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NHK問題(「NHKから国民を守る党」が 本気でNHKを激変させてしまう可能性 なんだか腹は立つけれど…、森友取材でNHKを追われた記者が「『NHKをぶっ壊す』に賛同しない」理由とは そもそも、NHKをぶっ壊している人物は他にいる、「お笑い化」するNHK受信料 N国のドタバタに笑っている場合ではない) [メディア]

今日は、NHK問題(「NHKから国民を守る党」が 本気でNHKを激変させてしまう可能性 なんだか腹は立つけれど…、森友取材でNHKを追われた記者が「『NHKをぶっ壊す』に賛同しない」理由とは そもそも、NHKをぶっ壊している人物は他にいる、「お笑い化」するNHK受信料 N国のドタバタに笑っている場合ではない)を取上げよう。

先ずは、コピーライター/メディアコンサルタントの境 治氏が8月1日付け現代ビジネスに寄稿した「「NHKから国民を守る党」が、本気でNHKを激変させてしまう可能性 なんだか腹は立つけれど…
」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66196
・『「スクランブル化」の現実味  7月21日に投開票された参議院選挙は争点がよくわからないまま、盛り上がらずに終わった。吉本興業の騒動の方がよほど話題になり、人びとの興味を集めている。いかがなものかと思うが、それが現実だ。私自身も、選挙より吉本騒動の行方をずっと熱心に追っていた。 今回の選挙では「れいわ新選組」が「台風の目」と言われて2議席を獲得した。もうひとつ、私たちが直視しなければならないのは「NHKから国民を守る党(=N国)」が政党要件を満たしたということだ。 同党は「台風の目」とまでは言えないが、真夏にドカドカ降る雹のような、突然の異常気象的な存在だ。彼らが議席を獲得したことは、異常現象が常態化したようなものである。選挙そのものを馬鹿にしたような政党が、国政の場へ正式に参加すると思うと、なんと不気味なことかと感じる。 選挙後、様々なメディアが、彼らの戦略の巧妙さを伝えている。 各選挙区に送り込んだ37名もの候補者は、当選する期待をみじんも抱いていなかったという。多数の候補者を立てて、NHKの電波を堂々と使って「NHKをぶっ壊す!」と言わせ、その映像をYouTubeにアップし拡散させる――それが目的だったのだ。 その「成果」というべきか、断片的にでも、彼らの奇天烈な政見放送を目にした有権者は多かった。そして面白半分なのか本気なのかわからない票を選挙区で3.02%も獲得し、政党交付金を受け取る資格を手にした。 党首の立花孝志氏は、4月の統一地方選で多くの自治体で議席を獲得したのも、それにより得た議員報酬を集め、国政選挙に打って出る資金にするためだと悪びれもせず言っている。その図々しさには呆れるしかない。 その上、「戦争発言」で日本維新の会を除名された丸山穂高衆議院議員を入党させた。さらに渡辺喜美参議院議員にも共闘を呼びかけ新たな会派を設立する動きも報じられている。斜め上をいく戦術を次々に繰り出し、すっかり注目を浴びる存在になってしまった。 そんなN国党の派手な動きに対して、NHKもよせばいいのに応じてしまった。「受信料と公共放送についてご理解いただくために」という文書を公開したのだが、ようするにN国党の主張に対し凄んでいるのだ。売られた喧嘩を買うような文書で、みっともないったらない。自分たちのイメージを悪くするだけなのがわからないのか、と情けなく感じた。 さて、ここで私は政党としての彼らが今後国政に与える影響を書きたいのではない。彼らの議席が自民党の改憲案に寄与しかねないのはおぞましいが、ここではちょっと置いておきたい。 私が気になるのは、彼らの躍進から考える今後のNHKのことだ。彼らの動きが、NHKに対する世論に影響するかもしれない。その可能性を書いてみたい』、「彼ら(N国党)が議席を獲得したことは、異常現象が常態化したようなものである。選挙そのものを馬鹿にしたような政党が、国政の場へ正式に参加すると思うと、なんと不気味なことかと感じる」、NHKによる文書公開も、「売られた喧嘩を買うような文書で、みっともないったらない。自分たちのイメージを悪くするだけなのがわからないのか、と情けなく感じた」、などはその通りだ。
・『「NHKをぶっ潰す!」と過激に叫ぶわりには、彼らの主張の核は「NHKの放送にスクランブルをかけるべきだ」というものだ。現在の「テレビ放送を受信できる機器を持つ世帯は受信料を払う」というルールを、「見たい人だけお金を払ってスクランブルを外す」というものに変えたいというのだ。それがかなえばNHKの存続自体は認めるわけで、実際には「潰す」ことを目指しているわけではない。 だが現行の放送法におけるNHKのあり方からすると、スクランブルをかけるのはありえない。そのことはさっそく、石田真敏総務大臣はじめ政治家たちがアナウンスしている。同大臣は「スクランブル化は民放とNHKの二元体制を損ないかねない」と語ったそうだ。 いまの放送法においては、NHKは公共放送であり、受信可能な国民は公平に受信料を負担すべし、という考え方だ。スクランブル化すればWOWOWのような有料放送と同じになってしまい「公共性」が失われてしまうので、ありえないのだ』、N国党は「現行の放送法」の見直しも求めているのだろう。
・『ネットでも受信料は取れるのか  ところでNHKは、直近の放送法改正によって「常時同時配信」に取り組むことになった。ようするにネットでテレビ放送と同じ内容を視聴できるようにするのだ。2020年3月までにはスタートすると聞く。 どう見ても東京オリンピックを意識しての動きで、半世紀に一度の一大イベントをいつでもどこでも見られるようにしようというものだ。もちろん、オリンピック終了後も継続する。つまり、来年からNHKは放送でも通信でも視聴可能になるのだ。 そのことをNHKは経営計画の中で「公共放送から公共メディアへ」というスローガンで表現している。 ただ、一部の人びとが心配するような「ネットでも受信料を取る」ことは、今回の新しい放送法に則っても不可能だ。 NHKの「本来業務」はあくまで放送であり、同時配信を含めてネットでの番組配信は「補完業務」と位置づけられている。割ける予算も収入全体の2.5%に限定されている。これは総務省主催の「放送をめぐる諸課題に関する検討会」での合意事項だ。民放側から、同時配信を認める代わりにこの制約を約束させられた。今後も守り続けるかどうかは、どうもはっきりしないのだが。 NHKのネット事業は、まだそういう段階だ。一歩足を踏み入れることは決まったものの、「補完業務」の域は出ないし、ましてやそこから受信料を取ることはありえない。 だがどう見ても、NHKは「次の段階」としてネットでも受信料を取ることを考えているはずだ。というのも、NHKはここ数年強烈な危機感を隠していない。若い世代が見てくれないのだ』、なるほど。
・『NHKが直面する「パラドックス」  視聴率ランキングを見ると、NHKからも朝ドラや大河ドラマ、ニュース番組などがランクインしている。だがそれは世帯視聴率の話であり、数が多い高齢世帯が見ている番組が高く出やすい。 NHKでは数年前から59歳以下に絞った「個人視聴率」によるランキングを出し、局内で共有してきたと聞く。そのランキングでは、NHKの番組は100位までに3つしか入っておらず、朝ドラと「あさイチ」そして「おかあさんといっしょ」だけ。NHKの番組はよく見られている印象があるが、現役世代に絞るとほとんど見られていないのだ。 強みのはずの選挙番組も、いつもNHKが視聴率トップだが、これも実は高齢者を除くと1位ではなくなる。「大事な時はNHK」というのも、あくまで高齢者に限った話なのだ。 現在の放送法の「放送の受信機器を持っている人から取る」という考え方だと、NHKの未来は先細りする一方である。テレビを持たない若者が増えているからだ。だからこそNHKは近い将来、ネットでも受信料を取りたいと考えているはずだ。 さてここからこの議論は、大いなる「パラドックス」に入り込むことになる。 NHKは公共放送だから、受信できる機器を持つ人は受信料を払う、というのが現行ルールだ。そして来年から常時同時配信がスタートした際には、テレビ放送の受信料を払っている世帯に限ってネットでも見られるようにする。 具体的には、いまBSでやっているように、画面に「受信料を払ってください」という文字が覆いかぶさり番組を完全には視聴できない状態にするらしい。これも「公共放送であるNHKが、補完業務として同時配信を行う」という考え方に沿ったやり方だ。問題はないだろう。 では次のステップとして、テレビを持たない人からも、ネットで受信料を取ろうとする場合を考えてみよう。 放送と同じように「受信可能な機器を持つ人」から料金を取るのは現実的だろうか。簡単にいうとPCやスマホを持つ人から受信料を取ることになる。 ……冗談じゃない!と大反論が起きるだろう。本当に、暴動が起きかねないと思う。放送と同じように「受信可能な機器を持っているから料金を取る」という理屈は、ネットでは成立しない。 つまり、ネット配信のみの受信料を徴収しようとすると、NHKはスクランブル化するしかなくなるのだ。「ネット受信料」を払った人は、スクランブルを解除する。払わない人はスクランブルがかかって見ることができない。そうするしかないと思う。 ……ということは、少なくともネットでは「NHKから国民を守る党」の主張が通ってしまうのだ』、「「大事な時はNHK」というのも、あくまで高齢者に限った話なのだ」、若者のNHK離れは進んでいるようだ。
・『NHKの主張は「机上の空論」  テレビ受像機はテレビ放送を見るための機器であり、「テレビは見るが、NHKだけは絶対に見ない生活」というのはかなり無理がある。だから「公共放送」というしくみがかろうじて成立した(いや、自分は絶対にNHKを見ない!という人もいるとは思うが)。 だが、スマホやPCには様々な用途がある。NHKがネット経由でも見られるようになったからというだけで、そこから「受信料」を取ろうというのはかなり無理がある。NHKのためにスマホを持ってるんじゃない!と多くの人が言うはずだ。 つまり、「ネットの世界での公共メディア」なんてある意味、机上の空論だと私は思うのだ。 NHKはこのパラドックスに、いずれ直面せざるを得なかった。「N国」が存在感を示したことによって、少し早く浮き彫りになったのだ。彼らの主張が、NHKが抱える矛盾を露呈させてくれた。 この矛盾を解決するには、「機器を持っているかどうか」ではなく「日本国民なら受信料を払う」という仕組みにせざるを得ないだろう。だが、これを制度にするには文字通り国民的な議論が必要になる。「NHKは不要だ」と主張する人びとも巻き込んで話し合うしかない。NHKとは何なのか、はっきりさせるべき時が来るはずだ。 私は、国民として支払う、という制度もありだと思う。実際、海外の公共放送は機器の所持にかかわらず払う方向に進んでいるようだ。 だが同時に、いまのNHKの経営体制のまま国民全員が払うようにするのは反対だ。 現在のNHKの体制は、政治からの圧力を受けやすい。筆者はここ数年、放送と政治の関係を取材してきたが、NHKには明らかに政権与党、とくに官邸からの圧力がかかっている』、NHKへの「官邸からの圧力」については、このブログの「安倍政権のマスコミコントロール」の3月5日、6月6日で取上げた。
・『真の「公共メディア」にするために  私の高校時代の同級生である元NHK記者の相澤冬樹は、森友問題でスクープをものにしたとたん、記者から外され退職した。状況証拠しかないが、彼の人事には官邸からの圧力があったことが推測できる。そうじゃなくてもNHKの職員とディープな話をすると、多くの人が「官邸からの圧力の存在」を口にする。 ただ、何から何までチェックされ、すべて言われるがままというわけでもない。ふだんは内部の自主性が発揮されているが、政権に関わる「あるライン」を超えると強い圧力がやってくるようだ。 政治からの圧力に弱い放送局を「公共メディア」として認めることはできない。ということは、NHKの受信料を国民みんなが負担するためには、NHKのしくみを変える必要があるのだ。 今のように首相が事実上指名した経営委員(一般企業でいう取締役の立場)が物事を決済したり、国会で予算を承認するような、つまり事実上与党にお財布を握られている制度で、受信料を国民全員で負担するなどあり得ないだろう。「国営メディア」ではなく「公共メディア」と名乗るからには、国会や政権と完全に切り離された存在となるべきだ。 政権に対しても十分なチェックが働くようなシステムのもとで、NHK=公共メディアを再構築する必要がある。難しい議論だが、そこを乗り越えないとNHKの未来はないと私は思う。 「N国」が政党として正式に登場したおかげで、こういう議論が進むかもしれない。彼らのやり方は無茶苦茶だし、政治を舐めたような言動は時に腹立たしいが、折しもNHKの同時配信が始まるタイミングで彼らが出てきた意義は大きい。 NHKがこれからどんな存在になるかは、この国の言論のあり方にも深く関わる問題だ。「N国」がもたらした議論を生かし、現実の制度設計に落とし込む必要があるだろう』、その通りだが、安倍政権のもとでやれば、もっと「御用機関化」が進むリスクがあるので、もっとあとでやるべきだ。

次に、8月12日付け文春オンライン「森友取材でNHKを追われた記者が「『NHKをぶっ壊す』に賛同しない」理由とは そもそも、NHKをぶっ壊している人物は他にいる」を紹介しよう。
https://bunshun.jp/articles/-/13352
・『「NHKをぶっ壊す」……強力なメッセージだ。NHKには常に批判がつきまとう。権力寄りだという批判、あるいは左翼や反日に偏っているという批判、両側から批判にさらされる。受信料で成り立つ公共放送の宿命でもある』、元NHKの良識派記者の言い分とは興味深い。
・『立花氏の「N国党」は、なぜ支持を集めたのか?  だが、元NHK職員の立花孝志氏が「NHKから国民を守る党」(N国党)の党首として掲げた「NHKをぶっ壊す」というスローガンは、これまでの批判とはまったく異なる意味合いを持つ。具体的な公約としてはNHKの放送のスクランブル化を掲げているが、それは公共放送ではなくなることを意味するので、事実上、公共放送NHKの解体と同じである。 もっとも、立花氏がN国党を立ち上げた6年前は、さほど注目を集める存在ではなかった。東京都知事選で「NHKをぶっ壊す」と連呼したことが関心を呼んだが、政治勢力として注目を集める存在とは言えなかった。 潮目が変わったのは、この4月の統一地方選挙だ。47人が立候補し26人が当選した。これは立派な政治勢力だ。その勢いで7月の参院選にうって出た結果、立花氏が初当選して国会に議席を得ただけではなく、政党要件を満たす得票を集めた。 その後は、「戦争発言」で日本維新の会を除名された丸山穂高衆議院議員を入党させ、渡辺喜美参議院議員と新会派を組むなど、意表を突く手を次々に繰り出し、すっかり注目の的になっている。 一体何が潮目を変えたのだろう? 私は、NHK自体ではないかと思う。私がNHKで森友事件の取材をしていたおととしから去年にかけて、上層部から相次いだ、政権に不都合なニュースに対する圧力。私がNHKを辞めた後も「政権忖度」どころか「政権ヨイショ」とでも言うべきおかしな報道が続いている。 これは視聴者の目にも明らかだから批判は当然強まる。そのことが「NHKをぶっ壊す」と叫ぶ立花氏とN国党への支持を集める格好になったのではないか?』、「N国党を立ち上げた6年前」、「東京都知事選で「NHKをぶっ壊す」と連呼」、というのは記憶にない。泡沫候補が訳の分からぬことをほざいているといった程度の受け止めだったのだろう。ただ、「「政権ヨイショ」とでも言うべきおかしな報道が続いている」のが、「立花氏とN国党への支持を集める格好になったのではないか?」、というのは希望的観測に過ぎるような気がする。
・『NHKをぶっ壊す「な」!  N国党に投票したというある人に聞いたところ、「ぶっ壊す」に賛同するわけではないが、今のNHKのありようはおかしい、制度を変えた方がいい、そういう意味で投票したと話していた。まさか当選するとは思わなかったとも……。同じように「お灸を据える」意味合いでN国党に投票した人は少なくなかろう。 そんな、一躍「時の人」になった立花氏から、私にフェイスブックで友達申請が届いた。去年、私がNHKを辞めて間もない頃だ。森友事件取材のさなかに記者を外されてNHKを辞めた、という経緯から、お仲間だと思われたのだろう。だが、私のスローガンは「NHKをぶっ壊すな」だ。「な」の一字が加わるだけで意味合いは正反対になる。だから申請にはお答えしていない。 もっとも、私の「NHKをぶっ壊すな」は、立花氏やN国党に向けたものではない。私が「ぶっ壊すな」と言っている相手は、今のNHKの上層部である。彼らが今のNHKのおかしな報道を許し、そのことが視聴者の批判を集め、N国党の躍進を招いている。つまり彼らこそNHKをぶっ壊そうとしているのである。自分たちの在職期間さえよければ、後はどうなってもいいと考えているとしか思えない。彼らに比べれば私の方がよっぽどNHKを愛している』、NHK愛が確かに伝わってくる。
・『「ネットで課金」への賛同は得られるのか?  私は常々、既存メディアの中で生き残る可能性が最も高いのはNHKではないかと考えている。それは受信料という強固な経営基盤に支えられているからだ。既存メディアはおしなべてネットメディアに押されている。その点、NHKがネットでの同時配信を始めようとしているのは、将来的にネットで受信料を集めようとしているのだろう。NHKはラジオからテレビ、そしてBSと、時代に即して受信料の性質を変えてきた。その流れに乗ることができれば、今後もNHKの経営は安泰だ。 しかしこれは受信料を負担する視聴者の皆さまの支持があってのことだ。この内容なら受信料を払ってもよい、と思って頂けるかどうかにかかっている。ましてネットで課金となると、余計にハードルは高くなる。ところが今のNHKの報道で、広くあまねく受信料への理解を得ることができるだろうか? NHKは政治に弱い、とよく言われる。それはそうだ。今の放送法の規定では、NHKの最高意思決定機関である経営委員会の委員は、衆参両院の同意を得て内閣総理大臣が任命。予算は毎年、国会の承認が必要だ。人事とカネを握られたら組織は弱い。露骨に報道に介入する政権になったらなおさらだ』、安倍政権の介入は露骨だが、経営委員や予算への国会の関与は昔からのもので、何らかの形で必要なものだ。
・『政治に弱いNHKは、まるで『国営メディア』  私の高校新聞部仲間で、放送業界に詳しいメディアコンサルタントの境治は、N国党とNHKについての「現代ビジネス」の記事「『NHKから国民を守る党』が、本気でNHKを激変させてしまう可能性」で次のように書いている。〈政治からの圧力に弱い放送局を「公共メディア」として認めることはできない。ということは、NHKの受信料を国民みんなが負担するためには、NHKのしくみを変える必要があるのだ〉〈「国営メディア」ではなく「公共メディア」と名乗るからには、国会や政権と完全に切り離された存在となるべきだ〉〈そこを乗り越えないとNHKの未来はないと私は思う〉 まったく同感だ。私は、受信料に支えられた「公共メディア」NHKは日本にとって必要だと考えているし、今後も存続してほしいと願っている。だが今のままでは無理だろう。 放送法を改正し、人事とカネを政府与党から独立させるべきだ。そうすれば、NHKにいる、志と意欲と能力の高い記者やディレクターやその他大勢の職員たちが、いいニュース、いい番組を出し続けてくれるに違いない。それしか道はないと思う。そうしないと本当に「NHKをぶっ壊す」ことになりかねない』、「『NHKから国民を守る党』が、本気でNHKを激変させてしまう可能性」については、第一の記事で紹介した。「人事とカネを政府与党から独立させるべきだ」との主張には、違和感がある。与党からは「独立させるべき」ではあっても、国会による監視の仕組みは何らかの方法で導入すべきと思う。

第三に、元NHKで、経済学者、アゴラ研究所代表取締役所長の池田 信夫氏が8月23日付けJBPressに寄稿した「「お笑い化」するNHK受信料 N国のドタバタに笑っている場合ではない」を紹介しよう。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/57407
・『参議院選挙で議席を得た「NHKから国民を守る党」(N国)が、いろいろ騒ぎを起こしている。N国の政治的主張は取るに足りないが、こんなお笑い政党が約100万票を取って国政選挙で議席を獲得した状況は深刻だ。その根本には、与野党がNHK受信料制度の矛盾を利用してきた歴史がある』、池田氏はどのような見方なのだろう。
・『N国は選挙制度の盲点をついた「選挙ゴロ」  受信料の不払い運動は昔からあった。左翼では、朝日新聞の記者だった本多勝一氏が1960年代から不払い運動を続けている。その主張は「NHKは自民党べったりの御用放送だ」というものだが、その後は逆に「NHKは左翼偏向だ」として訴訟を起こす人も出てきた。 N国にはそういう政治的主張はない。立花孝志党首は元NHKの経理担当職員で、政治的には何も中身がない。「NHKの受信料制度に反対する」と主張しているだけの「シングル・イシュー」政党だが、その選挙戦術は巧妙である。 今年(2019年)4月の統一地方選挙では、大都市を中心に26人を当選させ、立花氏も東京都葛飾区議会議員選挙で当選した。葛飾区議の定員は40人。有効投票数の2%ぐらい取れば当選できる。 こういう選挙で、候補者の名前を知っている人は少ないが、「NHK」という名前は誰でも知っている。N国は「NHKと書いた票はわが党の票だ」と主張した。 このため地方選挙では、候補者にまったく知名度がなくても、有権者が「NHK」と書くだけで当選できるので、大都市ではほぼ全員当選だった。もちろん地方選挙で受信料制度に反対しても意味はないが、N国にとっては選挙は宣伝の道具だった。 マスコミで名前を売り込むには莫大な宣伝費がかかるが、選挙では供託金だけで名前を売り込める。政見放送で「NHKをぶっ壊す」と連呼するだけで話題になる。こうして地方選挙を宣伝の道具にし、国政選挙で当選するのが立花氏の戦術だった。 自民党の長期政権が続く中で、どの野党に当選しても政権は交代しない。それならYouTubeで騒いでいる変な党に入れてやろうという「愉快犯」が2%いれば、この選挙戦術は成り立つ。立花氏が何をしたいのかわからないが、数字はよく調べており、選挙制度の盲点をつく「選挙ゴロ」としてはプロである』、「地方選挙を宣伝の道具にし、国政選挙で当選するのが立花氏の戦術」、「YouTubeで騒いでいる変な党に入れてやろうという「愉快犯」が2%いれば、この選挙戦術は成り立つ」、「「選挙ゴロ」としてはプロである」、などはその通りだ。
・『政治が受信料制度をおもちゃにしてきた  こういうシングル・イシュー政党が参議院比例区で議席を取ったのは初めてではない。かつてサラリーマン新党やスポーツ平和党が議席を得たこともあるが、候補者にはそれなりの知名度があった。 N国はそれに比べても候補者が無名で、公約がNHK受信料しかないという点で特異だ。こんな党が議席を取れた原因は、誰の目にも明らかな受信料制度の矛盾にある。放送法ではテレビを設置した世帯はNHKを見ていなくても受信契約を結ぶ義務があるが、受信料の支払い義務は明記されていない。 N国はこれを利用して「受信料は払わなくてもいい」と主張しているが、これは誤りだ。政府が答弁したように、受信料を支払う義務はある。これは最高裁判所でも確定した判決であり、立花氏が受信料を払わないのは違法行為である。これは彼も認めている。 この奇妙な規定は戦後の占領下でできた放送法の欠陥だが、これを与野党が利用した。NHKの予算は毎年2月に国会で審議されるが、これは全会一致で可決することが慣例になっているため、自民党だけでなく野党にも根回ししなければならない。自民党は政府の介入しやすい義務化に賛成だが、野党は「国営化だ」と反対し、結果的に宙ぶらりんの経営形態が続いてきた。 この状況を変える方向は、2つある。1つは受信料の支払いを義務化して「国営化」に近づける方向だが、これは有料配信技術の普及したインターネット時代には時代錯誤である。経営形態を見直すなら、WOWOWやスカパーと同じように、見た人だけが払う「視聴料」を取る有料放送にするのが自然だ。 N国の主張する「スクランブル化」はその手段であり、本質的な問題ではない。重要なのは、民営化してNHKの経営が成り立つのかということだ。今のNHKのテレビ6チャンネル、ラジオ3チャンネルを丸ごと民営化したのでは経営合理化にならないので、チャンネルごとに分割することが考えられる。 この場合、総合テレビは有料放送として十分成り立つだろう。むしろ超優良企業になるので、今の民放の脅威になる。これが民放連(日本民間放送連盟)がNHKの民営化に反対する理由である。 衛星放送も独立採算で成り立っているので問題ないが、教育テレビとラジオはわからない。これまでNHKでも「チャンネルの整理」は何度も議論されたが、ラジオ第二放送さえ整理できなかった』、「チャンネルごとに分割」は確かに難しい問題だろう。
・『お笑いポピュリズムで劣化する政治  民営化のもう1つの懸念は、政府の答弁では「スクランブル化すると公共放送としての社会的使命を果たしていくことが困難になる」としている。たとえば災害のとき、放送がスクランブル化されて見えなかったらどうするのか。これは災害放送ではスクランブルを外せばいい。衛星放送では、現にそうしている。 有料放送になったら、NHKの番組が商業主義になって民放のように低俗になるのではないか。これは1987年に衛星放送が独自放送を開始したときも心配されたが、結果的にはよくも悪くも衛星放送は「NHK的」である。 受信料制度がなくなってNHKが政治から自由になったら、左翼偏向するのではないかという懸念もあるが、受信料の支払いが義務化されているBBC(英国放送協会)はNHKより反政府的だ。 どこのマスコミでも報道の現場(社会部)は左翼的で、政権と癒着する政治部がそれとバランスを取っているが、NHKでは受信料制度のために「国会対策」が経営に強い影響を及ぼす。N国のような変則的な形で政治がNHKの経営に介入すると、このバランスは政治部に大きく傾き、NHKの報道は「政治化」するだろう。 根本的な問題は、こういう国会情勢に弱いNHKの経営体質である。インターネットでNHKが受信できる時代に、スマホを含む「受信機」を設置したすべての人から受信料を徴収する制度は見直す必要がある。それにともなう経営形態の議論も避けるべきではない。 政治が「お笑い化」するのは、ポピュリズムの特徴だ。イタリアやウクライナではコメディアンが政権を取った。日本ではまだN国が政権を取る可能性はないが、丸山穂高氏や渡辺喜美氏が合流して、笑ってもいられなくなった。彼らが軌道修正し、NHK問題の議論を建設的な方向に向けてほしい』、「根本的な問題は、こういう国会情勢に弱いNHKの経営体質である」、「政治が「お笑い化」するのは、ポピュリズムの特徴だ」、などというのは困ったことだ。N国が「彼らが軌道修正し、問題の議論を建設的な方向に向けてほしい」というのは無理過ぎる願望だ。いましばらくは、N国の出方を見守りたい。
タグ:JBPRESS 池田 信夫 現代ビジネス NHK問題 文春オンライン N国 (「NHKから国民を守る党」が 本気でNHKを激変させてしまう可能性 なんだか腹は立つけれど…、森友取材でNHKを追われた記者が「『NHKをぶっ壊す』に賛同しない」理由とは そもそも、NHKをぶっ壊している人物は他にいる、「お笑い化」するNHK受信料 N国のドタバタに笑っている場合ではない) 境 治 「「NHKから国民を守る党」が、本気でNHKを激変させてしまう可能性 なんだか腹は立つけれど… 」 「スクランブル化」の現実味 政党要件を満たした 「NHKをぶっ潰す!」 石田真敏総務大臣はじめ政治家たちがアナウンスしている。同大臣は「スクランブル化は民放とNHKの二元体制を損ないかねない」 ネットでも受信料は取れるのか NHKはここ数年強烈な危機感を隠していない。若い世代が見てくれないのだ NHKが直面する「パラドックス」 ネット配信のみの受信料を徴収しようとすると、NHKはスクランブル化するしかなくなるのだ。「ネット受信料」を払った人は、スクランブルを解除する。払わない人はスクランブルがかかって見ることができない。そうするしかないと思う NHKの主張は「机上の空論」 真の「公共メディア」にするために 「森友取材でNHKを追われた記者が「『NHKをぶっ壊す』に賛同しない」理由とは そもそも、NHKをぶっ壊している人物は他にいる」 立花氏の「N国党」は、なぜ支持を集めたのか? 上層部から相次いだ、政権に不都合なニュースに対する圧力。私がNHKを辞めた後も「政権忖度」どころか「政権ヨイショ」とでも言うべきおかしな報道が続いている 視聴者の目にも明らかだから批判は当然強まる。そのことが「NHKをぶっ壊す」と叫ぶ立花氏とN国党への支持を集める格好になったのではないか? NHKをぶっ壊す「な」! 「ネットで課金」への賛同は得られるのか? NHKの最高意思決定機関である経営委員会の委員は、衆参両院の同意を得て内閣総理大臣が任命。予算は毎年、国会の承認が必要だ 政治に弱いNHKは、まるで『国営メディア』 「「お笑い化」するNHK受信料 N国のドタバタに笑っている場合ではない」 N国は選挙制度の盲点をついた「選挙ゴロ」 地方選挙では、候補者にまったく知名度がなくても、有権者が「NHK」と書くだけで当選できるので、大都市ではほぼ全員当選だった 地方選挙を宣伝の道具にし、国政選挙で当選するのが立花氏の戦術 YouTubeで騒いでいる変な党に入れてやろうという「愉快犯」が2%いれば、この選挙戦術は成り立つ 政治が受信料制度をおもちゃにしてきた お笑いポピュリズムで劣化する政治
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メディア(その17)(小田嶋氏:結婚発表会に思う「飼い犬」としての資質) [メディア]

