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メディア(その15)(小田嶋氏2題:「死ぬこと以外かすり傷」ではかなわない、コラボTシャツが越えた一線) [メディア]

メディアについては、5月23日に取上げた。今日は、(その15)(小田嶋氏2題:「死ぬこと以外かすり傷」ではかなわない、コラボTシャツが越えた一線)である。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が5月24日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「死ぬこと以外かすり傷」ではかなわない」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00022/?P=1
・『幻冬舎という出版社の社長が、同社で出版している書籍の実売部数をツイッター上で暴露したことが話題になっている。 この件についての報道やネット上の反応を眺めながらあらためて思ったのは、出版界内部の反応が大きいわりに、世間一般のリアクションが思いのほか冷淡だったことだ。 おそらく、ほか一般の業界で仕事をしている人たちの中には 「出版もまたビジネスである以上、情報を公開するのは当然なのではないか」と考えている人が少なくないのだろう。そして、そう考えている人たちからすると、見城氏が津原泰水氏の前作の実売部数を暴露して揶揄したことに激越な反応をしている出版界の人々の態度は、理解に苦しむところなのかもしれない。 理屈としては理解できる。 21世紀のビジネスの常識で考えれば、商品として市場に出した書籍の情報を、その売り主である出版社の社長が公開したことは、市場主義経済の原則からして、しごく当然な判断に見えるからだ。 逆に言えば、自分たちが扱っている商品の売上高という、もっとも基本的な情報を「秘匿条項」「隠しておくべき常識」「誰にも知らせるべきでない数字」としている出版業界の商習慣ないしは業界体質の方が、どちらかと言えば異例だということでもある。 現在、見城徹氏は、実売部数を暴露したツイートを謝罪の上削除して、今後ツイッターで発言しない旨をアナウンスしている。 もっともこの「謝罪」と「ツイッター封印」に対してはいまなお批判が渦巻いている。 「『誰に』『何を』謝罪しているのかがまったくわからない」「とりあえず謝罪のポーズを示して事態を収拾したいという意図以外のナニモノをも感じ取ることができない」「ツイッター封印も、謝罪とは無縁だな」「むしろ逃亡というのか『姿をくらました』ということでしょ」「酒で失敗した人間が断酒するのとはまるで別で、むしろナイフで人を刺した犯人が凶器のナイフを川に捨てましたみたいな話だよな」 と、いたって評判がよろしくない。 たしかに、見城氏の謝罪ツイートは、実売部数を晒された当事者である津原泰水氏への明確な謝罪の形をとっていない。 ツイッター封印宣言も、昨今話題になっている某政党の「失言防止マニュアル」と似たようなものに見える。 見城氏がツイッターを封印するのは、「思ってもいないこと」をつぶやいてしまうことを防ぎたかったからではない。 「言葉尻をとらえて自分の真意と違う解釈で噛みついてくる有象無象から逃れる」ためでもない。 彼がツイッターを封印したのは、「内心で思っていること」を「うっかりつぶやいてしまうリスク」を恐れたからで、その理由も、結局のところ彼が「内心で思っていること」が、そもそも不見識であったり非常識だったり反社会的だったり無慈悲だったりすることから来ている。 ということは、見城氏がツイッターから撤退したのは、反省の気持ちを表現するためではなくて、むしろ、説明責任を回避する目的だったと見るのが自然だろう』、私も「見城氏が津原泰水氏の前作の実売部数を暴露して揶揄したことに激越な反応をしている出版界の人々の態度は、理解に苦しむ」1人だ。ただ、「見城氏がツイッターから撤退したのは、反省の気持ちを表現するためではなくて、むしろ、説明責任を回避する目的だった」とすれば、見城氏は卑怯だとはいえる。
