのは、トランプ大統領との“密約”があるからだ。
▽秋の米中間選挙に間に合わせる
・「日本企業はカジノ運営の経験がなく、ノウハウを持つ米企業に依存せざるを得ない。世界一のカジノ王と呼ばれる米ラスベガス・サンズのアデルソン会長は、日本のカジノに100億ドル(約1兆1000億円)の投資を繰り返し公言しています」(経済誌記者)
・アデルソン氏といえば、トランプの最大のスポンサーだ。16年の大統領選では、トランプに約27億円を献金し、トランプ大統領誕生を資金面で支えた。トランプは今、劣勢が伝えられる秋の中間選挙に向け、アデルソン氏の大きな援助が必要なのだ。
・「トランプ大統領は、日本でのカジノ解禁立法と引き換えに、中間選挙でのアデルソン氏の資金援助を充実させたい。秋では遅い。今の国会で成立させてもらわないと困るのです。すでに、アデルソン氏が中間選挙で3000万ドル(約33億円)もの資金協力をすると報じられています。日本のカジノ解禁を確信してのことでしょう」(前出の経済誌記者)
・カジノ解禁の裏にトランプあり――。これまでの経過にも、トランプが見え隠れしている。2016年11月、いち早く駆け付けた安倍首相は、当選間もないトランプ次期大統領とトランプタワーで面談。この時、トランプから日本でのカジノ解禁を求められたとみられる。というのも、安倍首相は帰国直後、議員立法ではあるが、IR推進法案をいきなり上程。会期延長までして、5年間、休眠中だったカジノ推進法案をわずか2週間で通した。極めて不自然な急ぎぶりだった。
・翌17年2月10日の日米首脳会談でトランプは、日本のIR推進方針を歓迎した上で、安倍首相に「シンゾウ、こういった企業を知っているか」とほほ笑んで、ラスベガス・サンズなどカジノ企業を紹介。安倍首相は隣の側近に、企業名のメモを取らせたという(17年6月10日の日経新聞電子版)。また、安倍首相は同日朝、全米商工会議所が主催する朝食会で、アデルソン会長ら複数のカジノ経営者と会食もしている。何らかの“陳情”を受けたことは間違いない。
・加えて許し難いのが、カジノ実施法案の中身が米カジノ企業の意向で「修正」されていることだ。今年2月に与党に示した政府案では、一施設あたりのカジノ区域を1万5000平方メートルとする上限規制があった。これに、ラスベガス・サンズ幹部のタナシェビッチ氏が「経済効果を抑制する」とすぐさま猛反発。果たして、今国会の提出法案では「1万5000平方メートル」の上限規制はバッサリ削られている。
・「カジノ法案は、ギャンブル依存症など社会的に問題のある法案なのに、短い審議時間で、スケジュールありきで進められています。安倍首相は、国民の心配などはどうでもいい。とにかくトランプ大統領や、米企業の要求に“満額回答”したいだけなのです。米国を裏切るわけにはいかないので、何としても今国会で成立させるつもりでしょう」(立正大名誉教授・金子勝氏=憲法)
・一体、どこを向いて仕事をしているのか。何としても成立させてはいけない。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/230942/1

次に、ジャーナリストの姫田小夏氏が5月18日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「中国大陸客に乗っ取られたマカオ、日本のカジノも同じ轍か」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・「世界一のカジノシティ」といえば、中国の特別行政区のマカオだ。1999年に実施された中国への返還以降、大陸客の個人旅行解禁とともに拡大の一途をたどり、その賭博収入は2013年にラスベガスを超えた。
・しかし、そんなマカオのカジノ産業も近年、逆風にさらされている。習近平政権の倹約令とともに、カジノの重要資金源ともいわれた中国の公務員、つまりVIP顧客が姿を消したからだ。 それは数字でも明らかだ。マカオ政府の統計によれば、マカオの産業に占める「カジノとカジノ仲介業」の割合は13年に63.10%とピークに達したが、14年以降は落ち込み、16年には産業に占める割合も5割を切るまでになった。
▽マカオの脱カジノは遠い
・近年の世界の潮流は、「脱賭博」である。マカオ政府も「賭博イメージ」の払拭に努めており、マカオのカジノ産業全体が「非カジノ」に力を入れざるを得なくなっている。統合型リゾート(IR)とは、“カジノ臭さ”を消すための一つの手段だが、隆盛を極めたマカオのカジノ業界も転換期を迎え、IRという「新たな方向性」を模索するようになった。
・「IRにおいて、カジノはもはやほんの一部分にすぎない」 筆者は2016年、このコラムで「ギャラクシー・マカオ」(ギャラクシー・エンターテインメント・グループ=銀河娯楽集団)のマイケル・メッカ元社長との対談を公開したが、当時メッカ氏はこのようにコメントしていた。
・例えば、銀河娯楽集団傘下の「スターワールド・ホテル」(2006年開業)を見れば、その努力の跡が垣間見られる。というのも、以前の業態は「カジノ・ホテル」と言われたように、100%カジノを目的とするための宿泊施設だったからだ。その象徴が、ホテルの構造だ。「スターワールド・ホテル」はエントランスとカジノ場が直結し、長期滞在客や常連客を多く収容するため、上階がゲストルームになっていた。
・それが今では、ゲストルームはレストランやビジネスセンター、バンケットルームに置き換えられてカジノの面積は大幅に縮小した。 開発面積約110万平方メートルに占めるカジノ以外の割合は95%と高くなっている。
・だが、今回マカオを訪問して印象を強めたのは、「それでもなおカジノ産業は衰えていない」という現実だ。「ギャラクシー・マカオ」におけるカジノは全体の5%だとしても、その広さは東京ドーム(4万6755平方メートル)をはるかに超える。相対的には「ほんの一部」かもしれないが、実際は「巨大な空間」に変わりはないのだ。
・隣接地にある「マカオ・ブロードウェイ」も、非ゲーミングの割合を高めるためにグルメやステージなどの娯楽施設を取り入れリノベーションした。だが、それでもカジノが併設されている。「エントランスを入れば、いきなりバカラテーブル」という旧来型のカジノホテルを経営するカジノ事業者もいまだ存在する。 依然として、マカオを訪れる観光客を包囲するのはカジノであり、本来主流であるはずの世界遺産巡りはほんの“おまけ”に過ぎない。
▽地下に流れるマカオのカジノマネー
・マカオのカジノの特殊性を端的に述べるなら、それは「独特なVIPシステム」だといえる。マカオのカジノ収入の7割は、このVIP客によってもたらされている。「独特なVIPシステム」を生んだのは、カジノ事業者間の激甚な競争だ。ある時期まで、マカオの賭博権は管理され、比較的、健康的な運営ができていた期間があった。ところが、2002年以降にこの権利が開放されるや、事業者間の競争が激化し、VIP客争奪戦に血道を上げるようになる。
・激しい競争に打ち勝つため、カジノ事業者はあの手この手で誘客を算段するが、それを支えたのが“専門業者”だった。大陸からVIP客を送客するため、専門のツアー会社が暗躍。プライベートジェットを仕立て、宿泊の手配から、プレーの決済、兌換までの面倒を見た。
・カジノ事業者からVIPルームを借り上げ、プレーヤーをカジノに誘客する代理人(ジャンケット)も存在する。中国のカジノ専門誌によれば、VIPルームには月間の売り上げ目標が設定されており、マカオのカジノ事業者は売り上げの0.7%をVIPルームの誘客に携わった代理人などに報酬として与えているという。
・一般的に、大陸のVIP客は現金を持ってこないため、マカオでは貸金業が発達している。また、マカオに持ち込める現金に制限(2017年11月からは12万パタカ以上の現金の持ち込みは申告が必要)があるため、大陸客は宝飾品店や質屋で銀聯カードを使って高額品を購入し、それを売却する形で“プレー代”となる現金を手に入れる。街中にはこうした店が至る所にあるが、マネーロンダリングの温床にもなってきた。
・カジノ事業者とプレーヤーの間に各種のブローカーを介在させ、金の流れを地下に潜りこませる──。マカオのカジノには視界不良の闇の世界が広がっている。
▽日本のカジノにも大陸客がやってくる
・日本でも、一昨年末に「統合型リゾート(IR)整備推進法案」が成立し、現在はその候補地選定の段階まで議論が進んでいる。そんな日本にも、中国大陸からの多数の客が訪れ、独特なカジノ文化のみならず、地下経済化する独特な産業チェーンが“移植”されてしまうのだろうか。
・世界のカジノが、中国人を重要顧客に据えていることは言うまでもない。「ギャラクシー・マカオ」のプレーヤーも、75%が中国大陸からの客。シンガポールや韓国のカジノも大陸客がメインだ。そう考えると、日本のカジノも“ギャンブル好きな大陸客”を切り離して考えることはできないだろう。
・となると、次の段階では「カジノの中国化」が始まる可能性が出てくる。仮に大陸客がメインになれば、中国資本が参入して、飲食店には高級中華料理が並び、ショッピングセンターのテナントも高級腕時計や宝飾品などで埋められるだろう。日本では、100万円以上の現金などの持ち込みには税関への申告が必要になるため、水面下で“特殊な金貸し業”が発展することにもなりかねない。
・大枚を惜しみなくはたいて遊んでくれる上客を呼び込むため、その好みを反映した店づくりや街づくりになっていくのは必然で、気づいたときには後の祭り、景観すらガラリと変わっていた──。こうした悲劇は、前回の記事(「カジノ大盛況の裏で進むマカオの街並みと伝統産業の破壊」)でも述べたとおりで、カジノ空間はますます市民生活から乖離したものになっていく。
・10年以上前の話だが、筆者は極東ロシアのハサン地区にあるカジノ・ホテルを取材し宿泊したことがある。人口わずか3400人のさびれた街には観光資源はないが、なぜか週末は中国人の観光客でにぎわった。その目的は賭博だ。中国語も通じず人気のないこの辺境の地において、大陸からのカジノ客の面倒を見たのが中国系の旅行社だった。彼らが人を送り込み、現場をコントロールし、じめじめした暗いホテルを“中国人のための賭博場”に変えたのだ。
