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コミュニケーション(河合 薫氏:グリコ「こぺ」炎上で露呈するコミュ力“総低下社会”、小田嶋 隆氏:ジョークがスベることの意味) [社会]

今日は、コミュニケーション(河合 薫氏:グリコ「こぺ」炎上で露呈するコミュ力“総低下社会”、小田嶋 隆氏:ジョークがスベることの意味)を取上げよう。

先ずは、健康社会学者(Ph.D.)の河合 薫氏が3月5日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「グリコ「こぺ」炎上で露呈するコミュ力“総低下社会”」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00118/00012/?P=1
・『「うちの会社には“解釈会議”っていうのがあるんですよ(笑)」 「カイシャクカイギ? ですか?」「そうです。社長が会議で言ったことを、終わったあとで“解釈”して部下に伝えるの」「なるほど。社長が言ったことが部下には伝わらないんですね!(笑)」「あ、それならうちにもありますよ。でも、後じゃなく前。会議の前日に『明日、こう言ってきたとこは、こうこうこういう意味だからな』って(笑)」「みなさん、大変ですね」「(一同笑)はい、大変です」 いつのことだったか忘れてしまったけれど、社長の言葉を翻訳する“解釈会議”ネタで中間管理職の人たちと盛り上がったことがあった。 まぁ、社長さんに限らず上の指示が部下に伝わらないのは日常茶飯事だし、何人もの社長さんたちから「どうやったら話が上手く伝わるのか?」と度々質問されていたので、「忖度上手の管理職が解釈して伝えてくれれば願ったり叶ったりだわ」などと、彼らの話にホッコリした気分にもなった』、「社長の言葉を」、自分たちの部署に即した形に「翻訳する」のは「中間管理職」の重要な仕事だ。
・『が、上司と部下なら許される“解釈”が、女性と男性の間だと、場合によっては「NG」らしい。 先日、またもや企業のキャンペーンサイトが炎上し、取り下げるという事態が起こった。“燃えた”のは江崎グリコ。同社が2月6日に夫婦間の子育てコミュニケーションアプリ「こぺ」をスタートしたことを記念し、19日「パパのためのママ語翻訳コースター」というコンテンツを公式サイト上で発表したところ、“こぺ燃”してしまったのである。 「パパとママのコミュニケーションがうまくいくコツを、おしえて!こぺ!」というタイトルがつけられたページには、「すれちがいのストレスを減らすには、まず、パパとママの脳のちがいを知ることから」とし、男性脳と女性脳の違いによりコミュニケーションのすれ違いが起こるという趣旨を説明。で、具体的に「妻の言葉を“翻訳”」した8つの事例を紹介したのだ。 たとえば、「一緒にいる意味ないよね?」→「私のこと、どう思ってるのかな?」 「もういい!(ピッ!電話を切る)」→「ほんとは甘えたいの」 「好きにすれば?」→「それをやったら、もう知らないから!」 「わかってない」→「正論はもとめてない」 「仕事と家庭どっちが大事なの?」→「私は何より家庭を優先してるのに、あなたは仕事ばかりなのが寂しいわ……」 などなど。 これに対し、「女性をバカにしてる!」「全く翻訳が適切ではない」「『女性に対しては共感だけすればいい』と思っているのか」「同じ言語を話しているのに翻訳するって失礼にもほどがある!」などなど批判が殺到し、23日に公開を終了したのである』、「8つの事例」には首を傾げるようなものもあるとはいえ、全体としては面白いと思ったので、「批判が殺到し、23日に公開を終了」したのは残念だ。まあ、女性からみたら、許せないのだろう。
・『コミュニケーションは「受け手」次第という“不条理”  一応サイトには、「掲載する情報には充分に注意を払っていますが、その内容について保証するものではありません」という但し書きがあり、監修した専門家・黒川伊保子氏の名前も併記したが、怒るのが仕事になってるご時世、いや失礼、「批判の共有が容易な今のご時世」では、受け入れてもらえなかったということなのだろう。 ……というか、おそらく私がこうやって書いただけで、「オマエは夫婦関係に真剣に悩んでる人たちの気持ちがわからんのか!」だの、「アンタはいつも差別するな~だの、男も女も違いはないだの言ってるじゃないか! なのにグリコのことは責めないのか!」だの、批判スイッチがオンになった人もいるに違いない。 なので、ここまで書きながらも「このネタやめといたほうがよかったかも」と若干怯んでいる。 