・『ともあれ、出版まわりでは、見城氏を擁護する立場の人間はほぼ皆無と申し上げて良いかと思う。 どうして、これほどまでに評判が悪いのか。 今回はそこのところについて考えてみたい。 出版事業は、現代の産業に見えて、その実、現場の仕事ぶりは、街のパン屋さんや畳屋さんとそんなに変わらない昔ながらの手作業に支えられている。 一方で、10万部を超える書籍に関して言えば、「濡れ手で粟」ということわざが示唆する通りの利益率をもたらす。 100万部超ということにでもなると、これはもう、よく使われる比喩なのだが「お札を刷ってるみたいなものだ」という次第のものになる。 ということはつまり、出版という仕事は、その構造というのか前提自体がギャンブルなのである。 5000部以下の部数にとどまる大多数の赤字の書籍と、突発的に発生する何十万部のスマッシュヒットというまったく相容れないビジネスモデルが並立しているところに出版という事業の不思議さがある。 この出版界のピラミッドは、全体から見ればごく少数の例外に過ぎない10万部超のベストセラー書籍の売り上げが、何百人という赤字書籍の書き手を養っている構造ということになるのだが、忘れてならないのは、その1000部とか2000部という売れない書籍を制作しながら経験を積んだ書き手の中から、ある日ベストセラー作家が生まれるという形での新陳代謝が業界を活性化させているもう一方の事実だ。 ともあれ、そんなわけなので、編集者の常識も2つの矛盾したプリンシプルを同時に踏まえたものになる。 具体的に言えば、彼らは、10万部・100万部のヒット作を生み出すために、常に売上部数の極大化を目指さなければならない一方で、1000部とか2000部の部数で低迷している著者を大切に育成保護督励称揚し続ける義務を負っているのである。 編集者は、著者をリスペクトしなければならない。 一方で、彼らは、売れない書き手を切り捨てなければならない。 この2つの矛盾した態度を、一人の人間の中で両立させないと一人前の編集者にはなれない。 もちろん、書き手と編集者は、無論のこと2つの別々の独立した人格だ。 が、ひとつの書籍を制作している過程のある時期には、ほとんど一体化することが求められる。 それゆえ、二者のどこまでも複雑かつ微妙な感情を孕んだ関係を取り結ぶことになる』、「5000部以下の部数にとどまる大多数の赤字の書籍と、突発的に発生する何十万部のスマッシュヒットというまったく相容れないビジネスモデルが並立しているところに出版という事業の不思議さがある」、「編集者は、著者をリスペクトしなければならない。 一方で、彼らは、売れない書き手を切り捨てなければならない。 この2つの矛盾した態度を、一人の人間の中で両立させないと一人前の編集者にはなれない」、などというのは初めて知った。編集者は並大抵の人間には無理な「神業」のようだ。
・『以下、私の過去ツイートの中で「編集者」というキーワードを含む書き込みをいくつか抽出してみる。われわれの世界に蔓延するいたたまれない空気を多少とも感じ取っていただけたらありがたい。 《固定電話にかけてくる人々。1.セールス 2.料金の督促 3.慇懃な編集者 4.親戚のご老人 5.間違い電話 6.変態 …まあ、あんまり出たくないですね。》 《原稿を書く人間には「引き伸ばす」「嘘をつく」「放置する」「逃げる」「屁理屈をこねる」といった所行は、著者にのみ許された一種の権利なのだという思い込みがありまして、それを編集者の側から著者に向けて発動されると、やはり茫然とするわけですね。》 《テレビのスポーツ番組の中には、アスリートを単なる「素材」扱いにしている感じのものがたまにあって、たぶん、作ってるヤツはシェフ気取りなんだろうなと思ったりする。それはそれとして、出版の世界で、著者を「手駒」と考えて仕事をする編集者が成功するとは思えない。》 《編集者泣かせと言うが、編集者の主たる職分は泣くことではないのか。》 《鳴かぬなら 私が泣こう 編集者》 《ライターを「時々仕事をまわしてやってる出入りの業者」ぐらいに思っている編集者は実在する。いま言ってるのは「そういう態度をとる編集者」のこと。内心でそう思ってる組はもっと多いはず。まあ、こっちが「時々仕事をまわしてもらっている出入りの業者」であること自体は事実だし。》 《これはあくまでも私の憶測なのだが、メディア企業の社員(編集者とかディレクターとか)は、自分が担当する自由業者(書き手とか出演者とか)の他媒体での仕事をチェックしなくなる。理由は定期的に顔を合わせる現場で気まずくなりたくないから。