▽大陸客とカジノ依存の失敗
・さて、この話には続きがある。05年、中国政府が突如として海外賭博の規制強化に乗り出すと、このホテルは半ば営業停止状態に陥ってしまった。大陸客に依存度を深めたホテル経営や地元経済は、思わぬところでコケてしまったのである。
・それはマカオも同じだった。マカオ経済もカジノを主とした“単一”に近い産業構造に陥っており、倹約令の影響を被った14年は大量の失業者を出したという。マカオの弱みは、ほかでもない「カジノ依存」と「大陸客依存」である。
・マカオは観光資源に恵まれており、世界遺産の登録とともに、国際的にも地位の高い観光地になれたはずだ。だが、残念なことに今は質の高いツーリズムはほとんど期待できない。諸悪の根源をたどるならば、マカオが“国際化”を目指さずに“中国化”で妥協したためだといえる。 マカオは、地理的に中国大陸と隣接し、政治的にも中国の影響を大きく受けるため、日本とは条件が違う。だからといって、日本も決して楽観はできない。
・日本でも、大陸客がカジノの主役になることが避けられない可能性は高いが、マカオと同じ轍は踏むべきではない。IRの誘致に熱心な自治体は絞られてきたようだが、将来を見通した“想像力”が求められているといえる。
https://diamond.jp/articles/-/170322

第三に、ノンフィクションライターの窪田順生氏が6月21日付けダイヤモンド・オンラインに寄稿した「「カジノ」が第二のモリカケ騒動になりそうな3つの理由」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・安倍首相が強行採決をしてまで進めたかったIR実施法だが、早くも甘い汁を吸えなかった人や権益争いに負けた人などが発信するスキャンダルが出てきそうな雲行きだ。第二のモリカケになってしまう可能性はかなり高いといえる。
▽本格的議論に至る前に スキャンダルが出そうなIR
・一昨日、マスコミが頑なに「カジノ法案」と連呼し続ける「IR実施法」が衆院を通過した。  このまま参院でも可決すれば、いよいよ本格的に自治体の招致レースがスタートする。これまで、どちらかといえばシラけていた一般市民の関心も徐々に高まってきているのか、「入場料6000円は高すぎ!」「ギャンブル依存症の対策もできてないのに急ぎすぎだろ」なんて激論がネット上でも交わされている。
・そういう”盛り上がりムード”に水を差すようで申し上げづらいが、残念ながら日本のIRはそういう本格的な議論をするのはまだ当面、先になるのではないかと見ている。 今の調子で進んでいけば、遅かれ早かれさまざまな「疑惑」が報じられ、「第二のモリカケ」なんて調子でマスコミと野党が大騒ぎして、スケジュールが暗礁に乗り上げるのが目に見えているからだ。
・ご存じのように、森友・加計学園問題にまつわる「疑惑」の追及はなんやかんやで、もう1年半も続いている。国民が忘れた頃に「こんな新証言が出てきました」みたいな感じで再燃して、「説明が違う」「忖度があったとしか思えない」という批判がエンドレスリピートされているのだ。
・一応正規の手続きを踏んだモリカケですらこれだ。これから「カジノ管理委員会」を設置して、事業者にライセンスを与えたり、誘致する自治体を決定して周辺への影響などに鑑みた細かい運用ルールを決めるなど、やることが山ほどあるIRで、もし同様の「疑惑」が報じられたら、幕引きまで2年越し、3年越しという長期戦になるの明らかだ。
・こじれにこれじれれば最悪、大阪府がソロバンを弾く「大阪万博とセットで2025年には開業」みたいなスケジュールも、ちゃぶ台返しでひっくり返る恐れがある。
▽第二のモリカケになりそうな3つの理由とは?
・なんてことを言うと、IRを誘致して地域活性化を目指している自治体や、日本版カジノを楽しみにしておられる方たちから「そういう不吉なことを言うな!」と怒声が飛んできそうだが、客観的に見れば、今のIRは「モリカケ騒動」をここまで泥沼の長期戦にさせたリスクファクターを、ほぼすべて持っている。それはザックリ言うと以下の3つである。
 1.「アベ友案件」の認定 
 2.甘い汁を吸えなかった人、省庁間の争いに敗れた人による「爆弾」
 3.許認可を受ける民間と、誘致したい自治体がタッグを組んで政治家に働きかける構図
・いったいどういうことか、一つずつご説明していこう。 まず、最初の《「アベ友案件」の認定》に関しては、既にネット上には「アベがカジノ法案を強行採決したのは、トランプへのご機嫌とりだ!」なんて主張が散見される。反安倍政権のみなさんは、「カジノ=アベ友案件」と断定しておられるのだ。
・根拠となっているのは、2017年2月に開催された日米首脳会談の後、全米商工会議所が主催する朝食会のなかに、トランプ大統領の強力支援者で多額の献金をしているシェルドン・アデルソン氏がいて、安倍首相に対してカジノ解禁の「陳情」をしたことだという。アデルソン氏といえば、米IRオペレーター、ラスベガス・サンズのCEO兼会長を務め、先ごろ米朝首脳会談前に金正恩氏が「視察」した巨大IR施設、マリーナベイ・サンズも手がける世界有数のカジノ王である。
・加計孝太郎氏から「晋ちゃん、獣医学部やりたいから規制緩和してよ」と安倍首相が頼まれたことが「事実」のように語られているのと同じで、トランプ・アデルソンコンビから「シンゾウ、カジノやりたいから法案通してよ」と頼まれた安倍首相が、「あいよ」と二つ返事で安請け合いした結果が、今回の法案通過だというのである。
▽あの池上彰氏も「トランプ案件」説を披露
・そんな証拠もないのにデマを広めるな、とご立腹される安倍首相の支援者も多いだろうが、モリカケ問題での安倍首相の釈明を、野党やマスコミが「信用できない」「納得がいかない」とハナから聞く気ゼロなことからもわかるように、疑惑ありきのストーリーが完成している場合、「証拠」など大した意味をなさないものだ。
・さらに、安倍信者の方たちには「ご愁傷様」としか言えないのは、世論に対する影響力バツグンのスーパースターまで、このストーリーを支持されていることだ。さまざまな複雑な事象をわかりやすく教えてくれる「池上解説」でおなじみのジャーナリスト、池上彰氏である。
・文春オンラインの「政治や時事問題に関する用語を池上さん流の鋭い風刺を交えて解説」するという連載、「WEB版 悪魔の辞典」で今月19日、《「カジノで日本再興?」何が何でも“カジノ法”を通したい安倍政権のホンネ カジノ法【かじのほう】》として、以下のようにこうチクリとやっているのだ。「ギャンブル依存患者が出てもトランプ大統領の支持組織を儲けさせて依頼を実現させようという壮大な計画」。
・日本で一番信頼されるジャーナリストがこうおっしゃっているなかで、国内で3箇所予定されているIRのひとつに、ラスベガス・サンズが選ばれたら…?どんな世論が巻き起こるかは、言うまでもない。
・もちろん反論も出るだろう。池上解説を否定するつもりはないが、今回、強行採決したと騒がれている「IR実施法」は、2016年12月に成立したプログラム法「IR推進法」とワンセットで、そのなかには「必要となる法制上の措置については、この法律の施行後一年以内を目途として講じなければならない」とある。要するに、今回の「強行採決」は推進法が通った時点で決まっていた話なのだ。
・トランプもぶっちゃけあまり関係ない。安倍政権が「IR」を前面に押し出しはじめたのは2013年で、トランプはまだ「お前はクビだ!」と騒ぐTVタレントだった。 米カジノ業者の日本に対するロビイングはさらに古く、石原都政時代の「お台場カジノ」まで遡る。そういう長きにわたる「外圧」を安倍政権は2013年からモロに受けてきた。そこへトランプがたまたま合流しただけだ。事実、2016年にIR推進法を通過させようと躍起になっていた時期、安倍首相が面会したのは、当時は「泡沫候補」と目されていたトランプではなく、ヒラリー・クリントンだった。
・つまり、トランプからの「依頼」があってもなくても、もともと安倍政権にとって「カジノ解禁」は強行採決しなくてはいけない案件だったのだ。
▽厳しい参入障壁を設けるから あぶれた業者の恨みを買いやすい
・ただ、ただ、いくら必死にそういう反論をしたところで”ブツ”が出れば、第二のモリカケになるのは確実だ。「朝日新聞」あたりが「総理のご意向」文書のようなノリで、アデルソン氏に対する「忖度」を連想させる内部資料や「メモ」でも引いてくれば、「日米を揺るがすIR大疑獄事件」の一丁上がり、である。
・おいおい、いくらなんでもそんな強引な話が大スキャンダルにはならないだろ、と思うかもしれない。もちろん、この程度の疑惑ならばせいぜい、ひと月程度、ワイドショーを騒がすくらいだろう。 ただ、IRの場合は、モリカケのようにひとつ悪い話が出てくると、それに触発されるような形でバタバタッとドミノ倒しのように新たな爆弾証言がでてくる可能性がある。
・それが2番目のリスクファクターである《甘い汁を吸えなかった人、省庁間の争いに敗れた人による「爆弾」》だ。 実施法のなかで「世界最高水準の規制」とうたわれているように、カジノ事業者にライセンスを付与する際には、かなり厳しい審査がおこなわれる。海外の例では、代表者の個人口座まで調べられ、反社会勢力との交際も厳しくチェックされる。もちろん、カジノ運営の実績も考慮されるので、日本のパチンコメーカーが「ウチもスロット置いてるんで」といったノリで気軽に参入できるような産業ではない。
・こういう話がより具体的になってくると、これまで安倍首相やらその周辺に接近し、どうにかこの「IRバブル」に乗っかろうと媚を売ってきた事業者のなかでも、「あれ?これってもしかしてウチは参入できないんじゃない」と気づき始める。
・そうなると、これまで安倍政権支援に注いできた人的・金銭的なリソースはすべてパアである。ことあるごとに安倍首相を持ち上げて、昭恵夫人を名誉校長にまでしたのに学校の認可が下りなかった籠池さんのように、「裏切られた」と感じて、反安倍の動きに合流する、という人が出てもおかしくはない。 つまり、IR利権に加わることができなかった関係者からの「不正告発」が予想されるのだ。
▽「第二の前川喜平」もあり得る 週刊誌の醜聞取材も進行中!?