メディアについては、6月29日に取上げた。今日は、(その17)(小田嶋氏:結婚発表会に思う「飼い犬」としての資質)である。

コラムニストの小田嶋 隆氏が本日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「結婚発表会に思う「飼い犬」としての資質」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00034/?P=1
・『夏休み中の読者も多いと思うので、あまりむずかしくない話題を取り上げることにしよう。 ……と、自分でこう書いてしまってからあらためて思うのが、こういう書き方は読者をバカにしている。大変によろしくない。 「こんな時期だからこのテの話題でお茶をにごしておこう」「こういう媒体だから、この程度の解説で十分だろう」「この感じの読者層だと、どうせこれ以上の説明はかえって混乱を招くことになるかな」という上から目線の先読みから書き始められるテキストは、多くの場合、ろくな結果を生まない。 新聞社からの原稿依頼では、こういうことがよく起こる。 「こういうこと」というのはつまり、「読者の読解力の限界をあらかじめ想定して、その範囲内におさまる原稿を要求される」みたいなことだ。 初稿を送ると、「14行目の『晦渋』(注)という言葉なんですが、別の用語に言い換えることは可能でしょうか?」という電話がかかってきたりする。 「あれ? 晦渋だったですか?」というジョークはとりあえずスルーされる。 「……いや、ほとんどの読者はそのまま読解してくれると思うのですが、なにぶん、新聞は中学生からお年寄りまで大変に読者層の幅広い媒体ですので」「……そうですか。では、『晦渋を極めた』のところは単に『むずかしかった』に差し替えてください」「ありがとうございます」という感じのやりとりを通じて、文章のカドが取れることになる。 より幅広い読者層にとって理解しやすい書き方に改められたわけなのだから、基本的には悪いことではないと思うのだが、書き手としては、角を矯められた犀が、豚に一歩近づいたみたいな気持ちになる。 個人的な経験の範囲では、これまで、新聞の編集部とのやりとりの中で、政治的に偏向した見解や、差別的な言い回しを指摘されたり、それらを理由に記事の改変を要求されたりしたことはない。 その種のあからさまな「検閲」は、いまのところまだ、わが国の活字メディアには及んでいないのだろう。 ただし、「難解な表現を平易に」「錯綜した論理展開をシンプルに」「重複した言い方をすっきりと」という感じで、表現を改めるべくやんわりと示唆される機会は、実は、珍しくない。 これは、私の文体が、不必要にくだくだしかったり、同義語を執拗に羅列する悪い癖を含んでいたりして、それらが、平明かつ論理的であることを至上とする新聞の標準とは相容れないからなのだろう。 その点は、自覚している。 ただ、くどい表現をすっきりさせると、文章から「行間」や「余韻」が消えてしまうことが、ないわけでもないわけで、それゆえ、私は、書き直しを要求される度に、微妙に不機嫌になる』、「書き手としては、角を矯められた犀が、豚に一歩近づいたみたいな気持ちになる」、やはりコラムニストには文章へのこだわりが強いようだ。
(注)晦渋(カイジュウ):言葉や文章がむずかしく意味がわかりにくいこと(コトバンク)
・『「その日、私は、7月の歌舞伎町の必ずしも清潔一辺倒とはいえない埃っぽい風を疲れた顔の全面に受けながら、職安通りを東に向かって歩いていた」 「それ、単に『風』じゃダメですか?」「っていうか、風自体不要だと思います」「『私は職安通りを歩いていた』で十分ですね」「主語も削った方が引き締まりますね」 この話をこれ以上深めるのは悪趣味かもしれないので、やめておく。 話を元に戻す。 メディアによる検閲は、いまのところ、「思想」や「表現」そのものには及んでいない。 ただ、「難解な用語」を平易な言葉に書き改めたり、「重複表現」を圧縮整理せんとしたりする標準活動は、商業メディアの中では、常に堂々と正面突破で敢行されている。 で、私が言いたいのは、そういう「わかりやすさのための改変」を続けているうちに、いつしか大切なものを見失ってしまうケースがあるのではなかろうか、ということだ。 そんなわけなので、今回は、「わかりやすさ」にばかり心を砕くようになっているうちの国のメディアが見失っているかもしれないあれこれについて書くことにする。 わかりにくい話になるはずだが、全員にわかってもらおうとは思っていない。 わからない人には永遠にわからない。 原稿を書く人間は、読解力の低い人間に安易に歩み寄ってはいけない。 テレビでは、もっと露骨に視聴者を舐めた編集が敢行される。 制作側の自覚としては、「より広い視聴者層の理解をうながすべく」番組を制作しているということなのだろうが、見せられる側からすると、 「ほらよ。こういうのが好きなんだろ?」「どうだ? おまえたちの大好物だぞ」てな調子で、餌を投げつけられている気分になる。 たとえばの話、つい20年ほど前までは、局アナによる荘重なナレーションを背景に粛々と進行するのが当たり前だった紀行ものや大自然関連の番組が、昨今では、施設のご老人に小腰をかがめて話しかける介護士さんみたいな口調のアイドル・タレントによるリポートで騒がしく進行されるようになっている。それゆえ、私は、国産のその種の番組はもう10年以上見ていない。 そんなこんなで、もののわかった視聴者は、テレビから離れる。 これは、テレビ全体の視聴時間が減るというだけの話ではない。 より以上に、テレビの前に座っている人間の品質が低下することを意味している。 これは、当然だが、悪循環をもたらす。 「情報弱者向けに平易な番組を制作する」→「志の高い視聴者が去って、視聴者の平均値が低下する」→「さらに理解力の低い視聴者のためにさらに俗に砕いた番組を送出する」というふうにして、いつしかテレビの前の半径数メートルほどの空間は、ほかに時間のつぶしようを持っていない哀れな人々のための吹き溜まりみたいな場所になる。 8月7日の午後3時過ぎ、自民党の小泉進次郎衆議院議員と、フリーアナウンサーの滝川クリステルさんが結婚報告をしたというニュースが流れてきた。第一報は、もっと早かったのかもしれない。いくつかの記事を読むと、民放各局のワイドショー番組は、2時過ぎから構成台本を差し替えて、このニュースのための特別編成を組んだようだ』、「テレビ」の近年のお笑いタレントブームは眼を覆いたくなるほどだ。吉本興行は今でこそ、叩かれてお粗末さを暴露しているが、まさに「愚民政策」の先兵といえる。
・『私自身は、テレビは見ていない。 ツイッター上に流れてきたいくつかの感想ツイートで概要を把握しただけだ。 そんな中で、私は、山崎雅弘さんによる、以下のツイートをリツイート(RT)した。 《私もNHKが午後3時のニュースのトップでこれを大々的に扱っているの見て異様だと思ったが、集められた記者たちは、ただの一議員の私的な結婚発表会がなぜ「首相官邸」という公的な場で行われ、なぜ「首相や官房長官からお祝いの言葉をもらった」等のコメントを自分が報じるのか、意味を考えないのか。》 すると、その私のRTに対して、「どうして素直に祝福できないのか」という主旨のリプライが続々と寄せられてきた。そこで私は、《NHKが3時のニュースのトップに政治家とタレントの結婚を持ってきたことに苦言を呈したRTに対して「どうして素直に祝福できないのか」と言ってくる人たちがわらわらと集まってきている。祝福するとかしないとかの問題ではない。公共放送が報道枠で伝えるべき情報のバランスの問題だ。午後7:21-2019年8月7日》《そもそも、結婚発表の記者会見に官邸が使われていること自体、公私のバランスを見失っている。でもって、その結婚発表の情報を公共放送がニュース速報で伝えている。どうかしていると思わないほうがどうかしていると思う。午後7:23-2019年8月7日》 という2つのツイートを連投した。 思うにこれは公共放送の編集権をどう考えるかだけの問題ではない。 そして、このニュースが、このタイミングで、こんな形で提供されたことは、単なる偶然ではない。 なによりもまず、閣僚でも党の主要な役職者でもない一人の国会議員の結婚報告が、官邸という場所を使って発表されていることそのものが、果てしなく異例だ。 これについては、異例というよりは「異様」という言葉を使うべきなのかもしれない。 とにかく、異様な事態だった。 時事通信が配信した「会見詳報」によれば、小泉氏は、記者の「なぜこのタイミングか」という質問に対して 《─略─ あとはやはり、きのうの8月6日の広島原爆の日、そして9日には長崎の追悼の日が来るから、そこにこのような私事を発表する日が当たってしまうとか、何か報道が当たってしまうっていうのは、それは避けなくてはいけないなと。 そういったことを考えた時に、突然のことだが、きょうだなと。午前中に長官にお電話をして、本当にきょうのきょうで大変申し訳ないんですけど、お時間ありませんかということで(時間を)いただいた次第だ。 ─略─ 》と答えている。 私は、このやりとりをそのまま鵜呑みにすることができない。 当たり前だ』、確かに、「官邸」での「結婚報告」は「果てしなく異例だ」。政治部記者たちは、「小泉氏」はこれで次期安倍内閣への入閣を確実にしたとも解説している。
・『というのも、首相にしても官房長官にしても、彼らが分刻みのスケジュールで動いている極めて多忙な人々であることは、別に政治通やジャーナリストでなくても、当たり前な大人であれば誰でも知っていることだからだ。 にもかかわらず、小泉氏は、「午前中に長官にお電話をして、本当にきょうのきょうで大変申し訳ないんですけど、お時間ありませんかということで(時間を)いただいた次第だ」てな調子のたわけたエピソードを開陳している。 当日の朝に電話して官房長官のアポイントメントが取れたというお話だけでも驚天動地なのに、さらに同じ日に首相への面会を実現し、加えて、折よく官邸に集まっていた記者クラブの記者たちを相手に、官邸の場を借りて即席の会見を開いたんですボク、などというおとぎ話みたいな偶然を、いったい誰が信じると言うのだろうか。 私には無理だ。カニとじゃんけんをしてパーを出して負けたという感じの話の方がまだ信じられる。 率直に申し上げて、前々から、民放のワイドショーの時間を狙って、周到に発表の機会をうかがっていたのでなければ、こんな会見を仕組むことは不可能だと思う。 私は、「仕込み」がいけないとか「用意周到な政治的プロパガンダだからけしからん」とか、そういうことを言おうとしているのではない。 小泉氏にしてみれば、ほかならぬ自分自身の結婚にまつわる経緯を、写真週刊誌あたりに嗅ぎつけられて、あれこれほじくり返されるのは不愉快であるはずだし、そうそういつまでも隠しておける話でもない以上、どこかのタイミングで、自分の口から報告せねばならない。だとしたら、あえて発表の機会を「捏造」して一芝居たくらんだこと自体は、極めて理にかなった行動だと思う。 今回のこのタイミングでの発表は、舞台装置の作り方が若干白々しかったことを除けば、話の持ち出し方としてはおおむね見事だったと思う。 私が問題にしているのは、だから、小泉氏の側の態度や言動や白々しさやいけ図々しさではない。 小泉氏は、ご自身が置かれている状況の中で、自分にできる範囲のことをやってみせただけのことだ。 私が昨日来、絶望的な違和感に身悶えしているのは、官邸と小泉新夫妻の合作による、この陳腐極まりないおめでたセレモニー演出に、誰一人ツッコむ記者がいなかった残念な事実に対してだ。 つまり、官邸に詰めかけた記者が、投げかけるべき質問をせず、また、結婚のニュースを伝えるテレビ番組の制作者やスタジオの出演者たちが、誰一人として批評的な立場からの言葉を発しなかったなりゆきをかみしめながら、私は、うちの国の政治報道と芸能報道が、すでに死滅していることにあらためて呆然としている次第なのだ。 「今回の、ご結婚の発表に官邸を選ばれたのは本当に偶然なのですか?」「……確認いたしますが、小泉さんは、今朝電話をして、その電話で首相と官房長官とのアポイントメントを取ったと、本当にそのようにご主張なさるわけですね?」「いち国会議員が、自身の結婚というプライベートな事情を発表するにあたって、首相官邸を使うことに、ご自身の中で抵抗というのか気後れのようなものは感じていらっしゃるのでしょうか」「総理に報告するためのアポを取った時期は、実際のところ、いつの時点だったのか」「この記者会見のタイミングと場所と内容は、いつ、誰によって、どんな目的で、企画・立案され、どんな手順を経て実行に移されたのか。もしくは、これらは、すべてあなた自身のアタマの中から生まれたことであるのか」と、誰か一人でもいい、テレビのこっち側にいる普通の日本人の誰もが不思議に思っているその質問を、国民になり代わってぶつけてくれる記者がいれば、私の気持ちは、ずいぶん違っていたと思う』、「うちの国の政治報道と芸能報道が、すでに死滅していることにあらためて呆然としている次第」、というのは全く同感だ。
・『ところが、官邸に集まった記者は、揃いも揃ってガキの使い以下の木偶の坊だった。 なんと残念なメディア状況ではないか。 官邸に飼われている番記者は、こんなにもあからさまに飼い犬化するものなのだろうか。 それとも、これは、あらかじめ良き飼い犬としての資質を万全に備えた者でないと、番記者のポジションに就くことができないという順序で進行しているお話なのだろうか。 私も、番記者の諸君と同じで、気温が35度を超えると、知能の働きが3割ほど低下する。 小泉氏がそのタイミングを狙ってこの度のイベントを仕掛けてきたのだとしたら、この勝負は私たちの負けだ。 冒頭で申し上げたように、私たちはメディアに舐められている。 そして、メディアは政治家に舐められていて、政治家は選挙を舐めている。 官邸の犬たちには、自分の傷跡ばかり舐めていないで、ぜひ、飼い主のアキレス腱を噛んでみろと言っておきたい。 きみたちにそれができるか? 「can」 ん?』、官邸記者クラブの一員で菅官房長官から睨まれている硬骨の東京新聞望月記者は、きっとこんな馬鹿馬鹿しい会見などはスルーしたのだろう。それにしても、呆れ果てるような報道ぶりだった。
タグ:メディア 日経ビジネスオンライン 小泉進次郎衆議院議員 小田嶋 隆 (その17)(小田嶋氏:結婚発表会に思う「飼い犬」としての資質) 「結婚発表会に思う「飼い犬」としての資質」 「わかりやすさ」にばかり心を砕くようになっているうちの国のメディアが見失っているかもしれないあれこれについて書くことにする 「情報弱者向けに平易な番組を制作する」→「志の高い視聴者が去って、視聴者の平均値が低下する」→「さらに理解力の低い視聴者のためにさらに俗に砕いた番組を送出する」というふうにして、いつしかテレビの前の半径数メートルほどの空間は、ほかに時間のつぶしようを持っていない哀れな人々のための吹き溜まりみたいな場所になる 滝川クリステルさんが結婚報告 NHKが午後3時のニュースのトップでこれを大々的に扱っているの見て異様だと思った 結婚発表の記者会見に官邸が使われていること自体、公私のバランスを見失っている その結婚発表の情報を公共放送がニュース速報で伝えている。どうかしていると思わないほうがどうかしていると思う 当日の朝に電話して官房長官のアポイントメントが取れたというお話だけでも驚天動地なのに、さらに同じ日に首相への面会を実現し、加えて、折よく官邸に集まっていた記者クラブの記者たちを相手に、官邸の場を借りて即席の会見を開いたんですボク、などというおとぎ話みたいな偶然を、いったい誰が信じると言うのだろうか 私が昨日来、絶望的な違和感に身悶えしているのは、官邸と小泉新夫妻の合作による、この陳腐極まりないおめでたセレモニー演出に、誰一人ツッコむ記者がいなかった残念な事実に対してだ 誰か一人でもいい、テレビのこっち側にいる普通の日本人の誰もが不思議に思っているその質問を、国民になり代わってぶつけてくれる記者がいれば、私の気持ちは、ずいぶん違っていたと思う 官邸に集まった記者は、揃いも揃ってガキの使い以下の木偶の坊だった 私たちはメディアに舐められている。 そして、メディアは政治家に舐められていて、政治家は選挙を舐めている 官邸の犬たちには、自分の傷跡ばかり舐めていないで、ぜひ、飼い主のアキレス腱を噛んでみろと言っておきたい
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安倍政権のマスコミへのコントロール(その11)(テレビ朝日が2000万円報告書問題で麻生財相を追及した「報ステ出身の経済部長」を報道局から追放! 露骨すぎる安倍政権忖度人事、「都合の悪い者」陥れる官邸のフェイクー『新聞記者』のリアル 望月記者らに聞く、アメリカの法学者が 日本の「表現の自由」侵害を本気で心配している 「政治的公平」ってなんだろう) [メディア]

安倍政権のマスコミへのコントロールについては、6月6日に取上げた。今日は、(その11)(テレビ朝日が2000万円報告書問題で麻生財相を追及した「報ステ出身の経済部長」を報道局から追放! 露骨すぎる安倍政権忖度人事、「都合の悪い者」陥れる官邸のフェイクー『新聞記者』のリアル 望月記者らに聞く、アメリカの法学者が 日本の「表現の自由」侵害を本気で心配している 「政治的公平」ってなんだろう)である。

先ずは、6月23日付けLITERA「テレビ朝日が2000万円報告書問題で麻生財相を追及した「報ステ出身の経済部長」を報道局から追放! 露骨すぎる安倍政権忖度人事」を紹介しよう。
https://lite-ra.com/2019/06/post-4792.html
・『本サイトでも継続的にレポートしてきたように、安倍首相と蜜月関係にある早河洋会長のもと、“政権御用化”が進行しているテレビ朝日だが、ここにきて、またぞろ、政権の不正を追及してきた報道局幹部をパージする“政権忖度人事”が行われた。 「経済部部長・Mさんに、7月1日付人事異動の内示が下ったんですが、これが前例のない左遷人事だったんです。M部長の異動先は総合ビジネス局・イベント事業戦略担当部長。今回、わざわざ新たに作った部署で、部長と名ばかり。これまでの部長は政治部長やセンター長になっているのに、これはもう嫌がらせとしか思えません」 M部長は古舘伊知郎キャスター時代、“『報道ステーション』の硬派路線を支える女性チーフプロデューサー”として有名だった女性。経済部長に異動になってからもその姿勢を崩さず、森友問題などでは、経済部として財務省をきちんと追及する取材体制をとっていたという。 「財務省や麻生太郎大臣の会見は、経済部が中心なので、不正や政策の問題点を追及する質問なんてほとんどやらないんですが、Mさんが部長になった頃から、テレ朝は複数の記者を投入して、踏み込んだ質問をするようになった。ごくたまにですが、重要な局面では、Mさん自身も会見に出て、質問していました」(全国紙経済部記者) いま、大きな問題になっている金融庁の“2000万円報告書”問題でも、麻生財務相の会見でこの問題をはじめて追及したのは、テレビ朝日経済部だった。その後も、会見の度に、報告書問題を質問。また、麻生大臣が11日、「報告書を受け取らない」としたときの会見には、M部長自ら出席。報告書の内容を「政府のスタンスとちがう」と言い訳した麻生財務相に、「報告書のベースは金融庁が作っている」「夏の税制改正要望に証券税制の優遇を入れるという意図があったのではないか」と鋭い追及をしていた。 しかし、こうしたテレビ朝日の追及に、麻生大臣が苛立ちを示すケースもしばしばで、2000万円報告書問題では「テレビ朝日のレベルの話だからな」「またテレビ朝日か」「テレビ朝日のおかげで不安が広がった」「おたくのものの見方は俺たちとぜんぜん違う」などと、名指しで恫喝することも少なくなかったという。 そんなさなかに、M部長が聞いたこともない部署に飛ばされる人事の内示が出たため、局内外で「こんな露骨な人事、見たことない」「安倍政権からなんらかの圧力があったのではないか」という声が上がっているのだ。 実際、M部長の異動の裏に、テレ朝上層部の安倍政権忖度があったのは間違いない。 そもそもM部長は、『報道ステーション』のチーフプロデューサー時代から、官邸とテレ朝上層部に目の敵にされてきた。実は、『報ステ』のチーフPを外されたのも、官邸の圧力だったといわれている』、「財務省や麻生太郎大臣の会見は、経済部が中心なので、不正や政策の問題点を追及する質問なんてほとんどやらないんですが、Mさんが部長になった頃から、テレ朝は複数の記者を投入して、踏み込んだ質問をするようになった」、その辣腕のM部長を左遷したとは、「テレ朝上層部の安倍政権忖度があった」ためなのだろう。
・『財務省事務次官のセクハラ問題で官邸が拡散したM経済部長攻撃  2015年、ISによる後藤健二さん、湯川遥菜さん人質事件が起きたさなか、ISを刺激する安倍首相の発言を批判して、コメンテーターの古賀茂明氏が「“I am not ABE”というプラカードを掲げるべきだ」と発言したことに、官邸が激怒。菅官房長官の秘書官が恫喝メールをテレ朝上層部に送りつけるなど、圧力をかけて、古賀氏を降板に追い込んだことがあったが、このとき、古賀氏らといっしょに同番組から外されたのが、M氏だった。 「Mさんがチーフプロデューサーをつとめていた時代、『報ステ』は政権の不祥事や原発問題に果敢に踏み込んでいました。上層部からの圧力にも身を盾にして現場を守っていた。早河さんや当時の篠塚(浩)報道局長らは苦り切っていて、Mさんを外す機会を虎視眈々と狙っていた。そこに、古賀さんの発言があって、官邸から直接圧力がかかったため、古賀さんを降板させた少しあとに、Mさんを政治家とは直接関わることが少ない経済部長に異動させたというわけです」(テレビ朝日局員) しかし、M氏は経済部長になってからも、官邸や局の上層部からマークされ続けていた。 昨年4月、財務省・福田淳一事務次官(当時)の女性記者へのセクハラ問題が勃発したときは、官邸がM氏に責任をかぶせるフェイク攻撃を仕掛けていたフシがある。周知のように、福田次官のセクハラは、「週刊新潮」(新潮社)がスクープしたものだが、告発した女性記者の一人がテレ朝の経済部記者で、M氏はその女性記者の上司だった。そのため官邸は「Mが女性記者をそそのかして告発させた」という情報を拡散させたのだ。 「たしかに当時、官邸に近い政治部記者が『Mが福田次官をハメるため女性記者に「週刊新潮」への音源提供をそそのかした』なるストーリーを口々に語っていました。週刊誌が調べてもそんな事実はなくて、官邸幹部が吹き込んだフェイク情報だったようですが……。官邸はこういう情報操作と同時に、テレビ朝日にも『Mをなんとかしろ』と相当、圧力をかけていたようですね。テレ朝としてはそのときにすぐに左遷するのは露骨だったので、タイミングをみはからっていたんでしょう」(週刊誌記者)』、M氏を「官邸幹部が吹き込んだフェイク情報」で攻撃するほど、目の敵にされていたようだ。
・『テレ朝は3年前にも政権批判した元政治部長を営業職へ  そして、冒頭で紹介したように、麻生大臣の会見などで、2000万円報告書問題を厳しく追及しているさなか、M氏の人事が内示されたのだ。 言っておくが、M部長は特別、過激なことをしていたわけではない。組織の秩序を乱したわけでもないし、不祥事を起こしたわけでももちろんない。政策や政権の不正をチェックするという、ジャーナリズムとしてはごく当たり前の取材・報道をしようとしただけで、10年前だったらなんの問題にもならなかっただろう。 ところが、テレビ朝日は、M氏を報道局から追放し、前例のない人事を行ったのだ。どう見ても「政権に忖度して政権批判者を追放する見せしめ人事」を行ったとしか思えないだろう。 しかも、恐ろしいのは政権批判に踏み込む報道局員を飛ばす、こうした人事がいまや、テレビ局で普通になっていることだ。テレ朝でも同様のケースがあった。解説委員として、ときには政権批判に踏み込むことで知られていたF元政治部長が、3年前に突然、部下が一人もいない営業マーケティング担当局長という新設のポストに異動させられている。 他局でも、政権批判に踏み込むデスクや記者が次々とメインの政治取材から外されており、その結果、官邸や記者クラブでは、政権の言い分を代弁する記者ばかりになり、会見でも安倍政権を追及するような質問は、ほとんど出なくなった。そして、普通に権力のチェックをしようとする数少ない記者たちは「空気を読めないやつ」「面倒臭いやつ」として取材体制から排除されていく。 NHK、フジテレビ、日本テレビだけでなく、テレビ朝日やTBSでも同じことが起きているのだ。この国のテレビはいったいどこまで堕ちていくのだろうか』、「他局でも、政権批判に踏み込むデスクや記者が次々とメインの政治取材から外されており、その結果、官邸や記者クラブでは、政権の言い分を代弁する記者ばかりになり、会見でも安倍政権を追及するような質問は、ほとんど出なくなった」、殆どの国民が知らないところで、「国民の知る権利」が侵されているようだ。

次に、フリージャーナリストの志葉玲氏が7月5日付けYahooニュースに寄稿した「「都合の悪い者」陥れる官邸のフェイクー『新聞記者』のリアル、望月記者らに聞く」を紹介しよう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/shivarei/20190705-00132919/
・『話題の映画『新聞記者』(監督:藤井道人)を観た。本作は、官房長官記者会見での活躍で知られる東京新聞の望月衣塑子記者の著作『新聞記者』(角川新書)を元に、映画プロデューサーの河村光庸さんが企画製作したもの。森友・加計問題や財務省職員の自殺、「総理に最も近いジャーナリスト」とされる元TBS記者による性的暴行疑惑もみ消しなど、この間の安倍政権にからむスキャンダルを連想させる要素がちりばめられ、映画冒頭からラストまで、緊張感を途切れさせず一気に観させる作品だ。劇中には、望月記者や、前川喜平・前文科事務次官、新聞労連の南彰委員長らも本人役で出演している。そこで、望月記者、南委員長に、映画「新聞記者」や、そのモデルとなった現実の日本の政治・社会について聞いた』、映画も見てみたいものだ。
・『政権によるフェイク攻撃  映画の主人公で、東都新聞の若手記者・吉岡エリカ(シム・ウンギョン)は、同紙にリークされた「医療系大学の新設」をめぐる極秘文書の謎を追いかける。本作のもう一人の主人公は内閣情報調査室(通称:内調)で任務につく官僚・杉原拓海(松坂桃李)。政権にとって都合の悪い事実をもみ消すのが、その仕事だ。ある事件をきっかけに内調に疑問を持つようになった杉原は、吉岡の調査取材に協力していく。―本作を語る上で欠かせない大きなテーマは、政権による卑劣なフェイクに、いかに記者が対抗していくかというものだろう。そして、映画の中で描かれた、都合の悪い存在を政権側がデマによって陥れようとする謀略は、今、正に現実で起きているのである。劇中に本人役で出演した新聞労連委員長、南彰記者(朝日新聞)は、自身の経験をこう語る。 「官房長官会見での望月記者に対する質問制限に対し、今年2月、新聞労連は抗議声明を出しました。その後、首相官邸関係者が官邸で取材する各社記者達に、私のプライベートについてスキャンダルめいたデマを吹聴していたと、ある記者から聞きました。そうしたデマは、記者メモとして、政治記者の間で共有されていたのです。もっとも、根も葉もない事実無根のデマなので、それが週刊誌などで記事になることはありませんでしたが、新聞労連の声明に対する『報復』としてのイメージ操作なんでしょうね」(南記者) 望月記者本人も「攻撃対象」とされていると、南記者は言う。 「官邸取材の記者らによれば、菅義偉官房長官やその周辺は非公式のオフレコ取材などで、口を開けば、望月記者について、“あの記者はパフォーマンス。その内、選挙に出るために目立とうとしているんだ”などと批判していたとのことです。そうした批判を何度も繰り返し聞いているうちに、菅官房長官に同調してしまう記者も出てくる。オフレコで政府関係者の本音を聞かされることで、事情通になったつもりになってしまうのですが、オフレコ取材の危うさを記者側も問い直す必要があるのかもしれません」(同)』、「オフレコで政府関係者の本音を聞かされることで、事情通になったつもりになってしまうのですが、オフレコ取材の危うさを記者側も問い直す必要があるのかもしれません」、というのは、記者のさもしい根性を指摘しており、正論だ。
・『政権の存続こそが重要―暗躍する官僚達  劇中で描かれていた、政権を維持するために暗躍する官僚達も実在するようだ。「本書は92%真実」「リアル告発ノベル」だとして『官邸ポリス』(講談社)を執筆した元警察キャリア、幕蓮氏にインタビューした経験を望月記者は語る。 「彼ら警察官僚にとっては、政権が安定し長続きすることこそが第一なのです。映画『新聞記者』の劇中でも、事実を曲げてでも政権を守ろうとする内調の任務に反発する主人公にその上司が“何が真実かは、国民が決めることだ”と正当化するシーンがありましたが、同じようなメンタリティーが実際の官僚機構にもあるのです。しかし、都合の悪い事実を覆い隠して政権が続いたとしても、それが民主主義だと言えるでしょうか?」(望月記者)』、「都合の悪い事実を覆い隠して」どころか、「都合よく事実をねじ曲げる」ことすらしているようだ。
・『嘘を押し通すためのレッテル貼り  事実を事実として認めず、追及する記者に「事実誤認」のレッテル貼りをする。それが公然と行われたのが、官房記者会見での望月記者への質問制限だ。昨年12月末、望月記者の質問について「事実誤認」「度重なる問題行為」だとして、官房記者会見の意義が損なわれることを懸念」、「このような問題意識の共有をお願い申し上げる」と官邸報道室長名で内閣記者会に申し入れた。だが、その申し入れの中で「事実誤認」の具体例として示された望月記者の質問は、むしろ安倍政権の欺瞞を追及する、極めて重要なものであったのだ。前述の新聞労連による声明の一部を引用しよう。 そもそも官邸が申し入れのなかで、東京新聞記者の質問を「事実誤認」と断じた根拠も揺らいでいます。記者が、沖縄県名護市辺野古への米軍新基地建設をめぐり、「埋め立て現場ではいま、赤土が広がっております」「埋め立てが適法に進んでいるか確認ができておりません」と質問したことに対して、官邸側は申し入れ書のなかで、「沖縄防衛局は、埋立工事前に埋立材が仕様書どおりの材料であることを確認しており、また沖縄県に対し、要請に基づき確認文書を提出しており、明らかに事実に反する」「現場では埋立区域外の水域への汚濁防止措置を講じた上で工事を行っており、あたかも現場で赤土による汚濁が広がっているかのような表現は適切ではない」――と主張しました。 しかし、土砂に含まれる赤土など細粒分の含有率は、政府は昨年12月6日の参議院外交防衛委員会でも「おおむね10%程度と確認している」と説明していましたが、実際には「40%以下」に変更されていたことが判明。沖縄県が「環境に極めて重大な悪影響を及ぼすおそれを増大させる」として立ち入り検査を求めていますが、沖縄防衛局は応じていません。「赤土が広がっている」ことは現場の状況を見れば明白です。偽った情報を用いて、記者に「事実誤認」のレッテルを貼り、取材行為を制限しようとする行為は、ジャーナリズムと国民の「知る権利」に対する卑劣な攻撃です。出典:新聞労連声明  つまり、事実に反していたのは、官邸側の主張であり、その嘘をつき通すべく、望月記者に対し「事実誤認」とレッテル貼りし、「度重なる問題行為」だと印象操作したのだ。映画『新聞記者』でも、政界の闇をスクープした記者を、政権側やそれに同調するメディアが「誤報」と決めつけ追い込んでいく描写があるが、それは正に望月記者に対して現在進行形で行われている弾圧なのだ』、「事実に反していたのは、官邸側の主張であり、その嘘をつき通すべく、望月記者に対し「事実誤認」とレッテル貼りし、「度重なる問題行為」だと印象操作したのだ」、首相官邸の行為は陰湿で、不正とすら言えよう。
・『異常なことを異常であると認識すべき  映画の内容にとどまらず、その公開においても、現在の世相が「反映」されているのは象徴的だ。映画の公式ウェブサイトに異常な量のアクセスが集中し、サイトが一時的に閲覧できない状況になったという。映画の広報関係者によると「個々の人間によるものではあり得ない数のアクセスが特定のIPアドレスから集中しています。何らかのシステムを使ったものかと思われます」とのこと。つまり、サイバー攻撃の可能性が高い。この映画を多くの人々に観てほしくない存在による妨害行為なのかもしれない。 いかに、異常なことが起き続けてきたのか。映画『新聞記者』を観て、また望月記者や南記者へのインタビューを通じて、筆者も改めて考えさせられる。安倍政権が歴代3位の長期政権となっていることで、メディア側も一般の人々の側も感覚が麻痺しているのかもしれない。だが、異常なことを異常であると認識し直すことが、今、必要なのだろう。(了)』、「映画の公式ウェブサイト」に「サイバー攻撃」をかけ、妨害するやり口には、開いた口が塞がらない。こうした異常事態を報道しない一般のマスコミも情けない限りだ。