でも、もう書き始めてしまったので批判を恐れずに言わせてもらうと、「まぁ、そんなに怒らずにさ、笑い飛ばせばいいのに」というのが率直な見解である。 ふむ。ひょっとして「翻訳」ではなく、「解釈」くらいにとどめておけば良かったのだろうか。あるいは「ママの言葉」ではなく、「パパの言葉」を翻訳したら、「ウケる~~」と好意的に受け入れてもらえたのかも、などと思ったりもする。 黒川氏の過去の著書には「男性のトリセツ」なる章があり、 +「そのバッグいつ買ったの?」と聞かれたら、「前からあったじゃん」で事なきを得る +目的と任務さえ押さえてあげれば、男性脳は応用が利く +不満があったら、率直に言えばいい +会話を「なんでわかってくれないの?」から始めないのがコツ といった具合に、案外役立つかもしれないことも記されている。 まぁ、これでも批判する人は批判するのだろうけど、数年前に「イケメンに職場活性効果アリ」というアンケート結果が公表されたときにはたいした問題にはならなかった。イケメンを美人に置き換えて男性を対象にアンケートしたら「セクハラ」と大バッシングされるだろうに、良い意味でも悪い意味でも、世の中が「女性オリエンティッド」であるのはまぎれもない事実なのである。 いずれにせよ、男女間に限らず、「コミュニケーション」は永遠のテーマ。 自分の言いたいこと、思っていることを、相手に100%伝えることなどそもそも不可能だ。コミュニケーションを「言葉のキャッチボール」と例えるように、その主導権は「伝え手」ではなく「受け手(キャッチ)」にある。発せられた言葉が持つ意味は、その言葉を受けとった人に、ある種「勝手に」決められてしまうからだ。 同じ“言語”を使っていても気持ちや意図が伝わらない場合は往々にしてあるし、「コンテクスト(文脈)」=「前後の話の流れの中で、どういう位置づけでその言葉を発しているか」によっても、言葉に込めた意味は変わる。 であるからして、言葉の「字面」や「断片」を追いながら「伝え手」を一方的に批判することは、「コミュニケーション」の視点から捉えれば、あまりよろしきことではない。相手の伝え方がちょっと稚拙なだけだったり、自分の受け方に誤解や偏りがあったりする可能性も、ゼロとは言えないからだ。 コミュニケーションは、アクションを起こす「伝え手」ではなく「受け手」に主導権があり、うまくいくもいかないも、かなりの部分が「受け手」次第というのがいかにも“不条理”。グリコさんの肩を持つわけではないけれど、炎上したコンテンツの裏には、「その不条理さに苦しむパパやママたちを、ちょっとだけでも助けたい」という思いがあったのではないか。 確かに、コンテンツの内容に女性蔑視的な視点が感じられるという批判については、うなずける部分はある。ただ、基本的な「コンテクスト」は、パパとママに仲良くやってほしい――という思いだ。それに、現実的には、サイトで紹介されたやり取りでうまくいく場合も少なからずありそうな気がする。であれば、そんなに怒らなくても……と感じるわけで。「世界平和でいこうぜ!」などと思ってしまうのだ』、河合氏の受け止め方が私のに近いのに驚かされた。「コミュニケーションは、アクションを起こす「伝え手」ではなく「受け手」に主導権があり、うまくいくもいかないも、かなりの部分が「受け手」次第というのがいかにも“不条理”」、というのはその通りだろう。
・『「男脳」「女脳」の真偽  実際、私は今回のサイトの翻訳をみたとき「へ~、そういう受け止め方もあるんだ」とえらく感心したし、女性部下とのコミュニケーションに悩む男性上司のヒントになったかもしれないと感じた。 「個人差はあるにせよ、男の部下ならこれくらい言っても大丈夫だろうと思えるんですけど、女性の部下だと全くイメージがつかめなくて」と、長年男性部下だけと接してきた男性上司たちは、女性たちが想像する以上に女性部下に気遣っている。それを女性たちに話すと、「だったら直接聞いてほしい」(あれ? これ「男性トリセツ」と同じだ!笑)と答えるが、男性上司は直接聞くのもためらいがち。「セクハラになりやしないかと……」という懸念をぬぐいきれず、ビビってしまうのである。 と、またここで「別に男性の肩を持っているわけではありませんけどね」と念を押しとかないと、「河合薫は女の敵だ!」だの、「男にすり寄っている」だの批判されかねない。嗚呼、なんと難しい世の中なのだろう。 「掲載する情報には充分に注意を払っていますが、その内容について保証するものではありません」ならぬ、「掲載するコラムには充分に注意を払っていますが、その内容については、あくまでも河合薫の個人的見解であり、万人に共通することを保証するものではありません」と注釈を入れた方がいいのかもしれない。 話がちょっと横にそれた(笑)。