だからこそ座持ちが良いだけの人間が生き残る。》 《「天才編集者」という言葉をサラリと使ってしまえる編集者のアタマの中では、書き手は素材なのだろうな。おまえらはしょせんじゃがいもで、シェフのオレが味をつけて演出してやってるからはじめて料理になる、と。で、オレらは試験通ったエリートで、お前ら書き手は道具だ、と。上等だよな。ほんと。》 《ライターと編集者の関係では、慣例上、編集者がライターを「先生」と呼んで敬うことになっている。が、その一方で、ライターにとって編集者は、金主であり発注元であり自分の生殺与奪の権を握る全能の人間だったりもする。そんなわけなので、われわれは互いに皮肉を言い合わずにおれない。》 もう一つ厄介なのは、編集者が、ある部分では著者と二人三脚で書籍を制作するクリエイターの側面を備えている点だ。 このため、著者と編集者の間には、ともすると 「ここ、違うんじゃないですか?」「うるせえ。余計なお世話だ」式の緊張感がただようことになる。 これもまた厄介なことだ。 ここまでのところを読んで 「何を甘ったれてやがる」「出版が無から有を生む魔法だとかって、制作側の思い込みに過ぎないんじゃないでしょうか」「編集者は著者をリスペクトすべきだって、どこまで思い上がれば気が済むんだ?」 と思った人はかなりの度合いで正しい』、編集者とライターの関係も極めて微妙なバランスの上に成立しているようだ。
・『実際、出版は、甘えと思い上がりを産業化するための枠組みなのであり、それを実体を伴う事業
として回転させるためには、強固な思い込みが不可欠だからだ。 別の言葉でいえば、出版というのは、思い込みを商品化する過程なのである。 それゆえ、10のうち9つまでが空振りであるのは、この事業の必然というのか、宿命ですらある。 ただ、その10にひとつのヒットが、残りの9つの書き手を食いつながすことで、出版という魔法が成立していることを忘れてはならない。 であるから、仮にも書籍の出版に携わる会社の人間が、自分たちが手がけた書籍の実売部数を世間に晒してその著者を嘲弄することは、自分たちの販売努力を無化しているという点でも、金の卵を生むかもしれない自分たちの産業の宝物である書き手のプライドを傷つけているという意味でも、完全に論外な態度だと申し上げねばならない。 編集者(あるいは出版業者)は、思うように部数のあがらない著者のプライドをこそ命がけで防衛せねばならない。 なんとなれば、売れている書き手のプライドは、部数と収入と世評がおのずと支えてくれるからだ。 売れていない本の書き手は、自分の書いた本が売れていないことに気持ちを腐らせている。自信を失いかけている。生活が荒みはじめているかもしれない。 こういう時、彼または彼女の自尊感情を高めることができるのは、編集者と数少ないファンだけだ。 そして、ここが大切なポイントなのだが、世の中にいる書き手のほとんどすべては、こちら側(つまり売れていない本の著者)に属していて、その彼らの奮起と努力と自信回復なしには、出版という事業は決して立ち行かないものなのである。 私自身、自分の著書の中で10万部以上売れた作品は皆無だ。 それでもなんだかんだ40年近くこの業界で糊口をしのいでこれた理由の半分以上は、適切なタイミングで優秀な編集者にめぐりあうことができたからだと思っている。 入院先の病院から昨今の出版界を概観しつつあらためて思うのは、業界全体のパイの縮小が続く中、良い本を作ることよりも、「マーケティング」や「仕掛け方」にばかり注力する出版人が悪目立ちしていることだ。 今回の事件も、その発端は、売上部数を偽装に近い形で演出しつつ、肝心の内容はあられもない剽窃とコピペに頼っている同じ出版社の書籍をめぐる揉め事から来ている。 当該の書籍の作られ方や訂正のされ方について苦言を呈し続けた書き手の存在が、出版社にとって邪魔だったからこそ、彼は自著の実売部数を晒されるという形で「罰」(あるいは「警告」)を受けなければならなかった。 同じ事件を、出版社の社長の側から見ると、彼は、売れている著者のごきげんを取り結ぶために 「売れていない書き手を邪魔者扱いにする」という、出版業者として絶対にやってはならない所業に及んでしまったわけだ』、「出版というのは、思い込みを商品化する過程」、「10にひとつのヒットが、残りの9つの書き手を食いつながすことで、出版という魔法が成立していることを忘れてはならない」、見城氏は「売れている著者のごきげんを取り結ぶために 「売れていない書き手を邪魔者扱いにする」という、出版業者として絶対にやってはならない所業に及んでしまったわけだ」、なるほど、その通りなのかも知れない。