第三に、ライターの高堀 冬彦氏が7月12日付け現代ビジネスに寄稿した「アメリカの法学者が、日本の「表現の自由」侵害を本気で心配している 「政治的公平」ってなんだろう」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65721
・『法に縛られたメディア  「テレビは政治的に公平でなくてはならない」 そう法律で決められているのをご存知だろうか。他にも「公安および善良な風俗を害しないこと」「報道は事実をまげないですること」「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」などが定められている。 この法律とは、放送法4条のことだ。今、この4条をめぐり、政府とテレビ界が水面下で大きく揺れている。米国の法学者で、「表現の自由」の専門家である国連のデイヴィッド・ケイ特別報告者から4条の廃止を勧告されているためだ。 4条は一見、素晴らしい法律であるように思える。なぜ、国連側は問題視するのか? それは、報道機関であるはずのテレビを法律が縛り、政府が監視するということが特異なシステムであるからだ。この4条が、政府が放送局に停波(電波の送信を停止すること)を命じられる根拠になっている。 ケイ氏は「4条は報道規制につながる法律」と厳しく指摘している。なるほど、現行法だと、与党側の総務相が、気にくわないテレビ局に「政治的に公平ではない」などと4条違反のレッテルを貼り、停波を命じることも可能である。こんな法律、ほかの先進国には存在しない』、確かに、「放送法4条」は、第一の記事にあったテレ朝の忖度人事をもたらした背景の1つにもなた、先進国としては恥ずかしい代物だ。
・『独裁国家か後進国か  ケイ氏の勧告は2017年に11項目にわたって出され、4条廃止はそのうち一つだった。ところが、政府が4条廃止などを実行しなかったため、このほどケイ氏は新たな報告書をまとめた。 だが、政府はこれに反発。菅義偉官房長官(70)は今年6月5日の記者会見で、「極めて遺憾」と強い不快感を示した。それは怒るだろう。もし、本当に政府が法律で報道規制を行っていたら、まるで独裁国家か後進国だ。 とはいえ、ケイ氏は怯まなかった。同26日、パリで行われた国連人権理事会でも「4条廃止が不履行のまま」と主張し、日本の報道の自由には懸念が残ると警鐘を鳴らしたのである――。 ケイ氏の勧告どおりに4条が廃止されれば、テレビ界は自由な政治関連報道が出来るようになり、自民党や総務相の影にも怯えずに済むようになる。4条廃止は望むところであるに違いない』、「国連のデイヴィッド・ケイ特別報告者」がしつこく日本政府に「4条廃止」を迫る姿勢は大したものだ。
・『「現状維持のほうがいい」  ところが、NHKの上田良一会長(70)は2018年4月の定例会見で「4条はニュースや番組を制作するうえで遵守すべきものだと信じている」と発言。民放はというと、これまた各局とも放送改正に反対している。 一体、どういうことなのか? ベテランのテレビマンらに話を聞いたところ、「4条廃止と同時に何が起こるか分からないから、現状維持のほうがいい」という。また、4条が廃止されれば、テレビ界に規制緩和の波が押し寄せる公算が大きい。廃止と軌を一にして国から受けてきた庇護をいっぺんに失う恐れがある。実のところ、チャンネルさえ得られれば潰れないテレビ界は「最後の護送船団方式」とも呼ばれているのだ。 起こり得る規制緩和の一つは、電波の利用料を競争入札化する電波オークション制度の導入。こちらも先進国では半ば常識化しているのだから。政府は既に検討を済ませている。テレビ局の電波利用料として現在は計数十億円が総務省に支払われているが、オークションが導入されると、それが少なくとも数倍になることが見込まれている。そもそも、テレビ各局は携帯電話会社の2分の1以下程度の電波利用料しか支払っていない。このため、携帯電話会社側から「不公平」との声が上がっているのだ』、「テレビ界は「最後の護送船団方式」とも呼ばれている」、新聞業界も消費税非課税の恩典と、マスコミ業界も既得権擁護に血道を上げているようでは、「政権の監視役」などおぼつかない。
・『メディアの質は下がるのか  視聴者側には「4条がなくなり、フェイクニュースや俗悪番組が増えたら、どうするのか」という不安もあるに違いない。だが、それには政府や政党とは一線を画した独立放送規制機関を設けて、対応すればいい。法律で縛り、政府が監視するのとは別次元の話だ。事実、よその先進国はそうしている。 独立放送規制機関としてアメリカにはFCCがあり、イギリスはOfcomを持ち、フランスはCSAを擁する。これらの組織は強い権限を持ち、一方で政府や政党は介入できない仕組みになっている。 これらの独立放送規制機関は、テレビ局が視聴者を裏切る嘘をついたり、下品な放送を行ったりすると、厳格に対処する。免許取り消しや停波の権限も持つ。罰金を科すこともある。法律や政府がテレビ局を縛らなくなろうが、テレビ局がいい加減な放送をできるようになるわけではない。 日本にも独立放送規制機関ができたら、BPOも役割を終える。テレビ界が自分たちで資金を出し合い、スタッフを選び、苦情に対応する組織を設けているのも特異なのである。世界的に類を見ない組織なのだ。だから、どんなに厳しい判断を下そうが、自民党や視聴者から「甘い」と言われてしまいがちだ』、欧米流の「独立放送規制機関は、テレビ局が視聴者を裏切る嘘をついたり、下品な放送を行ったりすると、厳格に対処する。免許取り消しや停波の権限も持つ。罰金を科すこともある」、というのはいい仕組みだ。放送法改正で抜本的に見直すべきだろう。
・『「公平」な番組なんてない  一方、各国の政治的公平への取り組みには少し温度差があり、フランスのCSAこそ政党ごとの扱い時間などを調べているが、アメリカなど大半の国は自由だ。政治的公平など問われない。そもそもテレビ界の政治的公平は絵に描いた餅だろう。言葉の意味を考えただけで、政治的公平が至難であることが分かる。 【公平】自分の好みや情実で特別扱いする事が無く、すべて同じように扱うこと(「新明解国語辞典」三省堂) そんな番組、あるのだろうか? 自民党、あるいは野党の悪口ばかり言うコメンテーターもいる。出来もしないことが法律で定められていて、国連側から撤廃を求められているというのが現状だろう。 そもそも、新聞や雑誌には政治的公平を定めた法律などない。後発のネットも同じ。テレビ界は法律がないと、大きく逸脱してしまうのか? それでは情けないだろう。 ケイ氏の主張の核心もここにあるはずだ。メディアは自分たちで「正しい報道」を判断すべきであり、法律で縛られたり、政府から監視されたりするものではない』、説得力溢れた主張で、諸手を上げて賛成したい。
タグ:yahooニュース 志葉玲 現代ビジネス 安倍政権 litera マスコミへのコントロール (その11)(テレビ朝日が2000万円報告書問題で麻生財相を追及した「報ステ出身の経済部長」を報道局から追放! 露骨すぎる安倍政権忖度人事、「都合の悪い者」陥れる官邸のフェイクー『新聞記者』のリアル 望月記者らに聞く、アメリカの法学者が 日本の「表現の自由」侵害を本気で心配している 「政治的公平」ってなんだろう) 「テレビ朝日が2000万円報告書問題で麻生財相を追及した「報ステ出身の経済部長」を報道局から追放! 露骨すぎる安倍政権忖度人事」 経済部部長・Mさんに、7月1日付人事異動の内示が下ったんですが、これが前例のない左遷人事 “『報道ステーション』の硬派路線を支える女性チーフプロデューサー”として有名だった女性 財務省や麻生太郎大臣の会見は、経済部が中心なので、不正や政策の問題点を追及する質問なんてほとんどやらないんですが、Mさんが部長になった頃から、テレ朝は複数の記者を投入して、踏み込んだ質問をするようになった 金融庁の“2000万円報告書”問題でも、麻生財務相の会見でこの問題をはじめて追及したのは、テレビ朝日経済部 M部長の異動の裏に、テレ朝上層部の安倍政権忖度があった 財務省事務次官のセクハラ問題で官邸が拡散したM経済部長攻撃 官邸幹部が吹き込んだフェイク情報 テレ朝は3年前にも政権批判した元政治部長を営業職へ 「「都合の悪い者」陥れる官邸のフェイクー『新聞記者』のリアル、望月記者らに聞く」 『新聞記者』(監督:藤井道人) 東京新聞の望月衣塑子記者の著作『新聞記者』(角川新書) 望月記者や、前川喜平・前文科事務次官、新聞労連の南彰委員長らも本人役で出演 政権によるフェイク攻撃 官房長官会見での望月記者に対する質問制限に対し、今年2月、新聞労連は抗議声明 オフレコで政府関係者の本音を聞かされることで、事情通になったつもりになってしまうのですが、オフレコ取材の危うさを記者側も問い直す必要があるのかもしれません 政権の存続こそが重要―暗躍する官僚達 『官邸ポリス』(講談社) 嘘を押し通すためのレッテル貼り 沖縄県名護市辺野古への米軍新基地建設 偽った情報を用いて、記者に「事実誤認」のレッテルを貼り、取材行為を制限しようとする行為は、ジャーナリズムと国民の「知る権利」に対する卑劣な攻撃です。出典:新聞労連声明 事実に反していたのは、官邸側の主張であり、その嘘をつき通すべく、望月記者に対し「事実誤認」とレッテル貼りし、「度重なる問題行為」だと印象操作したのだ 異常なことを異常であると認識すべき 高堀 冬彦 「アメリカの法学者が、日本の「表現の自由」侵害を本気で心配している 「政治的公平」ってなんだろう」 法に縛られたメディア 放送法4条 米国の法学者で、「表現の自由」の専門家である国連のデイヴィッド・ケイ特別報告者から4条の廃止を勧告されているた この4条が、政府が放送局に停波(電波の送信を停止すること)を命じられる根拠になっている 独裁国家か後進国か 「現状維持のほうがいい」 各局とも放送改正に反対 4条が廃止されれば、テレビ界に規制緩和の波が押し寄せる公算が大きい。廃止と軌を一にして国から受けてきた庇護をいっぺんに失う恐れがある 電波の利用料を競争入札化する電波オークション制度の導入 テレビ界は「最後の護送船団方式」 メディアの質は下がるのか 独立放送規制機関は、テレビ局が視聴者を裏切る嘘をついたり、下品な放送を行ったりすると、厳格に対処する。免許取り消しや停波の権限も持つ。罰金を科すこともある 「公平」な番組なんてない
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メディア(その16)(小田嶋氏:ハゲタカとハイエナたちの生態系) [メディア]

メディアについては、6月25日に取上げたばかりであるが、今日も、(その16)(小田嶋氏:ハゲタカとハイエナたちの生態系)である。

コラムニストの小田嶋 隆氏が1月26日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「ハゲタカとハイエナたちの生態系」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/012500128/?P=1
・『この2年ほど、当たるを幸いに有名人の婚外交渉や私生活上の不品行を暴き立てては、斯界に話題を提供してきたいわゆる「文春砲」が、ここのところ自爆気味に見える。 特に、先週号(1月25日号)で、小室哲哉さんの不倫疑惑を暴露した記事への反発は、これまでにない規模の「炎上」と申し上げてよい騒ぎを惹起している。 今回は、文春砲自爆の話題を蒸し返したい。 蒸し返したいという書き方をしたのは、この炎上騒動がおおむね終息したと判断している読者が少なくないと思ったからだ。 私は、終わりだとは思っていない。 むしろ、始まったばかりだと考えている。 何が始まっているのかは、以下に書き進めるなかでおいおい明らかにしていくつもりだ。 2016年の12月27日、私は以下のようなツイートを投稿した。 《2016年は週刊誌が死んだ年だと考えている。いわゆる「文春砲」で息を吹き返したと思っている人もいるんだろうけど、部数の復活も一瞬の話で、要するにああいう品の無いスキャンダリズムに舵を切った時点で真っ当なメディアとして自殺したわけだよね》(こちら) 今回の騒ぎは、私が一昨年の年末に書きこんだ観察が、事実として顕現している姿に見える。 いまわれわれが目撃しているのは、昭和の人間が考えていた「週刊誌ジャーナリズム」なるものが死滅して、新しい何かが誕生する過程で繰り広げられている愁嘆場だということだ。 小室哲哉さんの私生活をあからさまに暴露した今回の記事への評価は、観察する者の立場によって様々だとは思うのだが、個人的には、小室氏本人の口から 《「お恥ずかしい話ですが、普通の男性としての能力というものがなくて」》 という発言を引き出す事態を招いた一点だけをとっても、残酷な仕打ち以上のものではなかったと考えている。 何十人という記者と全国ネットのテレビカメラの前で、自分の男性機能の喪失を告白せねばならなかったご本人の気持ちはいかばかりであったろうか。 記者会見の当日、私は 《個人的な見解ですが、私は、不倫をしている人間より、他人の不倫を暴き立てて商売にしている人間の方がずっと卑しいと思っています。》(こちら)というコメントをツイッターに書きこんだ。 特に目新しい感慨ではない。目からウロコが落ちるような発見を含んでいるわけでもなければ、思わずヒザを打つ秀抜な修辞がほどこされているわけでもない。その、どちらかといえば凡庸な感想ツイートが、現時点で1万件以上のリツイートと、2万件以上の「いいね」を獲得している。それほど、共感する人が多かったということだ』、私も政治家向けの「文春砲」を別にすれば、悪趣味と眉を顰める口だ。
・『ツイッターをはじめて9年になるが、記憶している限りでは、1万RTも、2万件の「いいね」も、今回のこれがはじめてだ。 この数字は、一般の人々の間に底流している「文春砲」への反発が、思いのほか巨大であることを示唆している。でなくても、世間の不倫報道への忌避感を代弁している結果だろう。 私自身は、当欄でも何度か繰り返している通り、「文春砲」には、その言葉が誕生した直後から不快感を抱いている。 たとえば、2016年の6月から7月にかけて 《暴露→告発→糾弾→会見→辞任要求みたいなパパラッチ報道からリンチ制裁に至る流れを「文春砲」だとかいって持ち上げるバカがいるのは仕方ないのだとして、当の編集部が調子ぶっこいて「文集砲ライブ」とか言ってニコ生を流してる姿は醜悪すぎる》(こちら) 《文春砲LIVE」という恥ずかしいタイトルの左下に、わざわざ※(こめじるし)付きで、(※文春砲=週刊文春のスクープ、もしくはスクープ記者のこと)と注釈を付けている。カッペという死語を召喚せざるを得ない。》(こちら) という強い調子のツイートを発信している。 まあ、アタマに来ていたわけです。 興味のある向きは、「文春砲」というキーワードで検索すれば、文春砲の公式ツイッターアカウントにたどりつくことができる。 ぜひ見に行ってほしい。 見どころのひとつは、当該アカウントのホームページ上に登場する「文春(ふみはる)くん」と名づけられたアニメキャラの絵柄だ。 片目をつぶって舌を出しながら、片手でバズーカ砲のような携行火器を構えている「文春くん」の立ち姿は、私の目には 「へへっ、オレはターゲットを見つけたら何の遠慮もなくぶっ放すぜ」と宣言しているように見える。 表情は、いわゆる「ゲス顔」という言葉で分類される顔だと思う。 あれが、ゲス顔でないのだとしたら、私はほかに実例を思い浮かべることができない。 商業雑誌の編集部が、自分たちの取材活動を擬人化した二次元表象を設定するにあたって、どうしてこんな小面憎いゲス顔の半ズボンのガキを持ってきたのかを考えると、なかなか興味深い。 おそらく、彼らとしては、「ヘヘん。パパラッチと言わば言えだ。スクープは撮ったもん勝ちの記事は売ったもん勝ちってこった」「報道倫理がどうしたとか取材マナーがハチのアタマだとかいった書生くさい小理屈論争がお好きなら学校新聞の部室か昼下がりの牛丼屋で好きなだけ開陳してくれ。オレらプロは忙しくてそれどころじゃないんであしからず」「ケケケ。ウチの社屋の壁がどうして真っ黒なのか勉強してから苦情を持ち込みやがれ」ぐらいな一種捨て鉢なプロ根性を図案化したつもりでいるのだろう。 こういうところでいい大人が悪ぶってみせずにおれないのは、彼らが、一方において、うしろめたさを感じているからだと、そういうふうに見るのは、これはうがち過ぎであろうか。 ふみはるくんはふるえている。 そう思うと、いささか哀れだ』、「いい大人が悪ぶってみせずにおれないのは、彼らが、一方において、うしろめたさを感じているからだ」、というのは鋭い指摘だ。
・『何度も書いたことだが、もう一度書いておく。 不倫(本来なら「婚外交渉」という単語を使いたい。「不倫」という情緒に汚れた言い方は好まない。ただ、字数や語感の点で「不倫」を使った方が文章が書きやすかったりする。困ったことだ)は、好ましいことではない。民法上の不法行為であることはもとより、なによりパートナーの信頼を裏切る行為だからだ。 しかしながら、当事者でない人間にとって、他人の不倫は、文字通りの他人事だ。 このことはつまり、誰も他人の不倫を責める資格を持ってはいないし、面白がって話題にする権利も持っていないことを意味している。 それ以上に、仮に結果として誰かの不倫関係を知ることになったのだとしても、普通の人間はそれを暴く権利も理由も必然性も持っていない。なんとなれば、不倫ではあっても(あるいは不倫であるからこそ)それは個人の私生活の範囲内の出来事なのであって、その個人の私生活の秘密は、その彼または彼女が暮らしている社会が健全な市民社会である限りにおいて、最終的かつ不可逆的に防衛されなければならないものだからだ。 では、報道にたずさわる者なら、他人の不倫を暴く権利を持っているものなのだろうか。 これは、一概には言えない。 不倫をはたらいた当事者の立場にもよれば、その婚外交渉の当事者の関係性にもよる。 相手が政治家をはじめとする高い倫理基準を求められる人間であるのなら、そういう人間の不倫は、公益のために暴露されても仕方がない場合もあるだろう。 が、単に著名な人間だからという理由で、歌手や俳優やスポーツ選手の婚外交渉がもれなく世間に公表されなければならないのかといったら、私はそんなことはないと思っている。 文春砲が、誕生以来2年ほどの間、一部で強烈な反発を招きながらも、大筋として、スキャンダル好きの商業メディアと一般大衆の心をとらえてきた理由のひとつは、ターゲットの選び方が巧妙だったからだ。 どういうことなのかというと、彼らは、世間がなんとなく反発を抱いている人間に的を絞って、その不倫を暴く仕事を続けていたわけで、結果、世間は、内心で叩きたいと思っていた人間について、存分に叩いてかまわない材料を与えられることになったわけで、なればこそ、文春砲は、社会的なリンチをスタートさせるホイッスルとして制裁趣味を抱く人々に歓迎されていたということだ。 世間は、不倫を糾弾していたようでいて、実は不倫そのものにはたいして興味を持っていなかったし、怒りを覚えてもいなかった。彼らが熱中したのは、前々からなんとなく面白くなく思っていた人間の人格のあり方を指弾することであり、不倫実行者が不倫発覚前にかぶっていたいい子ぶりっ子の仮面を、よってたかって引き剥がして嘲笑することだったわけで、文春砲が果たしていた役割は、その「まだ無傷でいるパブリックエネミー予備軍」を見つけ出して、その彼らを不倫のタグ付きで公開処刑の刑場に送り込むことだったのである。 が、自ら「文春砲」を名乗り、「文春砲ライブ」なる小銭稼ぎのイベントを企画しはじめたころから、ゲス顔の文春くんの仕事ぶりは、あらかじめ狙いを定めたターゲットを編集部が想定したシナリオにハメこんで貶めにかかるテの、マッカーシズムじみた手法に移行していった。そんなこんなで、もともとは、読者の関心に応える取材だったはずのものが、不倫告発自体を自己目的化したうえで商売のシステムに乗っける「不倫狩り」の様相を帯びるに至って、いよいよ自爆への傾斜を深めつつあるわけですね。 文春砲のスキャンダル暴露記事は、編集部に、ワイドショーやスポーツ新聞などの後追い取材のメディアから得る情報提供料や、「dマガジン」(NTTドコモが運営する有料の雑誌閲覧アプリ)経由の閲覧料収入(クリック数に呼応して増加する設定になっている)をもたらしている。で、その貴重な現金収入は、おそらく相当な金額にのぼっているはずの取材手数料や経費をまかなうための必須のドル箱にもなっている。 ただ、このビジネスモデルは、本来の、部数による売上と単行本収入(と、連載記事の単行本化による収入)という雑誌本来の収益構造とは別立ての、「日銭稼ぎ」に近い』、「文春砲が果たしていた役割は、その「まだ無傷でいるパブリックエネミー予備軍」を見つけ出して、その彼らを不倫のタグ付きで公開処刑の刑場に送り込むことだったのである」、というのは実に本質を突いた指摘だ。
・『仮に当面はそれで採算がとれているのだとしても、中長期的に見て「文春砲」が文春に勝利をもたらすのかどうかは、いまだ未知数だと申し上げなければならない。 というのも、ゲス不倫を暴けば暴くほど、看板が泥にまみれている点が、伝統ある総合雑誌の立ち姿としてどうにも致命的からだ。 実際、文春の看板は泥よりももっと悪いものにまみれている。 その彼らの看板が昨年来まみれている泥よりもさらに悪いものを、彼らは、この先、食べねばならないハメに陥ることになるかもしれない。それはとてもつらい経験になるはずだ。 雑誌発売日のあとの最初の日曜日のお昼前に、とある民放のバラエティー番組に、週刊文春の記者がVTRで出演したのだそうだ。 そのVTRの中で、記者は、同誌の不倫疑惑報道をきっかけに引退を表明した音楽プロデューサー・小室哲哉氏(59歳)について「本意ではない結果になった」とコメントしたのだという(こちら)。 私は、この番組を見ていないのだが、伝えられているところによれば、記者は、顔を映さないアングルで画面に登場していたようで、ネット上では、その点に激しい糾弾の声が集中している。 「ヒトの私生活を暴いておいて、自分は顔出しNGかよ」「卑怯者と書いてぶんしゅんほうと読ませるみたいなw」「誰がゲスの極みなのか鏡を見てよく考えてもらいたいですね」 まあ、当然のツッコミではある。 この空気は、編集長自らが顔出しで記者会見を開いて説明しないと収まらないだろう。 というのも、これまで、文春砲を文春砲たらしめていたのは、 「世間を騒がせた人間は世間に向けて自分の潔白を証明するのか、でなければ世間に向けて自らの罪を詫びるのかせねばならない。とすれば、いずれにせよ、記者会見を開いて自分の言葉で説明しなければならないはずだ」 という感じの、メディアを公開裁判所に擬した理屈で、その種のメディア万能のフルオープン至上主義の正義を奉じてきた張本人が、これだけ世間を騒がせたあげくに、編集部の隅っこに隠れて会社員でございますみたいな顔をしていたのではスジが通らないからだ。 自らを「砲」になぞらえている人間が、チキンであるはずはないわけで、だとすれば、近いうちに、われわれは、編集長の記者会見を見ることができるはずだ。私は信じている。 さて、文春は死んだのだろうか。 私は、現段階では、死んだとは思ってはいない。 雑誌にかかわってなんだかんだで35年ほどになる。 その間、たくさんの雑誌の臨終に立ち会ってきた。ひとつの雑誌の編集部どころか、ジャンルまるごとが消える事態にも直面してきた。現在でも、雑誌の世界は、時々刻々、急速にシュリンクしつつある。このことを、私のような雑誌の世界で暮らしてきた人間は、身に迫る実感として、身にしみて感じている。 そんななかで、週刊文春は、私が生まれる前から一流の雑誌だったし、いまもって日本一の発行部数を誇る総合雑誌だ。簡単に死ぬとは思えない。 ただ、雑誌は、編集長のものだ。 看板が同じでも、編集長が変わると、誌面はかなり根本的に変貌する』、「小室哲哉氏」の「不倫疑惑報道」は確かに取り上げた意味を疑わせるものだ。「近いうちに、われわれは、編集長の記者会見を見ることができるはずだ。私は信じている」と編集長の記者会見を暗に催促しているが、果たして応じるだろうか。
・『私自身、さまざまな雑誌を舞台に、新任の編集長が着任するタイミングで連載企画をスタートさせてもらったり、逆に自分に声をかけてくれた編集長の退任のタイミングで連載陣から離脱したりした経験をいくつか重ねてきている。このことからもわかるように、雑誌の内容は、誌名の看板からやってくる伝統のDNAよりも、その時々のトップの人柄なり思想なりをより強く反映することになるものなのだ。 とすれば、ひとつの雑誌がどんなに煮詰まって見えるのであれ、編集長をはじめとするスタッフの顔ぶれを変えれば、内容が一新される可能性は常にある。その意味で、出口が見えなくなっているかに見える雑誌にも、必ず打開策は用意されている。 また、雑誌は一枚岩の組織でもない。 雑誌は、その本能として、誌面の中に一定量の異分子を養っておく習性をそなえている。 過度に純一な思想に偏った雑誌は生き残れない、と、長い経験が教えるからだ。 だからこそ、私のような書き手にもかろうじて生計の道が残されていたわけで(本来声のかかるはずのない雑誌で、誌面にそぐわない文章を書く機会が多かったのです)、結局のところ、雑誌はひとつの生態系だということなのだろう。 ハゲタカとハイエナを一掃しろとは言わない。 そんなことは無理にきまっているし、環境からスカベンジャー(注)を排除することは暴挙でさえある。 ただ、ハゲタカとハイエナだけでは、生態系は維持できないということを、一匹のフンコロガシとして申し上げて、ごあいさつに代えさせていただきたい。ご清聴ありがとう』、「雑誌はひとつの生態系だということなのだろう」、というのはその通りなのかも知れない。最後の締めはいつもながら見事だ。
(注)ここでのスカベンジャーとは、ハゲタカ、ハイエナなどの腐肉食動物(Wikipedia)。
タグ:メディア 小室哲哉 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 メディア(その16)(小田嶋氏:ハゲタカとハイエナたちの生態系) (その16)(小田嶋氏:ハゲタカとハイエナたちの生態系) 「ハゲタカとハイエナたちの生態系」 「文春砲」 ここのところ自爆気味 品の無いスキャンダリズムに舵を切った時点で真っ当なメディアとして自殺 他人の不倫を暴き立てて商売にしている人間の方がずっと卑しいと思っています 世間の不倫報道への忌避感 「文集砲ライブ」 文春(ふみはる)くん 「へへっ、オレはターゲットを見つけたら何の遠慮もなくぶっ放すぜ」と宣言しているように見える いい大人が悪ぶってみせずにおれないのは、彼らが、一方において、うしろめたさを感じているからだと、そういうふうに見るのは、これはうがち過ぎであろうか 誰も他人の不倫を責める資格を持ってはいないし、面白がって話題にする権利も持っていないことを意味 それは個人の私生活の範囲内の出来事なのであって、その個人の私生活の秘密は、その彼または彼女が暮らしている社会が健全な市民社会である限りにおいて、最終的かつ不可逆的に防衛されなければならないもの 文春砲が果たしていた役割は、その「まだ無傷でいるパブリックエネミー予備軍」を見つけ出して、その彼らを不倫のタグ付きで公開処刑の刑場に送り込むことだったのである ゲス不倫を暴けば暴くほど、看板が泥にまみれている点が、伝統ある総合雑誌の立ち姿としてどうにも致命的からだ メディア万能のフルオープン至上主義の正義を奉じてきた張本人が、これだけ世間を騒がせたあげくに、編集部の隅っこに隠れて会社員でございますみたいな顔をしていたのではスジが通らない 近いうちに、われわれは、編集長の記者会見を見ることができるはずだ。私は信じている 結局のところ、雑誌はひとつの生態系だということなのだろう
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メディア(その15)(小田嶋氏2題:「死ぬこと以外かすり傷」ではかなわない、コラボTシャツが越えた一線) [メディア]