今回の炎上騒動に話を戻すと、コンテンツの前提が「男性脳と女性脳の違いによりコミュニケーションのすれ違いが起こる」となっていた点が、ことをよりややこしくした気がしている。 研究者の端くれとして念のため言っておくと、以前、「男らしい!順大不正入試「女子コミュ力高い」論」でも書いたように、近年、脳の男女差を否定する調査結果が相次いでいる。 脳科学研究が始まった頃は「脳梁が男性より太い女性は、男性に比べ、自分自身の感情を素早く言語化できる」とされていたが、その後、男女の脳にはいくつか異なる特徴は認められるものの統計的な分析をすると有意差はない――というのが定説になりつつある。「男脳・女脳」と、あたかも性差があるように印象づけるのは言い過ぎである。 とはいえ、世間は「神経神話」が大好き。「右脳・左脳」「脳に重要なすべては3歳までに決定される」「我々は脳の10%しか利用していない」といった話も、実は、科学的根拠は極めて乏しい。なのに人はそれを信じ、納得し、拡大解釈する。特に「男性と女性の性差」にまつわる問題は、どんなに研究者が否定したところで、人は「わずかな異なる部分」に無意識に反応する。でもって「やっぱりそんなんだよなぁ〜」とドラマチックに受け止められてしまうのだ。 世界的な大ベストセラー『Why Men Don't Listen and Women Can't Read Maps 』(邦題『話を聞かない男、地図が読めない女-男脳・女脳が「謎」を解く』)には遺伝子で性差を語る記述がいくつもあるが、これも実際には非科学的。遺伝子と環境との相互作用のメカニズムに関する研究が蓄積されて分かったのは、その複雑さだ。「影響はあるけど遺伝子がすべてを決めるわけではない」のである』、「男脳」「女脳」の違いは「科学的根拠は極めて乏しい」ようだが、ホルモンには男女差が明確にあるので、気分などの感情には影響がありそうな気もする。
・『「男と女の違い」というより「個人差」  そもそも「男と女の違い」に関心が高まるようになったのは、100年以上前の19世紀後半に遡る。それまでは男女にみられる能力・役割・特性の違いは自明の理とされ、研究対象にもならなかった。 ところがダーウィンが提唱した「性淘汰」説がきっかけで男女差への関心が高まる一方で、産業革命により産業界や経済界に女性が進出。「男性と同じレベルに女性はあるのか?」という、ある種「女性を差別あるいは区別」するための検証作業が進められたのである。 とりわけ男女間の行動・心理特性をテーマにした研究は多く行われ、「女性は感情的」「女性は自尊心が低い」「男性は攻撃性が強い」「女性は協調性が高い」などの説が続々と発表された。 が、世界中の研究者たちが「男女の違い」を説明するために行ってきた数多くの心理社会学的研究の神髄は、「男女差がいかに社会的状況に左右され、いかにさまざまな要因の科学反応によって出現しているか」を明らかにした点にある。 つまり、男女差より個人差の方がはるかに顕著。様々な調整要因を加味して分析すると、男女差の統計的な有意差が認められなくなったり、男女差の傾向が逆転したり……。「男と女の違い」というより「個人差」の問題に行き着くのである。 当たり前といえば当たり前なのだけど、人は視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚という五感から、莫大な情報を入手しても、そのうちのわずか一部しか処理できない。なので無意識にパターン化したり、自分が気になっている部分にのみ反応したり、経験と照らし合わせて判断する。これは人が人である以上、絶対に避けることのできないプロセスである。 だからこそ、心理的な男女の違いを書いた『Men Are from Mars, Women Are from Venus(邦題:ベスト・パートナーになるために―男は火星から、女は金星からやってきた)』(1992年発刊)は世界的ベストセラーになったわけで。邦訳版は、男女の性愛を描いた『愛のコリーダ』の製作で知られる大島渚監督の翻訳で出版されたが、大島監督は「この本は私の長い経験で得てきた知見と根本的なところで一致している」と、長年数々のメディアで「男女の恋愛相談」を受けてきた経験を踏まえ大絶賛したのである』、「数多くの心理社会学的研究の神髄は・・・男女差より個人差の方がはるかに顕著」、ホルモンに男女差はあっても行動・心理特性にはどうも表れないらしい。