・さらに言ってしまえば、文科省元事務次官の前川喜平さんのように、霞が関官僚からの「内部告発」も予想される。 加計学園問題で、なぜ前川さんが「行政が歪められた」と怒っているのかというと、それまで文科省が守ってきた獣医学部新設に関する岩盤規制を、安倍政権が国家戦略特区という飛び道具で打ち破ってしまったからだ。
・官僚は基本的に政治家はバカだと思っていて、自分たちよりも「下」に見ている。そういう人たちにテリトリーを侵されることは、耐え難い屈辱である。教育行政のなにもわからぬバカが勝手に物事を決めやがって。そんな憤りが、「行政を歪められた」という恨み節につながるのだ。そういう意味では、安倍政権がリーダーシップをとって進めているIRは、行政を歪める最たるものだ。「日本をよき方向へ導いているのは我々だ」と自負する霞ヶ関エリートからの猛反発がくるのは間違いない。
・また、モリカケ問題では、文科省が政府を刺し、愛媛県が政府を刺し、国交省が財務省を刺し――というようなバトルが繰り広げられていることからもわかるように、IRでも激しい省庁間の刺し合いが予想される。
・「カジノ」という日本で初めて誕生する巨大利権を巡って、治安面では警察、ギャンブル依存症対策では厚生労働省、IR施設の管轄は国土交通省、ライセンス付与するカジノ管理委員会は内閣府、そして誘致を目論む自治体など、さまざまなプレーヤーが入り乱れ、すでに水面下で主導権争いをしているからだ。
・その争いに敗れた者が、前川さんよろしく「正義の告発者」としてマスコミに登場する可能性はかなり高いと思っている。 モリカケ問題がここまで大ブレイクした要因に、「告発者」があることに異論を唱える方はいないのではないか。森友学園では籠池泰典・前理事長、加計学園では前川喜平・前文科事務次官らの「爆弾証言」を野党が国会で突きつけ、飽きの早いはずのマスコミが「正義の人」と持ち上げて延々と取り上げたことで「長寿コンテンツ」となったのである。IRも同じコースを歩む可能性は高い。
・そして、3番目のリスクファクター《許認可を受ける民間と、誘致したい自治体がタッグを組んで政治家に働きかける構図》については、既にその兆しが見えつつある。「○○砲」でおなじみの某週刊誌などが、IR事業者と政治家のスキャンダルをつかんで、調査をおこなっているという情報があるのだ。
▽許認可ビジネスに政治家との接触は付きものだが…
・こういう話は今後ボロボロ出てくる。 モリカケ問題もそうだが、国から許認可を受ける民間企業というのは、どうしても政治にすり寄らざるを得ない。大物政治家のパーティや朝食会に行けば、錚々たる企業の関係者や、その「代理人」のような怪しげな人々が、顔の筋肉だけで笑って集っている。
・みな籠池さんのように、「安倍」という名前を出せれば、何か有利に事が運ぶのではないか、という淡い期待を抱いて、時の権力との距離を詰める。それはIR事業者もなんら変わらない。既に国会では共産党が、IR推進法を提出した自民党や日本の維新の会所属の国会議員に対して、参入を目指す企業から献金が行われていたことを取り上げたこともあるが、そういうアプローチはほかにも山ほどある。
・政治家も、人に会って陳情を受けるのが仕事なので、それを拒むわけにはいかない。筆者のような外部の人間にすら、「議員の誰それさんとIR事業者が会食をした」なんていうウワサが、ちょこちょこと聞こえてくる。
・このような状況なので、政府中枢の人物や、安倍側近が「IR事業者と癒着」みたいな報道が近い将来、なされる可能性はかなり高いと思っている。安倍首相が採決を強行してまで進めたかったIRは、プロジェクトが前進するどころか、モリカケをさらにパワーアップさせた「終わりの見えない疑惑追及劇」の引き金になるかもしれない。
https://diamond.jp/articles/-/172927

第一の記事で、 『秋の米中間選挙に間に合わせる』、どうりで、衆院で強行採決、さらに参院審議のため、森友・加計問題からは本来やりたくない会期延長をしてまで、成立させようとする理由が分かった気がする。 『加えて許し難いのが、カジノ実施法案の中身が米カジノ企業の意向で「修正」されていることだ。今年2月に与党に示した政府案では、一施設あたりのカジノ区域を1万5000平方メートルとする上限規制があった。これに、ラスベガス・サンズ幹部のタナシェビッチ氏が「経済効果を抑制する」とすぐさま猛反発。果たして、今国会の提出法案では「1万5000平方メートル」の上限規制はバッサリ削られている』、このような細目にまで口を挿んでくるとは、ラスベガス・サンズも本腰が入っているようだ。
第二の記事で、 『近年の世界の潮流は、「脱賭博」である。マカオ政府も「賭博イメージ」の払拭に努めており、マカオのカジノ産業全体が「非カジノ」に力を入れざるを得なくなっている。統合型リゾート(IR)とは、“カジノ臭さ”を消すための一つの手段だが、隆盛を極めたマカオのカジノ業界も転換期を迎え、IRという「新たな方向性」を模索するようになった』、これで日本でもIR法案とされる理由の一端が理解できた。ただ、『マカオを訪れる観光客を包囲するのはカジノであり、本来主流であるはずの世界遺産巡りはほんの“おまけ”に過ぎない』、やはりキレイゴトでは済まないようだ。 『大陸のVIP客は現金を持ってこないため、マカオでは貸金業が発達している。また、マカオに持ち込める現金に制限(2017年11月からは12万パタカ以上の現金の持ち込みは申告が必要)があるため、大陸客は宝飾品店や質屋で銀聯カードを使って高額品を購入し、それを売却する形で“プレー代”となる現金を手に入れる。街中にはこうした店が至る所にあるが、マネーロンダリングの温床にもなってきた』、パチンコの景品交換などのみみっちい規模でなく、大規模に行われるのであれば、マネロン規制は本腰を入れるべきだろう。 『日本でも、大陸客がカジノの主役になることが避けられない可能性は高いが、マカオと同じ轍は踏むべきではない』、というのはその通りだ。
第三の記事では、『「トランプ案件」説』、には否定的なようだが、当初は維新を憲法改正で巻き込むためだったのが、トランプが大統領になってからは、トランプ案件」色が強くなったと考えるべきなのではなかろうか。 『政府中枢の人物や、安倍側近が「IR事業者と癒着」みたいな報道が近い将来、なされる可能性はかなり高いと思っている。安倍首相が採決を強行してまで進めたかったIRは、プロジェクトが前進するどころか、モリカケをさらにパワーアップさせた「終わりの見えない疑惑追及劇」の引き金になるかもしれない』、何が出てくるのか、今後が大いに楽しみだ。
タグ:日刊ゲンダイ ダイヤモンド・オンライン 窪田順生 カジノ解禁 (統合型リゾート(IR)法案) (その4)(強行採決狙うカジノ法案 裏に安倍首相とトランプの“密約”、中国大陸客に乗っ取られたマカオ 日本のカジノも同じ轍か、「カジノ」が第二のモリカケ騒動になりそうな3つの理由) 「強行採決狙うカジノ法案 裏に安倍首相とトランプの“密約”」 安倍首相が今国会での成立に鼻息が荒いのは、トランプ大統領との“密約”があるからだ トランプは今、劣勢が伝えられる秋の中間選挙に向け、アデルソン氏の大きな援助が必要なのだ アデルソン氏が中間選挙で3000万ドル(約33億円)もの資金協力をすると報じられています。日本のカジノ解禁を確信してのことでしょう」 許し難いのが、カジノ実施法案の中身が米カジノ企業の意向で「修正」されていることだ。今年2月に与党に示した政府案では、一施設あたりのカジノ区域を1万5000平方メートルとする上限規制があった。これに、ラスベガス・サンズ幹部のタナシェビッチ氏が「経済効果を抑制する」とすぐさま猛反発。果たして、今国会の提出法案では「1万5000平方メートル」の上限規制はバッサリ削られている 姫田小夏 「中国大陸客に乗っ取られたマカオ、日本のカジノも同じ轍か」 マカオのカジノ産業も近年、逆風にさらされている。習近平政権の倹約令とともに、カジノの重要資金源ともいわれた中国の公務員、つまりVIP顧客が姿を消したからだ 近年の世界の潮流は、「脱賭博」である。マカオ政府も「賭博イメージ」の払拭に努めており、マカオのカジノ産業全体が「非カジノ」に力を入れざるを得なくなっている 統合型リゾート(IR)とは、“カジノ臭さ”を消すための一つの手段だが、隆盛を極めたマカオのカジノ業界も転換期を迎え、IRという「新たな方向性」を模索するようになった 依然として、マカオを訪れる観光客を包囲するのはカジノであり、本来主流であるはずの世界遺産巡りはほんの“おまけ”に過ぎない 大陸のVIP客は現金を持ってこないため、マカオでは貸金業が発達している また、マカオに持ち込める現金に制限(2017年11月からは12万パタカ以上の現金の持ち込みは申告が必要)があるため、大陸客は宝飾品店や質屋で銀聯カードを使って高額品を購入し、それを売却する形で“プレー代”となる現金を手に入れる。街中にはこうした店が至る所にあるが、マネーロンダリングの温床にもなってきた 日本でも、大陸客がカジノの主役になることが避けられない可能性は高いが、マカオと同じ轍は踏むべきではない 「「カジノ」が第二のモリカケ騒動になりそうな3つの理由」 第二のモリカケになりそうな3つの理由とは? 「アベ友案件」の認定 甘い汁を吸えなかった人、省庁間の争いに敗れた人による「爆弾」 許認可を受ける民間と、誘致したい自治体がタッグを組んで政治家に働きかける構図 今回の「強行採決」は推進法が通った時点で決まっていた話なのだ ・トランプもぶっちゃけあまり関係ない。安倍政権が「IR」を前面に押し出しはじめたのは2013年で、トランプはまだ「お前はクビだ!」と騒ぐTVタレントだった 政府中枢の人物や、安倍側近が「IR事業者と癒着」みたいな報道が近い将来、なされる可能性はかなり高いと思っている。安倍首相が採決を強行してまで進めたかったIRは、プロジェクトが前進するどころか、モリカケをさらにパワーアップさせた「終わりの見えない疑惑追及劇」の引き金になるかもしれない