メディアについては、5月23日に取上げた。今日は、(その15)(小田嶋氏2題:「死ぬこと以外かすり傷」ではかなわない、コラボTシャツが越えた一線)である。

先ずは、コラムニストの小田嶋 隆氏が5月24日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「死ぬこと以外かすり傷」ではかなわない」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00022/?P=1
・『幻冬舎という出版社の社長が、同社で出版している書籍の実売部数をツイッター上で暴露したことが話題になっている。 この件についての報道やネット上の反応を眺めながらあらためて思ったのは、出版界内部の反応が大きいわりに、世間一般のリアクションが思いのほか冷淡だったことだ。 おそらく、ほか一般の業界で仕事をしている人たちの中には 「出版もまたビジネスである以上、情報を公開するのは当然なのではないか」と考えている人が少なくないのだろう。そして、そう考えている人たちからすると、見城氏が津原泰水氏の前作の実売部数を暴露して揶揄したことに激越な反応をしている出版界の人々の態度は、理解に苦しむところなのかもしれない。 理屈としては理解できる。 21世紀のビジネスの常識で考えれば、商品として市場に出した書籍の情報を、その売り主である出版社の社長が公開したことは、市場主義経済の原則からして、しごく当然な判断に見えるからだ。 逆に言えば、自分たちが扱っている商品の売上高という、もっとも基本的な情報を「秘匿条項」「隠しておくべき常識」「誰にも知らせるべきでない数字」としている出版業界の商習慣ないしは業界体質の方が、どちらかと言えば異例だということでもある。 現在、見城徹氏は、実売部数を暴露したツイートを謝罪の上削除して、今後ツイッターで発言しない旨をアナウンスしている。 もっともこの「謝罪」と「ツイッター封印」に対してはいまなお批判が渦巻いている。 「『誰に』『何を』謝罪しているのかがまったくわからない」「とりあえず謝罪のポーズを示して事態を収拾したいという意図以外のナニモノをも感じ取ることができない」「ツイッター封印も、謝罪とは無縁だな」「むしろ逃亡というのか『姿をくらました』ということでしょ」「酒で失敗した人間が断酒するのとはまるで別で、むしろナイフで人を刺した犯人が凶器のナイフを川に捨てましたみたいな話だよな」 と、いたって評判がよろしくない。 たしかに、見城氏の謝罪ツイートは、実売部数を晒された当事者である津原泰水氏への明確な謝罪の形をとっていない。 ツイッター封印宣言も、昨今話題になっている某政党の「失言防止マニュアル」と似たようなものに見える。 見城氏がツイッターを封印するのは、「思ってもいないこと」をつぶやいてしまうことを防ぎたかったからではない。 「言葉尻をとらえて自分の真意と違う解釈で噛みついてくる有象無象から逃れる」ためでもない。 彼がツイッターを封印したのは、「内心で思っていること」を「うっかりつぶやいてしまうリスク」を恐れたからで、その理由も、結局のところ彼が「内心で思っていること」が、そもそも不見識であったり非常識だったり反社会的だったり無慈悲だったりすることから来ている。 ということは、見城氏がツイッターから撤退したのは、反省の気持ちを表現するためではなくて、むしろ、説明責任を回避する目的だったと見るのが自然だろう』、私も「見城氏が津原泰水氏の前作の実売部数を暴露して揶揄したことに激越な反応をしている出版界の人々の態度は、理解に苦しむ」1人だ。ただ、「見城氏がツイッターから撤退したのは、反省の気持ちを表現するためではなくて、むしろ、説明責任を回避する目的だった」とすれば、見城氏は卑怯だとはいえる。
・『ともあれ、出版まわりでは、見城氏を擁護する立場の人間はほぼ皆無と申し上げて良いかと思う。 どうして、これほどまでに評判が悪いのか。 今回はそこのところについて考えてみたい。 出版事業は、現代の産業に見えて、その実、現場の仕事ぶりは、街のパン屋さんや畳屋さんとそんなに変わらない昔ながらの手作業に支えられている。 一方で、10万部を超える書籍に関して言えば、「濡れ手で粟」ということわざが示唆する通りの利益率をもたらす。 100万部超ということにでもなると、これはもう、よく使われる比喩なのだが「お札を刷ってるみたいなものだ」という次第のものになる。 ということはつまり、出版という仕事は、その構造というのか前提自体がギャンブルなのである。 5000部以下の部数にとどまる大多数の赤字の書籍と、突発的に発生する何十万部のスマッシュヒットというまったく相容れないビジネスモデルが並立しているところに出版という事業の不思議さがある。 この出版界のピラミッドは、全体から見ればごく少数の例外に過ぎない10万部超のベストセラー書籍の売り上げが、何百人という赤字書籍の書き手を養っている構造ということになるのだが、忘れてならないのは、その1000部とか2000部という売れない書籍を制作しながら経験を積んだ書き手の中から、ある日ベストセラー作家が生まれるという形での新陳代謝が業界を活性化させているもう一方の事実だ。 ともあれ、そんなわけなので、編集者の常識も2つの矛盾したプリンシプルを同時に踏まえたものになる。 具体的に言えば、彼らは、10万部・100万部のヒット作を生み出すために、常に売上部数の極大化を目指さなければならない一方で、1000部とか2000部の部数で低迷している著者を大切に育成保護督励称揚し続ける義務を負っているのである。 編集者は、著者をリスペクトしなければならない。 一方で、彼らは、売れない書き手を切り捨てなければならない。 この2つの矛盾した態度を、一人の人間の中で両立させないと一人前の編集者にはなれない。 もちろん、書き手と編集者は、無論のこと2つの別々の独立した人格だ。 が、ひとつの書籍を制作している過程のある時期には、ほとんど一体化することが求められる。 それゆえ、二者のどこまでも複雑かつ微妙な感情を孕んだ関係を取り結ぶことになる』、「5000部以下の部数にとどまる大多数の赤字の書籍と、突発的に発生する何十万部のスマッシュヒットというまったく相容れないビジネスモデルが並立しているところに出版という事業の不思議さがある」、「編集者は、著者をリスペクトしなければならない。 一方で、彼らは、売れない書き手を切り捨てなければならない。 この2つの矛盾した態度を、一人の人間の中で両立させないと一人前の編集者にはなれない」、などというのは初めて知った。編集者は並大抵の人間には無理な「神業」のようだ。
・『以下、私の過去ツイートの中で「編集者」というキーワードを含む書き込みをいくつか抽出してみる。われわれの世界に蔓延するいたたまれない空気を多少とも感じ取っていただけたらありがたい。 《固定電話にかけてくる人々。1.セールス 2.料金の督促 3.慇懃な編集者 4.親戚のご老人 5.間違い電話 6.変態 …まあ、あんまり出たくないですね。》 《原稿を書く人間には「引き伸ばす」「嘘をつく」「放置する」「逃げる」「屁理屈をこねる」といった所行は、著者にのみ許された一種の権利なのだという思い込みがありまして、それを編集者の側から著者に向けて発動されると、やはり茫然とするわけですね。》 《テレビのスポーツ番組の中には、アスリートを単なる「素材」扱いにしている感じのものがたまにあって、たぶん、作ってるヤツはシェフ気取りなんだろうなと思ったりする。それはそれとして、出版の世界で、著者を「手駒」と考えて仕事をする編集者が成功するとは思えない。》 《編集者泣かせと言うが、編集者の主たる職分は泣くことではないのか。》 《鳴かぬなら 私が泣こう 編集者》 《ライターを「時々仕事をまわしてやってる出入りの業者」ぐらいに思っている編集者は実在する。いま言ってるのは「そういう態度をとる編集者」のこと。内心でそう思ってる組はもっと多いはず。まあ、こっちが「時々仕事をまわしてもらっている出入りの業者」であること自体は事実だし。》 《これはあくまでも私の憶測なのだが、メディア企業の社員(編集者とかディレクターとか)は、自分が担当する自由業者(書き手とか出演者とか)の他媒体での仕事をチェックしなくなる。理由は定期的に顔を合わせる現場で気まずくなりたくないから。だからこそ座持ちが良いだけの人間が生き残る。》 《「天才編集者」という言葉をサラリと使ってしまえる編集者のアタマの中では、書き手は素材なのだろうな。おまえらはしょせんじゃがいもで、シェフのオレが味をつけて演出してやってるからはじめて料理になる、と。で、オレらは試験通ったエリートで、お前ら書き手は道具だ、と。上等だよな。ほんと。》 《ライターと編集者の関係では、慣例上、編集者がライターを「先生」と呼んで敬うことになっている。が、その一方で、ライターにとって編集者は、金主であり発注元であり自分の生殺与奪の権を握る全能の人間だったりもする。そんなわけなので、われわれは互いに皮肉を言い合わずにおれない。》 もう一つ厄介なのは、編集者が、ある部分では著者と二人三脚で書籍を制作するクリエイターの側面を備えている点だ。 このため、著者と編集者の間には、ともすると 「ここ、違うんじゃないですか?」「うるせえ。余計なお世話だ」式の緊張感がただようことになる。 これもまた厄介なことだ。 ここまでのところを読んで 「何を甘ったれてやがる」「出版が無から有を生む魔法だとかって、制作側の思い込みに過ぎないんじゃないでしょうか」「編集者は著者をリスペクトすべきだって、どこまで思い上がれば気が済むんだ?」 と思った人はかなりの度合いで正しい』、編集者とライターの関係も極めて微妙なバランスの上に成立しているようだ。
・『実際、出版は、甘えと思い上がりを産業化するための枠組みなのであり、それを実体を伴う事業
として回転させるためには、強固な思い込みが不可欠だからだ。 別の言葉でいえば、出版というのは、思い込みを商品化する過程なのである。 それゆえ、10のうち9つまでが空振りであるのは、この事業の必然というのか、宿命ですらある。 ただ、その10にひとつのヒットが、残りの9つの書き手を食いつながすことで、出版という魔法が成立していることを忘れてはならない。 であるから、仮にも書籍の出版に携わる会社の人間が、自分たちが手がけた書籍の実売部数を世間に晒してその著者を嘲弄することは、自分たちの販売努力を無化しているという点でも、金の卵を生むかもしれない自分たちの産業の宝物である書き手のプライドを傷つけているという意味でも、完全に論外な態度だと申し上げねばならない。 編集者(あるいは出版業者)は、思うように部数のあがらない著者のプライドをこそ命がけで防衛せねばならない。 なんとなれば、売れている書き手のプライドは、部数と収入と世評がおのずと支えてくれるからだ。 売れていない本の書き手は、自分の書いた本が売れていないことに気持ちを腐らせている。自信を失いかけている。生活が荒みはじめているかもしれない。 こういう時、彼または彼女の自尊感情を高めることができるのは、編集者と数少ないファンだけだ。 そして、ここが大切なポイントなのだが、世の中にいる書き手のほとんどすべては、こちら側(つまり売れていない本の著者)に属していて、その彼らの奮起と努力と自信回復なしには、出版という事業は決して立ち行かないものなのである。 私自身、自分の著書の中で10万部以上売れた作品は皆無だ。 それでもなんだかんだ40年近くこの業界で糊口をしのいでこれた理由の半分以上は、適切なタイミングで優秀な編集者にめぐりあうことができたからだと思っている。 入院先の病院から昨今の出版界を概観しつつあらためて思うのは、業界全体のパイの縮小が続く中、良い本を作ることよりも、「マーケティング」や「仕掛け方」にばかり注力する出版人が悪目立ちしていることだ。 今回の事件も、その発端は、売上部数を偽装に近い形で演出しつつ、肝心の内容はあられもない剽窃とコピペに頼っている同じ出版社の書籍をめぐる揉め事から来ている。 当該の書籍の作られ方や訂正のされ方について苦言を呈し続けた書き手の存在が、出版社にとって邪魔だったからこそ、彼は自著の実売部数を晒されるという形で「罰」(あるいは「警告」)を受けなければならなかった。 同じ事件を、出版社の社長の側から見ると、彼は、売れている著者のごきげんを取り結ぶために 「売れていない書き手を邪魔者扱いにする」という、出版業者として絶対にやってはならない所業に及んでしまったわけだ』、「出版というのは、思い込みを商品化する過程」、「10にひとつのヒットが、残りの9つの書き手を食いつながすことで、出版という魔法が成立していることを忘れてはならない」、見城氏は「売れている著者のごきげんを取り結ぶために 「売れていない書き手を邪魔者扱いにする」という、出版業者として絶対にやってはならない所業に及んでしまったわけだ」、なるほど、その通りなのかも知れない。
・『編集者は著者をリスペクトしなければならない。 これは、寿司屋が寿司ネタを足で踏んではいけないのと同じことで、彼らの職業の大前提だ。 しかも、執筆中の書き手は、どうにも扱いづらい困った性格を身に着けている。 私の場合について言えば、原稿を書いている時の私は、自信喪失に陥っていたり自己肥大していたりして、気分が安定していない。しかもそんなふうに自己評価が乱高下している状態でありながら、プライドだけは野放図に高走っていたりする。 こういう人は、編集者がなだめすかして作業に没頭させないと自滅しかねない。 「甘ったれるな」と言う人もあるだろう。 が、さきほども申し上げた通り、出版というのは、甘えと思い上がりを産業化する事業なのであるからして、その中でコンダクターの役割を担う編集者には、ナースや保育士に近い資質が期待されるものなのだ。 聞けば、幻冬舎には 「死ぬこと以外かすり傷」という言葉を自らのキャッチフレーズとして掲げて活動している編集者がいるのだそうだ。 思うに、この言葉は、自分自身を叱咤してエンカレッジする意味もあるのだろうが、実質的には、他人をぞんざいに扱うためのイクスキューズとして機能しているはずだ。 翻訳すれば「殺人以外は軽犯罪」「殺さなければ無問題」てなところだろうか。 こんな態度で編集をされたのではかなわない。 わたくしども書き手は 「かすり傷でも致命傷」「軽んじられたら死んだも同じ」といった感じの不遜な繊細さで世の中を渡っている。 そうでなければ原稿なんか書けない。 奇妙な原稿になってしまった。 こんな調子になってしまった理由は、私がそれだけ怒っているからだと解釈してもらってかまわない』、「編集者には、ナースや保育士に近い資質が期待されるものなのだ」、とすると、「「死ぬこと以外かすり傷」という言葉を自らのキャッチフレーズとして掲げて活動している編集者がいる」幻冬舎は、やがて書き手からソッポを向かれることになるのだろうか。

次に、同じ小田嶋氏が6月14日付けで日経ビジネスオンラインに寄稿した「コラボTシャツが越えた一線」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00026/?P=1
・『昨今、出版の世界から耳を疑うようなニュースが流れてくることが増えた。 新潮社の月刊誌「新潮45」が、LGBTの人々を「生産性がない」という言い方で貶める杉田水脈衆議院議員による極めて差別的な論文を掲載したことで批判を浴びたのは昨年の夏(8月号)のことだった。 批判にこたえるかたちで、「新潮45」の編集部は、10月号の誌面上で、「そんなにおかしいか、『杉田水脈』論文」という特集企画を世に問うた。 全体的に粗雑かつ低劣な記事の並ぶ特集だったが、中でも小川榮太郎氏の手になる記事がひどかった。 「LGBTの生き難さは後ろめたさ以上のものなのだというなら、SMAGの人達もまた生きづらかろう。SMAGとは何か。サドとマゾとお尻フェチ(Ass fetish)と痴漢(groper)を指す。私の造語だ。」などと、LGBTを世に言う「変態性欲」と意図的に混同した書き方で中傷した氏の文章は、当然のことながらさらなる炎上を呼び、結果として、「新潮45」は廃刊(表向きは「休刊」ということになっている)に追い込まれた。 以上の出来事の一連の経緯を傍観しつつ、私は当連載コーナーの中で、3本の記事をアップしている。 杉田水脈氏と民意の絶望的な関係 「新潮45」はなぜ炎上への道を爆走したのか 「編集」が消えていく世界に  これらの記事は、いずれも、今回、私が俎上に載せるつもりでいる話題と同じ背景を踏まえたものだ。 その「背景」をあえて言語化するなら 「雑誌の断末魔」ということになる。あるいは「出版業の黄昏」でもかまわない。 いずれにせよ、私たちは、20世紀の思想と言論をドライブさせてきたひとつの産業が死に絶えようとするその最期の瞬間に立ち会おうとしている。 お暇のある向きは、上に掲げたリンク先の3本の記事を順次読み返していただきたい。 ついでに、幻冬舎の見城徹社長が、同社から発売されている「日本国紀」(百田尚樹著)の記述の中にある剽窃をめぐって、同社で文庫を発売する予定になっていた津原泰水氏を中傷し、氏の前作の実売部数を暴露した問題について考察したつい半月ほど前の原稿にも、目を通しておいていただくとありがたい。 どちらの事件も、登場人物の振る舞い方や処理のされ方こそ若干違っているものの、「出版の危機」がもたらした異常事態である点に関しては区別がつかないほどよく似ている』、「「出版の危機」がもたらした異常事態」というのは、その通りなのだろう。
・『なんというのか 「貧すれば鈍する」という、身も蓋もない格言が暗示しているところそのままだと申し上げてよい。 あるいは今回取り上げるつもりでいる話題も、「貧すれば鈍する」というこの7文字で論評すれば、それで事足りる話なのかもしれない。 たしかに、業界の外の人間にとっては 「しみったれた話ですね」という以上の感慨は浮かばないのかもしれない。 なんともさびしいことだ。 話題というのは、講談社が発売している女性ファッション誌「ViVi」のウェブ版が、自民党とコラボレーションした広告企画記事を掲載した事件だ。 「ハフポスト」の記事によれば経緯はこうだ。 《講談社の女性向けファッション誌「ViVi」のウェブ版が、自民党とコラボしたことが話題となっている。 「ViVi」は6月10日、公式Twitterで「みんなはどんな世の中にしたい?」と投稿。「#自民党2019」「#メッセージTシャツプレゼント」の2つのハッシュタグをつけて自分の気持ちをつけて投稿するキャンペーンを発表した。 計13人に、同誌の女性モデルら9人による政治へのメッセージが描かれたオリジナルTシャツが当たるという。─略─》 私がこのコラボ広告記事の企画から得た第一印象は、「あさましさ」だった。 これまで、雑誌や新聞が政党や宗教団体の広告を掲載した例がないわけではない。 というよりも、選挙が近づくと、各政党はあたりまえのように広告を打つ。これは、政党と広告に関する法規制が緩和されて以来の日常の風景だ。 であるから、私自身「政党が広告を打つのは邪道だ」と言うつもりはない。 逆に「雑誌が政党の広告を乗せるのは堕落だ」と主張するつもりもない。 ただ、今回の「コラボ・メッセージつきTシャツプレゼント企画」に関して言えば、「一線を越えている」と思っている。 具体的に言えば 「政党が雑誌購読者に告知しているのが、党の政策や主張ではなくて、Tシャツのプレゼントであること」が、うっかりすると有権者への直接の利益ないしは利便の供与に当たるように見えることと、もうひとつは、「今回のぶっちゃけたばら撒きコラボ広告は、ほんのパイロットテスト企画で、自民党の真の狙いは、参院選後の憲法改正を問う国民投票に向けたなりふりかまわない巨大広告プロジェクトなんではなかろうか」という個人的な邪推だ。 「なんか、駅前でティッシュ配ってるカラオケ屋みたいなやり口だな」「オレはガキの頃おまけのプラスチック製金メダルが欲しくてふりかけを1ダース買ったぞ」「そういえば、シャッター商店街の空き店舗で電位治療器だとかを売りつけるSF商法の連中は、路上を行く高齢者に卵だのプロセスチーズだのをタダで配っていたりするな」 さて、自社の雑誌に自民党とのコラボレーションによる広告企画記事を掲載したことについて、「ViVi」を制作・販売している講談社は、以下のようにBuzzFeed Newsへの取材に対してコメントしている。 《このたびの自民党との広告企画につきましては、ViViの読者世代のような若い女性が現代の社会的な関心事について自由な意見を表明する場を提供したいと考えました。政治的な背景や意図はまったくございません。読者の皆様から寄せられておりますご意見は、今後の編集活動に生かしてまいりたいと思います。》 このコメントには、正直あきれた』、「「今回のぶっちゃけたばら撒きコラボ広告は、ほんのパイロットテスト企画で、自民党の真の狙いは、参院選後の憲法改正を問う国民投票に向けたなりふりかまわない巨大広告プロジェクトなんではなかろうか」、というのは案外、正鵠を突いているのかも知れないが、事実とすれば恐ろしいことだ。
・『言葉を扱うことの専門家であるはずの出版社の人間が、政党の広告を掲載することに「政治的な」「意図」や「背景」がないなどと、どうしてそんな白々しい言葉を公の場で発信することができるのだろう。 羞恥心か自己省察のいずれかが欠けているのでなければ、こんな愚かな妄言は吐けないはずだと思うのだが、あるいは出版社の台所事情は、自分にウソをついてまでなりふりかまわずに広告収入を拾いにかからねばならないほど危機的な水準に到達しているのだろうか。 仮に講談社の人間が 「わたくしどもが発行している雑誌に特定の政党の広告を掲載する以上、政治的な意味が生じることは当然意識していますし、われわれが政治的な意味での責任を負うべきであることも自覚しています。ただ、それでもなお、社会に向かって開かれた思想と多様な言論を供給する雑誌という媒体を制作する人間として、われわれは、政治に関連する記事や広告を排除しない態度を選択いたしました。」 とでも言ったのなら、賛否はともかく、彼らの言わんとするところは理解できたと思う。 が、彼らは、政党の広告に政治的な背景があることすら認めようとしない。 これは、酒を飲んで運転したドライバーが 「このたびの運転に際して、私は2リットルほどのビールを摂取いたしましたが、あくまで会社員の付き合いとして嚥下したものでありまして、飲酒の意図やアルコール依存症的な背景は一切ございません。警察署の皆様から寄せられておりますご意見は、今後のビール摂取と自動車運転の参考に生かしてまいりたいと思います。」 と言ったに等しいバカな弁解で、たぶんおまわりさんとて相手にはしないだろう』、講談社のコメントに対して、「酒を飲んで運転したドライバー」の言い訳を対比させるとは、さすがだ。
・『もうひとつ私が驚愕しているのは、今回の自民党&講談社のコラボ広告企画を、不可思議な方向から擁護する意見が湧き上がってきていることだ。 ハフポストがこんな記事を配信している。 この記事の中で東京工業大学准教授の西田亮介氏は、 1.責められるべきは、自民ではなく「多様性の欠如」 2.公教育では身につかない政治リテラシー 3.政治を語ることをタブー視してはいけない という3つの論点から、自民党によるこのたびのコラボ広告出稿を 「よくできている」「自分たちの政治理念を政治に興味がない人たちに広く訴求したい、若者や無党派層を取り込みたい、とあれこれ手法を凝らすのは、政党として当然です」と評価し、むしろ問題なのは、自民党以外の政党が自民党の独走を許している状況であると説明している。 さらに氏は、結論として、政党広告への法規制が解除されている現状を踏まえるなら、政党に限らず、雑誌をはじめとするメディアやわれわれ有権者も含めて、もっと政治についてオープンに語る風土を作っていかなければならないという主旨の話を述べている。 この記事の中で西田氏が述べている論点は、ひとつひとつの話としては、いちいちもっともだと思う』、なるほど。
・『ただ、個々の論点がそれぞれに説得力を持っているのだとしても、それらの結論は、今回の自民党と講談社によるコラボ広告企画が投げかけている問題への説明としては焦点がズレている。 というよりも、私の目には、西田氏が、今回の問題から人々の目をそらすために、政治と広報に関する角度の違う分析を持ち出してきたように見える。 あるいは、私が西田氏のような若い世代の論客の話を、かなり高い確率でうまく理解できずにいるのは、「競争」という言葉の受け止め方が、違っているからなのかもしれない。 私のような旧世代の人間から見ると、21世紀になってから登場した若い論客は、「競争」を半ば無条件に「進歩のための条件」「ブラッシュアップのためのエクササイズ」「組織が自らを若返らせるための必須の課題」「社会を賦活させるための標準活動」ととらえているように見える。 もちろん、健全な市場の中で適正なルールの範囲内において展開される競争は、参加者に不断の自己改革を促すのだろう。 ただ、私はそれでもなお「競争」には、ネガティブな面があることを無視することができない。 たとえば、政治に関する競争について言うなら、政策の是非を競い、掲げる理想の高さを争い、政治活動のリアルな実践を比べ合っている限りにおいて、「競争」には、積極的な意味があるのだ、と私は思っている。だからこそ、政党や政治家は、もっぱら「政治」というあらかじめ限定されたフィールドの中で互いの志と行動を競っている。 ところが、広報戦略の優劣を競い、民心をつかむ技術の巧拙を争うということになると、話のスジは若干違ってくる。 その政治宣伝における競争の勝者が、政治的な勝利を収めることが、果たして政治的に正しい結末なのかどうかは、大いに疑問だ。 さらに、政治家なり政党が、雑誌広告の出稿量や、メディアへの資金投入量や、広告代理店を思うままに動かす手練手管の多彩さを競わなければならないのだとすると、その種の「競争」は、むしろ「政治」を劣化させる原因になるはずだ。 より多額な資金を持った者、より多様なチャンネルを通じて商業メディアを屈服させる手練手管を身につけている者、あるいは、より恥知らずだったり悪賢かったりする側の競争者が勝利を収めることになるのだとすると、「政治」は、カネと権力による勝利を後押しするだけの手続きになってしまうだろう』、最後の部分は、説得力に溢れ、その通りだ。西田氏の主張は、新自由主義者らしく単純化され過ぎているようだ。
・『「条件は同じなのだから、野党も同じように工夫して広告を通じたアピール競争に参戦すればよい」「より優れた政党広告を制作し、より洗練された戦略で自分たちの存在感を告知し得た側が勝利するのであるから、これほど分かりやすい競争はない」 と、「市場」と「競争」がもたらす福音を無邪気に信奉する向きの人々は、わりと簡単に弱肉強食を肯定しにかかる。 私の目には、彼ら「競争万能論者」が「弱者踏み潰し肯定論者」そのものに見える』、競争が同一の条件下で行われるのならまだしも、広告費を湯水のように使える自民党と、野党とでは、初めから競争条件には著しい相違があり、これでは競争の結果は初めから決まっている。
・『彼らは、自分たちが負ける側にまわる可能性を考えていない。 あるいは、誰であれ人間が必ず年を取って、いずれ社会のお荷物になる事実を直視していないのかもしれない。 ともあれ、自分が弱っている時、「勝者のみが報われるレギュレーションが社会の進歩を促すのです」式の立論は、まるで役に立たない。 対象が「政治」でなく、これが、一般の商品なら、優れた広告戦略を打ち出した企業が勝つ前提は、たいした不都合をもたらさない。 実際、わたくしどもが暮らしているこの資本主義商品市場では、スマッシュヒットを飛ばすのは、必ずしも歌の巧い歌手ではなくて、より大きな芸能事務所に所属して、より強烈な販促キャンペーンの中で一押しにされている歌手だったりする。 クルマでも即席麺でも事情は同じで、現代の商品は、商品力とは別に、なによりもまず優れたマーケティングと広告戦略の力で顧客の心をつかまなければならない。 ただし、政治の世界の競争は、商品市場における商品の販売競争と同じであって良いものではない。 政党ないし政治家は、議会における言論や、議員としての政治活動を競うことで互いを切磋琢磨するものだ。あるいは、政府委員としての住民サービスの成果を競うのでも良い。 政党なり政治家が、マーケティング戦略や広告出稿量の分野で「競争」することで、政治的に向上するのかというと、私はむしろ堕落するはずだと思っている。 出版も同じだ。 販売部数を競い、売上高で勝負しているのであれば、たいした間違いは起こらない。 読者に媚びるケースも発生するだろうし、流行に色目を使ったり、二匹目のドジョウを狙いに行って自分たちのオリジナリティーを捨てたりするような悲劇が起こることもある。 ただ、広告収入にもたれかかるようになると、点滴栄養で生きながらえる病人と同じく、後戻りがきかなくなる。 オリンピックと憲法改正を睨んで、出版業界の目の前には、巨大な広告収入がぶら下がっている。 編集部の人間には、美味しく見えるエサには、釣り針がついていることを思い出してほしい。 まあ、ウジ虫がおいしそうに見えている時点ですでに負け戦なのかもしれないわけだが』、「政党なり政治家が、マーケティング戦略や広告出稿量の分野で「競争」することで、政治的に向上するのかというと、私はむしろ堕落するはずだと思っている」、というのはその通りだ。「オリンピックと憲法改正を睨んで、出版業界の目の前には、巨大な広告収入がぶら下がっている。 編集部の人間には、美味しく見えるエサには、釣り針がついていることを思い出してほしい」、は冴えた締めで、さすがだ。 
タグ:メディア 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 (その15)(小田嶋氏2題:「死ぬこと以外かすり傷」ではかなわない、コラボTシャツが越えた一線) 「「死ぬこと以外かすり傷」ではかなわない」 幻冬舎という出版社の社長が、同社で出版している書籍の実売部数をツイッター上で暴露 見城氏が津原泰水氏の前作の実売部数を暴露して揶揄 見城氏がツイッターから撤退したのは、反省の気持ちを表現するためではなくて、むしろ、説明責任を回避する目的だったと見るのが自然だろう 出版まわりでは、見城氏を擁護する立場の人間はほぼ皆無 5000部以下の部数にとどまる大多数の赤字の書籍と、突発的に発生する何十万部のスマッシュヒットというまったく相容れないビジネスモデルが並立しているところに出版という事業の不思議さがある 全体から見ればごく少数の例外に過ぎない10万部超のベストセラー書籍の売り上げが、何百人という赤字書籍の書き手を養っている構造 編集者の常識も2つの矛盾したプリンシプルを同時に踏まえたものになる 彼らは、10万部・100万部のヒット作を生み出すために、常に売上部数の極大化を目指さなければならない一方で、1000部とか2000部の部数で低迷している著者を大切に育成保護督励称揚し続ける義務を負っているのである 編集者は、著者をリスペクトしなければならない。 一方で、彼らは、売れない書き手を切り捨てなければならない。 この2つの矛盾した態度を、一人の人間の中で両立させないと一人前の編集者にはなれない 出版というのは、思い込みを商品化する過程 出版社の社長の側から見ると、彼は、売れている著者のごきげんを取り結ぶために 「売れていない書き手を邪魔者扱いにする」という、出版業者として絶対にやってはならない所業に及んでしまったわけだ 編集者には、ナースや保育士に近い資質が期待される 「コラボTシャツが越えた一線」 「雑誌の断末魔」 「貧すれば鈍する」 講談社が発売している女性ファッション誌「ViVi」のウェブ版が、自民党とコラボレーションした広告企画記事を掲載した事件 今回の「コラボ・メッセージつきTシャツプレゼント企画」に関して言えば、「一線を越えている」と思っている 有権者への直接の利益ないしは利便の供与に当たるように見える 今回のぶっちゃけたばら撒きコラボ広告は、ほんのパイロットテスト企画で、自民党の真の狙いは、参院選後の憲法改正を問う国民投票に向けたなりふりかまわない巨大広告プロジェクトなんではなかろうか」という個人的な邪推だ 出版社の人間が、政党の広告を掲載することに「政治的な」「意図」や「背景」がないなどと、どうしてそんな白々しい言葉を公の場で発信することができるのだろう 不可思議な方向から擁護する意見が湧き上がってきている 東京工業大学准教授の西田亮介氏 自民党によるこのたびのコラボ広告出稿を 「よくできている」「自分たちの政治理念を政治に興味がない人たちに広く訴求したい、若者や無党派層を取り込みたい、とあれこれ手法を凝らすのは、政党として当然です」と評価し、むしろ問題なのは、自民党以外の政党が自民党の独走を許している状況であると説明 西田氏が、今回の問題から人々の目をそらすために、政治と広報に関する角度の違う分析を持ち出してきたように見える より多額な資金を持った者、より多様なチャンネルを通じて商業メディアを屈服させる手練手管を身につけている者、あるいは、より恥知らずだったり悪賢かったりする側の競争者が勝利を収めることになるのだとすると、「政治」は、カネと権力による勝利を後押しするだけの手続きになってしまうだろう 「競争万能論者」が「弱者踏み潰し肯定論者」そのものに見える 政党なり政治家が、マーケティング戦略や広告出稿量の分野で「競争」することで、政治的に向上するのかというと、私はむしろ堕落するはずだと思っている オリンピックと憲法改正を睨んで、出版業界の目の前には、巨大な広告収入がぶら下がっている 集部の人間には、美味しく見えるエサには、釣り針がついていることを思い出してほしい
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安倍政権のマスコミへのコントロール(その10)(NHKの国会報道が安倍首相のPR動画状態に! 辺野古 統計不正追及を報じず自民党質問への勇ましい答弁を大々的に紹介、【政治考】NHKと政権の“距離感”に疑問、パーソナリティ荒川強啓氏 放送界の「政権すり寄り」危惧) [メディア]