・『冗長性と、ともに過ごす時間の欠落  さて、話をコミュニケーションに戻そう。 これまで触れてきたように、脳に有意な「男女差」はないが、コミュニケーションスタイルには、環境や経験の違いに起因するある程度の「男女差」がある。また、男女関係なく、コミュニケーションの主導権は「受け手」にあり、「伝え手」以上に「受け手」の“巧拙”にその質が左右される。だからこそ、コミュニケーション不全はいつでも、どこでも起こり、様々な問題の原因になる。 つまり、思い通りにいかないのが当たり前。なのに昨今は、ちょっとお気に召さないと激しく批判し、同調者が一気に参集して“延焼”につながる。その過剰反応は、ちょっとばかり異常だ。 一体、なぜこうなるのか? もちろん、原因を一つに求めるのは難しい。しかしながら、あくまで私見だが、「冗長性(redundancy)」を伴うコミュニケーションが減ったことが原因の1つではあるまいか。 冗長性とは、会話における無駄。相づち、間、話の脱線、無駄話などのこと。 人は、冗長性があることで、自分の解釈の誤りに気づいたり、相手の話に共感したりするチャンスを得る。ときには、抜け落ちた言葉や、語られなかった隙間が、相手の想像力を喚起させる効果もある。適度な冗長性は、コミュニケーションをする者の間に生じる様々な溝を埋める役割を果たすが、その前提として、“共に過ごす時間”が不可欠なのである。 論理的に、効率的に、短時間で話そうとすればするほど、冗長性も共に過ごす時間も失われることになる。また、SNS上のコミュニケーションでは、冗長性は必然的に落ちる。コンテクストも感じにくいし、対面でないだけに、感じる努力の必要度も下がる。 うまくいかないのが大前提である他者とのコミュニケーションにおいて、うまくいくための冗長性を強奪されているのが現代社会といっても過言ではないのである。 ……なんてことを書くと、「ダラダラ話す人は何言ってるかわからないからコミュニケーションできないじゃないか!」だの、「結論が飛躍すぎだろう!」だの、またまたご批判をいただきそうだが。 嗚呼、ホントにコミュニケーションは永遠のテーマであり、男と女の問題も永遠のテーマ。私の場合、原稿の執筆も永遠のテーマ???「冗長性だらけのコラム」が、皆さんにうまく“解釈”されることを信じつつ……』、「コミュニケーションスタイルには、環境や経験の違いに起因するある程度の「男女差」がある」、というので漸く納得した。ただ、ホルモンではなく、「環境や経験の違い」によるようだが・・・。「コミュニケーション不全」が「「冗長性」を伴うコミュニケーションが減ったことが原因の1つではあるまいか」、というのはその通りなのかも知れない。組織論でも、組織の安定のためには「冗長性」が必要と、昔習った記憶がある。一見、無駄に思えても、効用があるようだ。

次に、コラムニストの小田嶋 隆氏が7月5日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「ジョークがスベることの意味」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00029/?P=1
・『6月28日に開催された主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)の夕食会のあいさつのなかで、安倍首相は、大阪城へのエレベーター設置を「大きなミス」という言葉で表現した。 無論のこと、この部分は、スピーチの末尾に配置したお定まりのジョークに過ぎない。 が、結果を振り返るなら、このエレベーターに関するくだりは、会場に困惑をもたらしたのみで、ジョークとしては成功しなかった。 夕食会にはいたたまれない空気が流れ、テーブルでスピーチを聴いていた首脳の多くは、高層エレベーターに乗った時に味わうあの耳閉感に似た感覚に苦しめられた。 同時に、このこと(首相のジョークがスベったこと)は、わたくしども日本人の民族的自尊心をかなり致命的な次元で傷つけた。 「ああ、オレたちはまだまだだ」「とてもじゃないが、外人さんの集まるパーティーになんか出られない」と、英語が不得手なこともあって、私もまた、あの場面にはわがことのようなダメージを受けた。 今回は、ジョークがスベることの意味について考察したい。 安倍さんを責めたいのではない。 先に結論を述べておけば、私は、今回の安倍首相のスピーチは、見事な成功ではなかったものの、全体としては、必要な失敗だったと思っている。その意味では壮挙だった。 国際舞台に立たされた日本人が、うまいジョークを言えるようになれるのであれば、それに越したことはない。 しかしながら、日本人による国際ジョークの発信という難事業は、申すまでもないことだが、一朝一夕に達成できるミッションではない。 可能であるにしても、この先、最低でも50年の下積みは覚悟せねばならない。 