nice!(2)  コメント(0) 

日本のスポーツ界(その12)(小田嶋氏:ハリルホジッチ氏を忘れる勿れ) [社会]

日本のスポーツ界でのハリルホジッチ解任については、4月29日に取上げた。本日付けの日経ビジネスオンラインに小田嶋隆氏が、日本の勝利について興味深いコラムを寄稿している。もう少し待とうかとも思ったが、勝利の余韻が冷めないうちに、(その12)(小田嶋氏:ハリルホジッチ氏を忘れる勿れ)を取上げることとした。

・今回はワールドカップ(W杯)関連の話題を扱うつもりだ。というよりも、そうせざるを得ない。 なぜなら、W杯開幕以来、生活が不規則になっているせいか、W杯以外のことを考えることが難しくなっているからだ。 こんな状態でサッカー以外のテーマに取り組んでみたところで、どうせろくなことにはならない。
・とりあえず、寝不足ではない。どちらかといえば、寝過ぎだ。 起床と就寝のリズムが乱れているせいなのか、サッカーを見ていない時間は、うとうとしていることが多い。のみならず、横になって本格的に寝る時間も、順調に増え続けている。 午前中から午後にかけての明るい時間帯の睡眠は、どうしても眠りが浅くなる。それで睡眠時間が増える。
・しかも、夢の醒め際を狙うようにしてかかってくる電話が、眠りの質を悪化させている。結果として、連日12時間近く寝ているにもかかわらず、寝不足の感じが拭えない。この調子でW杯が3カ月も続いたら、私は間違いなく睡眠障害を獲得することになるだろう。悪くするとそのまま抑うつ状態に陥るかもしれない。
・とにかく、決勝戦までのあと3週間ほどの期間を、なんとかアタマを悪くすることで乗り切って行こうと思っている。 4年に一度、こうやってアタマを悪くする訓練を積むことは、しかしながら、無意味なことではない。明敏に生まれついてしまった人間は、バカになる機会を確保しておかないと、空回りで自滅してしまう。私はそうなってしまった人間を何人か知っている。用心せねばならない。
・日本代表の対コロンビア戦は、うっかり仕事を入れてしまっていたので、リアルタイムでは観戦できなかった。 当日、帰宅したのは、試合終了に近い時間帯だった。 ただ、その日は、午後から順次情報遮断を心がけていたので、帰宅して予約録画しておいたゲームを再生する時点では、勝敗を知らずに済んでいた。おかげで、同時視聴の場合と変わらぬ臨場感で試合を楽しむことができた。
・何回か前の当欄で簡単に説明した通り、私は、現代表チームのメンバー構成やチームとしての正当性に疑念を抱いている。 よりはっきりとしたところを申し上げるなら、私は現代表チームならびに、その選考に当たったJFA(日本サッカー協会)の首脳を信頼していない。
・それゆえ、「サムライブルー」と呼ばれている現代表について、自国の優秀な選手たちで構成されたサッカーチームとして応援する気持ちは抱いているものの、自分たちの本当の代表だとは考えていない。
・理由は、以前書いたことの重複になるが、前監督であったハリルホジッチ氏解任の顛末に納得できていないからだ。また、西野監督に後任を託した理由と経緯について、JFA(日本サッカー協会)ならびに西野監督本人がなにひとつマトモな説明をしていないからでもある。 こんな筋の通らない組織がデッチあげたデタラメなチームを、自分たちの代表チームとして承認することは不可能だ。
・ただ、それでもチームは動きはじめている。そして、W杯が始まり、ホイッスルが吹かれ、選手たちはボールを追いかけている。 このこと(現実に目の前でサッカーが展開されていること)から目を背けることは、とてもむずかしい。 前にも書いた記憶があるのだが、わたくしども日本人は、眼前の現実を宿命として甘受する傾向を強く持っている国民だ。それゆえ、現在進行形で動いている事態には、いつも甘い点をつけてしまう。
・われわれは「現に目の前で動きつつある状況」や「結果として現出しつつある事態」や「理由や経緯はどうあれ、所与の現実として自分たちを巻き込んで進行している出来事」みたいなものに、あっさりと白旗をあげてしまうことの多い人々だ。で、その結果として、いつも現実に屈服させられている。
・「思考は現実化する」という感じの、片思いをこじらせた中学生の妄想じみた呪文を繰り返す類いの様々な自己啓発書籍が、全国の書店で高い売り上げを記録しているのは、日本人の多くが、常々、自分自身の思考を実現するどころか、眼の前で起きている現実に自分の思考の方を合わせることを強いられている人々であることの裏返しなのであって、われわれが暮らしているこの国のこの社会は、個々の人間が自分のアタマで独自に思考すること自体を事実上禁じられている場所でもあるのだ。
・代表監督をめぐるゴタゴタについてあらためて申し上げるなら、おそらく、多数派のサッカーファンはすでに許している。「いまさらグダグダ言っても仕方がないじゃないか」「過ぎたことを蒸し返してどうなるものでもないだろ?」「とにかく今目の前で戦っている自分たちの代表を応援するのが、普通の日本人としての唯一の現実的な態度だとオレは思うわけだが」てな調子で、当初は不満を持っていた人々も、時間の経過とともに、順次わだかまりを水に流しつつある。こんなふうにすべてを水に流して忘れてしまうことが、善良な日本人としてのあらまほしき上品な振る舞い方だということを、われわれは、子供の頃からやんわりと教えられ、そうやって大人になっている。
・気持ちはよくわかる。 私自身、もはや半分ほどは許している。八割がたあきらめてもいる。 協会のやり方に腹を立て続けている自分の偏屈さに、我ながら多少あきれてさえいる。 だから、筋を通すべきだという私個人の牢固たる思い込みを、多数派のサッカーファンにぜひとも押し付けようとは思っていない。
・ただ、この場を借りて自分の真情を吐露しておかないと先に進めないので、読者のみなさんにご迷惑をかけていることは重々承知の上で、愚痴を聞いてもらっている次第だ。
・われわれの多くは、不満たらたらで通っていた職場にも、そのうちに馴れてしまうタイプの人間たちだ。してみると、どんなに無茶な人事であっても、いかにデタラメな状況説明であっても、事態を掌握している側の人間が中央突破で押し通してしまえば、最終的にはどんな無茶でもまかり通ることになっている。月日のたつうちには、誰もが抵抗をあきらめてしまう。われわれが住んでいるのはそういう国だ。
・つまり、既成事実の積み重ねが人々を屈服させるということの繰り返しがこの国のこの千年ほどの歴史の主要なストーリー展開であったことを踏まえて考えるなら、JFAの排外クーデターもモリカケの強弁も、最終的には、「現実としてこうなってしまっていることについていまさら何を言っても仕方がないじゃないか」 てなことで、不問に付されるに決まっているのである。
・全体主義の社会で暮らす民衆が、息の詰まる思いで過ごしているのかというと、私は、必ずしもそうではないのだろうと思っている。 多数派の国民は、少数派や異端者が声を上げることの少ない社会に、むしろ居心地の良さを感じているのだと思う。
・全体主義が貫徹されている社会は、たしかに、不満分子や反体制派にとっては、息苦しい世界であるのかもしれない。それ以上に、たとえば、体制転覆を企図しているタイプのさらに極端な少数派にとっては、それこそ命に関わる危険な場所であるはずだ。
・だが、全国民が一丸となっている前提が共有され、個々の国民同士が相互に締め付け合っている一億総括約筋社会は、多数派に属する人々にとっては、思いのほか安全で、しかも快適な世界であったりする。
・そういう社会で暮らす人々は、自分の理想を実現することや、自分の考えを表明して他人にわかってもらうことよりは、むしろ、現実の社会の中で主流を占めている思想に自分の思想を同一化させることに注力することになるのだと思う。
・でもって、体制に異を唱える人間を「反逆クール」(←「格好をつけるために反逆のポーズをとっている人々」を揶揄する言葉のようです)みたいな言葉で論評することで、自分たちの正当性を相互確認するわけだ。 民放のW杯番組を見ていると、すでにその種の社会の到来に向けたプロパガンダが始まっている気配を感じて、なんだか索漠たる気持ちになる。
・そんな中、とあるツイッターアカウントが 「サヨクはかわいそうだな。自国の代表チームが勝ったことを喜べないんだから。オレはサヨクじゃなくてつくづくよかったぜ」という感じのツイートを投稿していた。 そのツイートがかなりの数リツイートされているのを見て、私は孤独感に似た気持ちを味わっている。
・サヨクだからではない。「サヨク」が自国の代表チームの勝利を喜ばないはずだと決めつける思考の乱暴さに驚いたからでもあれば、サッカーの勝ち負けに思想のミギヒダリを持ち込む態度に不気味さを感じたからでもある。
・実際のところ、どういう人間を「サヨク」と呼ぶのかにもよるが、仮に世間でよく言われている意味の「左翼思想」の持ち主を「サヨク」と呼ぶのであれば、その彼らが日本代表のこの度の勝利を祝福していないということはないと思う。
・左翼思想を抱いている人間の中にもサッカーファンはたくさんいる。一方、思想の左右を問わず、ほとんどすべての日本のサッカーファンは日本代表チームの勝利を心から喜んでいる。 当たり前の話だが、自国の代表を応援することと、思想の左右は無関係だ。
・してみると、このツイート主の発言は、「左翼思想を持つ人間たちは日本代表チームのこの度の勝利を喜んでいない」という観察結果に基づいた言葉だったのではなくて、むしろ「代表の勝利を心から喜ばない人間をオレは『サヨク』と呼ぶぞ」という一種のマニフェストだったと考えたほうが良いのだろう。
・ところで、日本代表のこの度の勝利を喜んでいないサッカーファンは、実際のところ存在するのだろうか。 私は、存在していないと思っている。 サッカーがきらいな一部の人は、日本がきらいだというよりは、サッカーがきらいだという理由で、代表の勝利を喜んでいないかもしれない。 が、それは、サヨクとかいったことがらとは別の話だ。