・『編集者は著者をリスペクトしなければならない。 これは、寿司屋が寿司ネタを足で踏んではいけないのと同じことで、彼らの職業の大前提だ。 しかも、執筆中の書き手は、どうにも扱いづらい困った性格を身に着けている。 私の場合について言えば、原稿を書いている時の私は、自信喪失に陥っていたり自己肥大していたりして、気分が安定していない。しかもそんなふうに自己評価が乱高下している状態でありながら、プライドだけは野放図に高走っていたりする。 こういう人は、編集者がなだめすかして作業に没頭させないと自滅しかねない。 「甘ったれるな」と言う人もあるだろう。 が、さきほども申し上げた通り、出版というのは、甘えと思い上がりを産業化する事業なのであるからして、その中でコンダクターの役割を担う編集者には、ナースや保育士に近い資質が期待されるものなのだ。 聞けば、幻冬舎には 「死ぬこと以外かすり傷」という言葉を自らのキャッチフレーズとして掲げて活動している編集者がいるのだそうだ。 思うに、この言葉は、自分自身を叱咤してエンカレッジする意味もあるのだろうが、実質的には、他人をぞんざいに扱うためのイクスキューズとして機能しているはずだ。 翻訳すれば「殺人以外は軽犯罪」「殺さなければ無問題」てなところだろうか。 こんな態度で編集をされたのではかなわない。 わたくしども書き手は 「かすり傷でも致命傷」「軽んじられたら死んだも同じ」といった感じの不遜な繊細さで世の中を渡っている。 そうでなければ原稿なんか書けない。 奇妙な原稿になってしまった。 こんな調子になってしまった理由は、私がそれだけ怒っているからだと解釈してもらってかまわない』、「編集者には、ナースや保育士に近い資質が期待されるものなのだ」、とすると、「「死ぬこと以外かすり傷」という言葉を自らのキャッチフレーズとして掲げて活動している編集者がいる」幻冬舎は、やがて書き手からソッポを向かれることになるのだろうか。

次に、同じ小田嶋氏が6月14日付けで日経ビジネスオンラインに寄稿した「コラボTシャツが越えた一線」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00026/?P=1
・『昨今、出版の世界から耳を疑うようなニュースが流れてくることが増えた。 新潮社の月刊誌「新潮45」が、LGBTの人々を「生産性がない」という言い方で貶める杉田水脈衆議院議員による極めて差別的な論文を掲載したことで批判を浴びたのは昨年の夏(8月号)のことだった。 批判にこたえるかたちで、「新潮45」の編集部は、10月号の誌面上で、「そんなにおかしいか、『杉田水脈』論文」という特集企画を世に問うた。 全体的に粗雑かつ低劣な記事の並ぶ特集だったが、中でも小川榮太郎氏の手になる記事がひどかった。 「LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう。SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ。」などと、LGBTを世に言う「変態性欲」と意図的に混同した書き方で中傷した氏の文章は、当然のことながらさらなる炎上を呼び、結果として、「新潮45」は廃刊(表向きは「休刊」ということになっている)に追い込まれた。 以上の出来事の一連の経緯を傍観しつつ、私は当連載コーナーの中で、3本の記事をアップしている。 杉田水脈氏と民意の絶望的な関係 「新潮45」はなぜ炎上への道を爆走したのか 「編集」が消えていく世界に  これらの記事は、いずれも、今回、私が俎上に載せるつもりでいる話題と同じ背景を踏まえたものだ。 その「背景」をあえて言語化するなら 「雑誌の断末魔」ということになる。あるいは「出版業の黄昏」でもかまわない。 いずれにせよ、私たちは、20世紀の思想と言論をドライブさせてきたひとつの産業が死に絶えようとするその最期の瞬間に立ち会おうとしている。 お暇のある向きは、上に掲げたリンク先の3本の記事を順次読み返していただきたい。 ついでに、幻冬舎の見城徹社長が、同社から発売されている「日本国紀」(百田尚樹著)の記述の中にある剽窃をめぐって、同社で文庫を発売する予定になっていた津原泰水氏を中傷し、氏の前作の実売部数を暴露した問題について考察したつい半月ほど前の原稿にも、目を通しておいていただくとありがたい。 どちらの事件も、登場人物の振る舞い方や処理のされ方こそ若干違っているものの、「出版の危機」がもたらした異常事態である点に関しては区別がつかないほどよく似ている』、「「出版の危機」がもたらした異常事態」というのは、その通りなのだろう。