サッカー男子の日本代表がW杯で優勝するのが先か、うちの国のリーダーが国際舞台で世界中のメディア視聴者から爆笑をとるのが先かと問われれば、私はまだしもサッカーの方が有望だと思っている。 受けるジョークを言う前に、まず、私たちは、ジョークがスベった事態に慣れなければならない。 紳士淑女をうっとりさせるシャレたジョークをカマせるようになるためには、まずたくさんスベって、上手に受け身を取れるようになっておく必要がある。そういうことだ。 ジョークは、サッカーにおけるパスと同じで、出し手と受け手の間にあらかじめの合意が形成されていないと成功しない。 その点で、わたくしども日本人は不利な立場にある。 というのも、国際社会では 「ニッポン人がジョークなんか言うはずがない」というコンセンサスが、牢固として共有されているからだ』、「(首相のジョークがスベったこと)は、わたくしども日本人の民族的自尊心をかなり致命的な次元で傷つけた」、というのは「民族的自尊心」などと無縁のクールな小田嶋氏らしからぬ表現だ。ジョークは、「わたくしども日本人は不利な立場にある」、というのはその通りだ。
・『逆にいえば、典型的なジョークが笑いをもたらすためには、オーディエンスの間に、「そろそろいつものジョークが来るぞ」という期待感が醸成されている必要があるわけで、その、排他共有制御の原則で運営されているジョーク共同体に、われら日本人は招待されていないわけなのである。 パスの受け手が、敵方ディフェンダーより一瞬早くスペースに向かって動き出していることがスルーパス成功の前提条件であるのと同じことで、一見、意表を突いているように見えるジョークも、実は、発信に先立って敏感な聴衆が予測することで成立している。 その意味で、通訳経由で時差を伴って披露されるジョークは、すでにして不利だ。 というのも、ジョークの生命である「タイミング」がすでにして死んでいるからだ。 のみならず、ジョーク発信者の側が、聴衆のレスポンスに応える段階では、2倍の時差が発生している。 これでは、鮮度が命のジョークが、3日遅れの刺し身になってしまう。 とてもじゃないが食えたものではない。 思うに、安倍首相のあの日のスピーチの動画を視聴して、「共感性羞恥」を味わった日本人の数は、何十万人ではきかない。 「共感性羞恥」について、簡単に解説しておく。 これは、しばらく前にテレビのトーク番組の中で紹介されたことで、広く認知されるようになった言葉で、意味するところは、「共感力の豊かな人が、自分とは無関係な誰かが人前で恥をかく場面にダメージを受ける現象」のことらしい。 ネガティブなイメージが強烈な迫真力をもって脳内に展開されるタイプの人間にとって、自分とは無縁な他人であっても、誰かが失敗や恥辱にまみれている場面を見せられることは、とてもつらい経験になる。 「もし自分があの人の立場だったら」という、なんともいたたまれない気分を喚起するからだ。 それゆえ、潜在人口として少なくとも数百万人は存在すると思われる共感性羞恥をかかえた心優しい日本人を、これ以上苦しめないためには、エレベータージョークの話題は、なるべくなら、二度と蒸し返さないことが望ましい。 自国のリーダーが満を持してカマしたジョークがものの見事にスベりましたとさ、みたいな場面は、共感力の高い愛国者にとっては、戦艦大和の沈没にも劣らぬ屈辱であるはずだからだ。 にもかかわらず、共産党の小池晃書記局長は、誰もが忘れたいと思っているあの日のあの悲しい出来事をわざわざ蒸し返して、「バリアフリーの考え方を理解していない」などと、意外な角度から首相の発言を攻撃する挙に出ている。 なんと無慈悲な言いざまだろうか。 もっとも、こういう場面できちんと意地悪を言っておくことは、野党政治家の大切な仕事ではある。 というよりも、スベったジョークを解剖して粗探しをすることは、共産党所属の議員にとっての必要不可欠な政治活動ですらある』、「排他共有制御の原則で運営されているジョーク共同体に、われら日本人は招待されていない」、とは鋭い指摘だ。「共感性羞恥」とは縁遠い筈の小田嶋氏も感じたというのは、きっとコラムの流れ故なのだろう。共産党が「きちんと意地悪を言っておく」とはさすがだ。