安倍政権のマスコミへのコントロールについては、3月5日に取上げた。今日は、(その10)(NHKの国会報道が安倍首相のPR動画状態に! 辺野古 統計不正追及を報じず自民党質問への勇ましい答弁を大々的に紹介、【政治考】NHKと政権の“距離感”に疑問、パーソナリティ荒川強啓氏 放送界の「政権すり寄り」危惧)である。

先ずは、3月6日付けLITERA「NHKの国会報道が安倍首相のPR動画状態に! 辺野古、統計不正追及を報じず自民党質問への勇ましい答弁を大々的に紹介」を紹介しよう。
https://lite-ra.com/2019/03/post-4589.html
・『さすがにこれはひどいのではないか──。今週から国会では参院予算委員会がはじまったが、衆院予算委につづき、不正統計や辺野古新基地建設工事をめぐって安倍首相が無責任極まりない答弁を連発している。だが、そんな安倍首相のひどさに輪をかけて露骨に醜いことになっているのが、NHKの報道だ。 たとえば、4日の『NHKニュース7』のトップニュースは「即位祝う一般参賀5月4日に」、つづく2番目の話題も「大戸屋 不適切動画で一斉休業」というもので、国会の話題は4番目。さらに目を剥いたのはその内容だ。 国会では軟弱地盤が大きな問題となっている辺野古新基地建設工事について野党から質問が飛んだというのに、一切無視。代わりに大々的に取り上げたのは、身内である自民党・堀井巌議員の質問に対する安倍首相の答弁だった。 安倍首相が「日朝の首脳間の対話に結びつけていきたい」と答弁したことを受け、「拉致問題解決へ“日朝首脳会談 実現させたい”」と見出しに掲げたのである。 また、この4日の放送では、続けて安倍首相がレーダー照射問題で「我々は真実を語っているし、真実を語るほうが必ず強い」と述べたことを紹介、「北朝鮮への対応は日米・日米韓の緊密な連携が極めて重要」という答弁を放送したのだが、これも実は、自民党・有村治子議員の質問に答えたものだった。NHKは有村議員の質問であることを隠していたが、ようするに、身内の与党の質問に、安倍首相が堂々と答えるシーンばかりを流したのだ』、これでは、「NHKの国会報道が安倍首相のPR動画状態に!」というのも確かで、放送の中立性など完全無視のようだ。
・『国会とは本来、政権や与党の暴走を野党がチェックする場であるはずなのに、与党の質問と安倍首相のPRのような答弁だけを流す。これは、国民の知る権利を妨害しているのはもちろん、放送法4条やNHK国内番組基準で謳っている「政治的公平」「不偏不党」にも反しているのではないか。 昨日5日の『NHKニュース7』も同様だった。日産自動車のゴーン前会長の保釈を認める決定が出されたことがトップなのはまだしも、その後も探査機「はやぶさ」や来年の都知事選をめぐる二階俊博幹事長の発言の話題がつづき、やはり国会は4 番目の扱いで、しかも画面に映し出された見出しテロップは「米国が拉致問題重視“キム委員長も理解”」。さわりでさすがに統計不正問題の質疑を取り上げたが、特別監察委員会の委員長人事について共産党の小池晃議員に質問されたのに対し、「適格性に疑念を抱かせるようなものではない」「厚労省に手心を加えてくれるかもしれないから選んだのではなく、中立性を疑われることはない」と安倍首相が答弁した部分を紹介しただけで、小池議員の発言は一切放送しなかった。 そして、その後は拉致問題に話題が移り、安倍首相が日朝首脳会談でトランプ大統領が夕食会で拉致問題を提起したとして「金正恩・朝鮮労働党委員長もアメリカが拉致問題を重視していることを理解したと思っている」と成果を強調した部分や、「小泉総理が2002年に訪朝したときに5人の被害者が帰還できた。そうしたさまざまな経験も生かしながらあらゆるチャンスを逃さずに解決にあたっていきたい」という、嘘っぱちの“俺の手柄”自慢を放送してコーナーが締めくくられたのだ。 辺野古の問題を取り上げないどころか、拉致問題における安倍首相の“やるやる詐欺”答弁を主題にして伝える──。これでは安倍首相のプロモーションビデオではないか』、視聴者から視聴料を取っておいて、「安倍首相のプロモーションビデオ」を見せられたのではかなわない。ここまで偏向した番組に対して、誰か「放送倫理・番組向上機構(BPO)」に申し立ててほしいものだ。国会でも野党は厳しく追及するべきだろう。

次に、6月1日付け西日本新聞「【政治考】NHKと政権の“距離感”に疑問」を紹介しよう。
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/514893/
・『学校法人「森友学園」への国有地売却問題で、一つの司法判断が出た。大阪地裁は5月30日、情報公開請求のあった売却価格を非開示にしたのは違法だとして、国に賠償を命じた。安倍昭恵首相夫人らの関与が取り沙汰され、財務省が公文書を改ざんしてまで情報を隠した問題である。 ところがNHKのニュースを見て驚いた。「値引き理由不開示は『適法』」との見出しで、国が「勝訴」したかのような報道ぶりだったからだ。判決は売却価格の非開示を違法とする一方、値引き理由の非開示については適法と判断。NHKはそこに焦点を当て、国に賠償が命じられたことは短く付け加えていた。 かつて司法を担当していたことがある。国への損害賠償請求はハードルが高く、認められるケースは多くない。それだけに、判決で賠償が認められれば大きなニュースになる。31日の全国紙(東京版)を見ても、今回の判決についての記事は、全紙が「賠償命令」を見出しに取っている。 ニュースの価値判断は多様だとはいえ、国の違法行為が認定されたことを脇に置く発想は理解しがたい。元司法担当だから余計にそう思うのかもしれないが、今回のNHKの報道は「政権寄り」に思える。 NHKと安倍政権との関係に、疑いの目を向ける人は少なくない。国会では「官邸と太いパイプがある」とされる人物が専務理事に復帰した4月の人事について、野党が「官邸の意向があったのではないか」と問いただしている。 元NHK記者の相澤冬樹氏は著書「安倍官邸VSNHK」で、森友学園問題を報道する際に上層部から「圧力」があったと書いている。これについても野党は追及。NHKはいずれも否定している。 NHK幹部は国会や記者会見で「放送の自主自律を堅持する」と繰り返している。ならば主要メディアと明らかに異なる今回の判決の報道も、司法担当記者の自主的な判断だったのだろうか。政権との「距離感」にどうしても疑念が拭えない』、「今回の判決についての記事は、全紙が「賠償命令」を見出しに取っている」のに、NHKだけは「「値引き理由不開示は『適法』」との見出しで、国が「勝訴」したかのような報道ぶり」というのも酷い話だ。NHKは森友学園問題をスクープした記者を左遷、当該の記者は退社し、大阪日日新聞に移った(このブログの3月5日で紹介)。野党には大いに奮起して国会でさらに追及してもらいたい。

第三に、5月7日付け日刊ゲンダイが掲載したTBSラジオ「荒川強啓デイ・キャッチ!」のパーソナリティーへのインタビュー「パーソナリティ荒川強啓氏 放送界の「政権すり寄り」危惧」を紹介しよう(Qは聞き手の質問、Aは荒川強啓氏の回答)。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/252697
・『TBSラジオの人気番組「荒川強啓デイ・キャッチ!」を1995年から24年間にわたり、続けてきたのがこの人、荒川強啓さんだ。「聴く夕刊」として、平成のニュースを毎日、届けてきたのだが、その番組も3月、惜しまれつつ終わった。時代と番組を振り返ってもらおう』、私はラジオを聴く習慣を無くして長いので、この番組のことは初耳だが、興味深そうだ。
・『時代を「平成」でひとくくりにする危険性  Q:番組がスタートした95年といえば、2年前に宮沢政権が崩壊、バブルがはじけた直後でした。阪神・淡路大震災もありましたね。 A:日本で大きな戦争はなかったけれど、平成という時代は世界がものすごく混乱し、その混乱が今も続いていると思います。これからどういう方向に進んでいくのか、見通せない部分がありますね。 Q:経済も一国主義が台頭しているし、政治でいえば、平成の最後に共謀罪、安保法の強行採決などがありました。 A:これからが一番大事になってくるんじゃないですかねえ。元号が変わるような大きなうねりって、よーく見ていないとガラッと変わってしまう怖さがあります。「平成はこういう時代でした」とくくってしまうのは実は危ないんじゃないかとも思いますね。元号が変わることで、体制まで変えてしまう、社会の方向、色まで変えてしまう。そういうことも可能ですから。ものすごく注意しなければいけない時期だと思う。その意味で、時代の変わり目を見届けておけなかったのは残念ですけどね。 Q:リスナーも荒川さんの番組をもっと聴いていたかったという思いが強いです。というのも、放送業界って、とんがっている人がドンドンいなくなっているじゃないですか? 72歳の荒川さんはこの業界を長くご覧になってきた。昨今の息苦しさみたいなものを感じませんか? A:感じますね、このままズルズル危ない方向に持っていかれちゃうんじゃないかって。 Q:危ない方向とは言論の不自由? A:何となく、政権にすり寄っていることに業界も気づいてほしいし、リスナーも「変だぞ」と思ってほしい。 Q:ラジオはそういう意味では比較的自由であるように見えましたが。 A:そうでもないんですよ。私はともかく、コメンテーターの方々の発言とか、制作者は相当、気を使っていたんじゃないでしょうか。 Q:「デイ・キャッチ!」のコメンテーター、青木理さんとか宮台真司さんとか過激ですもんね。 A:でも、「これはコメンテーターの方の発言ですし、生放送ですからハサミも入れられません」って言っちゃえばいいんですけどね。 Q:なるほど。 A:放送ってのは「送りっ放し」って書いているんだから』、「元号が変わるような大きなうねりって、よーく見ていないとガラッと変わってしまう怖さがあります」との警鐘には大いに気をつけたい。「何となく、政権にすり寄っていることに業界も気づいてほしいし、リスナーも「変だぞ」と思ってほしい」、との指摘はその通りだろう。
・『肩書もプライドもないからなんでも質問  Q:でも、生放送だからのトラブルもあったのでは? A:自民党の大物が僕の発言に怒って、帰っちゃったことがありましたね。 Q:いいですね、そういうの。 A:「君、それを僕に聞きますか」って。 Q:そういうところが魅力でした。 A:実は、馴染みの居酒屋のおばちゃんから、「あなたの番組のおかげで話題についていけるようになった。噛み砕いてくれるから分かりやすいのよ」と言われたことがあります。「これだ!」と思いましたね。僕は学者ではなく、研究者でもない。一庶民で、おばちゃんと居酒屋トークしている飲んべえのおっさんという感じです。だから、飲んべえのおっさんが理解できないことを知ったかぶりするとウソになる。専門家からしたら意識の低い質問でも、僕はできるんです。肩書もプライドもないので恥ずかしくない。 Q:そもそも、「デイ・キャッチ!」はどういったコンセプトで始まったのでしょうか。 A:「聴く夕刊」というキャッチはあるんですけれど、放送していた午後3時から5時、6時というのは、今までの時代なら一日の終わりに差し掛かる時間帯。一方、主婦の方は夕飯の準備を始めるし、夜のお仕事をされている方は鏡の前でお化粧を始めたりする。そういう時間帯にコンパクトに一日の出来事を伝えていくというコンセプトですね。「聴く夕刊」は、あまり濃くなく、ザックリとした見出しみたいなものだけでいい。その日に何があったのかがすぐ分かるというのが狙いでした。 Q:ニュースをランキング形式で紹介するコーナーも人気でしたね。 A:10本のニュースについて、街で3カ所、約100人に「どのニュースに関心がありますか」と聞くんです。あとはSNSで番組について投稿してもらう。それらを集めたもので順位をつける。皆さんが関心あるニュースについて、コメンテーターが一言入れる。アシスタントやスタッフ、何よりも強力なコメンテーターの支えがあったからこそ、ここまでやってこられたと思います。 Q:テレビ局の報道番組は庶民目線じゃないというか、何か妙にお高くとまっているなと感じます。 A:「どうして出演者だけで分かり合っているの?」「もうちょっと砕いた報告してくれないの?」と思うことはありますね。 Q:荒川さんは午前中に朝刊全紙に目を通すそうですが、新聞の読み方にコツはありますか? A:まずは見出しなどを読み比べるんです。海外ニュースでも、相手の方を見出しにするのか、日本の動きを見出しにするのか。この新聞は何をトップに伝えたいのかということから見ていく。さらに社説やコラム、天声人語などを読む。そのうえで、日刊ゲンダイはどこにメスを入れたんだろう、どこ突っ込んだんだろうと。これが楽しみで、「そうきましたか」とうなる時もありました』、「おばちゃんと居酒屋トークしている飲んべえのおっさんという感じです」、とは聞いてみたかった。惜しい番組がなくなったものだ。。
・『東京五輪を「復興五輪」なんて「おためごかし」  Q:ありがとうございます。番組終了後の今はどうされているのでしょうか。 A:今は1紙だけ残して、全部解約しました。新聞を見なくなってどうなるんだろうということを、今は試しています。イライラしますかね? Q:そうかもしれませんね。今の世の中の雰囲気は息苦しいものがありますから。なんで、このニュースにメディアはもっと突っ込まないのかって。 A:そうですね。実は番組が終わるに当たって、永田町あたりから圧力かかりましたか? という質問が、一部であったんですよ。逆におうかがいしたいのですが、そんな気配はありますか? Q:詳細は把握していません。 A:そうですか、そんな声が聞こえてきていましてね。多分ないと思っているのですが。そこまで永田町を怒らせたかなあ、と思うんです。 Q:そんな声が飛び交うくらい、番組に骨太の魅力があったのでしょう。 A:もったいないと思うことはあります。「平成の終わりとともに番組も終了」というニュアンスの記事もありましたが、ストンと腑に落ちない部分もある。もう少し続けてみたかったな、という思いもあるし、もうお役御免かなとも思います。 Q:いやいや、もっと発言してください。とりわけ、東京五輪についての荒川さんの発言は過激な正論でした。 A:ずっと反対だと言い続けていたんですよ。招致当時、僕は東日本大震災の取材をしていた。何とかして災害から立ち直らなきゃいけないと取材をしている時に、東京五輪をやると聞き、腰が砕けそうになったんですよ。「被災地の人たちがどう思うか分かってますか?」と。復興資金や労働力、トラックと何から何まで全部、五輪準備に持っていかれちゃうわけですよ。 Q:しかも「復興五輪」などと言ってますね。 A:おためごかしもいい加減にしなさい、ですよ。ほんとにそれを聞いた時は腹が立ちましたね。何を考えてるんだろうと。 Q:そこまでしっかりと発言する方が、いなくなってしまいました。 A:元号が変わる、五輪をやる。お祭り騒ぎの裏で何が起きているのかということを注意して見ていかなければいけないと思います。若者の会話などを聞いていると、なんかこう、ひとつの方向を向いて流れている。そういうことにも危機感を覚えます』、「東京五輪を「復興五輪」なんて「おためごかし」」とは言い得て妙だ。引退するのは惜しい直言居士なので、舞台を変えてでも活躍してもらいたいものだ。
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メディア(その14)(小田嶋氏:「迷惑をかけた」の半分以上は) [メディア]

メディアについては、3月1日に取上げた。今日は、(その14)(小田嶋氏:「迷惑をかけた」の半分以上は)である。

コラムニストの小田嶋 隆氏が3月15日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「迷惑をかけた」の半分以上は」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00011/?P=1
・『ミュージシャンで俳優のピエール瀧さんがコカインを使用したとして逮捕された。 逮捕されたということは、ここから先は、「ピエール瀧こと瀧正則容疑者(51)=東京都世田谷区」といったあたりの主語を使って原稿を書き進めるべきなのだろうか。 なんということだ。 最初の、主語の選び方の時点で気持が萎えはじめている。 個人的に、平成の30年間は、この種の事件に関連する原稿を書くに当たって、メディア横断的な横並び圧力が強まり続けてきた30年だったと感じている。特に、犯罪に関わった人間を扱う際の主語や敬称の使用法がやたらと面倒くさくなった。 なんというのか、 「主語の運用において、礼法に則った書き方を採用していない書き手は信用に値しません」 みたいな、七面倒臭いマナーが、業界標準として定着してしまった感じを抱いている。 「ハンコを押す時には、相手の名前に向かって軽く頭を下げる角度で押印するのがビジネスマナーの基本です」 みたいな、どこのマナー講師が発明したのかよくわからない原則が、いつの間にかオフィスの定番マナーになりおおせているのと同じく、記事の書き方に関しても、この半世紀の間に、不可解な決まりごとが増えているということだ』、言われてみれば、確かにその通りで、読み手からみても、同調圧力の強さには不気味さを感じる。
・『私がライターとして雑誌に文章を書き始めた1980年代当時は、タレント、政治家、一般人、容疑者、肉親、友人、被告、受刑者などなど、どんな立場のどんな人物についてであれ、あらかじめ定型的な表記法が定められていたりはしなかった。私自身、その時々の気分次第で、犯人と名指しされている人間を「さん」付けで呼ぶケースもあれば、政治家を呼び捨てにした主語で原稿を書くこともあった。それで誰に文句を言われたこともない。 というよりも名乗る時の主語が、「私」だったり「おいら」だったりするのが、本人の勝手であるのと同様の理路において、文章の中に登場する人物のうちの誰に「さん」を付けて、誰を呼び捨てにするのかは、書き手の裁量に委ねられていた。別の言い方をするのなら、敬語敬称の運用法も含めて、すべては個人の「文体」とみなされていたということでもある。 それが、ある時期から新聞記事の中で 「○○容疑者」「○○被告」「○○受刑者」という書き方が作法として定着し、さらに 「○○司会者」「○○メンバー」といった、一見ニュートラルに見える肩書無効化のための呼称までもが発明されるに及んで、文章の中に登場する人物への呼びかけ方は、独自の意味を獲得するに至った。 つまり、 「誰をさん付けで呼び、誰を呼び捨てにするのかによって、書き手のスタンスや立場が計測されるようになった」ということだ。 これは、著しく窮屈なことでもあれば、一面理不尽なことでもある。 というのも、書き手から見た文章中の登場人物への距離なり感情なりを示す手がかりである「呼びかけ方」は、必ずしも世間におけるその人物の序列や評価と一致しているわけではないからだ。ついでに申せば、犯罪者への共感であれ、国民的英雄への反感であれ、ひとつの完結した文章の中で表現されることは、本来、書き手の自由意志に委ねられている。 早い話、どれほどトチ狂った言動を繰り返しているのだとしても、私にとってルー・リード(注)先生はルー・リード先生だし、世間がどんなに尊敬しているのだとしても、大嫌いな○○を「さん」付けで呼ぶのはまっぴらごめんだということだ』、その通りだ。(注)ルー・リード:アメリカのロックなどのミュージシャン。
・『今回、私が、本題に入る前に、敬称の有無や種類のような表現の細部にこだわってみせているのは、ピエール瀧氏について、私がどんな感情なり見解を書くことになるのかは、私が自分の原稿の中で彼をどんな名前で呼ぶのかということとに深く関連していることを、強く自覚しているからだ。 「ピエール瀧容疑者」という主語を使ってしまったが最後、その後の部分で私がどんなに真摯な共感を表明したのだとしても、それらは言葉どおりには響かない。 「ピエール瀧容疑者よ。私はあなたの自在なトークが大好きでした」と、こんな書き方で、いったい何が伝わるというのだろうか。 新聞や雑誌のような媒体が、特定の人物について呼称なり表記の統一を要求したがるようになったのは、おそらく単に、メディアとしての統一性を確保したいからに過ぎない。彼らとて、犯罪の容疑者である人物に対して、共感を抱いたり好意を持つことを一律に禁じようとしているわけではないはずだ。 しかし、表記の統一がもたらす効果について言うなら、それはまた別だ。 ある人物について呼称を統一することは、その人物への感情の向けられ方を定型化せずにはおかない。 書き手の立場からすれば、「容疑者」と表記した人物については、その呼称にふさわしい書き方でしか描写できなくなってしまう。 これは、なんでもないことのようだが、実は、とんでもないことだ。 なんとなれば、「容疑者」なり「受刑者」なりという呼称は、一個の人間から人間性を剥奪するスティグマ(烙印)として機能するはずだからだ』、「呼称」の意味を改めて深く考えさせられた。
・『事件が発覚した一昨日の深夜以来、テレビの情報番組は、ひたすらにピエール瀧氏が犯した犯罪の深刻さを強調し続けている。 テレビの画面を見ていて私が感じるのは、彼が犯したとされる 「罪」のかなりの部分が、メディアによってアンプリファイ(増幅)された 「騒動」だということだ。 瀧氏が、報道されている通りに、違法な薬物を使用していたのであれば、そのこと自体は、無論のこと犯罪だ。 その点については、ご本人も認めている。 しかしながら、午前中から夕方にかけての時間枠の長い情報番組が、何度も何度も繰り返し繰り返し同じ映像を使い回ししながら、しきりに強調し続けているのは、瀧氏のかかわった仕事が、次々と配信停止になり、あるいは発売中止や公演停止に追い込まれ、店頭から回収され、一緒に働いていた仲間の努力が水泡に帰し、貧しい劇団員たちの収入が途絶え、損害が発生し、関係者が事態収拾に走り回り、事務所の人間が頭を下げ、相棒が涙を流し、ファンが落胆し、テレビ司会者が「裏切られた」と訴えている経緯や展開だったりするわけなのだが、それもこれも、結局のところ「メディアの主導によって引き起こされている事件の余波」によるものだ。 もちろん、最も根本的な部分の原因は、瀧氏の不適切な行動にある。 このことははっきりしている。 しかし、火種を大きくし、見出しの級数を拡大し、関係者に対応を問い合わせしまくり、肉親に直撃取材を試み、ファンにコメントを求めているのは、テレビ局のスタッフでありスポーツ新聞の記者たちだ。 そもそも、映画会社が配信を断念し、ゲーム制作会社が販売を延期し、放送局が収録済みの番組のネット配信を引き上げるに至った理由は、消費者による問い合わせや抗議の声が拡大し、現場のスタッフが縮み上がったからなのだが、その問い合わせや抗議のネタ元となった騒動の拡大を煽ったのは、ほかならぬテレビの情報番組だったりしている。 ということは、10億円以上と言われている賠償額をより大きくすることでニュースバリューの引き上げにかかっているのは、実は彼らメディアの人間たちであり、結局のところ、われわれが真っ昼間のテレビの画面上で見せられているのは、進行中のメディアによるマッチポンプだということだ。 「世間をお騒がせして申し訳ない」という、不祥事に関連した有名人が謝罪する時に吐き出す定型句が、はからずも示唆しているのは、 「騒いでる世間って、要するにあんたたちメディアのことだよね」ということだったりする。 つまり、「迷惑をかけた」と、タレントさんが謝罪する時の具体的な「迷惑」のうちの半分以上は、メディアが自作しているということだ。なにしろ彼らは、騒動が鎮火しそうになる度に新たな燃料を投下して、コンテンツの延命化を図っている。 というのも、彼らにとっては、誰かの迷惑のタネを生産し続けることが自分たちの商売の前提だからだ』、「われわれが真っ昼間のテレビの画面上で見せられているのは、進行中のメディアによるマッチポンプだ」とは言い得て妙だ。「彼らにとっては、誰かの迷惑のタネを生産し続けることが自分たちの商売の前提だからだ」、メディアもずいぶん罪作りなことをしているようだ。
・『さらに言えば、メディアは、自分たちが騒ぎを起こしている理由すら自作している。 この理屈はちょっとわかりにくいかもしれない。 説明すれば以下のようなことだ。 彼らは、薬物事犯が極めて反社会的かつ破廉恥な犯罪であり、その罪を犯した人間を断罪し追及することこそが自分たちメディアの使命であるという意味の宣伝を繰り返している。 で、彼らは、違法薬物が人間の精神を蝕む悪魔の粉であり、反社会的組織の資金源でもある旨を、深い事情を知らない視聴者に向けて啓蒙することが自分たちに与えられた神聖な役割であることをアピールしている。 要するに、テレビの関係者としては、自分たちが、この種の薬物事犯の報道を大きく扱う理由は、VTRの尺を稼ぐためでもなければ、視聴者の注意を惹くためでもなく、ただただ「社会のため」だということを強調しているわけだ。 でも、本当のところ、彼らは、騒ぎが起こったから報道しているのではない。 どちらかといえば、メディアが寄ってたかって報道していることで騒ぎが発生していると言った方が実態に近い。 しかも彼らは、瀧氏の関わった作品が次々とお蔵入りになっているプロセスを粛々と伝えているそのニュースの背景映像として、瀧氏のコンサート映像を流し続けている。 瀧氏が映りこんでいる映像の販売や配信については、不謹慎だからという理由で自粛させておいて、自分たちは瀧氏の映像を間断なく再生し続けているわけだ。 無論、彼らには彼らの理屈があって、薬物犯罪の容疑者を断罪する文脈の中で、その容疑者が過去に関わった映像を流すことは何ら問題ないとか、そういう話になるのだろう。 違法薬物の使用なり所持が発覚すると、その瞬間から苛烈な吊し上げ報道が展開され、あらゆる関連作品が自粛の波に飲み込まれることは、誰であれ制作物に関わっている21世紀の人間であれば、ある程度あらかじめ承知していることだ。 そういう意味で、メディアによるリンチ報道は、未体験の人間を薬物の誘惑から遠ざける役割を果たしていると思う。 私自身、「幻覚」だとか「多幸感」だとかみたいな言葉を繰り返し聞かされているうちに、試してみたいと思う瞬間が無いわけでもないのだが、のりピーや瀧さんの扱われ方の残酷さを見ていると、とてもではないが、いまさらハイエナのエサに手を出す気持にはなれない。 違法薬物への入り口を塞ぐ意味で貢献しているのだとしても、薬物からの出口というのか、依存症に陥った人間を更生に導く意味では、現状のメディア・スクラムは、逆効果しかもたらしていない。 ひそかに薬物を使っている人間にとっては、薬物摂取の習慣をなんとしてでも隠蔽する理由になるだろうし、現実問題として、内心で薬物依存からの脱却を願っていたとしても、断薬への道を歩み始める手前の段階に 「人間やめますか」のハードルが課されている現況はどうにもキツすぎる』、「メディアによるリンチ報道は、未体験の人間を薬物の誘惑から遠ざける役割を果たしている」、しかし、「依存症に陥った人間を更生に導く意味では、現状のメディア・スクラムは、逆効果しかもたらしていない」というのはかなり深い分析だ。
・『最後に、断酒中のアルコール依存症患者としての立場からの言葉を残しておきたい。 断酒には(あるいは断薬にも)ある頑強な逆説がかかわっている。 この逆説は、とても説明しにくい。 他人に説明しにくいくらいだから、本人にとっても極めてわかりにくいのだが、なんとか説明してみる。 以下、ややこしい話になると思うが、なんとかついてきてほしい。 アルコール依存者の自助組織であるAA( Alcoholics Anonymous =直訳は「匿名のアルコール依存症者たち」)では、伝統的にアルコール依存からの回復の手順として「12ステップのプログラム」と呼ばれるものが伝えられている。 ウィキペディアの項目が比較的よく整理されているので、興味のある向きは参照してみてほしい。 これは、薬物やギャンブルなどの依存症にも適用されている有用な手法なのだが、当事者にとって(特にわれわれのような一神教の信仰を持っていない日本人にとって)最初の2つのステップが難物だ。しかも、この最初の関門を突破しないとその先の回復のステップを進むことができない仕様になっている。 念のために列挙してみると、以下のような文言だ。 1.私たちはアルコールに対して無力(powerless)であることを自覚した(admitted)-自分自身の生活がコントロール不能(unmanageable)である。 2.偉大なパワー(Power greater)が、私たちを正気に戻してくれると考えるようになった。 1で言っていることはつまり「自力では酒をやめられないこと」を認めることではじめて、「酒をやめるためのスタートライン」に立つことができるということだ。 全体としては「自分の無力さを自覚することではじめて再出発できる」というお話なのだが、この理屈には「自己放棄による再出発」というかなりあからさまなダブル・バインド(注)が介在している。それがどうしても腑に落ちない。だって、再出発する当の本人が自分自身を信用しないでどうする? と、どうしてもそう思えてしまうからだ。 ジョンレノンの「HOW」という歌の最初の一行は、 " How can I go forward when I don't know which way I'm facing?" と歌いはじめられている。私はこのフレーズを思い出したものだった。 「自分がどの道を歩いているのかもわからないで、どうして前に進むことができるだろう?」 その通りだ。自分を信じない人間が、どうやって自分をいましめることができるんだ? で、その答えが、2番めの、「大いなる力」というわけなのだが、これが、モロにキリスト教の「神」っぽくて、普通に育った日本人の私には、やはり受け入れがたい。 率直に言えば「うそつけ」「だまされてたまるもんか」とそう思えるわけだ。実のところ、私はいまでもちょっとそう思っている。 ただ、この二つのステップの絶妙なところは、「自分の(アルコールに対する)無力さ」という依存症の本態を、これ以上ないシンプルな言葉で言い当てているところだ。 多くのアルコール依存者が断酒に失敗するのは、 「自力で」「気力で」「強い意志の力で」アルコールなり薬物なりへの欲望をねじふせようとするところにある。 これをやると、遅かれ早かれいずれ忍耐が決壊するポイントに到達する。 我慢には、限界がある。 限界までは我慢できるけれど、限界が来たら、我慢はやぶれる。当たり前の話なのだが、この当たり前のところがなかなか理解できない』、なるほど。
(注)ダブル・バインド:ある人が、メッセージとメタメッセージ(メッセージは伝えるべき本来の意味を超えて別の意味を伝えるようになっていること)が矛盾するコミュニケーション状況におかれること(Wikipedia)。
・『薬物使用者を断罪する報道を見ていると、いずれも、依存症患者を 「我慢の足りない人」「自己制御のできていない人間」「自分に甘えている人」というふうに規定するドグマから一歩も外に出ていない。 違法の薬物に手を出して、それをどうしてもやめることができずに、いずれ発覚したらすべてを失うことをよく理解しているのに、それでもやっぱり常習的に使用することを断念できずにいたのは、意志が弱いとか見通しが甘いとか、そういう話ではない。 病気だったということだ。 病気だということの意味は、自力では治せないということでもあれば、自分を責めても仕方がないということでもあれば、治療法については他人の力を借りなければならないということでもある。 依存症患者が陥りがちなループから逃れることがまず最初の課題だということでもある。 そのループとは、 +自分は誰よりも酒(あるいはクスリ)を理解している。 +自分ほど自分を理解している人間はいない。 +自分は自分をコントロールできている。 +酒(クスリ)は、時に自分を失わせるが、その酒(クスリ)を自分は自分の意思で制御している。 +ということは自分は酒(クスリ)を通して自分をコントロールできている。 みたいな奇妙な理屈なのだが、これは、酒(あるいはクスリ)とセットになると無敵の自己弁護になる。 この境地から外に出ることが、つまり、自分の無力さを自覚することになるわけだ。 わかりにくい話をしてしまった』、さすが、アルコール依存症に苦しんだ小田嶋氏だけある。
・『ピエール瀧さんとは3度ほど同席させてもらったことがある。その都度、心底から愉快な時間を過ごすことができたと思っている。とても感謝している。 私の知る限り、どの芸人さんやタレントさんと比べても、あんなに爆発的に面白い人はほかにいない。 無論、個々の芸人さんたちとて、本筋の芸を演じる時には、見事な面白さを発揮してくれる。そのことはよくわかっている。 でも、瀧さんは、私がこれまでの人生でナマで話した人の中で、誰よりも素の会話の面白い人だった。これは自分の中では動かない事実だ。 その面白さがクスリの作用だったとは私は考えていない。 クスリや酒は、気分を動せても、アタマの中身そのものを変えることはできない。 そのアタマの中身の素晴らしさをもう一度取り戻すためにも、ぜひ断薬してほしいと思っている』、私はピエール瀧のことは殆ど知らないが、小田嶋氏がここまで褒めるのであれば、それなりの人物なのだろう。再起を期待したい。
タグ:メディア 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 (その14)(小田嶋氏:「迷惑をかけた」の半分以上は) 「「迷惑をかけた」の半分以上は」 ピエール瀧さんがコカインを使用したとして逮捕 平成の30年間は、この種の事件に関連する原稿を書くに当たって、メディア横断的な横並び圧力が強まり続けてきた30年だったと感じている 主語の運用において、礼法に則った書き方を採用していない書き手は信用に値しません」 みたいな、七面倒臭いマナーが、業界標準として定着してしまった感じ 誰をさん付けで呼び、誰を呼び捨てにするのかによって、書き手のスタンスや立場が計測されるようになった 書き手から見た文章中の登場人物への距離なり感情なりを示す手がかりである「呼びかけ方」は、必ずしも世間におけるその人物の序列や評価と一致しているわけではない 「ピエール瀧容疑者」という主語を使ってしまったが最後、その後の部分で私がどんなに真摯な共感を表明したのだとしても、それらは言葉どおりには響かない 新聞や雑誌のような媒体が、特定の人物について呼称なり表記の統一を要求したがるようになったのは、おそらく単に、メディアとしての統一性を確保したいからに過ぎない ある人物について呼称を統一することは、その人物への感情の向けられ方を定型化せずにはおかない 彼が犯したとされる 「罪」のかなりの部分が、メディアによってアンプリファイ(増幅)された 「騒動」 「メディアの主導によって引き起こされている事件の余波」 結局のところ、われわれが真っ昼間のテレビの画面上で見せられているのは、進行中のメディアによるマッチポンプだということだ メディアは、自分たちが騒ぎを起こしている理由すら自作している 物事犯が極めて反社会的かつ破廉恥な犯罪であり、その罪を犯した人間を断罪し追及することこそが自分たちメディアの使命であるという意味の宣伝を繰り返している メディアが寄ってたかって報道していることで騒ぎが発生していると言った方が実態に近い メディアによるリンチ報道は、未体験の人間を薬物の誘惑から遠ざける役割を果たしていると思う 依存症に陥った人間を更生に導く意味では、現状のメディア・スクラムは、逆効果しかもたらしていない 断酒中のアルコール依存症患者としての立場 アルコール依存者の自助組織であるAA( Alcoholics Anonymous 伝統的にアルコール依存からの回復の手順として「12ステップのプログラム」 1.私たちはアルコールに対して無力(powerless)であることを自覚した(admitted)-自分自身の生活がコントロール不能(unmanageable)である 2.偉大なパワー(Power greater)が、私たちを正気に戻してくれると考えるようになった 常習的に使用することを断念できずにいたのは、意志が弱いとか見通しが甘いとか、そういう話ではない。 病気だったということだ
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安倍政権のマスコミへのコントロール(その9)(森友スクープの元記者激白「安倍官邸vs.NHK」に込めた覚悟、菅長官に睨まれる東京新聞「望月記者」と朝日新聞が共闘!? “官邸申し入れ”に徹底抗戦、言論統制が深刻化…確実な証拠がないから追及が必要なのだ、報道機関の記者は紛れもなく主権者国民の代表である) [メディア]