・『なんというのか 「貧すれば鈍する」という、身も蓋もない格言が暗示しているところそのままだと申し上げてよい。 あるいは今回取り上げるつもりでいる話題も、「貧すれば鈍する」というこの7文字で論評すれば、それで事足りる話なのかもしれない。 たしかに、業界の外の人間にとっては 「しみったれた話ですね」という以上の感慨は浮かばないのかもしれない。 なんともさびしいことだ。 話題というのは、講談社が発売している女性ファッション誌「ViVi」のウェブ版が、自民党とコラボレーションした広告企画記事を掲載した事件だ。 「ハフポスト」の記事によれば経緯はこうだ。 《講談社の女性向けファッション誌「ViVi」のウェブ版が、自民党とコラボしたことが話題となっている。 「ViVi」は6月10日、公式Twitterで「みんなはどんな世の中にしたい?」と投稿。「#自民党2019」「#メッセージTシャツプレゼント」の2つのハッシュタグをつけて自分の気持ちをつけて投稿するキャンペーンを発表した。 計13人に、同誌の女性モデルら9人による政治へのメッセージが描かれたオリジナルTシャツが当たるという。─略─》 私がこのコラボ広告記事の企画から得た第一印象は、「あさましさ」だった。 これまで、雑誌や新聞が政党や宗教団体の広告を掲載した例がないわけではない。 というよりも、選挙が近づくと、各政党はあたりまえのように広告を打つ。これは、政党と広告に関する法規制が緩和されて以来の日常の風景だ。 であるから、私自身「政党が広告を打つのは邪道だ」と言うつもりはない。 逆に「雑誌が政党の広告を乗せるのは堕落だ」と主張するつもりもない。 ただ、今回の「コラボ・メッセージつきTシャツプレゼント企画」に関して言えば、「一線を越えている」と思っている。 具体的に言えば 「政党が雑誌購読者に告知しているのが、党の政策や主張ではなくて、Tシャツのプレゼントであること」が、うっかりすると有権者への直接の利益ないしは利便の供与に当たるように見えることと、もうひとつは、「今回のぶっちゃけたばら撒きコラボ広告は、ほんのパイロットテスト企画で、自民党の真の狙いは、参院選後の憲法改正を問う国民投票に向けたなりふりかまわない巨大広告プロジェクトなんではなかろうか」という個人的な邪推だ。 「なんか、駅前でティッシュ配ってるカラオケ屋みたいなやり口だな」「オレはガキの頃おまけのプラスチック製金メダルが欲しくてふりかけを1ダース買ったぞ」「そういえば、シャッター商店街の空き店舗で電位治療器だとかを売りつけるSF商法の連中は、路上を行く高齢者に卵だのプロセスチーズだのをタダで配っていたりするな」 さて、自社の雑誌に自民党とのコラボレーションによる広告企画記事を掲載したことについて、「ViVi」を制作・販売している講談社は、以下のようにBuzzFeed Newsへの取材に対してコメントしている。 《このたびの自民党との広告企画につきましては、ViViの読者世代のような若い女性が現代の社会的な関心事について自由な意見を表明する場を提供したいと考えました。政治的な背景や意図はまったくございません。読者の皆様から寄せられておりますご意見は、今後の編集活動に生かしてまいりたいと思います。》 このコメントには、正直あきれた』、「「今回のぶっちゃけたばら撒きコラボ広告は、ほんのパイロットテスト企画で、自民党の真の狙いは、参院選後の憲法改正を問う国民投票に向けたなりふりかまわない巨大広告プロジェクトなんではなかろうか」、というのは案外、正鵠を突いているのかも知れないが、事実とすれば恐ろしいことだ。