・『じっさい、政治家や官僚の偏見や差別意識は、失敗したジョークの中にこそ最も典型的に観察される。というのも、一見無邪気に見えるシモネタや、ふと口をついて出る自虐ジョークは、実のところ、ジョーク発信者がそのジョークの前提として踏まえている偏見構造や差別意識を、これ以上ないカタチでモデリングしているものだからだ。 「だから女ってものは」「○○人の意地汚さときたら」「彼ら貧乏人のサガとして」てな調子で、ジョークの文法の中では、特定の民族や性別ないしは肉体的経済的社会的諸条件が、戯画化されたキャラクターとして極めて残酷に描写される。そうでなくても、人々を高揚させる笑いのうちの半分ほどは、無慈悲な嘲笑であったり明らかな優越感の表明だったりする。 笑いを狙った発言には、常に諸刃の剣が仕込まれている。このことを忘れてはならない。 総理のジョークに悪気がなかったことはよくわかっている。 しかしながら、ポイントは「悪気」や「攻撃的意図」の有無ではない。 「悪気」や「嘲笑の意図」を云々する以前に、エレベーターを笑うジョークは、その「構造」として、エレベーターに乗って天守閣にたどりついた階段弱者を貶めたストーリーを包含せざるを得ない。その意味で、エレベーターを笑うジョークは、結局のところ「強者」による共感的な雄叫びとそんなに遠いものではない。 「戦国の世の秋霜烈日なリアルを体現しているはずの城郭の天守閣に、足元もままならない老人や車椅子に乗った障害者が集っている絵面の滑稽さ」をもって「21世紀的なクソ甘ったれたみんなの善意で世の中を素敵な場所にしましょうね式のバリアフリー社会の偽善性」を批評せしめようとするその「オモシロ」発見の視点自体が、そのまんまホモソーシャル的ないじめの構造に根ざしているということでもある。 すぐ上のパラグラフは言い過ぎかもしれない。 ただ、会話の中にジョークを散りばめにかかるコミュニケーション作法が、多分に虚栄心と自己顕示欲を含んだものほしげな態度であるという程度のことは、21世紀の人間であるわれわれは、自覚しておいた方が良い。 ジョークは、他人を動かすツールとしてそれなりの機能を発揮している一方で、時に意外な副作用をもたらす厄介な劇薬でもある。 私自身、自分がツイッターを通じて放流しているジョークのうちのおよそ3割は、教養(サブカル教養であれ古典教養であれ)をひけらかしにかかるタイプの、実に厭味ったらしいネタであることを自覚している。 それゆえ、喜んでくれるフォロワーが一定数いる半面、毎度毎度、私がドヤ顔でばら撒いているジョークに反発を感じる人々が罵詈雑言を投げつけてくるやりとりが繰り返されている。 「あ? 面白いつもりで言ってる?」「センスがないんだから、笑い取ろうとかすんな」「致命的に笑えないですね」と、さんざんな言われ方をするケースが少なくない。 それでも私は、ジョークの定期放出をやめることができない。 これは、「業」のようなものだと思っている。 ほめられるべき性質ではない。 反省している。 円満な人物は、ジョークを必要としない。 私自身、リラックスした局面では、ほとんどまったく冗談を言わない。 「ご主人が冗談を言うとは思いませんでした」と、15年ほど前だったか、あるPTA関連の会合で、さる奥様にびっくりされたことがある』、「「21世紀的なクソ甘ったれたみんなの善意で世の中を素敵な場所にしましょうね式のバリアフリー社会の偽善性」を批評せしめようとするその「オモシロ」発見の視点自体が、そのまんまホモソーシャル的ないじめの構造に根ざしているということでもある」、というのはよくぞここまで考えたと思うほど、興味深い表現だ。「円満な人物は、ジョークを必要としない」、というのは日本人に限ってのことだろう。欧米人は、スピーチの中には、必ずといってもいいほどジョークをかませる。
・『たしかに、あらためて振り返ってみるに、その関係の集まりの中で私がこなしていた役柄は、ひたすらに他人の話に耳を傾けてはうなずいているだけの、温厚なおっさんのポジションだった。意外なことだが、くつろいでいる時のオダジマは、無口なおっさんだったのである。 このことは逆に、私が、ふだん、様々な機会を通じて、何かにつけてジョークを言い、スキあらば受け狙いの発言をカマしているのは、結局のところ、私が、緊張していて、自分を印象付けようと躍起になっているからだということを証明している。手柄狙いの浅ましい心根がオダジマをしてジョークを連発せしめている。悲しいことだが、これは事実だ。 ジョークにとりつかれた人間は、ジョークを通じてでないとうまく自分を表現することができない。 これは、けっこう疲れる設定でもある。 古い知り合いに、私と同じタイプの、ジョークにとりつかれた男がいる。仮に名前をK氏ということにしておく。 私より5年ほど年少のK氏とごくたまに会う機会は、私にとって、かけがえのない楽しい時間でもあるのだが、一方において、重い疲労を感じる試練の時でもある。理由は、私が(おそらく彼も)頑張り過ぎてしまうからだ。 われわれは、顔を合わせる度に、なにか面白いことを言おうと、互いの言葉尻をとらえ合っては、空回りをはじめる。その空回りは、そこそこ面白くもあるのだが、全体としては、不必要に多大なエネルギーを消耗する動作でもある。実感としては、わりとしんどい。 