・私はといえば、もちろん跳び上がって喜んだ。 大迫勇也選手のゴールが決まった瞬間には立ち上がってなぜか拳を突き上げていたりもした。 ということは私はどこからどう見ても「サヨク」ではない。
・とはいえ、ゴールに跳び上がって、勝利に浮かれ、NHKのアプリで再生を繰り返しては有頂天になってはいても、私がサッカー協会の功績を認めたのかといえば答えはノーだ。冗談ではない。私の喜びは私の喜びだが、私の祝福はなによりもまず選手たちに向けられている。そして、私の中にある感謝の気持ちの一番大きい部分は、はるか遠いヨーロッパの空の下にいるハリルホジッチ監督に向けられている。
・開始5分というあわただしい時間帯に、中盤の混線の中から一瞬の空白を突くようにして前線に送りこまれた縦パスを、素早く走り込んだ大迫選手がカラダを張ったキープからシュートに持ち込むことができたのは、彼自身の日頃の鍛錬の結果でもあれば、サッカーの女神のきまぐれでもある。が、より明らかな戦術的偶然として、あのゴールは、ハリルホジッチ前監督の指導の賜物だと思う。
・というのも、在任中の2年余りの間、選手たちに一貫して「縦に速いサッカー」を求めたハリルホジッチ監督が、後ろからのパスに強いワントップのストライカーとして最も重用したのが、大迫選手だったからだ。
・つまり、W杯の本番で顔を合わせることになる世界の強豪から得点をもぎとるためには、一種のスキを見逃さないカウンターの精度と、常にゴールに直結するパスを狙う強いメンタリティーが必要だという、ハリルホジッチが来日以来執拗に繰り返していた言葉が、そのまま現実化したのが、あの開始6分のPKだったということだ。
・あれを「幸運」の一言で片付けてはいけない。 サッカーが戦われている芝の上では、幸運は、それを迎え入れるために訓練を積み重ねた者の上にしか訪れない。われわれのチームが訪れた幸運を得点に変換することができたのは、あらかじめ、幸運を呼び込むに足る訓練を積み重ねていたからだと考えなければならない。 その功労者として、わたくしども日本人は、ハリルホジッチ氏の名前を忘れるべきではない。
・さて、W杯は、クラブチームに向けた若手選手の品評会と言われることが多いのだが、別の一面では、「戦術の品評会」という言い方で説明される。ちょうど4年に一度というタイミングが、世界的な戦術の変化の潮流とシンクロしているからだ。 あるクラブチームなり代表チームが、特定の優れた戦術を武器に勝ち進むと、その戦術は、それからしばらくの間、世界の流行になる。
・ちょっと前(というよりもずいぶん昔だが)の例で言えば、ヨハン・クライフのいたオランダが持ち込んだ「トータルフットボール」が有名だし、最近の例では、2010年の南アフリカW杯で優勝したスペイン代表チームが体現し、バルセロナFCや、グアルディオラ監督の活躍とともに広まった「ポゼッションサッカー」が一世を風靡している。
・詳しい解説はしない。 私自身、他人に解説を垂れるほど十分に理解しているわけではないからだ。 ただ、ある戦術が頂点を極めて流行すると、その戦術を無効化するための別方向の戦術がどこかで案出され、それらのせめぎあいの中でサッカーの戦術が日々変化している。これは私にもわかる。
・とはいえ、われわれのような凡眼は、戦術の変化が、実際のチーム戦術として具体的に選手を動かし、その新しい戦術が古い戦術を圧倒しはじめた時になってはじめて、戦術の存在に気づくことになっている。 つまり、われわれは、戦術という実体を「事後的」にしか認識できないわけだ。
・監督は、それを、まず自分のアタマの中で立案し、選手を動かす実戦の中で磨き上げる。そして、最終的に、その戦術に沿ってボールを動かすことで、チームに勝利をもたらす。なんと見事な人たちではないか。
・将棋でも囲碁でも、すでに打たれた一局について、専門家の解説を参考にしつつ並べ直せば、私のようなヘボにでも、一手一手の意味がなんとなく見えたりはする。 サッカーチームの監督は、プロの碁打ちや将棋指しと同じく、たった一人で実戦に向かって、誰のアドバイスも仰がずに一手一手の指し手を考案している。 実に大変な仕事だと思う。
・今回のW杯のゲームを見ていて印象深いのは、集団的な守備戦術が個人の攻撃能力を圧倒していることだ。 結果として、ピッチ上で繰り広げられているのは、カウンターのスピードと精度を競う戦いになっている。
・ドイツ対メキシコも、スイス対ブラジルも、アイスランド対アルゼンチンも、圧倒的な戦力を誇る強豪国に対して、堅実な守備と一瞬のカウンターを武器に対峙するチームが善戦ないしは勝利した、サッカー史に残る名勝負だった。
・日本代表の対コロンビア戦の1点目に限らず、縦に速いサッカーによる電撃的な得点は、どうやら今大会を象徴する「華」なのである。 今大会に特徴的な傾向として、攻撃陣と守備陣が五分五分の条件で四つに組み合う条件下では、戦術的な洗練度の高い守備陣の方が優位に立つケースが多い。結果として、強豪チームの攻撃陣と中堅チームの守備陣の戦いであっても、守備陣の方が勝ってしまうケースが目立つ。
・ということは、マトモにぶつかり合っている限り、どのゲームでも点が入らないスコアレスの展開が続くことになる。 そこで注目されるのがカウンターだ。 カウンターとはつまり、相手の守備陣が守備陣形を整える前に、1本か2本の少ないパスで、時間的には自陣から遅くとも10秒以内でシュートに持ち込む攻撃法で、「攻撃」というよりは「反撃」と呼ぶに近い戦い方だ。別の言い方をするなら、カウンターは、攻めている側ではなくて、攻められている側が突然牙を剥く形の攻撃だということだ。
・してみると、このサッカーは、前々回の南アフリカW杯でスペイン代表が優勝して以来王道となった「ポゼッションサッカー」(常にボールを保持し、相手に攻撃を許さないことで勝利の確率を高めるサッカー)の、正反対の戦術ということになる。
・そして、その堅守速攻のカウンター志向のサッカーこそは、ハリルホジッチが日本代表の戦術として定着させようとして、最終的に(誰によってなのかは知らないが)拒絶されたところのサッカーでもある。 なんということだろう。 われわれは、追放した人間によって授けられた戦術によって勝利を得たわけだ。
・この先、われらが日本代表チームが、順当に勝ち進んで決勝トーナメントに進むことになるのか、それとも敗退することになるのかは、誰にもわからない。 いずれの結果が出るのであれ、私は彼らを応援する。 ただ、協会は祝福しない。
・仮にベスト4に進むようなことがあったのだとしても、その結果をもってチームの正当性を認めることもしない。 勝ち負けと正当性は別だ。 応援と愛国心も別だ。 もし仮に、こういう言い方をしたことで、私が「サヨク」なり「反日」なりと呼ばれるのだとしたら、それはしかたのないことなのだろう。
・ただ、自国のチームを心から応援しつつそのチームの来歴に不満を抱くことが、祖国への反逆だと本当にそう思う人がいるのだとしたら、その人間こそ「反日」ではないのだろうか。 というのも、真に日本サッカーを愛する愛国サッカーファンは、現状の体制や現状のチームを無条件に応援するよりは、日本サッカーの真の強化のために、協会に苦言を呈することを厭わない人間であるはずだからだ。
・なんだか、えらくエモーショナルなお話をしてしまった。ちょっとはずかしい。 でもまあ、仕方がありませんね。サッカー的にはまるっきりの右翼なので。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/062100148/?P=1

小田島氏が、『われわれは「現に目の前で動きつつある状況」や「結果として現出しつつある事態」や「理由や経緯はどうあれ、所与の現実として自分たちを巻き込んで進行している出来事」みたいなものに、あっさりと白旗をあげてしまうことの多い人々だ。で、その結果として、いつも現実に屈服させられている』、『こんなふうにすべてを水に流して忘れてしまうことが、善良な日本人としてのあらまほしき上品な振る舞い方だということを、われわれは、子供の頃からやんわりと教えられ、そうやって大人になっている』、『既成事実の積み重ねが人々を屈服させるということの繰り返しがこの国のこの千年ほどの歴史の主要なストーリー展開であったことを踏まえて考えるなら、JFAの排外クーデターもモリカケの強弁も、最終的には、「現実としてこうなってしまっていることについていまさら何を言っても仕方がないじゃないか」てなことで、不問に付されるに決まっているのである』、『全国民が一丸となっている前提が共有され、個々の国民同士が相互に締め付け合っている一億総括約筋社会は、多数派に属する人々にとっては、思いのほか安全で、しかも快適な世界であったりする』、などは日本社会の特質を的確に指摘している。特に、「一億総括約筋社会」とは至言だ。 『在任中の2年余りの間、選手たちに一貫して「縦に速いサッカー」を求めたハリルホジッチ監督が、後ろからのパスに強いワントップのストライカーとして最も重用したのが、大迫選手だったからだ』、というのは言われてみればその通りだが、これを指摘したのは小田島氏が初めてだと思う。さすがである。 『その堅守速攻のカウンター志向のサッカーこそは、ハリルホジッチが日本代表の戦術として定着させようとして、最終的に(誰によってなのかは知らないが)拒絶されたところのサッカーでもある。 なんということだろう。 われわれは、追放した人間によって授けられた戦術によって勝利を得たわけだ』、という皮肉を解説者やサッカ協会はよく噛み締めて欲しいものだ。 『真に日本サッカーを愛する愛国サッカーファンは、現状の体制や現状のチームを無条件に応援するよりは、日本サッカーの真の強化のために、協会に苦言を呈することを厭わない人間であるはずだからだ』、というのはその通りだ。