・『言葉を扱うことの専門家であるはずの出版社の人間が、政党の広告を掲載することに「政治的な」「意図」や「背景」がないなどと、どうしてそんな白々しい言葉を公の場で発信することができるのだろう。 羞恥心か自己省察のいずれかが欠けているのでなければ、こんな愚かな妄言は吐けないはずだと思うのだが、あるいは出版社の台所事情は、自分にウソをついてまでなりふりかまわずに広告収入を拾いにかからねばならないほど危機的な水準に到達しているのだろうか。 仮に講談社の人間が 「わたくしどもが発行している雑誌に特定の政党の広告を掲載する以上、政治的な意味が生じることは当然意識していますし、われわれが政治的な意味での責任を負うべきであることも自覚しています。ただ、それでもなお、社会に向かって開かれた思想と多様な言論を供給する雑誌という媒体を制作する人間として、われわれは、政治に関連する記事や広告を排除しない態度を選択いたしました。」 とでも言ったのなら、賛否はともかく、彼らの言わんとするところは理解できたと思う。 が、彼らは、政党の広告に政治的な背景があることすら認めようとしない。 これは、酒を飲んで運転したドライバーが 「このたびの運転に際して、私は2リットルほどのビールを摂取いたしましたが、あくまで会社員の付き合いとして嚥下したものでありまして、飲酒の意図やアルコール依存症的な背景は一切ございません。警察署の皆様から寄せられておりますご意見は、今後のビール摂取と自動車運転の参考に生かしてまいりたいと思います。」 と言ったに等しいバカな弁解で、たぶんおまわりさんとて相手にはしないだろう』、講談社のコメントに対して、「酒を飲んで運転したドライバー」の言い訳を対比させるとは、さすがだ。
・『もうひとつ私が驚愕しているのは、今回の自民党&講談社のコラボ広告企画を、不可思議な方向から擁護する意見が湧き上がってきていることだ。 ハフポストがこんな記事を配信している。 この記事の中で東京工業大学准教授の西田亮介氏は、 1.責められるべきは、自民ではなく「多様性の欠如」 2.公教育では身につかない政治リテラシー 3.政治を語ることをタブー視してはいけない という3つの論点から、自民党によるこのたびのコラボ広告出稿を 「よくできている」「自分たちの政治理念を政治に興味がない人たちに広く訴求したい、若者や無党派層を取り込みたい、とあれこれ手法を凝らすのは、政党として当然です」と評価し、むしろ問題なのは、自民党以外の政党が自民党の独走を許している状況であると説明している。 さらに氏は、結論として、政党広告への法規制が解除されている現状を踏まえるなら、政党に限らず、雑誌をはじめとするメディアやわれわれ有権者も含めて、もっと政治についてオープンに語る風土を作っていかなければならないという主旨の話を述べている。 この記事の中で西田氏が述べている論点は、ひとつひとつの話としては、いちいちもっともだと思う』、なるほど。
・『ただ、個々の論点がそれぞれに説得力を持っているのだとしても、それらの結論は、今回の自民党と講談社によるコラボ広告企画が投げかけている問題への説明としては焦点がズレている。 というよりも、私の目には、西田氏が、今回の問題から人々の目をそらすために、政治と広報に関する角度の違う分析を持ち出してきたように見える。 あるいは、私が西田氏のような若い世代の論客の話を、かなり高い確率でうまく理解できずにいるのは、「競争」という言葉の受け止め方が、違っているからなのかもしれない。 私のような旧世代の人間から見ると、21世紀になってから登場した若い論客は、「競争」を半ば無条件に「進歩のための条件」「ブラッシュアップのためのエクササイズ」「組織が自らを若返らせるための必須の課題」「社会を賦活させるための標準活動」ととらえているように見える。 もちろん、健全な市場の中で適正なルールの範囲内において展開される競争は、参加者に不断の自己改革を促すのだろう。 ただ、私はそれでもなお「競争」には、ネガティブな面があることを無視することができない。 たとえば、政治に関する競争について言うなら、政策の是非を競い、掲げる理想の高さを争い、政治活動のリアルな実践を比べ合っている限りにおいて、「競争」には、積極的な意味があるのだ、と私は思っている。だからこそ、政党や政治家は、もっぱら「政治」というあらかじめ限定されたフィールドの中で互いの志と行動を競っている。 