つい最近のK氏のネタを紹介しておく。《アイミティーの後の形に比ぶれば昔はタピオカ入らざりけり #タピオカミルクティー》というのが、それだ。 これが面白いジョークであるのかどうか、正直な話、私は、適切に評価する基準を持っていない。 おそらく、100人のうちの97人にとっては、面白くないはずだ。 私は、残りの3人に含まれている人間なので、こういうネタには目がない。 解説すれば、これは、百人一首の中にある権中納言敦忠の短歌 《逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり》を踏まえたツイートで、内容的には、タピオカを混入させたアイスミルクティーが流行していることへの驚きを詠んだものなのだが、キモは、アイスミルクティーの昭和的な略称(それもおそらく関東ローカルな)である「アイミティー」と、元歌の最初の5文字「逢ひみての」が呼応している部分だ。 「ん? それだけか?」「それがどうした?」と思うのが普通の人だと思う。 私も、アイミティーの裏に元歌が隠れていることに、しばらくの間、気づかなかった。 それだけに、「あ、これ、『逢ひ見ての』か」と気づいた時のうれしさは格別だった。 もちろん、うれしかったからといって、何がどうなるものでもない。 ジョークは不毛なものだ。 必死でジョークを追いかけている者は、結局空回りから逃れることができなくなる。 そんな人間になるべきではない。 安倍さんも、無理にジョークを言う必要はない。 われら日本人は、さいわいなことに、国際社会の人々から、ジョークを期待されていない。 とすれば、よほど気に入ったネタが思い浮かんでしまった時以外は、黙っているべきだ。 もし仮に、あのエレベーターのネタを思いついて原稿に書いたのが、スピーチライターではなくて、安倍さんご本人であったのだとしたら、どうかしっかりと休息をとってもらいたい』、「アイミティーの後の形に比ぶれば・・・」については、私もさっぱり理解できなかった97%の口だ。解説を読んでも、そこまでひねるものかと驚くだけだった。
・『疲れている人間は、つまらないジョークを言いがちになるし、それに不必要に怒りっぽくなる。 そうなってしまう前に、休養をとるべきだ。 最後に、蛇足を付け加えておく。 ジョークは、蛇の足みたいなもので、なしで済ませられるのなら、はじめからない方が良いに決まっているのだが、アタマの中に浮かんでしまったネタは吐き出しておかないと嘔吐感の元になるので、書いておく。読まなくてもかまわない。 20年近く前に、インドのバンガロールという街を訪れた折、彼の地で開かれた小規模な国際会議の席で、オーストラリアだったかニュージーランドだったかからやってきたジャーナリスト(記憶が曖昧で申し訳ない)から聞いた話だ。 私が、自分の英語のつたなさを詫びると、彼は、「英語が達者かどうかなんて、たいした問題じゃないぞ」という前置きの後にこんな話をしてくれた。 ろくに英語を解さなかったにもかかわらず、現地の人々にとても愛されていたという、ある日本人のエピソードだ。 その、さる日本企業の現地法人のトップであった氏が、2年ほどの滞在期間を終えて帰国することになり、パーティーが開かれた。 そのパーティーの最後に、彼は、英語でスピーチをした。 といっても、しゃべるのが不得手なので、原稿を読み上げる形で、粛々とスピーチは進んだ。 さて、経営者氏は、 「みなさんの心遣いと親切に対して、私とここにいる私の妻は、心からの感謝を申し上げます」と言ってスピーチをしめくくろうとした。 ただ、最後に、人々の顔を見回すために、原稿から目を離したことで、あるミスを犯した。 そのミスというのは、「つまり、あいつは、ミー・アンド・マイワイフが、フロム・ボトム・オブ・アワ・ハートからグラティテュードをエクスプレスすると言うべきところで、ボトム・オブ・マイ・ワイフと言ってしまったわけだよ」 ん? 私はしばらく意味がわからなかった。 「ボトムというのは、つまり、ヒップすなわちケツのことで、あいつは、われわれに、女房のケツの底からの感謝をささげてくれたわけだ」 という解説を聞いて私はようやく理解したのだが、そんなに爆発的には笑わなかった。 この話を佳話として伝えてくれたジャーナリスト氏も、大笑いしながら話していたわけでもない。 つまり彼が伝えたかったのは、人間の心と心のつながりは、小洒落た警句やジョークとは別の、もっと深い、われらすべての人類のボトムから発しているものなのだということだった。 今回の話は、うまく落ちていない。 とはいえ、テーマからして、話の最後を、2回転半ひねりみたいなあざとい着地ワザで落とそうとする態度自体がふさわしくないことを考えれば、これはこれで良い。 また来週』、「彼が伝えたかったのは、人間の心と心のつながりは、小洒落た警句やジョークとは別の、もっと深い、われらすべての人類のボトムから発しているものなのだということだった」、というのはひねり過ぎの印象を受けた。いずれにしろ、日本人にとってジョークは難しいということを、改めて痛感させられた。