タグ:小田嶋隆 日経ビジネスオンライン ワールドカップ(W杯) 日本のスポーツ界 (その12)(小田嶋氏:ハリルホジッチ氏を忘れる勿れ) 前監督であったハリルホジッチ氏解任の顛末に納得できていないからだ。また、西野監督に後任を託した理由と経緯について、JFA(日本サッカー協会)ならびに西野監督本人がなにひとつマトモな説明をしていないからでもある われわれは「現に目の前で動きつつある状況」や「結果として現出しつつある事態」や「理由や経緯はどうあれ、所与の現実として自分たちを巻き込んで進行している出来事」みたいなものに、あっさりと白旗をあげてしまうことの多い人々だ。で、その結果として、いつも現実に屈服させられている こんなふうにすべてを水に流して忘れてしまうことが、善良な日本人としてのあらまほしき上品な振る舞い方だということを、われわれは、子供の頃からやんわりと教えられ、そうやって大人になっている 既成事実の積み重ねが人々を屈服させるということの繰り返しがこの国のこの千年ほどの歴史の主要なストーリー展開であったことを踏まえて考えるなら、JFAの排外クーデターもモリカケの強弁も、最終的には、「現実としてこうなってしまっていることについていまさら何を言っても仕方がないじゃないか」 てなことで、不問に付されるに決まっているのである 全体主義が貫徹されている社会 在任中の2年余りの間、選手たちに一貫して「縦に速いサッカー」を求めたハリルホジッチ監督が、後ろからのパスに強いワントップのストライカーとして最も重用したのが、大迫選手だったからだ その堅守速攻のカウンター志向のサッカーこそは、ハリルホジッチが日本代表の戦術として定着させようとして、最終的に(誰によってなのかは知らないが)拒絶されたところのサッカーでもある。 なんということだろう。 われわれは、追放した人間によって授けられた戦術によって勝利を得たわけだ 真に日本サッカーを愛する愛国サッカーファンは、現状の体制や現状のチームを無条件に応援するよりは、日本サッカーの真の強化のために、協会に苦言を呈することを厭わない人間であるはずだからだ
nice!(2)  コメント(0) 

孤独(SNSに一石投じる 下重暁子さん「孤独とは自分を知ること」、河合 薫氏:「孤独という病」は伝染し 職場を壊す SNSは孤独感を助長する) [人生]

今日は、孤独(SNSに一石投じる 下重暁子さん「孤独とは自分を知ること」、河合 薫氏:「孤独という病」は伝染し 職場を壊す SNSは孤独感を助長する)を取上げよう。

先ずは、6月4日付け日刊ゲンダイ「SNSに一石投じる 下重暁子さん「孤独とは自分を知ること」」を紹介しよう(▽は小見出し、Qは聞き手の質問、Aは下重氏の回答、+は回答内の段落)。なお、下重氏の略歴が最後についている。
・SNSでつながっていないと不安でしょうがない人が増えている。「孤独」を恐れ、群れていなければ、心配でしょうがない。そんな異様な社会に対して、「孤独こそ人生を豊かにする」と一石を投じたのがこの人、エッセイストの下重暁子さんだ。幻冬舎新書の「極上の孤独」は販売2カ月で27万部の大ヒット。孤独とは? 老いとは? 死に方とは? 孤独の達人に聞いた。
Q:「孤独」という言葉に注目し、著書を出したきっかけは何だったのでしょう。
A:昨年ニュースになった「座間9遺体事件」が、筆を執るきっかけのひとつでした。今や、スマホなどを使えば誰とでも簡単につながれる世の中です。事件の被害者の女性たちはSNSを通じて犯人に「死にたい」とメッセージを送りましたが、本当に「死にたい」と思っていた人はいなかったと報じられています。結局、被害者らは「寂しい」と感じて誰かに話を聞いてもらいたかっただけではないでしょうか
Q:「寂しい」、つまり「孤独」ということですよね。
A:「寂しい」というのは単なる感情でしょう。いっときの感情は、ひとりで映画を見に行ったり、好きな物を食べたりすることで解決するかもしれませんよね。「孤独」は覚悟です。独りで自分自身と向き合い、「自分はどんな人間か」と深く考えること。事件の被害者たちは、ネットで知り合っただけの人物に相談する前に、自分と向き合い、自ら知る努力をしたのでしょうか。もっと自分に興味を持たないとダメだと思います。
+誰しも、自らが気付いていない自分を持っているものです。気付いていない自分としっかり向き合い、対話することで、少しずつ「自分がどんな人間か」ということが分かってくる。それができれば、自分自身を大事にすることができます。これが「孤独」です。皆、他人にばかり興味を持ち、スマホなどを通じて広くつながろうとしている。つながりから少しでも疎外されると、「寂しい」と感じるのでしょう。
Q:通勤電車の中でも、皆スマホを凝視しています。多くはSNSでやりとりしている。誰かとつながっていないと心配という風潮です。
A:電車の中の風景は異様ですし、病的ですよ。ネットで何か調べるというのなら分かりますが、やはり皆SNSでやりとりしていますよね。私も「LINE」はやりますけど、友達は一番大事な3人だけです。LINEなどでつながり出したら、数限りなくつながってしまいます。人間がストレスを感じる一番の原因は「人との関係」。付き合いを広げれば広げるほどストレスは増すものです。
▽日本人は個が育たず政府も個を消そうとする
Q:「独居老人」という言葉に象徴されるように、「孤独」には「老い」というテーマが避けられません。著書でも触れられていますが、超高齢化社会への政府の対応をどう評価されますか。
A:国がやることは、まず疑ってみなければいけません。例えば、「3世代同居」を推進する政策です。おじいちゃん、おばあちゃんは孫と一緒に暮らせて幸せで面倒も見てくれるだろう、なんて考えるのはとんでもない。戦前多かった3世代同居がなぜなくなったかというと、あの濃密な人間関係に耐えられなくなったからです。代表的なのは嫁姑関係ですが、それを解消すべく核家族化が進んだ。今さら「元に戻す」というのは理解しがたいですね。
Q:安倍政権は「人生100年時代構想」や「1億総活躍」を掲げ、お年寄りにも生涯学習などを推奨しています。お年寄りも働ける社会を目指すといいますが、看板だけという印象でいまひとつピンときません。
A:ピンとこないというより、そんなことを「お上」から押し付けられる必要はありません。年をとって自ら選択し、学校に行って勉強する。それこそが生涯学習でしょう。国から言われることではありません。
Q:生き方にまで政府が介入している。
A:本当に冗談じゃありませんよ。ただ、日本人もそれに従う「いい国民」なんです。それは、各人の「個」が育っていないからでしょう。政府の側も「個」を消そうとしています。。
Q:生き方にまで政府が介入している。
A:本当に冗談じゃありませんよ。ただ、日本人もそれに従う「いい国民」なんです。それは、各人の「個」が育っていないからでしょう。政府の側も「個」を消そうとしています。
Q:どういうことでしょう。
A:自民党は改憲案で、最も重要な憲法13条に手を付けようとしています。今の条文にある「個人の尊厳」を「人の尊厳」に変えようとしているのです。「個人」とは一人一人違う個性を持った人間のこと。しかし、「人」は大多数のことです。つまり「個人」は必要がなく「人」を家族や組織という集団でまとめたい。そうすれば、政府は簡単に国民に言うことを聞かせることができる。
▽老いるとは個性的になること
Q:結局、今の政府は「お年寄りは働いて下さい」などと言い、財政のことしか考えていないようにみえます。働き続けることが幸せなのか。
A:年寄りほど、時間に余裕があって自分と向き合える人はいませんよ。現役時代は毎日会社に行って仕事をしなければいけませんし、小さい子供の面倒も見なければならない。自分が好きなものは何なのかとじっくり考える暇がなく、仮に見つかっていても実行する時間がなかった。年をとり、豊かな時間を獲得すれば、さまざまなことが実行できる。幸せなことだと思います。
Q:それが「個」を磨くということですね。
A:私は、つれあい(夫)の母親が100歳まで施設にいて、時々見舞いに行っていました。彼女はいつも自室に独りでしたが、多くの他の人は介護士に呼び出され集合すると、お歌を歌わされていた。童謡ですよ。あとは塗り絵です。好きな絵を描かせるなら分かりますが、塗り絵は人が描いたものをなぞるだけ。結局、施設も先ほどの憲法13条の話ではありませんが、「同じ年寄り」をつくりたいのです。その方が管理しやすく、費用もかかりませんから。予算が厳しく効率よく管理したいのでしょうが、年をとるということは「効率」とは無関係になるということでもあるのです
Q:政府も社会保障や介護、医療についてコスト面ばかり話題にする。まるで老人は生きていること自体が「悪」と言わんばかりです。
A:年を重ねるということは、個性的になるということで、ちっとも恥ずかしいことではありません。年金など、若い人に負担をかけてしまうと考える必要もない。しっかりと自分と向き合うことで、最低限の経済的自立と精神的自立をつくり上げることです。人生の最期まで自分らしく自由に生きることができれば、人に迷惑をかけることもありません。
Q:世間では孤独死などが社会問題と捉えられています。「死に方」について、心配している人も多いと思います。
A:それは、心配しても仕方がない面があります。突然、どこかで倒れ、野垂れ死んでしまうかもしれませんから。ただ、その時のために自分の最期の始末をする最低限のお金と、始末をしてくれる人は必要だと思います。
Q:「愛する家族に囲まれて」というのが、「幸せな死に方」と世間では考えられています。
A:私にはつれあいしかいませんし、囲んでくれる多くの家族はいません。野垂れ死んだっていいと思っています。先日、作家の五木寛之さんとも話したのですが、ホームレスのような人の方が豊かな死を迎えられるのではないかなあと。彼らはいつ死が訪れるか分からないという感覚が常にある。死の危険を常に意識するということは、自分の死と向き合っているということ。人間は生まれた時も死ぬ時も独り。当人が満足して死を迎えられるかが重要です。
Q:死に至るまで、自分と向き合う?