ところが、広報戦略の優劣を競い、民心をつかむ技術の巧拙を争うということになると、話のスジは若干違ってくる。 その政治宣伝における競争の勝者が、政治的な勝利を収めることが、果たして政治的に正しい結末なのかどうかは、大いに疑問だ。 さらに、政治家なり政党が、雑誌広告の出稿量や、メディアへの資金投入量や、広告代理店を思うままに動かす手練手管の多彩さを競わなければならないのだとすると、その種の「競争」は、むしろ「政治」を劣化させる原因になるはずだ。 より多額な資金を持った者、より多様なチャンネルを通じて商業メディアを屈服させる手練手管を身につけている者、あるいは、より恥知らずだったり悪賢かったりする側の競争者が勝利を収めることになるのだとすると、「政治」は、カネと権力による勝利を後押しするだけの手続きになってしまうだろう』、最後の部分は、説得力に溢れ、その通りだ。西田氏の主張は、新自由主義者らしく単純化され過ぎているようだ。
・『「条件は同じなのだから、野党も同じように工夫して広告を通じたアピール競争に参戦すればよい」「より優れた政党広告を制作し、より洗練された戦略で自分たちの存在感を告知し得た側が勝利するのであるから、これほど分かりやすい競争はない」 と、「市場」と「競争」がもたらす福音を無邪気に信奉する向きの人々は、わりと簡単に弱肉強食を肯定しにかかる。 私の目には、彼ら「競争万能論者」が「弱者踏み潰し肯定論者」そのものに見える』、競争が同一の条件下で行われるのならまだしも、広告費を湯水のように使える自民党と、野党とでは、初めから競争条件には著しい相違があり、これでは競争の結果は初めから決まっている。
・『彼らは、自分たちが負ける側にまわる可能性を考えていない。 あるいは、誰であれ人間が必ず年を取って、いずれ社会のお荷物になる事実を直視していないのかもしれない。 ともあれ、自分が弱っている時、「勝者のみが報われるレギュレーションが社会の進歩を促すのです」式の立論は、まるで役に立たない。 対象が「政治」でなく、これが、一般の商品なら、優れた広告戦略を打ち出した企業が勝つ前提は、たいした不都合をもたらさない。 実際、わたくしどもが暮らしているこの資本主義商品市場では、スマッシュヒットを飛ばすのは、必ずしも歌の巧い歌手ではなくて、より大きな芸能事務所に所属して、より強烈な販促キャンペーンの中で一押しにされている歌手だったりする。 クルマでも即席麺でも事情は同じで、現代の商品は、商品力とは別に、なによりもまず優れたマーケティングと広告戦略の力で顧客の心をつかまなければならない。 ただし、政治の世界の競争は、商品市場における商品の販売競争と同じであって良いものではない。 政党ないし政治家は、議会における言論や、議員としての政治活動を競うことで互いを切磋琢磨するものだ。あるいは、政府委員としての住民サービスの成果を競うのでも良い。 政党なり政治家が、マーケティング戦略や広告出稿量の分野で「競争」することで、政治的に向上するのかというと、私はむしろ堕落するはずだと思っている。 出版も同じだ。 販売部数を競い、売上高で勝負しているのであれば、たいした間違いは起こらない。 読者に媚びるケースも発生するだろうし、流行に色目を使ったり、二匹目のドジョウを狙いに行って自分たちのオリジナリティーを捨てたりするような悲劇が起こることもある。 ただ、広告収入にもたれかかるようになると、点滴栄養で生きながらえる病人と同じく、後戻りがきかなくなる。 オリンピックと憲法改正を睨んで、出版業界の目の前には、巨大な広告収入がぶら下がっている。 編集部の人間には、美味しく見えるエサには、釣り針がついていることを思い出してほしい。 まあ、ウジ虫がおいしそうに見えている時点ですでに負け戦なのかもしれないわけだが』、「政党なり政治家が、マーケティング戦略や広告出稿量の分野で「競争」することで、政治的に向上するのかというと、私はむしろ堕落するはずだと思っている」、というのはその通りだ。「オリンピックと憲法改正を睨んで、出版業界の目の前には、巨大な広告収入がぶら下がっている。 編集部の人間には、美味しく見えるエサには、釣り針がついていることを思い出してほしい」、は冴えた締めで、さすがだ。 
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