安倍政権のマスコミへのコントロールについては、昨年9月9日に取上げた。今日は、(その9)(森友スクープの元記者激白「安倍官邸vs.NHK」に込めた覚悟、菅長官に睨まれる東京新聞「望月記者」と朝日新聞が共闘!? “官邸申し入れ”に徹底抗戦、言論統制が深刻化…確実な証拠がないから追及が必要なのだ、報道機関の記者は紛れもなく主権者国民の代表である)である。

先ずは、昨年12月20日付け日刊ゲンダイ「森友スクープの元記者激白「安倍官邸vs.NHK」に込めた覚悟」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/244053
・『日刊ゲンダイは今夏、NHKで森友事件のスクープを連発した記者が左遷され、退社したことを報じてきた。その当事者である相澤冬樹氏(現大阪日日新聞論説委員・記者)が13日、「安倍官邸vs.NHK」(文藝春秋)を上梓。NHKでの森友報道への圧力や社内攻防などが実名入りで生々しく記されている。 テレビニュースというのは事実を報道するものだと、かつて視聴者は黙っていても納得してくれました。しかし、最近は疑念を持たれている。NHKという組織を離れた立場なら舞台裏を書けると思い、プロ記者の取材への信用を取り戻すためにも、覚悟の上で踏み込んで書こうと決めました。 NHKで森友学園に関して報じてきた1年半の間、過去に体験したことのないことが多々起きました。財務省がおかしなことをやっているというニュースを出そうとするとさまざまな圧力が掛かった。なぜそんな判断になるのか。安倍官邸の関与は、はっきりとは分かりませんが、何かがなければそんな判断にはなりません』、財務省からの圧力は、官邸経由に加え、財務省自体の情報網に引っ掛かったためもあるのではなかろうか。
・『最近のNHKは政治と「折り合う」ではなく「べったり寄り添う」  森友報道では、学園と昭恵夫人の関係についての部分が原稿から削除された。「国有地の売却前に近畿財務局が学園側に支払える上限額を聞き出していた」「財務省が学園に『トラック何千台ものゴミを搬出した』という口裏合わせを求めていた」という特ダネも、なかなか放送させてもらえなかった。特ダネ放送後に、NHK報道部門トップの小池英夫報道局長が大阪放送局の報道部長に叱責電話を掛けてきたこともあったという。 NHKが政治と「折り合う」必要があるのは放送法に縛られている以上ある程度は仕方がない。しかし、最近は折り合うではなく「べったり寄り添う」になってしまっていて、やり過ぎです。なぜそれが起きているのかということです。国民の信頼を失いますよね。視聴者の信頼を失ったら公共放送は成立しません』、これはやはり官邸からの強い圧力があったためだろう。
・『日刊ゲンダイで報じたように、考査部への異動の裏に官邸への忖度はあったのか。 異動の内々示があった時は、大阪地検特捜部の捜査が継続中でした。その真っただ中に担当記者を代えるという判断は不自然で不可解。そのうえ内々示も異例でした。大阪の副局長まで同席し、わざわざ「これからは考査の仕事に専念してもらう」と言われたのです。「もう報道には手を出すな」という組織の意思表示だと感じました。そこまでして私に記者をさせたくないというのは、つまり、私に森友報道をさせたくないのだと受け止めました。 9月に大阪日日新聞へ移籍。森友報道は今後も継続していく決意だ。 みんなすぐに真相を求めたがりますが、当事者が話さない限り分からない。時間が必要なんです。私は、記者はしつこさが大事だと思っています。長い時間をかけて、しつこく取材するつもりです。森友事件では犠牲者が1人出ている。その重みを感じつつ、まずは、なぜ彼が死に追いやられたのか、という背景を明らかにしたい』、「しつこさ」を活かして森友問題を解明してほしいものだ。

次に、2月13日付けデイリー新潮「菅長官に睨まれる東京新聞「望月記者」と朝日新聞が共闘!? “官邸申し入れ”に徹底抗戦」を紹介しよう。
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/02130631/?all=1
・『望月記者を“妨害”する報道室長  首相官邸の公式サイトに、「内閣官房長官記者会見」のコーナーがある。長官の発表や記者との一問一答が動画で紹介されているのだが、例えば「2月8日(金)午前」の動画を再生してみよう。7分24秒から東京新聞・望月衣塑子記者の質問が始まる。なかなかお目にかかれないやり取りが繰り広げられているのだ。 動画の音声を一問一答にまとめてみた。以下のような具合になる。 【東京新聞・望月衣塑子記者(以下、望月記者)】東京、望月です。上村室長の質問妨害についてです。重ねてお聞きします。上村氏は質問要件を制約したり、知る権利を制限したりする意図は全くないということでしたが、質問中の…… 【司会者】(割り込んで)質問は簡潔にお願いします。 【望月記者】……妨害行為、1年以上続いていまして、明らかに圧力であり、質問への萎縮につながっています。昨年5月に私が直接抗議をした際、上村室長は…… 【司会者】(再び割り込んで)質問に入ってください。 【望月記者】「政府の一員としてやっている」と、「個人的にやっているということではない」と説明をされました。政府、つまり長官が上村室長にこのような指示をされたということは…… 【司会者】この後、予算委員会に出席しますので…… 【菅義偉・官房長官】(司会者の注意に割り込む形で)ありません。 【司会者】……質問に入ってください。(菅官房長官の『ありません』を耳にして)はい、ありがとうございました。 望月記者が「質問に対する妨害行為」を主張している最中に、司会者が望月記者に注意する声が響く。菅官房長官も、司会者を遮って回答。通常の会見と様態が異なるのは明らかだ。動画で見ると更に生々しい。一体、何が起きているのか、政治担当記者が解説する』、確かに、報道室長と司会者の議事進行の酷さは想像以上だ。
・『「望月記者は2017年ごろから官房長官の会見に出席し、伊藤詩織さんのレイプ問題や、森友・加計学園問題など政権側に厳しい質問を繰り返し行うことで注目を集めました。そのため政権側からの“マーク”も相当なものがあり、過去には官邸が東京新聞に抗議したこともあります。そうしたことも含めて望月記者の支持派とアンチ派の論争を生み、更に脚光を浴びる、というわけです。そして望月記者は現在、『自分の質問を官邸が制限しようとした』と抗議を繰り返し、菅官房長官など官邸側と猛烈にやり合っているのです」 この動画、望月記者が質問を始めた7分30秒すぎ、菅官房長官が画面左下へ視線を向け、苦笑する場面がある。「やれやれ」という表情に見えなくもない。 「最近は菅官房長官の会見で、望月記者が挙手して最後の質問を行い、長官が嫌そうに回答する、という光景がお約束のようになっています」(同・記者) 興味のある向きは動画をご覧いただきたいが、まずは今回の騒動を改めて振り返ろう』、記者クラブが「望月記者の支持派とアンチ派の論争を生み」とあるが、アンチ派の記者はよほど「飼い馴らされている」のだろう。ジャーナリストの風上にも置けない連中で、誠に嘆かわしいことだ。
・『初報は2月1日。情報誌「選択」が電子版などで「首相官邸が東京新聞・望月記者を牽制  記者クラブに異様な『申し入れ書』」と報じたことに始まる。 このスクープ記事、肝心の内容が分かりにくい。記事には「要は望月氏の質問を減らせとクラブに申し入れているようなもの」とあり、官邸の申し入れ書に批判的なスタンスを取っていることは伝わってくる。 だが、官邸が何を理由として「望月氏の質問を減らせ」と申し入れたのか明らかにされていない。「(申し入れ書)では『東京新聞の特定の記者』による質問内容が事実誤認であると指摘」などとしか書かれていないのだ。 中日新聞も同じトーンの記事を掲載している。後述するが、「選択」の記事を端緒とし、新聞労連が独自に動く。労連は官邸に抗議するのだが、これを報じた中日新聞の記事をご覧いただきたい。 また中日新聞は1967年、東京新聞の営業権や発行権を獲得。そのため望月記者は「東京新聞の記者」と報じられるが、この記事では「本紙記者」となっている。 それが2月6日に掲載された「本紙記者質問制限に抗議」だ。中日=東京新聞の主張が全面に押しだされていることも鑑みて、全文を転載させていただきたい。 《新聞労連(南彰委員長)は五日、首相官邸が昨年末の菅義偉官房長官の記者会見での本紙記者の質問を「事実誤認」「度重なる問題行為」とし、「問題意識の共有」を内閣記者会に申し入れたことについて「官邸の意に沿わない記者を排除するような申し入れは、明らかに記者の質問の権利を制限し、国民の『知る権利』を狭めるもので、決して容認できない」とする抗議声明を発表した。 声明は「記者が事実関係を一つも間違えることなく質問することは不可能」と指摘。本紙記者の質問の際に司会役の報道室長が「簡潔にお願いします」などと数秒おきに妨げていると批判し、「首相官邸の、事実をねじ曲げ、記者を選別する記者会見の対応が、悪(あ)しき前例として日本各地に広まることも危惧」しているとして改善を求めた》 記事の後段では、東京新聞の幹部もコメントを発表し、官邸に対して異議申し立てを行っている。《加古陽治・東京新聞(中日新聞東京本社)編集局次長の話 質問の途中で事務方の催促が目立つことについては、既に官邸側に改善するよう求めています。今後と読者の「知る権利」に応えるため、本紙記者が取材等で知り得た事実関係に基づき質問に臨む方針に変わりありません》。中日新聞の報道で分かったことが1つある。記事に登場する「司会役の報道室長」は、望月記者が菅官房長官に質した「上村室長」と同一人物だということだ。他の報道を当たると「官邸報道室の上村秀紀室長」とフルネームも既報されていることも分かる』、このような「読者の「知る権利」」への官邸の妨害行動は、民主主義の基盤を揺るがせるもので、確かに放置できない。
・『朝日新聞とハフポスト日本版が東京新聞を応援!?  この“騒動”の背景も踏まえ、分かりやすく報じた新聞社の1つに、朝日新聞がある。2月6日の「記者質問を制限、首相官邸に抗議 新聞労連が声明」には、なぜ官邸サイドが文書を送りつけたのか、その経緯が明記されている。該当部分を引用させていただく。《首相官邸は昨年12月28日、首相官邸の記者クラブ「内閣記者会」に対して、米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設工事に関する東京新聞記者による質問について「事実誤認がある」として、「当該記者による問題行為については深刻なものと捉えており、貴記者会に対して、このような問題意識の共有をお願い申し上げるとともに、問題提起させていただく」と文書で要請。これに対して記者クラブ側は、「記者の質問を制限することはできない」と伝えた》 普天間の移設問題に関する質問が背景にあったことが、これで分かる。ちなみに朝日の記事にも、新聞労連が上村室長に対して抗議している部分がある。ここも引用させてもらおう。《官房長官の記者会見で司会役の報道室長が質問中に数秒おきに「簡潔にお願いします」などと質疑を妨げていることについても問題視。官邸側が「事実をねじ曲げ、記者を選別」しているとして、「ただちに不公正な記者会見のあり方を改めるよう、強く求める」としている》 更に朝日新聞は7日の紙面にも「(Media Times)記者を問題視、官邸に批判 辺野古巡る質問『事実誤認』と文書」と詳報する記事を掲載した。文中では「東京新聞記者」としか書かれていないが、望月記者の質問のうち何を官邸は問題視したか、具体的に明かした。《官邸が問題視したのは、昨年12月26日の記者会見での東京新聞記者の質問。米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設工事に関し、「埋め立ての現場では今、赤土が広がっております」と前置きし、「政府としてどう対処するのか」などと問うた。 官邸側は文書で、質問の「現場で赤土による汚濁が広がっているかのような表現は適切ではない」と指摘。会見がネットで動画配信されていることなどから、「内外の幅広い層の視聴者に誤った事実認識を拡散させることになりかねず、会見の意義が損なわれる」として、「当該記者による問題行為については深刻なものと捉えており、貴記者会に対して、このような問題意識の共有をお願い申し上げるとともに、問題提起させていただく」と要請した。 首相官邸報道室によると、東京新聞に対して官邸は「事実に基づかない質問は厳に慎む」よう繰り返し求めていたという》』、「辺野古への移設工事に関し、「埋め立ての現場では今、赤土が広がっております」」というのは、テレビ画像でも事実なのに、これを否定し、望月記者を批判するとは、官邸の思い上がりもここに極まれりだ。
・『これで官邸が望月記者の何を問題視しているのか、その全容が明らかになったわけだが、今度はハフポスト日本版が、新聞労連が官邸に抗議した経緯を詳報した。 このハフポスト日本版は、アメリカの本社と朝日新聞が合同事業として行っている。2月6日に掲載された「官房長官の会見で東京新聞記者の質問制限→官邸の申し入れに新聞労連が抗議。真意を聞いた」は、新聞労連の南彰委員長にインタビューしたものだ。 先に触れた中日新聞の「本紙記者質問制限に抗議」の記事にも、「南彰委員長」の名前は記されている。そしてハフポストの記事は「新聞労連の南彰委員長(朝日新聞社)」と表記した。実は南委員長、朝日新聞の記者なのだ。 このハフポストの記事で、昨年12月28日に文書で申し入れが行われたことに対し、なぜ年明けの2月5日に抗議を行ったのか、という問いに対し、南委員長は「2月1日の『選択』の記事で初めて知った」と回答している。 事実関係を追う上で、重要だと思われる南委員長の説明を、1箇所だけ引用させていただこう。《当初、記者クラブに対しては、もっと強いトーンでこの記者の排除を求める要求が水面下であったようです。記者クラブがこれを突っぱねたため、紙を張り出すかたちで申し入れを行ったと聞いています。クラブとしては、これを受け取ってはいない、ということです》 ここまで見てみると、東京新聞を朝日新聞が応援しているように見えるのだが、少なくとも望月記者と朝日新聞の南記者は、会社の枠を超え、相当な“協力関係”にあるのは間違いない。 例えば、財界展望新社が刊行する月刊誌「ZAITEN」3月号には「望月衣塑子記者は『参院選不出馬宣言』官邸が睨む記者が暴く『安倍政治の嘘八百』」という記事を掲載した。実を言うと、この記事は望月記者と南記者の対談なのだ。 望月記者と南記者が会見で、次第に菅官房長官に“目をつけられる”ようになっていく経緯を自分たちで説明したところが読みどころの1つだが、対談では協力関係にあったことが明記されている。《望月 (略)私と一緒に質問していた南さんまで、マークされるようになりましたね。南 記者の質問時間は他の記者と変わらないのに、望月さんだけが司会者から「質問を簡潔にするように」とか「質問は事実に基づいて」と注意されるようになった。実際は官房長官の側が事実を全く無視した答弁をしているのに。 望月 ただ、菅さん側は、秘書官などを通じて「あいつをいつまで来させるんだ!」「あんな質問は印象操作だ!」など、いろいろとプレッシャーを番記者にかけているようで、彼らが一時期は大変だったとも聞いています。 南 望月さんの取材手法に対して反感を持つ記者が各社にいるのは事実です。でも、会見で聞くべきことがあるなら聞き続けるのはジャーナリズムの王道》 誌面に掲載された、望月、南両記者の経歴もご紹介しよう。 望月衣塑子(もちづき・いそこ)1975年生まれ。東京新聞社会部記者。日本歯科医師連盟のヤミ献金疑惑などでスクープ(後略)》 《南彰(みなみ・あきら)1979年生まれ。2002年朝日新聞社入社。東京政治部、大阪社会部で政治取材を担当。政治からの発言のファクトチェックに取り組む(後略)》 この対談記事でも紹介されているが、お二人は新書の共著者でもある。昨年12月に「安倍政治 100のファクトチェック」(集英社新書)を上梓しているのだ。Amazonに掲載されている、新書の宣伝文を見ておこう。 《ファクトチェックとは、首相、閣僚、与野党議員、官僚らが国会などで行った発言について、各種資料から事実関係を確認し、正しいかどうかを評価するもの。トランプ政権下の米国メディアで盛んになった、ジャーナリズムの新しい手法である。本書は、朝日新聞でいち早く「ファクトチェック」に取り組んできた南彰と、官房長官会見等で政権を厳しく追及する東京新聞の望月衣塑子がタッグを組んだ、日本の政治を対象にした本格的ファクトチェック本(後略)》 ニクソン大統領を失脚させたウォーターゲート事件は、ワシントン・ポストのボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインという2人の記者による調査報道で明らかになったことはあまりに有名だ。 もともと望月記者の質問には、“権力の監視がメディアの役割”などという堅い話を抜きに、ある種の爽快感を覚えるファンが少なくないのは事実だ。 望月と南の両記者は――所属する会社は異なるものの――「日本のウッドワード&バーンスタイン」と評価される日が来るのだろうか、それとも「協力関係が目に余る」と非難されるのか、今後、世論がどのように反応するかも注目ポイントの1つだろう』、両記者の「ファクトチェック」に大いに期待したい。

第三に、作家の適菜収氏が3月2日付け日刊ゲンダイに寄稿した「言論統制が深刻化…確実な証拠がないから追及が必要なのだ」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/248550
・『ナチスの宣伝相でヒトラーの女房役のゲッベルスによるプロパガンダの手法は、より洗練された形で今の日本で使われている。デタラメな説明を一方的に繰り返し、都合が悪くなれば、言葉の置き換え、文書の捏造、資料の隠蔽、データの改竄を行う。わが国は再び20世紀の悪夢を繰り返そうとしているが、言論統制も深刻な状況になってきた。 2018年12月、東京新聞の望月衣塑子記者が、官房長官の菅義偉に対し、辺野古の米軍新基地建設について「埋め立て現場では今、赤土が広がっており、沖縄防衛局が実態を把握できていない」と質問。すると官邸は激怒し「事実に反する質問が行われた」との文書を出した。では、事実に反するのはどちらなのか? 土砂投入が始まると海は茶色く濁り、沖縄県職員らが現場で赤土を確認。県は「赤土が大量に混じっている疑いがある」として沖縄防衛局に現場の立ち入り検査と土砂のサンプル提供を求めたが、国は必要ないと応じなかった。その後、防衛局が出してきたのは、赤土投入の件とは関係のない過去の検査報告書だった』、「ゲッベルスによるプロパガンダの手法は、より洗練された形で今の日本で使われている」との鋭い指摘は衝撃的だ。
・『東京新聞は官邸から過去に9回の申し入れがあったことを明らかにし、反論を掲載。それによると望月記者が菅に質問すると報道室長が毎回妨害。安倍晋三が流した「サンゴ移植デマ」についての質問は開始からわずか数秒で「簡潔に」と遮られた。国会で「申し入れは報道の萎縮を招く」のではないかと問われた菅は「取材じゃないと思いますよ。決め打ちですよ」と言い放ったが、特定の女性記者を「決め打ち」しているのは菅だ。 もちろん、メディア側が間違うケースもある。にもかかわらず、疑惑の追及は行われなければならない。モリカケ事件の際も「確実な証拠があるのか」とネトウヨが騒いでいたが、アホかと。確実な証拠があるならすでに牢屋に入っている。確実な証拠がないから追及が必要なのだ。事実の確認すら封じられるなら、メディアは大本営発表を垂れ流すだけの存在になる。 「(沖縄の県民投票が)どういう結果でも移設を進めるのか」と問われた菅は「基本的にはそういう考えだ」と述べていたが、そのときの満足げな表情は、望月記者をいじめ抜いたときと同じだった。菅の行動原理が読めないという話はよく聞くが、単なるサディストなのかもしれない。言い過ぎだって? いや、そのご指摘はあたらない』、「確実な証拠がないから追及が必要なのだ。事実の確認すら封じられるなら、メディアは大本営発表を垂れ流すだけの存在になる」という鋭い指摘は、その通りだ。

第四に、 慶応大名誉教授の小林節氏が3月2日付け日刊ゲンダイに寄稿した「報道機関の記者は紛れもなく主権者国民の代表である」を紹介しよう。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/248548
・『東京新聞が「記者は国民を代表して質問に臨んでいる」と記したら、官邸が「国民の代表とは選挙で選ばれた国会議員で、東京新聞は民間企業で、会見に出る記者は社内の人事で決められている」「記者が国民の代表とする証拠を示せ」と返したとのことである。 まるで子供の喧嘩のようである。秀才揃いの官僚たちに囲まれた最高位の政治家がこんな明白な嘘を返して平然としているとは、この国の政治はいよいよ末期症状である』、このやり取りは初耳だが、確かに、「この国の政治はいよいよ末期症状である」というのには同感である。
・『選挙で選ばれた政治家が形式的に国民の「代表」であることは間違いない。しかし、歴史の教訓が示しているように、権力者もその本質はただの人間であり、絶対的権力は絶対に堕落するものであるから、人類は、政治権力を牽制する仕組みをさまざまに工夫しながら、今日まで進歩してきた。 立憲主義、三権分立、議院内閣制、法治主義、権力の乱用に対する盾としての人権と司法の独立、法の支配、地方分権などである。 それでも、最高の権力を握る人間どもは巧みに法の網をくぐり抜けながら私利私欲を追求し悪事を繰り返すものである。モリカケ問題は未解明・未解決であるが、これなど権力の堕落の典型である。 国会議員は、形式上、国民の代表であるが、例えば菅官房長官は1億人もいる日本人の中の12万人余りから明示的に支持されただけの存在である。 1776年にアメリカが独立して世界初の民主国家が誕生して以来、人類は、政治家の堕落を直視しながら政治の質を高める努力を続けてきた。 そして、その中で重要な役割を果たしてきたのが主権者国民の知る権利を代表する報道の自由である。つまり、国民が皆それぞれに自分の生活に忙殺されている日常の中で、職業としての権力監視機関として、報道が発達し、憲法の重要な柱のひとつとして確立され、世界に伝播(でんぱ)していったのである。 だから、報道機関は紛れもなく憲法上、国民の代表であり、また、権力を監視する以上、権力の紐が付かない民間機関なのである。これは、わが国を含む自由で民主的な社会における世界の憲法常識である』、「報道機関は紛れもなく憲法上、国民の代表であり、また、権力を監視する以上、権力の紐が付かない民間機関なのである」という部分は、御用機関化したマスコミも改めて噛み締めて考え直すべきだろう。
タグ:日刊ゲンダイ 適菜収 安倍政権 小林節 新聞労連 マスコミへのコントロール デイリー新潮 (その9)(森友スクープの元記者激白「安倍官邸vs.NHK」に込めた覚悟、菅長官に睨まれる東京新聞「望月記者」と朝日新聞が共闘!? “官邸申し入れ”に徹底抗戦、言論統制が深刻化…確実な証拠がないから追及が必要なのだ、報道機関の記者は紛れもなく主権者国民の代表である) 「森友スクープの元記者激白「安倍官邸vs.NHK」に込めた覚悟」 NHKで森友事件のスクープを連発した記者が左遷され、退社 相澤冬樹氏(現大阪日日新聞論説委員・記者) 「安倍官邸vs.NHK」(文藝春秋) 最近のNHKは政治と「折り合う」ではなく「べったり寄り添う」 「菅長官に睨まれる東京新聞「望月記者」と朝日新聞が共闘!? “官邸申し入れ”に徹底抗戦」 望月記者を“妨害”する報道室長 「内閣官房長官記者会見」のコーナー 2月8日(金)午前」の動画 望月記者 伊藤詩織さんのレイプ問題 森友・加計学園問題など政権側に厳しい質問を繰り返し行うことで注目 過去には官邸が東京新聞に抗議したことも 望月記者の支持派とアンチ派の論争を生み、更に脚光を浴びる 最近は菅官房長官の会見で、望月記者が挙手して最後の質問を行い、長官が嫌そうに回答する、という光景がお約束のようになっています 情報誌「選択」が電子版などで「首相官邸が東京新聞・望月記者を牽制  記者クラブに異様な『申し入れ書』」と報じた 「官邸の意に沿わない記者を排除するような申し入れは、明らかに記者の質問の権利を制限し、国民の『知る権利』を狭めるもので、決して容認できない」とする抗議声明 朝日新聞とハフポスト日本版が東京新聞を応援!? 司会役の報道室長 数秒おきに「簡潔にお願いします」などと質疑を妨げている 辺野古への移設工事に関し、「埋め立ての現場では今、赤土が広がっております」 ハフポスト日本版が、新聞労連が官邸に抗議した経緯を詳報 記者の質問時間は他の記者と変わらないのに、望月さんだけが司会者から「質問を簡潔にするように」とか「質問は事実に基づいて」と注意されるようになった 政治からの発言のファクトチェックに取り組む 「言論統制が深刻化…確実な証拠がないから追及が必要なのだ」 ゲッベルスによるプロパガンダの手法は、より洗練された形で今の日本で使われている デタラメな説明を一方的に繰り返し、都合が悪くなれば、言葉の置き換え、文書の捏造、資料の隠蔽、データの改竄を行う 東京新聞は官邸から過去に9回の申し入れがあった 確実な証拠がないから追及が必要なのだ。事実の確認すら封じられるなら、メディアは大本営発表を垂れ流すだけの存在になる 「報道機関の記者は紛れもなく主権者国民の代表である」 官邸が「国民の代表とは選挙で選ばれた国会議員で、東京新聞は民間企業で、会見に出る記者は社内の人事で決められている」「記者が国民の代表とする証拠を示せ」と返した 最高の権力を握る人間どもは巧みに法の網をくぐり抜けながら私利私欲を追求し悪事を繰り返す 職業としての権力監視機関として、報道が発達し、憲法の重要な柱のひとつとして確立され、世界に伝播(でんぱ) 報道機関は紛れもなく憲法上、国民の代表であり、また、権力を監視する以上、権力の紐が付かない民間機関なのである
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メディア(その13)(小田嶋氏2題:「編集」が消えていく世界に、われわれは笑いながら奴隷になっていく) [メディア]