A:「死」について扱った海外の映画や書籍の題名が、“無難”な日本語に直されるケースをたびたび見てきました。日本人は死を正面から見ることを避ける傾向にある。怖いのは当たり前ですが、見るべきものは見なきゃいけない。孤独でなければ、直視できません。自分自身と対話できなければ、自分の死なんて分かりませんよ。
▽しもじゅう・あきこ 1936年生まれ。早大教育学部国語国文学科卒業。NHKでアナウンサーとして活躍後、フリーに転身。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。ジャンルはエッセー、評論、ノンフィクションなど。「家族という病」「鋼の女―最後の瞽女・小林ハル」など著書多数。日本ペンクラブ副会長、日本旅行作家協会会長を務める
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/230232/1

次に、健康社会学者の河合 薫氏が6月12日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「孤独という病」は伝染し、職場を壊す SNSは孤独感を助長する」を紹介しよう(▽は小見出し)。
・「孤独」が注目されている。「孤独は皮膚の下に入る」と、オカルトめいたフレーズで、孤独が健康に及ぼす悪影響ついてアチコチで訴えてきた身としては、少々昨今の盛り上がりに戸惑っている。
・ナニを戸惑っているかって? 「投げる方と受ける方」のズレ、だ。 孤独のリスクを訴える側は、孤独と健康、孤独と生産性、といった負の影響を訴える。 だが、孤独はめんどくさい人間関係からの解放でもあるため、「孤独=ゆゆしき問題」と考える人たちが危機を訴えれば訴えるほど、より孤独を肯定的に捉える情報が氾濫する。
・人間は独りで生まれ、独りで死ぬし、孤独をいかに生きるかを知ることは必ずしも悪いことではない。孤独感は取るに足らない瞬間に感じることもあれば、大切な人を失ったときに感じることもある。束の間の孤独感は日常にありふれているので、つい、私たちは「それも人生」と受け入れてしまいがちだ。
・だが、問題になっているのは「孤独という病」だ。 孤独とは「『社会的つながりが十分でない』と感じる主観的感情」で、家族といても、職場にいても、時として堪えがたいほど感じるネガティブな感覚である。
・孤独感を慢性的に感じているとそれが血流や内臓のうねりのごとく体内の深部まで入り込み、心身を蝕んでいく。まさに皮膚の下まで入り込み、心臓病や脳卒中、癌のリスクを高めてしまうのである。
・これまで蓄積されてきた孤独研究の中で「孤独」のプラス面は科学的にはいっさい確認されていない。 孤独研究は、1980年代に孤独を感じている人が倍増しているとの論文が発表されて以降、世界の関心事となった。2005年には、OECD(経済協力開発機構)報告書に初めて「孤独」に関する調査が盛り込まれ、2009年には「孤独は伝染する」との衝撃的な研究結果が発表された(“Alone in the Crowd: The Structure and Spread of Loneliness in a Large Social Network”)。
・孤独は伝染する――。 ふむ。皮膚の下に入る以上におぞましいフレーズである。今や孤独は個人の問題から社会問題へ、さらには組織(職場)問題へとひろがっているのである。 というわけで、今回は「孤独という病」について、アレコレ考えてみようと思う。
・まずは、「孤独は伝染する」との結論に至った研究内容から紹介する。 この論文は2009年に『Journal of Personality and Social Psychology』に掲載されたもので、シカゴ大学のJ.T.カシオポ教授らの研究チームによる分析である。カシオポ教授は、孤独感を軸に社会的ネットワーク研究を行なってきた社会神経学者の大家だ。
・“Alone in the Crowd:The Structure and Spread of Loneliness in a Large Social Network”と題されたこの論文では、マサチューセッツ州フラミンガムを中心に長年にわたって行なわれている健康調査のデータを用い(心身の健康状態、習慣、食事など)、5000人超の住民を60年以上追跡。健康調査に先駆け、参加者には「今後の2年間で自分がどこにいるか把握していると思う友人、親類、近隣者(=社会的ネットワーク)」を挙げてもらっていた情報を基に、「孤独感」の経時的な変化をプロットし、分析したのだ。
▽孤独が伝染するメカニズム
・その結果、「孤独感が伝染している」ことがわかったのである。 伝染のメカニズムはこうだ。 社会的ネットワークの周縁部の人々は友人が少ない。彼らは孤独感を感じていて、不安感が強い。孤独感を抱いている人は「他者をよそよそしい存在」と見がちなので、数少ない友人への不信感も強く、その孤独感と不信感に堪えきれず、残り少ない友人との関係までも断ち切ってしまう傾向が強い。
・関係を断ち切られた友人には、既にその人のネガティブな感情が伝染しているため、その友人もまた孤独感から友人を遮断するという、負のサイクルが連鎖する。その結果、まるで「毛糸のセーターが端からほつれる」ように、社会的ネットワークが段々と縮小し、やがて崩れていくとしたのである。
・そもそも私たちの感情は無意識のうちに他者から伝染している。楽しそうに笑っている人をみて自分も明るい気分になった経験や、悲しい目にあった友人の話を聞き暗い気持ちになった経験は誰しもあるだろう。これは「情動伝染」と呼ばれ、とりわけネガティブな感情ほど伝染しやすい。
・特に物理的に近くにいる人や、実際に顔を見たり声を聞いたりするときほど感情は伝染しやすいため、孤独感を抱いている友人の社会への不信感、鬱々とした気分、悲しみ、不安感が、知らず知らずのうちに伝染してしまうのである。
・先の研究によれば、孤独感の伝染力は、家族よりも友人からの方が強く、男性よりも女性へ広がりやすい。また、数㎞以内に住んでいる近隣者の間で最も伝染することがわかった。 加えてカシオポ教授らは、「孤独感は友人の友人の友人まで伝染する力がある」ことも確認した。「孤独感を持つ友人」がいる人が孤独感を持つ可能性は40~65%で、「孤独感を持つ友人の友人」の場合は14~36%。「友人の友人の友人」の場合では6~24%だという。
・これらの結果を受け、カシオポ教授らは、「孤独感は世界が敵対的だという感覚から始まり、社会的な脅威を警戒するようになる。孤独感を抱いている人は、他の人にネガティブな態度を取ったり自分が所属するコミュニティによそよそしい態度を取りがちになり、増々孤独感を募らせる」 と、いったん孤独の罠にはまると底なし沼のように孤独という病いに引込まれる、と指摘したのである。
・……。「友人の友人の友人」か。孤独感が伝染しやすいことは理解できるが、「友人の友人の友人」まで影響力があるとは、失礼ながら失笑してしまった(すみません)。少々、言い過ぎではないか、と。  実際「友人の友人の友人への伝染」には異論も多く、「そもそも似た者同士が友人になっているだけで伝染しているわけではない」とする意見や、「孤独感を招きやすい環境が影響しているだけ」との見解もある。
・一方、孤独感を抱く→関係を遮断する、という方程式は、個人的には至極納得した。 孤独感を抱いてるときって、なんとなく人が集まる会合などに行きづらいというか、行きたくないっていうか。行ったら行ったで、ますます孤独感が募ることだってある。 孤独感というより、疎外感といった方がいいかもしれない。
・いずれにせよ「孤独は伝染する」ことを追跡研究で具体的な数字にまで落とし込んだこの論文は、世界中の研究者の関心を集め、孤独研究は隆盛を極めることになる。
 +孤独を感じる人は死亡リスクが26%高い +孤独感は抑うつにつながり、自殺願望を増加させる +孤独感は血圧の上昇、ストレスホルモンの増加、免疫力の低下をもたらす +孤独感はアルツハイマー病や睡眠障害につながる +乳がん生存者のうち、孤独感の高い人はそうでない人に比べ再発率リスクが高い +孤独感は一日15本のタバコを吸うのと同等の健康被害をもたらす etc……といった健康問題との関連は複数報じられ、さらには、孤独を感じている社員は、
 +創造性が低い +仕事満足度が低い +パフォーマンスが低い +論理的思考能力の低下 +他者への攻撃性の増加 といった報告が相次ぎ、職場の孤独問題の解決策を模索する試みも進んでいる。
▽人間関係の希薄化が大きな要因
・なぜ、孤独が増えてしまったのか? 人間関係の希薄化が大きな要因であることは間違いない。 職場ではみなパソコンを見つめ、キーボードの音だけが鳴り響く。仕事も膨大なので無駄話をする時間もない。毎日同僚たちと顔を合わせているのに、互いに何を考え、何を悩んでいるのかを語り合う余裕もない。
・それ以上に孤独感を助長するのが、皮肉にもSNSなどの発達である。 そもそも人は類人猿の時代から身体活動を通じて集団を作り生き延びてきた。人が信頼をつなぎ、安心を得るには“共に過ごすこと”が必要不可欠。ところがSNS(交流サイト)の発達で共に過ごさなくてもつながることができるようになった。
・加えて、私たちは孤独を感じているときに、他人のちょっとだけ幸せそうなリアルを垣間みると、ネガティブな感情が高まる。家族と笑顔で映っている写真、同僚たちと楽しそうに飲んでいる写真、SNS上での楽しそうなコメントのやりとり……。いわゆる“リア充”に嫉妬する。 孤独感はポジティブな感情の「情動伝染」を低下させるという、実にやっかいな側面も持ち合わせているのだ。
・孤独は「個人の問題」としてではなく、医療費の増加、うつ病、自殺問題、高齢化社会への警鐘など「社会の問題」に発展し、孤独な働き手が健康を損ねれば、企業の生産性も下がる。 日本ではいまだに「健康は個人の問題」と捉えられているけど、世界的には「健康は社会の問題」とのパラダイムシフトが数年前から定着していて、世界保健機関(WHO)のヨーロッパ事務局は、1998年に「健康の社会的決定要因:確かな事実」を策定。2003年には第2版を公表し、孤独感が社会や組織に及ぼすリスクを積極的に取り上げている。