タグ:コミュニケーション 江崎グリコ 日経ビジネスオンライン 河合 薫 共産党の小池晃書記局長 小田嶋 隆 (河合 薫氏:グリコ「こぺ」炎上で露呈するコミュ力“総低下社会”、小田嶋 隆氏:ジョークがスベることの意味) 「グリコ「こぺ」炎上で露呈するコミュ力“総低下社会”」 “解釈会議” 上司と部下なら許される“解釈”が、女性と男性の間だと、場合によっては「NG」らしい 夫婦間の子育てコミュニケーションアプリ「こぺ」 「パパのためのママ語翻訳コースター」というコンテンツを公式サイト上で発表したところ、“こぺ燃”してしまった コミュニケーションは「受け手」次第という“不条理” 「まぁ、そんなに怒らずにさ、笑い飛ばせばいいのに」というのが率直な見解 コミュニケーションを「言葉のキャッチボール」と例えるように、その主導権は「伝え手」ではなく「受け手(キャッチ)」にある 発せられた言葉が持つ意味は、その言葉を受けとった人に、ある種「勝手に」決められてしまうからだ 「男脳」「女脳」の真偽 「男脳・女脳」と、あたかも性差があるように印象づけるのは言い過ぎ 「男と女の違い」というより「個人差」 「性淘汰」説がきっかけで男女差への関心が高まる 「女性を差別あるいは区別」するための検証作業が進められた 数多くの心理社会学的研究の神髄は、「男女差がいかに社会的状況に左右され、いかにさまざまな要因の科学反応によって出現しているか」を明らかにした 男女差より個人差の方がはるかに顕著 冗長性と、ともに過ごす時間の欠落 コミュニケーション不全はいつでも、どこでも起こり、様々な問題の原因になる 「冗長性(redundancy)」を伴うコミュニケーションが減ったことが原因の1つではあるまいか 適度な冗長性は、コミュニケーションをする者の間に生じる様々な溝を埋める役割を果たすが、その前提として、“共に過ごす時間”が不可欠 「ジョークがスベることの意味」 G20サミット)の夕食会のあいさつ 安倍首相は、大阪城へのエレベーター設置を「大きなミス」という言葉で表現 会場に困惑をもたらしたのみで、ジョークとしては成功しなかった 日本人の民族的自尊心をかなり致命的な次元で傷つけた 日本人による国際ジョークの発信という難事業は、申すまでもないことだが、一朝一夕に達成できるミッションではない 日本人は不利な立場にある 国際社会では 「ニッポン人がジョークなんか言うはずがない」というコンセンサスが、牢固として共有されているからだ 典型的なジョークが笑いをもたらすためには、オーディエンスの間に、「そろそろいつものジョークが来るぞ」という期待感が醸成されている必要 排他共有制御の原則で運営されているジョーク共同体に、われら日本人は招待されていないわけなのである 「共感性羞恥」 ネガティブなイメージが強烈な迫真力をもって脳内に展開されるタイプの人間にとって、自分とは無縁な他人であっても、誰かが失敗や恥辱にまみれている場面を見せられることは、とてもつらい経験になる バリアフリーの考え方を理解していない」などと、意外な角度から首相の発言を攻撃 一見無邪気に見えるシモネタや、ふと口をついて出る自虐ジョークは、実のところ、ジョーク発信者がそのジョークの前提として踏まえている偏見構造や差別意識を、これ以上ないカタチでモデリングしている 「21世紀的なクソ甘ったれたみんなの善意で世の中を素敵な場所にしましょうね式のバリアフリー社会の偽善性」を批評せしめようとするその「オモシロ」発見の視点自体が、そのまんまホモソーシャル的ないじめの構造に根ざしているということでもある 円満な人物は、ジョークを必要としない ジョークにとりつかれた人間は、ジョークを通じてでないとうまく自分を表現することができない。 これは、けっこう疲れる設定でもある 《アイミティーの後の形に比ぶれば昔はタピオカ入らざりけり #タピオカミルクティー》 権中納言敦忠の短歌 《逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり》を踏まえたツイート 人間の心と心のつながりは、小洒落た警句やジョークとは別の、もっと深い、われらすべての人類のボトムから発しているものなのだということだった
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