メディアについては、2月19日に取上げたばかりだが、今日は、(その13)(小田嶋氏2題:「編集」が消えていく世界に、われわれは笑いながら奴隷になっていく)である。

先ずは、やや古いが、コラムニストの小田嶋 隆氏が昨年9月28日付け日経ビジネスオンラインに寄稿した「「編集」が消えていく世界に」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/174784/092700160/
・『前回の当欄で話題にした雑誌「新潮45」をめぐる騒動は、同誌の休刊(9月25日に新潮社の公式サイト上で告知された→こちら)をもって一応の決着をみることとなった。 「一応の決着」という言葉を使ったのは、私自身、休刊が本当の決着だとは思っていないからだ。もちろん、マトモな決着だとも思っていない。というよりも、こんなものは決着と呼ぶには値しないと思っている。 現時点で感じているところを率直に開陳すれば、私はこのたびのこのタイミングでの新潮社による休刊という決断にあきれている。理由は、休刊が一連の騒動への回答として不十分であり、「杉田論文」が引き起こした問題を解決するための手段としても、的外れかつ筋違いであると考えるからだ。こんなものが説明になるはずもなければ、事態を打開する突破口になる道理もないことは、多少ともメディアにかかわった経験を持つ人間であれば誰にだって見当のつくはずのことで、休刊は、言ってみれば「説明をしないための手段」であり、責任ある立場の人間が事態に直面しないための強制終了措置であったに過ぎない。叱られた小学生が積み木を蹴飛ばしているのと、どこが違うというのだ?』、「小学生が積み木を蹴飛ばしている」との比喩はさすがだ。
・『とはいえ、そう思う一方で、私は、今回の「休刊」という関係者にとって極めて重い選択が、結果として無責任な野次馬を黙らせる結果をもたらすだろうとも思っている。 つまり、「休刊」は、問題の解決には貢献しないものの、事態の沈静化には寄与するわけだ。してみると、これは、実にどうも、日本の組織によくある事なかれ主義の結末としては極めて必然的な、ほかに選ぶ余地のない余儀ない選択だったのかもしれない。 新潮社が自社の名前を冠した月刊誌を葬り去ることを通じて世間に伝えようとしたのは 「自分たちはもうこれ以上この問題にかかわりたくない」  というメッセージだった。 新潮社の上層部は、今回の一連の騒動に正面から対処するのがめんどうだった。であるからこそ、彼らは、不愉快なトラブルを爆破するついでに赤字部門をひとつ整理してしまおうではないかと考えた、と、私個人は、今回の行きがかりを、そんなふうに受け止めている。 いつも取材する側としてトラブルの当事者を小突き回していた側の人々が、にわかにマイクを向けられ、看板に落書きされる立場に追い込まれたのであるからして、動転してしまった気持ちはわからないでもない』、「トラブルの当事者を小突き回していた側の人々が、にわかにマイクを向けられ・・・」の比喩も傑作だ。
・『でも、安易に休刊という選択肢を選んでしまったことで、混迷に陥っている事態を正常化させるための機会はほぼ永遠に失われることになった。それ以上に、失われた名誉を回復するための時間とチャンスが完全に消滅してしまった。これは、雑誌にかかわっていた当事者にとって返す返すも残念なことだったと思う。 今後、「新潮45休刊」というこのむごたらしい事態は、事態解決の手段としてではなく、左右両陣営の党派的な人々によって自分たちの論拠を補強するためのカードとして利用されることになるはずだ。 すなわち、杉田氏を擁護する立場の人々は、「新潮45」の休刊を 「ポリコレ棒を振り回すパヨクならびに似非人権派による言論弾圧の結果」 であると決めつけて、反日サヨク陣営の暴走を訴えて行くのであろうし、反対側の陣営は陣営で 「商売のために陋劣低俗な駄文を掲載した伝統ある雑誌が自滅した一方で、その当の駄文の書き手たちは今後も右翼論壇で活躍するのであろうからして、まったく世も末であることだよ」 てな調子でネトウヨの跳梁跋扈を嘆いてみせるに違いないわけで、結局のところ、「休刊」は、党派的な人々に党派的に利用されるばかりで、杉田論文騒動の直接の被害者である性的マイノリティーの人々には、何の解決も、安堵も、慰安ももたらさないのである』、確かに被害者のことが忘れ去られているのは事実だ。
・『今回の騒動が勃発して以来、私のツイッターアカウントには、「常々右派論壇を揶揄嘲笑していながら、その右派論壇に接近しつつあった『新潮45』に唯々として寄稿していたオダジマのダブスタにはまったくあきれるばかりだ」「仕事にあぶれたロートルが休刊に発狂してて笑える」「自分がカネもらって原稿書いてたくせに、他人事みたいに編集長をクサしてるのは、オダジマが少なくとも恩知らずのクソ野郎だということだよな?」といった調子の攻撃のツイートが多数押し寄せている。 雑誌の休刊に類する破局的な結末は、ある種の人々を興奮させる。 もう少し実態に即した言い方をするなら、雑誌の休刊や著名人の転落にエキサイトするような人々がネット社会のある部分を支えているということだ。 彼らの共通項は、既存のメディアを憎んでいるところにある。 おそらく、公式非公式を含めた新潮社のチャンネルには、私のところに寄せられたのよりもさらに辛辣かつ残酷なツイートやメールが殺到していることだろう。 だが、その種のクレームや中傷や非難や嘲笑は、結局のところ、問題とするには足りない。 というのも、メディア企業に粘着するアカウントの多くは、つまるところ、自分自身がマスコミに就職したくてそれがかなわなかったいわゆる「ワナビー」(注)であり、同様にして、ライターやコラムニストに直接論争を挑んでくるのも、その大部分はライターやコラムニストになりたかった人たちだからだ。 彼らは、メディアの中で発言している有象無象の低レベルな論客よりも、自分の方が高い能力を持っていると思っている。にもかかわらず自分に発言の場が与えられていない現実に不満を感じている。だからこそ、彼らは何かにつけて突っかかってくる。 実際、私のツイッターアカウントやメールアドレスには 「たいして根拠もないことを書き飛ばしてカネを貰えるんだから、コラムニストっていうのは楽な商売だな(笑)」という定番のツッコミが、定期的に寄せられる。 私は、たいていは無視しているのだが、ときどき、「コラムニストは楽な商売なので、あなたも転職すると良いですよ」だとか 「たしかに、才能のある人間にとってコラムニストほど楽な商売はありません。毎度ありがとうございます」という感じの回答を返してトラフィックの増加に寄与することにしている。』、((注)ワナビー(wannabe)とは、何かに憧れ、それになりたがっている者のこと。上辺だけ対象になりきり本質を捉えていない者として、しばしば嘲笑的あるいは侮蔑的なニュアンスで使われる(Wikipedia)) これまで小田嶋氏のコラムに突っかかる人々のことが謎だったが、マスコミ関連でもワナビーがかなりいることを知って謎が解けた。。
・『彼らは恐るるに足りない。むしろ私が恐れているのは、何も言ってこない人々だ。 何も言ってこない人々というのは、つまり、メディアにも表現者にも憧れを持っていない多数派の、とりわけ若者たちのことだ。 現在のインターネット全盛時代に先立つ何十年かの間、メディア企業で働くことと、表現にかかわる仕事に就くことは、多くの若者にとっての憧れだった。 いわゆるマスコミの社員は、高給取りでもあれば合コン市場での勝ち組でもあり、就活戦線でも無敵の人気就職先だった。 高給取りで狭き門だったから憧れの対象になったのか、憧れの対象だから好遇されていたのか、起こっていたことの因果の順序は不明だが、ともあれ、20世紀の間、メディアは花形の職場だった。 それが、現在は、そうでもなくなっている。 高給の設定は、すでに裏切られつつある。昇給率はより確実に反故にされる見込みだ。 つまり、昔みたいに黙っていてもどんどん昇給して行く夢のような生活はもう二度と再現されないだろうと、誰もがそう感じているのが現状のメディア業界人の共通認識だということだ。 で、中の人たちのそうした悲観的な見込みを反映した結果なのか、就職戦線における優位にも影が差している。 就職希望者が減っているのはもちろん、内定者がすんなり入社せずにほかの業界を選ぶ傾向も年々高まっている。 つまり、現役の就活生たちは、マスゴミを敵視して突っかかって来ているワナビーの人々よりもさらに手厳しい人々なわけで、彼らはそもそもマスコミを第一志望の入社先として選ばなくなっているわけなのだ』、就活生のマスコミ離れは、業界の苦境からすればやむを得ないだろう。
・『今回の休刊は、この傾向(つまり、若い人たちがメディアを忌避する傾向)に拍車をかける理由になるはずだ。 具体的な次元では、今回の休刊は、雑誌が「マネタイズできないメディア」であることを自ら証明してみせたのみならず、出版が衰退しつつあるビジネスであり、活字関連企業が斜陽産業であることを内外に広く知らしめるアドバルーンとして機能しつつあるということだ。 今回、個人的に強い衝撃を受けたのは、9月21日の社長声明の中で、新潮社の佐藤隆信社長が、《今回の「新潮45」の特別企画「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」のある部分》に関して《あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現》が見受けられた旨を断言していたことだ。(こちら) たしかに、小川榮太郎氏の文章は、私の目から見ても、明らかに「常識を逸脱」したどうしようもない駄文だった。 しかし、一読者である私がそう思うのと、掲載誌を出版している社長がそれを言うのとでは意味が違う。 私の抱いている認識では、新潮社や文藝春秋といった雑誌系の出版社は、昔から「安易に頭を下げない」ことで、その看板を保ってきた会社だった。 念のために補足しておけば、ここで言う、「安易に頭を下げない」というのは、必ずしも、被害者に対する無責任さや利害対立相手に向けてのツラの皮の厚さを指摘するための言い方ではない。 どちらかといえば、どんなことがあっても身内の人間を守る心意気を称揚する気持ちをこめた言い方だ。 もっとも「身内を守るためには命を落とすことも辞さない」「仲間のカタキはどんなことをしてでも必ず討つ」というのは、近代人の倫理コードや企業人の行動原理というよりは、どちらかといえば、より端的に「やくざ」ないしは「任侠」の人々の「仁義」ではある。 が、雑誌にかかわる人間の内心に、いまなおこの種の「仁義」が共有されていることもまた事実だ』、最後の部分には驚かされた。
・『その文脈からして、新潮社の社長が、自社の雑誌に寄稿した人間の文章をああいう言葉で切って捨てたことの意味は大変に深刻だ。 編集部が原稿を受け取って、活字の形で世間に流通させた以上、文責は編集部にある。 それを、社長が「常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現」と言い切ってしまったのではどうしようもない。 書き手は、ハシゴを外された形になる。 編集部としても、社長にこんな言い方をされたのでは、仕事のすすめようがない。 なんとも悲しい話だ。 雑誌が消滅することは、単に書店の書棚から書影が消えるだけの話ではない。 月刊誌が消えることは、月刊誌への執筆機会を積み重ねることで筆力を養っていたノンフィクションライターの卵たちが壁にぶつかって潰れるということでもあれば、月刊誌が提供してくれる取材費を糧に関心領域への地道な地取りを続けていたライターが廃業を余儀なくされるということでもある。新聞やテレビがあまり扱わない、調査報道に費やされるべき人員と予算が雲散霧消することでもある。 ついでに言えば、週刊誌が衰えることは、事件取材の層が薄くなることでもあれば、人間の手足と目と口でとらえた現場の空気が読者に伝わらなくなることでもある。 いずれにせよ、雑誌の死は、単に紙の上の活字が消えるだけの変化ではない。 それは、読者たるわれわれが世界に対峙する視野が少しずつ狭くなることを意味している』、「雑誌の死」がそんなに深い意味を持っているとの指摘は、なるほどと納得した。
・『レコードがCDになり音楽ファイルになり、配信コンテンツに変貌して行く過程で、レコードショップが消滅し、プレス工場が更地になり、アナログの楽団やその演奏者が失業し、巨大なスタジオがビルの1室にまるめこまれたように、また、写真が紙焼きから画像ファイルに身を落とすたった15年ほどの期間の間に、フィルムメーカーが倒産し、現像所が消え、日本中の街角から写真館とDPEの窓口が消失したのと同じように、雑誌が活字として紙に印刷される形式から液晶画面上の画素の明滅にとってかわられることになれば、それらは、順次刷られなくなり、配本されなくなり、手売りされなくなる。そしてこれらの変化は、編集、印刷、製本、取次、配本、小売、という活字にまつわる一大産業が裾野の部分からまるごと消滅することを意味している。 「コンテンツとしての文章は不滅なんだし、人が文章を読むという行為そのものが消滅することはあり得ないのだから、そんなに心配する必要はないよ」 と言っている人もいる。 もちろん、大筋において、彼の言っていることに間違いはない。 ただ、雑誌なり新聞なりという「形式」を成立させていた営為は、その形式が消えれば自動的に消滅するはずで、私は、その部分に大きな危機感を抱いている。 このあたりの機微は、ちょっとややこしい。 なんというのか、われら出版業界の人間が20世紀の雑誌の世界でかかわっていた「文章」は、単なる個人的なコンテンツではなくて、もう少し集団的な要素を含んでいたということだ。 で、そのそもそもが個人的な生産物である文章をブラッシュアップして行くための集団的な作法がすなわち「編集」と呼ばれているものだったのではなかろうかと私は考えている次第なのである。 してみると「編集」は、一種の無形文化財ということになると思うのだが、その「編集」という不定形な資産は、この先、文章というコンテンツが単に個人としての書き手の制作と販売に委ねられるようになった瞬間に、ものの見事に忘れ去られるようになることだろう。 書き手がいて、編集者がいて、校閲者がいて、そうやってできあがった文字要素にデザイナーやイラストレーターがかかわって、その都度ゲラを戻したり見直したりして完成にこぎつけていたページは、ブロガーがブログにあげているテキストとは別のものだ。 ここのところの呼吸は、雑誌制作にかかわった人間でなければ、なかなか理解できない。 で、その違いにこそ「編集」という雑誌の魔法がはたらいていたはずなのだ。 取材についても同様だ』、私には本当のところは理解できないが、そんなものなのだろう。
・『レコードショップが消えても音楽配信サイトがあれば、結果としてコンテンツとしての音楽は流通するし、人々の耳に届くことができる。 ただ、音楽業界の人間に言わせれば、レコード・CDの時代に積み重ねられてきた古い音楽の制作過程や流通経路が滅亡する中で、失われてしまったものが確実にあって、それらは、一度失われると二度と復活できないものでもあるらしいのだ。そういう話が、さまざまな世界にころがっている。 おそらく、文字を紙に印刷して書店で売ることをやめて、出来上がった文章を直接読者がファイルなりストリーミングなりで受け取る形にすれば、中間過程で費やされていた余計な経費や時間や手間はすっかり不要になる。 それは、経営的には間違いなく効率的なはずだ。 しかしながら、事態を逆方向から眺めてみればわかる通り、これまで新聞社が世界中に支局を持ち、雑誌社がボツネタのためにも記者を派遣し、出版社がほとんど売れる見込みのない書籍のために労力を割いていたのは、読者が新聞を定期購読し、電車に乗り降りする度に雑誌を買い求めていたからであり、つまるところ、無駄な本を作るための無駄な労力と無駄な中間経費のための代金を支払っていたからだ。 ここのあたりの事情をもう少し詳しく説明すると、出版物の制作過程から無駄を省き、経費を節減し、中間過程を省略すると、空振りの取材や、ボツネタのためのアポや、書かない著者が編集者を待たせる待ち時間がまるごと消滅して、結果として、取材時間や、取材人員や、企画を考えるための空き時間が現場から消えることになる。 と、その種の無駄な時間と手間を原料として生成されていた雑誌の魔法は、次第に効力を失っていくはずなのだ。 早い話、私の知っているある週刊誌の編集部は、1990年代と比べて3分の1の広さになっている。 スペースだけではない。かかわっている人間の数や予算はもっと減っている。 無駄を省き、コストを節減し、選択と集中を徹底しないと、雑誌は立ち行かなくなっている。 そして、無駄を省き、コストを大量殺戮し、選択と集中を徹底した結果、雑誌からは行間が失われている』、そんなものなのかも知れない。
・『1980年代の後半から1990年代にかけて、雑誌はまさに黄金時代だった。 私自身、20代から30代になったばかりで、いまから比べれば無理のきく年頃だったが、同じ世代にはもっと勢いのあるライターがいくらもいたものだった。編集者もおしなべて若かった。そんなこんなで、業界全体に勢いがあった。 当時行き来のあった書き手は、現在、ほとんど残っていない。 私のように、30年以上同じ仕事をやっているライターは数えるほどだ。 ただ、私は、自分が生き残ったというふうにはあまり思っていない。 原稿を書く仕事から離れて、ほかの分野で成功している人が少なくないことから考えても、むしろ、目はしの利く人間や、ほかに芸のある書き手は早めにこの仕事から撤退したということなのかもしれない。 ともあれ、90年前後の雑誌黄金期にライターをやっていた人たちは、皆、きらびやかで優秀だった。 最近は、自分は逃げ遅れたのではないかと思うことが多い。 「新潮45」は、表向き「休刊」という言葉をアナウンスしている。 つまり「廃刊」という最終的な言葉は使っていないわけだ。 ということは、理屈の上では、復刊の余地はあるのだろうと思っている。 10年後くらいに「新潮75」あたりの名前で復刊することがあるのであれば、ぜひ寄稿したいと思っている』、雑誌業界についてのノスタルジー溢れる「弔文」だ。

次に、同じ小田嶋氏による本日付け日経ビジネスオンライン「われわれは笑いながら奴隷になっていく」を紹介しよう。
https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00009/?P=1
・『国会議員の不祥事が伝えられている。 話題の主は、比例代表の東海地区で選出されている自民党二階派の三回生議員、田畑毅氏(46)だ。 共同通信社が配信している記事によれば、田畑議員は、昨年まで交際していたとされる名古屋の女性に準強制性交の容疑で告発されている。 報道によれば、女性は昨年12月24日夜、田畑氏と食事し、酒を飲んだ。その後、2人で女性の自宅へ行き、寝ている間に乱暴されたと主張し、今月、愛知県警に告訴状を提出した。 なお、田畑氏の携帯電話には女性の裸を撮影した画像が保存されていたため、女性は軽犯罪法違反容疑でも被害届を提出したという。 第一報の後、テレビの情報番組などで、被害女性と田畑議員の電話での会話(←全裸の被害者を撮影した画像をめぐるやりとり)が公開されたこともあって、騒動はいまだに尾を引いている。 田畑議員は、当該の告訴事案が大々的に報道される以前の2月15日の時点で、既に自民党に離党届を提出している。27日には衆議院に議員辞職願を提出している。 時事通信社の記事によると、辞職願は週内にも受理される見通しで、田畑氏の辞職に伴い、2017年衆院選の同党比例名簿に従い、元職の吉川赳氏が繰り上げ当選することになる。 今回は、この事件の話をする』、被害者が「昨年まで交際していた」とは初めて知った。
・『といっても、事件の詳細に踏み込むことはしない。 裁判すら始まっていない事件の報道をネタに、国会議員をいきなり断罪するつもりはない。 この事件を利用して政権批判を展開する気持ちも持っていない。 理由は、当該の事件についての細かい事情については、現時点では、まだはっきりしていない部分が多いからだ。仮に時間が経過したところで、報道の結果を見ているだけの私が把握できるのは、どうせ事件の全体像のうちのほんの一部分に過ぎない。 思い切り白々しい建前論を申し述べるなら、交際女性に告訴状を提出されたからといって、その時点でただちに告発された人間の有罪が確定するわけではない。 少なくとも裁判が結審して判決が確定するまでの間は、議員には推定無罪が適用されることになっている。 もっとも、国会議員の職責の重さから考えて、法律的にはともかく、道義的・社会的な責任は免れ得ない。 その意味で、離党ならびに議員辞職は妥当な結果だろう。 ただ、動機や背景を含む事件の保つ意味については、司法の場で判決が出てからあらためて考えても遅くはない。 少なくとも、私がここであれこれ憶測を並べても仕方がないことだけははっきりしている』、妥当な判断だ。
・『以上の理由から、当稿では、第一報を受けた世間の反応を眺めながら私が感じたことを記録するにとどめる。 具体的には、2月24日放送の「ワイドナショー」(フジテレビ系)の中での松本人志氏の発言をご紹介しながら、そのコメントについての私の現時点での感想を述べるとともに、どうして毎度毎度セクハラないしは強制性交関連の話題がテレビで扱われる度に、加害男性を擁護する主旨のコメントが供給されるのかについて考えてみるつもりでいる。 松本人志氏の発言の詳細は、以下のリンク先に詳しい。 彼は、出演者との対話の中で、「ぼくホントに不思議なのは、クリスマスイブに、一応彼女なんでしょ? でまあ、お酒たらふく飲んで……この女性は、どういう感じでいたんだろうなというのは、ちょっと……」と発言している。 話の流れの中で、共演者の堀潤氏が、スウェーデンでは昨年から法律が変わって 「明確な合意を伴わない性行為はレイプとみなされ得る」ことになったという話を紹介すると、松本氏は、「でも、女性って、やっぱり途中で『いやぁーん』って言うやん」とまぜっかえしている。 私自身、年の後半から必ず録画(←この番組は毎週のようにひどい発言が話題になるので、チェックのために昨録画するようにしている)済みの番組を見直して、たしかにリンク先の記事で要約されている通りの発言をしていることを確認している。 で、24日に、さきほどのリンクを紹介したうえで《これ、具体的な当事者がいて、しかも当人が刑事告訴している事件を踏まえたコメントであることを考えると、あまりにも無神経かつ無思慮な発言だと思う。 松本人志、「明確な同意なし性行為は違法」に反論 「途中でイヤァンって言うやん」 https://netallica.yahoo.co.jp/news/20190224-28303120-sirabee #ネタりか 》 というツイートを投稿したのだが、このツイートには、28日現在で、同意、反論も含めて、これまでに170件ほどのリプライ(RTは約3600、FAV(注)は約4300件)が押し寄せている。 私が今回、この話題を取り上げる気持ちになった理由は、率直に申し上げて、自分のツイートへの反応の大きさに驚いたからだ。 ありていに言えば、議員が引き起こしたと言われる準強制性交事件そのものよりも、その事件をめぐる話題から派生した男女間の性行為に関する合意をめぐるあれこれが、人々の熱い関心を集めていることに、あらためて気付かされたということだ。 今回、松本氏が「火薬の匂いがする」「大丈夫か松本」などと、自分の触れている話題が「炎上ネタ」であることを何度もアピールしつつ、それでもなおあえてこの炎上案件について、最も炎上しがちなコメントを供給してみせたのは、テレビタレントとして、ながらく世間の空気を読み取ってきた経験から、この話題の周辺(すなわち男女間の性的合意をめぐる駆け引きや計算)に、巨大な「需要」があることを察知したからなのだと思う。 その点で、彼の見立ては間違っていなかった。 たしかに、この事件ないしは、事件から派生した話題としてのスウェーデンの法律の周辺には、日曜日の午前中のテレビ視聴者を誘引してやまない下世話な需要が渦巻いていた』、((注)FAVとは「お気に入り」Favarites(weblio辞書))。私は個人的には松本人志氏は好きではないが、テレビタレントとしての嗅覚は大したものだ。
・『私のツイートに寄せられた反論は、大きく分けて 1.オダジマは、松本氏の発言の一部だけを切り取って印象操作をしている。あまりにも卑劣だ。 2.松本さんの発言は、議員の女性問題についてのコメントではなくて、あくまでもスウェーデンの法律への感想を述べたものだ。論点をズラすな。 3.お笑い芸人が笑いを取るために言っているネタにいちいちマジレスしているあんたはバカなのか? 4.松ちゃんはおまえなんかより何百倍も女を食っている。ひがむな。 5.おまえ童貞だろ笑  という感じになる。 で、私は、ひとまとめに《1.「番組見ないで批判するな」→録画見たよ 2.「一部を切り取って論評するな」→文脈を踏まえている。 3.「ギャグがわからないのか」→ギャグは言い訳にならない。笑えても免罪なんかされないし、そもそも笑えない 4.「いちいち承認が必要なのか」→必要に決まってる 5.「おまえ童貞だろ」→ギャグか?》 というツイートを返信して一方的に対話を打ち切った次第なのだが、ことほどさように、タイムライン上でやりとりされた話は、はじめから最後まで、まるで噛み合っていない。 おそらく、この分野のこの話題に関して、相容れない主張を展開している異なった立場の人間同士の対話は、永遠に噛み合わない。 噛み合わないこと自体は、かまわない。私は仕方がないと思っている。 私自身、話を噛み合わせるために言葉を発しているのではない。どちらかといえば、どの部分が噛み合わないのかを確認するために原稿を書いている。この点は認めなければならない』、「どの部分が噛み合わないのかを確認するために原稿を書いている」というのは、さすがプロの物書きだ。
・『問題は、松本氏の果たしている役割だ。あるいは、「松本氏が果たそうとしている役割」と言い直したほうがより正確かもしれない。 私は、わかりにくい話を持ち出そうとしている。 自分ながら、うまく言語化できるかどうか自信がない。が、とにかくやるだけやってみよう。 思うに、21世紀にはいってからこっち、松本人志氏に代表されるお笑い芸人は、単に笑いを提供する役割からはみ出して、あるタイプの「常識」や「道徳」を無効化する役割を引き受けはじめている。 昨今の例で言えば、「PC(ポリティカル・コレクトネス)」と「#MeToo」が、彼らの明らかな標的だ。 もう一歩踏み込んだ言い方をするなら、「ワイドナショー」という番組の立ち位置そのものが、「PC」や「#MeToo」に代表される「いい子ちゃんモラル」や「学級委員長的な行動規範」へのカウンターを志向しているということでもある。 これは、21世紀にはいってからテレビのお笑いが変質したというだけの話ではない。 このことはむしろ「お笑い」という文化的営為が、少なくとも日本では、伝統的に「優等生」よりは「不良」の、「常識人」よりは「局外者」の仕事だったことを物語っている。であるからして、お笑いを担う人々は、「建前」よりは「本音」を、「善言」よりは「露悪」を重視せざるを得ない。21世紀にはいって、彼らの活動がより露悪に傾いたように見えるのは、むしろ21世紀のテレビへの規制がさらにあからさまに良い子ちゃん的になったことへの反動と見なければならない』、「21世紀にはいってからこっち、松本人志氏に代表されるお笑い芸人は、単に笑いを提供する役割からはみ出して、あるタイプの「常識」や「道徳」を無効化する役割を引き受けはじめている」、との指摘は、鋭く、説得力がある。
・『ついでに言えば、お笑いの世界で敢行されている「反抗」や「異議申し立て」は、あくまでも「良識への反抗」ないしは「定型的なモラリティーへの異議申し立て」であって、決して「権力への反抗」や「規制秩序への異議申し立て」ではない。ここが大切なところだ。芸人は、権力に反抗する気持ちなど昔から持っていなかったし、これからだって決して持たない。園遊会に招かれればマッハ15で駆けつけるだろう。 それゆえ、当然のことだが、お笑いの世界に身を置く人間は、ポリティカリーにインコレクトな立場に立つことを好み、「#MeToo」で告発される側を擁護することに自分たちの存在価値を認めることになる。 どうしてそんな権力べったりのお笑いが生き残るのかというと、テレビのお笑いコンテンツを楽しんでいる多数派のテレビ視聴者にとって、ポリティカル・コレクトネスなる舶来の概念は、いかにも窮屈なお仕着せの外出着に見えるし、「#MeToo」に至っては、ほとんどトウの立った○○○(←PC的配慮により表記不可能)ヒステリーとしか思えないからで、要するに、お笑いの当事者としては、危険をおかして権力を批判するよりは、権力批判をしていい気持ちになっている人間を揶揄する方が能率が良いからだ』、最後の部分は、なるほどと納得させられた。
・『それゆえ、教室内における非優等生的な空気を代弁するキャラクターである芸人一家諸氏は、どうしたって露悪的な言葉を並べ立てざるを得なくなる。 たとえば、教師が 「学生の本分は勉強です」と力説し、教室の前半分に座っているメガネピカピカの優等生連中が「はーい先生。学生の本分は勉強ですね」と唱和しているのであれば、彼らとしては 「ちぇっ、勉強なんかクソくらえだぜ」と、つぶやかざるを得ない。当然の反応だ。 もちろん、勉強がクソをくらって良いはずはない。そんなことはわかっている。ただ、対抗上、そう言わないと形にならないということだ。 「クソという言葉はいけません」と、どうせ教師はそういう方向から見当外れの規制を強要してくる。 では、排泄物を召し上がってくださいと言えば良いのかというとそういう問題でもない。私は何を言っているのだろう。とにかく大切なのは、主張の内容そのものよりも、発言者の立ち位置だということを私はさきほど来力説している。 だからこそ、この場では、私も優等生の立場で、モラルの側に寄り添った原稿を書いてみせているのであって、なればこそ「松本」「松ちゃん」とは呼ばずに、あえて「松本氏」という他人行儀な表記を押し通している。 お笑いが、権力に対して反抗的だったというのは、神話に過ぎない。 そういう局面もあったのだろうし、あるいは西洋にはその種の伝統がそれらしく見えた時代があったのかもしれない。 とはいえ、うちの国の伝統からすると、お笑いはほぼ一貫して、アウトローの捨て台詞であり、牢名主の恫喝であり、下っ端役人のひがみだった。ということはつまり、お笑いは権力に抵抗するよりは、むしろ補完する役割を担ってきたのであって、それゆえ、彼らは、権威を相対化することよりは、「正義」や「理想」や「道徳」を嘲笑する作業に従事してきたということだ。 おそらくこの先20年ほどの間に、PCや「#MeToo」はもちろんのこと、憲法をはじめとする戦後民主主義的な諸価値や多様性を主眼とするリベラル的諸規範は、まるごとお笑いによって骨抜きにされるはずだ。 われわれは笑いながら奴隷になって行く。 とてもいやな予想だが、私はわりとマジでそう思っている。 マジでというのは、真顔でということで、つまり、私は、笑っていない。 笑いはアタマの健康に良くないと思っているので』、「この先20年ほどの間に、PCや「#MeToo」はもちろんのこと、憲法をはじめとする戦後民主主義的な諸価値や多様性を主眼とするリベラル的諸規範は、まるごとお笑いによって骨抜きにされるはずだ。われわれは笑いながら奴隷になって行く」という予想は、不吉で恐ろしい。「お笑い」にこのような効果があるとは、改めて考えさせられた。
タグ:メディア スウェーデン 新潮社 休刊 日経ビジネスオンライン 小田嶋 隆 「新潮45」 (その13)(小田嶋氏2題:「編集」が消えていく世界に、われわれは笑いながら奴隷になっていく) 「「編集」が消えていく世界に」 「杉田論文」が引き起こした問題 事態の沈静化には寄与 いつも取材する側としてトラブルの当事者を小突き回していた側の人々が、にわかにマイクを向けられ、看板に落書きされる立場に追い込まれたのであるからして、動転してしまった気持ちはわからないでもない 「休刊」は、党派的な人々に党派的に利用されるばかりで、杉田論文騒動の直接の被害者である性的マイノリティーの人々には、何の解決も、安堵も、慰安ももたらさないのである マスコミに就職したくてそれがかなわなかったいわゆる「ワナビー」 無駄を省き、コストを節減し、選択と集中を徹底しないと、雑誌は立ち行かなくなっている。 そして、無駄を省き、コストを大量殺戮し、選択と集中を徹底した結果、雑誌からは行間が失われている 「われわれは笑いながら奴隷になっていく」 田畑毅氏 準強制性交の容疑で告発 松本人志氏の発言 「明確な合意を伴わない性行為はレイプとみなされ得る」ことになった 松本人志、「明確な同意なし性行為は違法」に反論 「途中でイヤァンって言うやん」 最も炎上しがちなコメントを供給してみせたのは、テレビタレントとして、ながらく世間の空気を読み取ってきた経験から、この話題の周辺(すなわち男女間の性的合意をめぐる駆け引きや計算)に、巨大な「需要」があることを察知したからなのだと思う お笑い芸人は、単に笑いを提供する役割からはみ出して、あるタイプの「常識」や「道徳」を無効化する役割を引き受けはじめている 「お笑い」という文化的営為が、少なくとも日本では、伝統的に「優等生」よりは「不良」の、「常識人」よりは「局外者」の仕事だったことを物語っている お笑いの世界で敢行されている「反抗」や「異議申し立て」は、あくまでも「良識への反抗」ないしは「定型的なモラリティーへの異議申し立て」であって、決して「権力への反抗」や「規制秩序への異議申し立て」ではない お笑いの当事者としては、危険をおかして権力を批判するよりは、権力批判をしていい気持ちになっている人間を揶揄する方が能率が良いからだ おそらくこの先20年ほどの間に、PCや「#MeToo」はもちろんのこと、憲法をはじめとする戦後民主主義的な諸価値や多様性を主眼とするリベラル的諸規範は、まるごとお笑いによって骨抜きにされるはずだ われわれは笑いながら奴隷になって行く
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メディア(その12)(佐藤優が指摘する記者クラブと官僚のズブズブ関係 「情報がゆがめられている」のが基本、この10年で1000万部減…日本の新聞に再生の芽はあるか 鍵をにぎるのはエンジニアだ!) [メディア]