▽日本は「孤独大国」
・「おい、また海外の話かい?」と口を尖らせている人がいるかもしれないけど、日本は言わずと知れた「孤独大国」である。 2005年のOECDによる調査では、日本の社会的孤立の割合はOECD加盟国の中で最も高かった。友だちや同僚たちと過ごすことが「まれ」あるいは「ない」と答えた人の割合は、男性16.7%、女性14%で、OECD 加盟国21カ国中トップ。平均は6.7%なので、いかに高いかがわかる。
・また、2007年のユニセフによる子どもの幸福度の調査によると、「あなたは孤独を感じることがありますか?」という質問に対して、「孤独である」と回答した子どもは日本では29.8%。他国の5~7%を大幅に上回っていたのである。
・奇しくも先のOECD調査で、平均以下の5%だった英国で今年1月に「孤独担当大臣」が誕生したが、そのきっかけとなったのが「孤独が国家経済に及ぼす影響は年間320億ポンド(約4.9兆円)、雇用主に年間25億ポンドの損失を与える」という科学的エビデンスだ。
・英国では「孤独」を感じている人が国民7人に1人いるとされ、65歳以上の高齢者では、およそ10人に3人が「孤独」を感じながら生活。身体障害者の4人に1人は日常的に「孤独」を感じ、子どもを持つ親たちの4分の1が常に、もしくは、しばしば「孤独」を感じているという。
・そこで英国政府は、社会的弱者への精神的健康へのサポートの強化、孤独な人々がボランティアグループに参加したり近隣の人と関わる機会の提供、孤独対策のための基金の設立、主要な調査研究で活用するための、孤独に関する適切な指標を国家統計局(ONS)が設定するなどの方針を発表。特にNPO団体が数年前から行なっている、高齢者への電話サービスや、自宅訪問サービスには積極的に予算を投入している。
・繰り返すが、孤独は「孤独感」という主観的な感覚であり、経験である。「社会的つながりが十分ではないという主観的な感情」を健康社会学的な文脈で捉えれば、「私はあたたかく信頼できる人間関係を築いている(=積極的他者関係、positive relationship)」という感覚の欠如だ。
▽問題に対処する「心の体力」が低下
・これは「生きる力」を高める感覚のひとつで、「積極的他者関係」の高低は抑うつ傾向、ワークモチベーション、欠勤などと相関関係があり、ストレス対処力とも関係している。社会的動物である人間にとって「積極的他者関係」の欠如は、それ自体がストレスとなる。何らかの問題や困難に遭遇しても「なんとかしよう」と考えることができない。
・私が2006年に調査したときには、積極的な他者関係が欠如している人は、逃避行動をとることが多かった。慢性的に降り続く雨にびしょ濡れになっているため、問題に対処しようという「心の体力」が低下してしまうのだ。
・「孤独」と「つながり」はコインの表と裏ではなく、一本のレールでつながっている。両者が矛盾なく、同時に成り立っていることが健康である。 だが、積極的な他者関係が欠如すると、孤独感だけにひっぱられ、孤独という病いにおかされてしまうのだ。
・今回は「孤独という病」を理解してもらいたくて、取り上げました。「孤独感→周りへの不信感や敵対心→他者関係の遮断→さらなる孤独感→孤立→心身の不調」という孤独の悪循環である。  したがって、その解決策(企業での取り組み、個人の取り組み)はまたの機会に書きます。あしからず。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/061100163/?P=1

第一の記事で、 『誰しも、自らが気付いていない自分を持っているものです。気付いていない自分としっかり向き合い、対話することで、少しずつ「自分がどんな人間か」ということが分かってくる。それができれば、自分自身を大事にすることができます。これが「孤独」です。皆、他人にばかり興味を持ち、スマホなどを通じて広くつながろうとしている。つながりから少しでも疎外されると、「寂しい」と感じるのでしょう』、と「孤独」を自分としての理想的なものと捉えているようだ。 『(安倍政権は「人生100年時代構想」や「1億総活躍」を掲げ、お年寄りにも生涯学習などを推奨しています)・・・そんなことを「お上」から押し付けられる必要はありません。年をとって自ら選択し、学校に行って勉強する。それこそが生涯学習でしょう。国から言われることではありません』、『自民党は改憲案で、最も重要な憲法13条に手を付けようとしています。今の条文にある「個人の尊厳」を「人の尊厳」に変えようとしているのです。「個人」とは一人一人違う個性を持った人間のこと。しかし、「人」は大多数のことです。つまり「個人」は必要がなく「人」を家族や組織という集団でまとめたい。そうすれば、政府は簡単に国民に言うことを聞かせることができる』、との安倍政権批判には強く同意する。 『年を重ねるということは、個性的になるということで、ちっとも恥ずかしいことではありません。年金など、若い人に負担をかけてしまうと考える必要もない。しっかりと自分と向き合うことで、最低限の経済的自立と精神的自立をつくり上げることです。人生の最期まで自分らしく自由に生きることができれば、人に迷惑をかけることもありません』、には若干、元気づけられた気がする。
第二の記事での河合氏の孤独の捉え方は、下重氏とは大きく違っている。『少々昨今の盛り上がりに戸惑っている。 ナニを戸惑っているかって? 「投げる方と受ける方」のズレ、だ』、『問題になっているのは「孤独という病」だ。 孤独とは「『社会的つながりが十分でない』と感じる主観的感情」で、家族といても、職場にいても、時として堪えがたいほど感じるネガティブな感覚である。 孤独感を慢性的に感じているとそれが血流や内臓のうねりのごとく体内の深部まで入り込み、心身を蝕んでいく。まさに皮膚の下まで入り込み、心臓病や脳卒中、癌のリスクを高めてしまうのである』、うーん、さすがだ。『これまで蓄積されてきた孤独研究の中で「孤独」のプラス面は科学的にはいっさい確認されていない』、『孤独が伝染するメカニズム』、 『孤独感を助長するのが、皮肉にもSNSなどの発達』、『日本ではいまだに「健康は個人の問題」と捉えられているけど、世界的には「健康は社会の問題」とのパラダイムシフトが数年前から定着していて、世界保健機関(WHO)のヨーロッパ事務局は、1998年に「健康の社会的決定要因:確かな事実」を策定。2003年には第2版を公表し、孤独感が社会や組織に及ぼすリスクを積極的に取り上げている』、『日本は「孤独大国」』、『孤独感→周りへの不信感や敵対心→他者関係の遮断→さらなる孤独感→孤立→心身の不調」という孤独の悪循環である』、などの指摘は新鮮で説得力がある。私には得るところが大きい読みでのある記事だった。
タグ:孤独 日刊ゲンダイ 日経ビジネスオンライン 河合 薫 (SNSに一石投じる 下重暁子さん「孤独とは自分を知ること」、河合 薫氏:「孤独という病」は伝染し 職場を壊す SNSは孤独感を助長する) 「SNSに一石投じる 下重暁子さん「孤独とは自分を知ること」」 SNSでつながっていないと不安でしょうがない人が増えている 孤独こそ人生を豊かにする 「極上の孤独」 「孤独」は覚悟です。独りで自分自身と向き合い、「自分はどんな人間か」と深く考えること 日本人は個が育たず政府も個を消そうとする 安倍政権は「人生100年時代構想」や「1億総活躍」を掲げ、お年寄りにも生涯学習などを推奨しています そんなことを「お上」から押し付けられる必要はありません。年をとって自ら選択し、学校に行って勉強する。それこそが生涯学習でしょう。国から言われることではありません 自民党は改憲案で、最も重要な憲法13条に手を付けようとしています。今の条文にある「個人の尊厳」を「人の尊厳」に変えようとしているのです 。「個人」とは一人一人違う個性を持った人間のこと。しかし、「人」は大多数のことです。つまり「個人」は必要がなく「人」を家族や組織という集団でまとめたい。そうすれば、政府は簡単に国民に言うことを聞かせることができる 老いるとは個性的になること 「「孤独という病」は伝染し、職場を壊す SNSは孤独感を助長する」 孤独は皮膚の下に入る 「投げる方と受ける方」のズレ 孤独のリスクを訴える側は、孤独と健康、孤独と生産性、といった負の影響を訴える 孤独はめんどくさい人間関係からの解放でもあるため、「孤独=ゆゆしき問題」と考える人たちが危機を訴えれば訴えるほど、より孤独を肯定的に捉える情報が氾濫する 問題になっているのは「孤独という病」だ 孤独感を慢性的に感じているとそれが血流や内臓のうねりのごとく体内の深部まで入り込み、心身を蝕んでいく。まさに皮膚の下まで入り込み、心臓病や脳卒中、癌のリスクを高めてしまうのである これまで蓄積されてきた孤独研究の中で「孤独」のプラス面は科学的にはいっさい確認されていない 今や孤独は個人の問題から社会問題へ、さらには組織(職場)問題へとひろがっているのである 孤独は伝染する シカゴ大学のJ.T.カシオポ教授らの研究チームによる分析 孤独が伝染するメカニズム その結果、まるで「毛糸のセーターが端からほつれる」ように、社会的ネットワークが段々と縮小し、やがて崩れていくとしたのである 孤独感を抱いている友人の社会への不信感、鬱々とした気分、悲しみ、不安感が、知らず知らずのうちに伝染してしまうのである 孤独感を抱く→関係を遮断する、という方程式は、個人的には至極納得 人間関係の希薄化が大きな要因 それ以上に孤独感を助長するのが、皮肉にもSNSなどの発達である 人が信頼をつなぎ、安心を得るには“共に過ごすこと”が必要不可欠。ところがSNS(交流サイト)の発達で共に過ごさなくてもつながることができるようになった 日本は「孤独大国」
nice!(1)  コメント(0)