メディアについては、2月7日に取上げた。今日は、(その12)(佐藤優が指摘する記者クラブと官僚のズブズブ関係 「情報がゆがめられている」のが基本、この10年で1000万部減…日本の新聞に再生の芽はあるか 鍵をにぎるのはエンジニアだ!)である。

先ずは、1月9日付けAERAdot.が掲載した元外務省専門調査官の佐藤優氏とジャーナリストの津田大介氏の対談「佐藤優が指摘する記者クラブと官僚のズブズブ関係 「情報がゆがめられている」のが基本 <×津田大介対談>」を紹介しよう。
https://dot.asahi.com/dot/2019010800035.html?page=1
・『2018年11月、朝日新書より佐藤優さんが『官僚の掟 競争なき「特権階級」の実態』を、津田大介さんが『情報戦争を生き抜く 武器としてのメディアリテラシー』を上梓。それを記念した対談イベント「情報戦争の黒幕~その視線の先に迫る」が開催された(2018年12月9日)。同イベントでは、“情報”を専門的に分析する両者が、外交の力関係からマスコミと官僚の癒着、沖縄に関する問題まで、幅広い話題を闊達に論議。その一部を紹介する』、興味深そうだ。
・『北方領土問題について  佐藤:外交というのは、ニュートンの古典力学が作用する世界です。結局、力の均衡によって国際関係は動いている。 津田:日本とロシアとの間でも、そういう力関係があったんですか。 佐藤:2001年、森喜朗首相は、北方領土に関して「2+2」方式の解決を想定していました。歯舞群島・色丹島を、まず日本に返させる。その後、国後・択捉の住民たちは、色丹島の環境が良くなっていることに気づき、日本を選択するだろう。こういうシナリオだったわけです。 津田:なるほど。 佐藤:今、この方式は不可能です。なぜなら、2012年にプーチンが第四代ロシア大統領に就任して以降、端的にいえば、国後島と択捉島を領土交渉の対象にしないという態度をとっているからです。さらに、2001年時点のロシアと日本の力関係が変化しています。日本の国力は残念ながら弱くなって、ロシアは強くなっている。だから均衡点が変わってきます。他方、1956年の時点のソ連と日本の力関係と比すると、相対的に日本の力は強くなっている。だから、1956年以上、2001年未満で落ち着くわけです。同じように、領土ほか外交問題を抱える韓国との力関係を考えると、日本は韓国にだいぶ追いつかれている。その結果として、1965年の日韓基本条約をある意味では不平等条約のように感じられるのでしょう。現在、それをやり直したいという意見が起こっているんです。 津田:外交においては、力関係が重要なファクターというわけですね。 佐藤:その通りです。力関係は変化し、ある地点で均衡します。日本が均衡点を探る中で、アメリカの影響力が後退して、中国と北朝鮮と韓国が連携することで、現在、北緯三八度付近にある対立線が対馬に下がってくるわけですね。では、日本がカウンターバランスをどこにとるのかというと、ロシアしかありません。それが、対米従属的な安倍政権が、ロシアとの関係を改善する大きなゲームチェンジをしている理由です。 津田:そうなると、外務省内の担当部署間での力関係も大きく変わってきそうですね。 佐藤:その意味においては、外務省はもう完全に思考放棄状態で、疲れ切っています。一方で元気があるのは、経産省と警察庁。さらに、経産出身、警察出身で、内閣官房、さらに内閣府の一部の官僚たちが集まり、権力の中枢をつくっているわけですよ。そういう人たちを、私は著書の中で、「第二官僚」と位置づけました。単純に保守とかリベラルとかで分けられない不思議な政策を取っている人たちです。 津田:それが、今の政権の強みにもなっているということでしょうね。 佐藤:強みになっていると同時に、常にリスクをはらんでいます。例えば今回の入管法の改正などは、右派も左派も喜ばない、両方から挟まれた法律になっています』、北方領土問題はメディアとは無関係だが、興味深そうなのでこの部分も紹介する次第だ。「外務省はもう完全に思考放棄状態」で、「経産省と警察庁。さらに、経産出身、警察出身で、内閣官房、さらに内閣府の一部の官僚たちが集まり、権力の中枢をつくっている(「第二官僚」)」との佐藤氏の指摘はなるほどと納得した。
・『資本の論理でゆがめられる情報  津田:国が情報を統制するという観点からは、最近「シャープパワー」という言葉が注目されています。武力を使わずに、フェイクニュースなどの工作活動で他国に影響を与える力です。権力が一極集中している国では、ネットを使った世論工作活動が容易なので、中国や東南アジアの為政者たちはそれなりに効果を挙げている、と言われています。その状況はロシアも同じでしょうか。 佐藤:必ずしもそうではありません。ロシアは帝国。だから、情報はすべて政府の掌中にあるため、すべてをカッチリと管理しようとしないんです。情報専門の特別予備役があちらこちらにいますし、通信網も事実上、一社が握っています。オペレーターもFSB(連邦保安庁=秘密警察)で訓練を受けた人間しかいません。すべての根っこを握っているから、ターゲットを決めて、そいつだけ見ているわけです』、「ロシアは帝国。だから、情報はすべて政府の掌中にあるため、すべてをカッチリと管理しようとしない」というのは、予想外の指摘だが、言われてみればその通りなのだろう。
・『津田:プラグマティズムで運用しているんですね。今回の著作『情報戦争を生き抜く』で詳しく書きましたが、中国では、そもそも情報が政府によってゆがめられているので、フェイクニュース、あるいはヘイトスピーチの問題は、基本的に起きていないんです。中国のウェイボーなどのSNSでも同様の状況です。皮肉なことに、「インターネットのあるべき姿」が実は中国にあるんじゃないか、と思えるような現実があります。そう考えると、ネットの情報汚染は、GAFA(グーグル<Google>、アップル<Apple>、フェースブック<Facebook>、アマゾン<Amazon>)などを中心にした企業の“カネ儲けのためのビジネス”から起きているのではないか、と感じます。 佐藤:それでおこったのが、トランプ大統領をめぐる“ロシアゲート”問題。ロシアは国家として関与していないことは、プーチンとトランプの首脳会談からもうかがうことができました。おそらく、トランプ陣営の誰かが情報操作を依頼した際、いくつかの会社を経由して、実行にあたったのがたまたまロシア人だったのではないかと思います。 津田:なるほど。つまり、カネ儲けのために情報操作をしている奴らがいるということですね。思想闘争ではなく、実利なんですね』、「ネットの情報汚染は、GAFA・・・などを中心にした企業の“カネ儲けのためのビジネス”から起きているのではないか、と感じます」との津田氏の指摘も興味深い。「ロシアゲート”問題。ロシアは国家として関与していない」との佐藤氏の指摘も意外性があって面白い。
・『日本の問題点はメディアと官僚の距離  津田:日本の現状についてはどうでしょう。インターネットでは、政府や自民党は、広告会社などを通じて世論工作をしようとしているという指摘もあります。でも実際、そんな大それたことは為されていないと僕は思うんです。 佐藤:同感です。それよりも、官僚は、記者とのやり取りのなかで直接情報を工作しています。 津田:そうか。記者クラブあるいはメディア全体にそもそも、「情報がゆがめられる」という土壌があるんでしょうね。 佐藤:官僚は、記者クラブにいる記者たちを、与党側と野党側に分けます。そして、与党側には積極的に情報を与え、野党側は日干しにすると。その一方で、報償費などをエサにして、与党側に引きずり込もうとするんです。 津田:なるほどね。つまり、ネットを巡る政治的な情報工作は当然憂慮すべき存在と考えていますが、それ以前に、まずマスメディアから発信される“世論”自体が、記者クラブの取材時点でねじ曲がっているわけですね。 佐藤:それが日本の一つの“文化”なわけです』、「記者クラブあるいはメディア全体にそもそも、「情報がゆがめられる」という土壌がある」、「マスメディアから発信される“世論”自体が、記者クラブの取材時点でねじ曲がっている」などというのは厳しい指摘だ。

次に、メディア研究者の下山 進氏が2月9日付け現代ビジネスに寄稿した「この10年で1000万部減…日本の新聞に再生の芽はあるか 鍵をにぎるのはエンジニアだ!」を紹介しよう。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/59536
・『「1999年の刊行当時、日本人にかくも壮大かつ重厚なノンフィクションが書けるのかと驚嘆したものだ」と若田部昌澄(現日銀副総裁)が、2017年9月に評したノンフィクション『勝負の分かれ目』の電子版が出る(文庫も2月20日に重版出来)。 技術と市場経済の変化がメディアを否応なく変えていく様を重層的に描いた同書は、インターネットの到来以降、臨界点に達している新聞・出版の紙メディアの現在の危機的状況とあいまって、20年ぶりの評価をうけている。著者の下山進氏が、この20年のメディアの大変化について記した電子版特別付録を公開する』、興味深そうだ。
・『「破壊的縮小」が進行中  1999年末に発表した『勝負の分かれ目』という本のエピローグにこんなことを私は書いていた。〈日本のマスコミ全体に目を移せば、新聞や放送はそれぞれ再販制度、放送法などの規制に守られて業界内での格差はあるにせよ、とりあえず安泰であるかに見える。しかし、この変化の波(すでに70年代に日本の製造業は経験し、90年代に日本の金融業は経験している)は、やがてこうした太平の惰眠を貪り、旧来の方法を墨守している新聞や放送界にもやってくるだろう〉 2017年7月、日本新聞協会のデータを調べてみて驚いた。その変化の波はすでに日本の新聞を直撃していたのである。 2006年には5231万部あった新聞の総部数はこの10年で約1000万部失われ、売り上げベースで、5648億円の減収となっていた。 これは破壊的縮小と言っていい。 さらにNHK放送文化研究所の5年ごとの国民生活時間調査を1975年から追っていくと、この変化は将来も加速度的に進むことがわかった。 新聞は現在60代、70代の世代が20代、30代のころからもっとも購読率が高く、それが、ずっと続いてきた。2015年の最新調査では、10代男性で新聞を1日15分以上読む人の割合はわずか4%、20代でも8%、30代でようやく10%というありさまだ。 現在の60代、70代が健康寿命に達する時に新聞の宅配は入院止め、介護止めという状態になる。「あと5年で、さらに1000万部の紙の部数が失われ、10年では半減するだろう」とは、ある大手紙の先進的な幹部の予測だ』、主要読者が、「現在60代、70代の世代」であれば、確かに将来性はない。
・『ヤフー・ジャパンからの示唆  こうした変化は、もちろんインターネットという技術革新の結果やってきた。新聞や出版・放送は、言語の障壁があるので金融業や製造業のような競争にさらされないと1990年代までは考えられていたが、それを楽々と超えてやってきたことになる。 たとえばヤフー・ジャパンが創業されたのはたかだか96年4月のことだった。ロイタージャパンからの配信をうけてヤフーニュースを始めたのは96年7月である。 井上雅博代表取締役社長(2012年6月まで)の「うちは独自コンテンツを作って流すということはしない。どことも等分につきあって、ポータルに徹する」という経営方針のもと、日経を除くほとんどの新聞社からニュース配信をうけプラットフォームとして成長した。 06年には1737億円だった売り上げは、通販会社等の買収があるとはいえ、16年には8537億円にまでなった。この10年で新聞業界全体が失った売り上げを上回る額の増収をたった1社であげたことになる。 新聞各社が業界組合方式でポータルをつくりヤフーへの対抗軸となろうとした「あらたにす」も失敗に終わり、新聞各社は今、打つ手がないように見える。 生き残るためのヒント、成長するためのヒントはどこにあるのだろうか? 「ニューヨーク・タイムズが紙からデジタルへの体質転換をこの5年で見事に行なった。それを研究すればよいのではないか?」とはヤフー執行役員の片岡裕さんのアドバイスだった』、「あらたにす」という試みがあったが、失敗したとは初耳だ。
・『必読のタイムズ社内調査  「Newspaper is dead!」『CIA秘録』で全米図書賞を受賞したニューヨーク・タイムズの調査報道記者ティム・ワイナーを、担当編集者として2008年11月に日本に招聘したときに、ワイナーが吐き捨てるようにして言った言葉だ。 リーマンショックの後、ニューヨーク・タイムズの広告収入は激減、資金ショートをおこしかかり倒産寸前。カルロス・スリムというメキシコの大富豪に、6.4%の株を買ってもらい、さらに2億5000万ドルの融資をうけて急場をしのいだ。そうした状況の中ワイナーはタイムズの将来を悲観していた。 しかしタイムズは、血の滲むような努力の末に、体質転換をなしとげたのである。そのポイントは、「紙の新聞を発行していた会社」から「紙の新聞も発行している会社」への移行だ。 11年に有料電子版を始めたニューヨーク・タイムズは、しかし14年の時点でも電子版の伸びはゆっくりとしたペースだった。 それを変えたのが、14年の「Times Innovation Report」だ。社内の有志が、社主の息子であるアーサー・グレッグ・サルツバーガーの許可を得て8人による調査チームをたちあげ、半年にわたって社内外500人以上に取材し書き上げた97ページにわたる社内文書だ』、有料電子版だけでは駄目で、調査チームが半年にわたって取材し書き上げたレポートが変身のきっかけになったというのは、確かに「血の滲むような努力」のたまものだ。
・『メディア史上の最重要文書  日本の新聞人は必読。 文書は、いまだにタイムズが、紙の新聞を毎朝出すことを前提として全ての社内組織がまわっていることを具体的にあげてゆき、それを「ウェブにタイムズのニュースを出すこと」を中心に組み換える必要性を訴えるものだった。〈タイムズでは、記事が紙の新聞に掲載された時仕事が終わると考える。ハフィントンポストでは、記事がウェブにアップした時に始まると考える〉 当時、タイムズは、電子版を始めているにもかかわらず、エンジニアが次々にバズフィードなど新興メディアに抜けていっていたが、その原因についても追及していた。
 +技術部門の人事が、エンジニアリングやウェブがわからない編集局から来た人間によって行なわれていること
 +編集局の人間が「業務部門とは一線を画す」という意識のもと、エンジニアと相談をする社内的な空気になっていなかったこと
 +技術の部署の仕事が、ウェブでの創造的なニュースの表現方法を共につくりあげるというところになく、ウェブニュースの不具合の「解決役」として出入りの業者のような扱われ方をしていること
等々が細かく具体的に指摘されている。 紙からデジタルへ、社内機構や採用にいたるまで変えていかなくては、タイムズは生き残れない、とする社内文書は外部にリークされ、バズフィードが「メディア史上もっとも重要な文書」として報じた。 このレポートが出るとほぼ同時に、女性の編集局長だったジル・アブラムソンは更迭(解雇)され、デジタルを社の中心にする機構改革が社内で始まった』、「紙からデジタルへ」の転換には、確かに「社内機構や採用にいたるまで変えて」いく、つまり社内の風土を大転換する必要があったのだろう。
・『デジタル有料読者を第一に  そして3年後、今度は経営陣公認のもとで再調査が行なわれ、その結果は「ニューヨーク・タイムズ2020」(17年1月)としてまとまった。 ここでは、3年前と比べてさらにはっきりと問題意識が整理されている。 3年前には、バズフィードやハフィントンポストなど無料広告モデルのメディアを競争相手として分析していたが、この17年のレポートでは、その骨子を、「我々は、有料講読第一(Subscription First)のビジネスの上になりたっている」としたのだ。 〈クリックの数を稼ぎ、低いマージンの広告料金をとるのではない。ページビューレースにも参加はしない。強いジャーナリズムを提供することで数百万人の世界中の人が、お金を払おうとすること、そのことにこそ、ニューヨーク・タイムズの合理的なビジネス戦略はあるのだ〉 デジタル有料版にいかに読者を囲い込んでいくか、そのためにどんな工夫が考えられるかがそこには綴られていた。 タイムズが、1970年代に、ニューヨーカーなどの雑誌のフィーチャーストーリーの成功を見て、それまでの「記録の新聞」から新聞でも魅力的なフィーチャーストーリーをとりいれていったことは「イノベーションレポート」であげられていたが、ウェブ上で動画やチャートなどを使ったまったく新しいニュースの伝え方がある、としてその社内教育を提案するなどしている。 このレポートが出た2017年、タイムズはこれまでタイムズがやらなかったような攻撃的な調査報道を、セクハラの分野で連打する。 ひとつはフォックスニュースのアンカー、ビル・オライリーのセクハラ。1300万ドルが口止めのために女性たちに支払われたことを暴露。オライリーはタイムズの報道で職を追われる(調査期間8ヵ月)。 次がシリコンバレーの複数のベンチャーキャピタリストのセクハラ。 そして10月5日に最初の記事が出たハリウッドの実力派プロデューサー、ウェインスタインの30年以上にわたるセクハラとそのもみけしの告発だ(2人の女性記者が4ヵ月かけた)。 しかもこれらの報道をたんに電子有料版で流すだけでなく、SNS等を使って積極的に拡散させ、読者にペイウォールを超えさせた。そして初報だけでなくオピニオン面で被害をうけた女性が原稿を寄せるなど、さまざまな形で進展していく形をとったのである。 17年の第3四半期のタイムズの投資家向けの発表によれば、その結果、タイムズの有料電子版オンリーの契約者数は、248万7000部にまで伸びた。16年の第3四半期の終った時点では、156万3000の契約者数だったから、実に1年で100万人の読者を上乗せしたことになる。最新の2018年第3四半期の数字では309万5000部を記録している。 タイムズは紙の部数は、平日で57万1500部、日曜版が108万5700部だから、有料電子版で読む人のほうがはるかに多いことになる。 「欧米の新聞が次々に倒産しているのは、収入源の7、8割が広告収入で、不況時には企業出稿が大幅に減るからだ」と言う日本の新聞人がいるが、タイムズは、有料電子版の始まった12年には、購読料収入が広告料収入を上回り、現在の収益構造では、購読料収入が61%を占めるまでになっている。 ニューヨーク・タイムズの09年以降の売り上げをみていくと、ほぼ横ばいで推移している。紙の広告料収入は下がりつづけているので、電子に置き換える努力をしなければ、ワイナーが悲観したような将来がタイムズには待っていたことになる』、「14年の「Times Innovation Report」」だけでなく、さらに17年に「ニューヨーク・タイムズ2020」で徹底的に再調査するとは大したものだ。「これまでタイムズがやらなかったような攻撃的な調査報道を、セクハラの分野で連打」した結果、部数を飛躍的に伸ばしたとは、まさに絵に描いたようなサクセス・ストーリーだ。
・『生き残りの解を学生と探る  日本の全国紙には津々浦々にまではりめぐらされた販売店網がある。この販売店網に支えられた宅配制度によって世界一の部数をほこる新聞が可能になった。 しかし、現在は逆にこのイノベーションが、デジタル化にブレーキをかける「イノベーションのジレンマ」となっている。 紙を中心として新聞業を成り立たせていくのは将来的には難しいことだけは、はっきりしていると思う。 ではどうしたらよいのか? 私は、2018年4月から慶應義塾大学環境情報学部、総合政策学部に講座を持ち、学生と一緒に、「今後生き残っていくメディアの条件」を、調査し考えていくことにした。 慶應のこのふたつの学部(慶應SFC)は、教授陣の半数が工学系で、学生はエンジニアリングと文科系科目の両方を学ぶという非常にユニークな学部だ。 「エンジニアと編集の有機的な融合なくしては、新たな道は開けない」 これは、グーグルがなぜ旧メディアを一掃するような破壊力をもったかを描いた『グーグル秘録』の著者で「ニューヨーク」誌のメディア専門記者ケン・オーレッタが来日の際に繰り返し私に言っていた言葉だった。 ならば、これからのメディアを担うであろう世代でエンジニアリングを学ぶ若者たちにその解を探してもらうのも面白いのではないか。 「2050年のメディア」と題するそのプロジェクトが、「イノベーションレポート」がニューヨーク・タイムズの体質転換に果たしたような役割を、日本の新聞社に対して担ってくれればよい、と考えている。 日本の新聞各社の協力を願うや切』、慶應SFCで「2050年のメディア」と題するそのプロジェクトをやっているとは、面白い試みだ。日本の新聞社は各社ともその成果を心待ちにしていることだろう。
タグ:メディア 現代ビジネス 慶應SFC AERAdot (その12)(佐藤優が指摘する記者クラブと官僚のズブズブ関係 「情報がゆがめられている」のが基本、この10年で1000万部減…日本の新聞に再生の芽はあるか 鍵をにぎるのはエンジニアだ!) 「佐藤優が指摘する記者クラブと官僚のズブズブ関係 「情報がゆがめられている」のが基本 <×津田大介対談>」 佐藤優さんが『官僚の掟 競争なき「特権階級」の実態』 田大介さんが『情報戦争を生き抜く 武器としてのメディアリテラシー』 対談イベント「情報戦争の黒幕~その視線の先に迫る」 北方領土問題について 中国と北朝鮮と韓国が連携することで、現在、北緯三八度付近にある対立線が対馬に下がってくる 日本がカウンターバランスをどこにとるのかというと、ロシアしかありません。それが、対米従属的な安倍政権が、ロシアとの関係を改善する大きなゲームチェンジをしている理由 外務省はもう完全に思考放棄状態で、疲れ切っています 元気があるのは、経産省と警察庁。さらに、経産出身、警察出身で、内閣官房、さらに内閣府の一部の官僚たちが集まり、権力の中枢をつくっているわけですよ。そういう人たちを、私は著書の中で、「第二官僚」と位置づけました 資本の論理でゆがめられる情報 ロシアは帝国。だから、情報はすべて政府の掌中にあるため、すべてをカッチリと管理しようとしないんです 中国では、そもそも情報が政府によってゆがめられているので、フェイクニュース、あるいはヘイトスピーチの問題は、基本的に起きていないんです ネットの情報汚染は、GAFA などを中心にした企業の“カネ儲けのためのビジネス”から起きているのではないか、と感じます “ロシアゲート”問題。ロシアは国家として関与していないことは、プーチンとトランプの首脳会談からもうかがうことができました 日本の問題点はメディアと官僚の距離 記者クラブあるいはメディア全体にそもそも、「情報がゆがめられる」という土壌がある マスメディアから発信される“世論”自体が、記者クラブの取材時点でねじ曲がっている 下山 進 「この10年で1000万部減…日本の新聞に再生の芽はあるか 鍵をにぎるのはエンジニアだ!」 『勝負の分かれ目』 「破壊的縮小」が進行中 2006年には5231万部あった新聞の総部数はこの10年で約1000万部失われ、売り上げベースで、5648億円の減収 新聞は現在60代、70代の世代が20代、30代のころからもっとも購読率が高く、それが、ずっと続いてきた 2015年の最新調査では、10代男性で新聞を1日15分以上読む人の割合はわずか4%、20代でも8%、30代でようやく10%というありさまだ あと5年で、さらに1000万部の紙の部数が失われ、10年では半減するだろう ヤフー・ジャパンからの示唆 新聞各社が業界組合方式でポータルをつくりヤフーへの対抗軸となろうとした「あらたにす」も失敗に終わり 必読のタイムズ社内調査 タイムズは、血の滲むような努力の末に、体質転換をなしとげた 「紙の新聞を発行していた会社」から「紙の新聞も発行している会社」への移行 14年の「Times Innovation Report」 8人による調査チームをたちあげ、半年にわたって社内外500人以上に取材し書き上げた97ページにわたる社内文書だ メディア史上の最重要文書 紙からデジタルへ、社内機構や採用にいたるまで変えていかなくては、タイムズは生き残れない、とする社内文書 デジタル有料読者を第一に 3年後、今度は経営陣公認のもとで再調査が行なわれ、その結果は「ニューヨーク・タイムズ2020」(17年1月)としてまとまった。 クリックの数を稼ぎ、低いマージンの広告料金をとるのではない。ページビューレースにも参加はしない。強いジャーナリズムを提供することで数百万人の世界中の人が、お金を払おうとすること、そのことにこそ、ニューヨーク・タイムズの合理的なビジネス戦略はあるのだ 「記録の新聞」から新聞でも魅力的なフィーチャーストーリーをとりいれていった これまでタイムズがやらなかったような攻撃的な調査報道を、セクハラの分野で連打する タイムズの有料電子版オンリーの契約者数は、248万7000部にまで伸びた。16年の第3四半期の終った時点では、156万3000の契約者数だったから、実に1年で100万人の読者を上乗せ 生き残りの解を学生と探る 教授陣の半数が工学系で、学生はエンジニアリングと文科系科目の両方を学ぶという非常にユニークな学部 「エンジニアと編集の有機的な融合なくしては、新たな道は開けない」 「2050年のメディア」と題するそのプロジェクト
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